第12話 そして侵入してきた
人というのはたかだか一ヶ月と言えど、続いた習慣はなかなか消えないものである。と、鳴り響く目覚まし時計を前に鉄は思った。
否、これは習慣というより単なる痴呆と見てもいい。目覚ましのセットを修正しなかった己のミス。もうウロと早朝の散歩をしなくともいいのに、アラームのセットをし直さなかった自分が悪いのだ。
ジリジリわめく時計を止め、鉄は頭を掻きながら押入れを見た。中の状態は変わらぬままだが、そこに住人はもういない。
ウロはいないのだ。
昨日、夜の内に元いた場所に帰って行った。成宮という婚約者に連れられて。
欠伸を噛み殺し、鉄はベッドから足を下ろす。その際、足元にあったぬいぐるみを蹴ってしまった。
いかついクマのぬいぐるみ。ウロがタカヤスと命名したぬいぐるみだ。
「……お前の主人、帰っちまったぞ」
ぬいぐるみタカヤスを部屋の隅にいるウサギのナガノブぬいぐるみの隣りに移動させ、ふと何かが鉄の脳裏を過ぎった。
それは、考えると非常に面白くない内容だ。
簡単な推論である。
ナガノブは寿喜として実在した。それじゃあタカヤスもウロの身近な誰かとして存在するのではないかと。
「……お前、成宮なのか?」
あんなに大事にしていたのだ。ウロなら婚約者の名前くらいつけるかも知れない。そうかも知れないし、そうじゃないかも知れない。しかしどちらにしてももう鉄には関係のない話。
この想いは胸にしまう。これ以上関わるだけ空しかった。朝がこんなに静かだったなんて、今更ながら気付くのだ。
* * * * *
目を開ければ白いシルクの布に覆われた天蓋が映ったので、ウロは一瞬まだ夢の中なのかと疑った。おかげで本来の自分の部屋だと気付くのに随分時間がかかってしまった。
鉄の家に世話になっている時は自室に狭い押入れを希望していたので、寝起きの風景の違いに驚いてしまったのだ。
此処は長年世話になった大和屋の屋敷。ウロの母方の伯母夫婦とその息子寿喜の家に、昨日一ヶ月ぶりに帰って来たのだ。
一ヶ月という時間は意外に長いらしい。ウロはこれまで通りの散歩の時間には起きてしまっていた。
広い部屋。
鉄の部屋のように手を伸ばせば窓があり、開ければ海が見えるなんてありえない所。
帰って来てしまったのだと思った。あんな出て行き方をして、寿喜に手を煩わせて自ら帰ってきてしまった。
伯母はなんと言うか、どんな叱りを受けるか覚悟もしていたが、帰って来て拍子抜けしたのは大和屋の迎い入れ方だった。
一ヶ月も連絡なしだった家出娘が突然戻って来ても、詰問も何もなかったのだ。後で聞いた話、実はこっそり寿喜が報告だけはしていたらしい。
裏切られたというか、助かったというか複雑な心境だ。
引き取られた身ではあるが身内として、一言もお咎めがないのは何処か寂しいと思うので、大概自分は我儘だとウロは自嘲する。
「ま、厄介な身の上だしな」
心配して貰おうと家出をした訳じゃない。大和屋の家が嫌いではない。むしろ感謝すら覚えている。十年も足の悪い女を育ててくれたのだ。おまけに、大企業の社長御曹司へと嫁ぎ先まで用意してくれている。
いたれり尽くせりな人生だ。
不満なんてある訳ない。元よりウロに選択肢はないのだ。家出だって御家に反発した
衝動的に一度籠から抜け出したかっただけなのだ。
ウロは胸元に下げる指輪を握り締める。何故か寂しい。心が冷える。
「――まだ大事に取っているんですね、指輪」
声に驚き、肩を飛び跳ねさせて部屋の扉の先を見ると、そこにはいつからいたのか成宮がニッコリと微笑んで佇んでいた。
「おはようございます。起き抜けを遅いに来たんですが、早起きですね」
「おそっ!?」
さらりと恥ずかしげもなく発せられた言葉にウロは顔を赤らめる。成宮がその反応を楽しむように吹き出した。ウロは余計に居心地悪くさせる。
