第11話 熱に溶けるもの

 

 

「ウロさんの婚約者なんですよ」


 成宮という男の声が脳に縫い付けられたように離れない。あの後、成宮はウロに会うのかと思いきや、「今日は宣戦布告です」とだけほくそ笑む。濡れ鼠の鉄に「送りましょうか」と申し出て来たが意地でも断り、短い邂逅は幕を閉じた。

 そして、響と成宮と続け様の2R交戦に打ちのめされた鉄の帰路は、重い足取りの運びとなる。心は暗いのに、みすゞ舘に帰り着いた時には、二重の意味でちくしょうと悪態吐きたくなるほど空は真夏の太陽を見せていた。

 部屋に戻ったら戻ったでウロはけろりとしたもので、寿喜のお見舞い効果なのかいつも通りの天上天下唯我独尊我が儘に権力を復権させている。

 それは目眩を覚えるような布の塊。

 ランドに生息する喋る黒鼠に、蜂蜜狩りの黄色い熊、どんぐり主食の隣りの住人、百足足の猫、未来から来た青狸などなど。ジャンル様々に布に綿が詰まった物体が群れをなしている。


「なんの冗談だ、コレ」

「ぬいぐるみも知らんのか? 可愛いだろ。ナガノブに急務で取り寄せさせたんだ。——それよりどうした鉄、ずぶ濡れじゃないか、風邪引くぞ」

「傘忘れただけだよ、気にすんな。濡れたら着替えりゃいい話だ」


 鉄はタオルで乱暴に濡れた体を拭く。足元のぬいぐるみがいちいち鉄の足にぶつかって邪魔でこの上ない。



「高校生男子の部屋が不可思議生物に浸食されてファンシー路線の悪夢じゃねぇか、寿喜」

「なんで俺が怒られてんだよ!」

「お前が買い与えたんだろうが。どうすんだよ、この布切れの山はよぉ」

「いや、確かに俺の仕業だけど、ウロだって共犯だし……つか、お前ご機嫌ナナメだな」

「ナナメで悪いですか? あぁ!?」


 ジリジリと襟首を捕まえ睨み合う大の男が二人。随分暑苦しい光景だが、足元に梨の妖精キャラクターが転がっているとむしろ微笑ましくも見える。

 好意的に見れば微笑ましいがやはり見苦しいとばかりに、ウロは溜息混じりに両の手を大きく弾いた。


「やめんか、むさ苦しい」


 久々に聞く、活気のあるウロの声に鉄の手が止まった。

 向き直ると普段通りで、気が強そうにつり上がった眉でウロが睨んでいる。わざと不機嫌を装う子供っぽい膨れ面に、不覚にも鉄は可愛いと思ってしまった。


「たかだかぬいぐるみ。心が狭くないか、鉄?」

「……悪い。八つ当たりだった」


 鉄が素直に謝ればウロと寿喜が意外そうに顔を見合わせる。


「鉄、熱でもあるんじゃないのか?」

「ねぇよ!」


 怪訝そうにウロが鉄の額に向けて伸ばす手を、鉄は身を捩って避けてしまった。不自然な焦りようの鉄にウロも寿喜も訝しむ。


「鉄?」

「悪い……なんでもない……」


 問いただしげな視線から外れ、鉄は部屋を後にする。


「どうしたんだ、鉄」


 呼び止めるウロの声を振り払い、鉄は襖を隔てたリビングへ逃げた。ウロがまた名前を呼ぶが、歩けないウロの代わりに寿喜が追う。部屋を出れば鉄はすぐそこに所在なさげに突っ立っていた。


「さっきさ……」

「ん?」


 寿喜の気配を察した鉄は隣の部屋を気にしながら息を潜めて言う。


「成宮って奴に会った」


 その名前を知っている。寿喜の息を飲む音だけで答えは明らかだ。


「ウロの婚約者って、わざわざ言いに来やがった」


 思い出すだけでも腹立たしい。人の顔を舐めつけるように見て、まるで勝ち誇ったかのように婚約者だと名乗った時の成宮の表情に業腹だった。、


「何なんだよ、アイツ」

「だから、婚約者」


 あっさりと答える寿喜を睨む。そんな返事が聞きたかったんじゃない。むしろ否定する言葉が聞きたかったのに、寿喜は淡々として裏付けを取ってしまった。


「そんなふうに睨むなよ。本当なんだから仕方ないだろ」


 仕方ない。

 寿喜はどうしてそんな事が言えるのだろうか鉄には不思議だった。思えば寿喜はウロに好意を寄せているに違いないのに、想いを伝える素振りがない。けれど献身とも取れる態度には何処か違和感がある。