「成宮さん、どうしたんですか? こんな朝早くにいらっしゃって」
「実はね、昨晩はこちらに一泊させて頂いたんですよ」
にこにこと微笑み浮かべ、ウロのベッドの傍らに腰を下ろす成宮の身なりはスーツを崩したラフな姿。確かにそのままお泊まりしたという感が漂う格好だ。
「久しぶりの婚約者との再会だから、ゆっくりお話がしたいんですよね、僕」
成宮は小さなウロの肩に寄り掛かり、甘えるような上目使い。普通の婚約者同士なら何の裏もない仕草と言葉。
けれどウロには「久しぶり」と単語が妙に胸に掛かった。
「えと、一ヶ月も無断に留守にした事はすみませんでした……」
暗に家出を責められているように聞こえ、ウロは恥ずかしくて俯く。成宮はそんなウロの頬を優しく包み込むと顔を上げた。眼鏡越しに淡いブラウンの瞳がウロを覗く。
「いいですよ。貴方は僕と結婚する前に、最後の思い出を弔いに行ったのだと思ってますから」
だから何も罪悪感を覚えずともいいんですよと、成宮は続けてウロの額に唇を落とす。
「まあ、思い出を引き摺るようなあの高校生には驚かされましたが」
成宮の無言の質問がウロには通じた。
「まさかあの少年を身代わりに好意を寄せていませんよね」
優しい瞳が探るように尋ねて来たから、ウロは真っ直ぐ成宮を見据えて微笑みを返した。
「成宮さん、鉄……あの子はただの恩人です」
決して好きになりはしない。鉄は世話になった恩人、成宮は大事な婚約者。
「私、貴方の良き伴侶になれるように努めたいと思います」
だから、もう鉄の事は口にしないで下さい。言いたい言葉を胸にしまい、ウロは深々と成宮へと頭を下げる。成宮はその返事が気に入ったか、ウロを見つめ、抱き締めた。
「そうだね、僕のお嫁さんになるならアイツの事は忘れなくては」
抱き締める腕の中で、ウロの体が微かに震えた。それが伝わったか、成宮はいつまでもウロを抱き締める。
抱き締めて、抱き締めて、二度と逃がさないように。
* * * * *
「うぅわ、暗い部屋だな。葬式?」
一歩足を踏み入れたらじめっとした音がなるのではないかと思うくらい陰気な鉄の部屋を見て、寿喜が零した。
真っ昼間だと言うのに遮光カーテンを締め切っては光の一筋も差し込まない。
寿喜は足場も暗い部屋に勝手に進み、カーテンを引き窓を開けた。晴れた真夏の陽射の明るさに目が眩む。
「やっぱお天道さんの光はいいなぁ、鉄?」
「うるせぇ」
日光を満足そうに受けた寿喜が、窓際のベッドで大きく俯せに枕に顔を沈める鉄を横目で見た。
「不貞寝デスカ? 失恋した男って情けないデスね~」
「は? 何の話だよ」
「やっだ! バレてないつもり!? ありえねー」
「お前は俺を怒らしに来たのか」
安い挑発に鉄は枕を投げ掛け、起き上がる。寿喜と目が合うと、その視線はそんな鉄を小馬鹿に笑っていた。
「思ったより元気だな。何腐って引き籠もってんだボケ」
「引き籠もってねぇよ。テメェの従姉妹に早起きさせられた分の睡眠を取り戻してただけだ」
「寝てなかったじゃん」
「……」
今度は挑発するでもない、抑揚のないただのツッコミに反論も出来ずに鉄は黙る。
茶番には満足したか、寿喜は本題に入るように抱えていた空のバッグを鉄の腹に投げて寄越した。
「ウロの荷物、引き取りに来た」
やっと用件を伝える。
バッグを鉄に渡すという事は、そこに手伝いの強制も含まれているのだろう。確かに鉄が手を貸さないと、勝手の分らない寿喜にはウロの私物置き場など知る事もない訳で。
「……別の部屋にあるやつは集めてやるから、バッグに詰める作業はお前でやれよ」
鉄は渋々と重い腰を上げざるを得ないのだった。
ウロの私物の片付けは意外に難航を極めた。
みすゞ舘の住人が女性だらけの所為もあってか、たかだか一ヶ月でウロの生活用品が増え過ぎた所為だ。
三鈴からお下がりのワンピース。藤子から貰った小説。由美からはダンベルだったり、ありさからの知恵の輪だったり。こもごもとした雑貨が無駄に多い。
「――なぁ、ナース服に注射器があるけど……」
「おふくろがウロに着せたやつだ。俺の部屋にあっても迷惑だから持って帰れよ?」
「バニーまで……。お前、ウロに変なプレイとかしてないよな?」
「おふくろが勝手に着せ替えて遊んだんだ! 俺じゃねぇっ」
まるで汚いものを見る寿喜に怒鳴りつけ、鉄は自分の鞄を探る。そこには合唱部の部長から預かったウロへのCDが入っていた。渡しそびれたプレゼントだ。
「寿喜、これも……」
「鉄、ウロってヒモパン履くんだけど、知ってた?」
「だから何だよ! さっさと片付けやがれっ」
下着をちらつかせてふざける寿喜を一喝して、鉄はCDを渡すタイミングを逸してしまう。寿喜は相変わらずウロの荷物を物色して楽しんでいた。
「鉄ー、このぬいぐるみもウロのか?」
「ぬいぐるみが俺のだと思うのか、お前は」
振り返り、寿喜がかざしていたぬいぐるみに鉄はハッとした。それはウロが大事にしていた熊のタカヤスだからだ。
「怖い熊だよな。何? 何かのキャラクター?」
「……三鈴さんのオリジナルだけど」
「あぁ、管理人さんの。へぇ、器用だなぁ。お、兎も怖ぇ~」
ウロの寝床の奥からまたも顔を出す三鈴ブランドのぬいぐるみに感心の寿喜に、鉄は言う。
「その兎、ナガノブって言うんだぜ?」
家出したてのウロが、置いて来た寿喜でも考えて付けたのだろう。やさぐれた顔の兎。その兎を睨んで寿喜は呟く。
「強そうじゃん、コレ」
己と同名だと親近感でも湧くのだろう。
「こっちの熊の名前は?」
兎に名前があるのだから、熊にもあるだろうと踏んだのだろう。指差し尋ねる寿喜に、鉄は苦々しく口を歪ませる。
「……タカヤス」
「へぇ~。あの阿呆ぅめ」
そこで悪態。
「何でこんな布塊がタカヤスなんだよ。なぁ?」
相槌を求められたが、鉄には何とも言えない。ただ、寿喜にとってもタカヤスは特別な位置にいると知っただけだ。
「タカヤスって、ウロの婚約者の成宮か?」
気になっていた事を聞くと、寿喜はチラと鉄を一瞥して笑う。
「気になる?」
癪に触る聞き方だった。先程からの挑発めいた発言も積もって鉄を苛立たせる。
「知らん」
「別に、話してやってもいいけど?」
ぶっきらぼうに答えたが、寿喜には始めから鉄の意思は関係なかったようだ。
「……お前はさ、この話を聞いて何を思うかな? 怒るか? 憐れむか?」
不意に真剣な表情で声音を落とした。
「ほら、俺ってウロが好きじゃん? でも報われない事はとうに気付いてて、それでもいっかな~とは思ってる訳よ」
報われない事がかまわないなんて寿喜の言い分は、鉄には理解し難かったが、人それぞれの考えの相違なのだとしておく。ここで己の意見を主張しても仕方ない場だとも分かって先を促した。
「——でもよ」
寿喜は笑い、鉄を見やる。
「何度だって言うけど、俺はお前の顔が嫌いだ。ウロが幸せになれないから」
「何でそう言い切れるんだよ」
この顔が単にウロの好みでないと言われたら激しく落ち込むだろうが、今はムッとして鉄は寿喜を睨む。
「確かに俺はあいつと知り合って日も浅いし、お前みたいに事情とか知らねぇよ。ただな、アイツが怯えるみたいに悩んでるのだけは分かるんだ。なんかの傷を抱えてるのは分かるんだよ。何も出来なかったけど……」
何かする資格だってなかっただろうから。肩を落とす鉄を一瞥し、寿喜はフッと息を零す。
「俺はさ、ウロが此処で楽しく過ごして立ち直ればいいと思ったんだ」
突然語る寿喜に、何の話だと意味合いを込めて鉄が見れば、寿喜はシニカルな笑みを浮かべる。
「ウロの話してやるよ。ウロが此処を選んだ理由」
お前はそれが許せるか?