「お前は、ウロが好きじゃないのか?」

「好きだけどさ」


 恥ずかしげもなく同意して、寿喜は俯いた。それから彼も隣りの部屋にいるウロを気にするように襖を一瞥し、声を潜める。


「俺じゃ駄目だから」


 寿喜はニッと笑うと鉄の肩をポンと叩き、言葉を繋ぐ。


「だからと言って鉄なら大丈夫って訳でもない。勿論、成宮でもない」

「じゃあ誰なんだよ」


 はっきりしない言葉に鉄は少しイラっとしながら尋ねた。寿喜は鉄を正面から見据え、鼻で笑うと視線を落とした。


「前も言ったけど、お前の顔、嫌いなんだよね」

「答えになってねーし、意味が分かんねーよ」


 怒る鉄に寿喜は軽く手を振り身を翻す。


「そゆことだから俺、今日は帰るわ」

「え? あ、おい寿喜っ」


 鉄が引き止める甲斐なく寿喜は笑って部屋を出て行く。


「ぬいぐるみ……持って帰れよ」


 鉄の訴えは無情にも寿喜には届かなかった。




 寿喜が帰り、暫くして気を持ち直した鉄は再び自室に戻る。


「ナガノブは?」

「帰った」


 簡潔な答えて鉄はベッド横にぬいぐるみを掻き分けて腰を下ろす。

 微妙な沈黙が二人を取り巻く。


「ウロ、熱は平気か?」

「平気。もう微熱ぐらいだ」

「そっか……」


 頷いて、また微妙な沈黙。外を仰ぐと再び雨。しかし午前とは異なり、晴れ間を見せる明るい空から落ちる天気雨だった。


「……綺麗だな」

「そうだな……」


 ウロは光を浴びる雨の滴の事を言った。それを鉄は雲間から差し込む光を浴びるウロが綺麗で頷いた。

 ウロに見惚れる鉄の視線に、鈍いウロは気付かない。ただ、沈黙の合間に鉄を見返してふと笑みを向ける。その何気ない仕草に、鉄は意味もなく愛しいと感じる。

 でも、決して自分のモノにはならないのだ。そう思うと、鉄にはそれが淋しくて、悲しかった。


「そう言えば鉄は変わりないか? 濡れて帰って来たんだぞ。具合は? 熱は大丈夫か?」


 不意に心配そうに首を傾げ尋ねる様子が愛らしい。

 誰かを好きになると、まるで世界が違って見えて来る。そう思った。

 何を見ても眩しくて、何を見ても愛しい。


「ーー熱……あるかもな」


 伝えてはいけない。望んではいけない。鉄の倫理観が許されない感情だと言っているのだけど、津波のように溢れる気持に歯止めなんて効かなかった。文字通り熱に浮かされているのだ。


「おい、まさか私のが移ったか? どれくらいある? 節々は痛くないか? さっきの雨で冷えたのかな……ああ、三鈴さんを呼ぼうか?」


 不安と焦りでウロの手が鉄の額に伸びる。さっきは避けた手を今度は避けなかった。

 触れる指先が熱いのはウロの体調が優れないことは知っている。それでもほんの少しは自分と同じところから発する微熱があればいいと期待してしまう。馬鹿で、愚かで、浅はかな考えだと自嘲する。それでも鉄はこれからの行動を止める気はなかった。

 今なら寿喜はいない。今だけは邪魔者はいない。


「俺の体は平気だ」


 身体の健康面以外での熱の巡りというものを知った。鉄は額に触れるウロの腕を取って、彼女の華奢な体ごと己の胸へと収めた。またあの日の夜のように抱き締める。


「て、鉄……?」


 慌てふためくウロの姿はやはり可愛いと思う。

 鉄は吹き出してウロの顎を引いた。薄く桜色に色付いた唇に軽く、口をつける。心なしか、仄かに桃の味がした。


「……て……つ……?」


 火が着いたみたいにウロが赤くなる。動揺して、今にも泣きそうな不安げな顔で鉄を見つめている。


「わりぃ」


 泣かせたいわけではない。しかし鉄の熱は引かず、気持も治まらない。鉄はもう一度ウロの唇に触れようと、顔を両手で包み込む。

 雨が窓を打つのが聞こえる静かな部屋。


「鉄、駄目だ……」


 寸ででウロの手で口を塞がれた。顔を真っ赤に泣き腫らしたウロが、抵抗を見せて必死に鉄を睨む。


「逆効果じゃね?」


 潤んだ瞳は煽情的にしか映らない。心の奥底に潜んでいる嗜虐心を煽られる。けれど鉄はウロを解放した。

 余裕がなくて、悪戯が過ぎた。決してウロを泣かせたい訳じゃないのに、体が言う事を聞かなかった。もしかしたら本当に熱に浮かされているのかもしれない。


「わりぃ」


 もう一度謝る。ウロは目を合わせてはくれなかった。

 静かに、雨のように涙がしとしとと降っている。


「……すまないが、私は鉄をそういう風には受け入れられないからな」


 断言するウロ。知ってはいたけれど、静寂が痛いくらい死刑宣告のように響いた。


「――私にはもう心に決めた相手がいるんだ。だから……」

「婚約者だろ? さっき、会った」


 知られているなんて気付いていなかったのだろう。鉄の話にウロは驚いて目を丸くした。


「そ、そうか、会ったのか……」


 どういう経緯で会ったのか気にする事はあるだろうに、ウロは追及はせず、何処か諦めた様子で苦く笑みを浮かべる。


「なら、分かるだろ? 私はお前の気持には応えられない」


 分かりたくないけど、そういう事になるのだろう。鉄だってそれは理解している。それでも腑に落ちないのは、婚約者の話なのにウロが幸せそうには見えない点だ。


「なあ、ひとつ聞きてーんだけど、普通、現状が幸せなら家出したりしねぇよな。寿喜を騙しても逃げ出したりよ。ウロ、お前、帰りたくないからあの日、寿喜が連れ戻そうとしたあの時、俺にすがったりしたんだろ?」


 鉄の腕にすがったあの日のウロの温もりが忘れられない。

 声を静かに詰問する鉄に、ウロはきゅっと下唇を噛んで何かに耐えるように目を閉じる。その時、ウロの拳は胸元で固く握られた。


「鉄、お前が何を言ったとしても私はお前を選ばない。確かに私は色々な事情から逃げ出したさ。だがな勘違いするな。私が生涯愛するのは唯の、ひとりだけだ」


 次こそ、本当の死刑宣告だったのかも知れない。


「私は、明日、此処を出て帰ろうと思う。成宮さんと会ってるならすぐにでも手筈は整うだろう」


 断灯台の露と果てた気がした。ウロは、残酷なくらい優しい微笑を浮かべる。


「鉄、さよならだ」


 

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