寿喜は静かに聞いた。
「俺がお前を見て思ったんだから、ウロも同じ事を思ったんだろうな」
鉄の知らない所で寿喜は話を始める。何処かに想いを馳せていた。
「ウロの指輪見たか? アレ、アイツの唯一の宝物……タカヤスからの贈り物」
タカヤス……もう何度も聞いたその名前に、鉄はキュッと胸が締め付けられる気がした。
「タカヤスはな、ウロの恋人」
寿喜に言われないでもそんな気がしていた。自然と気付いてしまう。ウロを想うから、何となくだけれども分かってしまう。
けれど、次の言葉は思い付かなかった。
「タカヤスは俺より五つ年上の兄貴で、お前と顔がそっくりなんだ。コレ、お前の顔が嫌いな理由」
皮肉めいた笑みを浮かべ、寿喜は息を飲んだ。何かを一瞬躊躇ったようだったがすぐに吐き出した。
本当はずっと言いたかったのかも知れない。寿喜は泣きたいような暗い面持ちで、見せた事もないような表情で力なく笑う。
「三年前に死んだけど……」
* * * * *
あまりの騒々しさにウロは目を覚ました。
窓の外は既に日が高く上がっている。随分遅くまで寝てしまっていたようだ。
ウロはゆっくりと体を起こす。夏の陽射がジリジリと大きな窓から侵していく。
嫌味なくらい活発な照り返し。
「能天気な太陽だ」
まだ怠い体をヘッドボードに預け、憎々しげに吐く。
ウロは夏も盛りに来ると決まって熱を出す体質だった。今は大分下がったとはいえ、やはり気怠さは残る。それなのに太陽は爆発を繰り返すし、おまけに屋敷中は騒がしい。これではゆっくり微睡みも出来ない。バタバタと廊下を駆ける足音は何かあったのかと思わせる。
「随分騒がしいが、今日は何かあるのか?」
遅めの朝食を運ぶメイドにウロは聞く。
「えぇ、ウロ様は最近寝込んでいたから聞き存じてないんでしたね。本日、ご長男様が帰国なされるのですよ」
紺色のドレスを着たメイドはベッドにテーブルを持ち出し、アメリカン式の朝食を並べながら、なので屋敷中がお出迎えに大わらわですと答える。
「それは……大事だな。ご苦労様」
労いの言葉に微笑み、メイドはウロの部屋の窓を開けると別の仕事に戻って行った。
一人になったウロは、窓から差し込む風を浴びながら朝食を取る。
「長男か。はて、名前は何だっけか」
思い出す気もさらさらないくせに、ぼやいて紅茶を飲む。
大和屋は旧華族の血統を汲む格式ある古い家柄で、ウロの母親はこの家の生まれである。だが、いわゆる庶民の出と言われる父と駆け落ち同然に結婚して以来十年、大和屋はウロにとっては縁遠い場所だった。両親が揃って事故で死んでしまうまでは……。
不幸な事故だ。
目の前で起きた自動車の玉突き事故に巻き込まれてしまった。その事故にウロも居合わせていたが、助かったのはウロ一人。
ある日突然、たった十歳で天涯孤独の身となった。後見人になってくれたのは初めて出会う母の姉夫婦の大和屋。寿喜ともこの頃からの付き合いになる。
大和屋に世話になって今年で五年。
けれども、その間長男の姿は一度も見た事はなかった。
寿喜の兄、ウロのもう一人の従兄弟はかなりの変わり者だというのが、聞き及んでいる唯一の情報。
若干十二歳で親元を離れ、単身英国に留学し、更にそこから海外に発掘旅行をして飛び回っているという噂を聞けば、まぁ変わり者という話も十分裏付けられる。
つまり、その長男が六年越して初めて日本に帰って来るというのはそれはそれは一大事なのだ。
「ま、私には無関係だがな」
ぼんやり呟いた。
済ませた朝食の皿が下げられる。その作業もやはりいつもより慌ただしく見られるが、ウロは蚊帳の外。ウロにとって重要なのは、熱による寝汗でベタベタした身体を清める事だけだ。
新しい着替えと、身体を吹き上げる為の湯と布は、朝食を下げる時に用意されている。
「全く、一人で身体を洗うこっちの苦労を知れという話だ」
ぶつくさ文句を言いながら、ウロは寝間着の浴衣を脱ぐ。病み上がりだというのに長男帰国騒動で、今日はメイドの介助がない事を、まだ見ぬ相手に当たりながらタオルを絞った。
そして、事は起きる。
「そういう仕事なら手伝いますぜ~」
はたと、聞き慣れない男の声にウロは身体を拭く手を止めた。
此処はウロに与えられたウロの部屋。ウロ以外に出入りするのは寿喜かメイドだけだ。男の出入りはほぼない。
そしてその声が最近声変わりに入った寿喜のそれではないのは明らかだ。
では一体誰なのか?
ウロははだけた胸元を隠し、恐る恐る声のした窓を見た。
男が襟足の長い黒い髪を風に遊ばせ、窓枠で足を組み、膝に悠然と頬杖をついてそこに坐していた。
「こんにちは~。お初にお目にかかる尊穏(タカヤス)お兄ちゃんだよ? ウロちゃん」
にこにこと人のいい微笑み。その目線はウロの胸にある気がした。
「それにしても年の割にちっちゃいよね、そこ。嫌いじゃないけど」
「――っ!」
引き金は引かれた。
直後、ウロの投げた洗面器が、物凄い勢いで何かに当たる音が響いた。
それが、ウロと尊穏の始まりだ。
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