第10話 あめあめ、いい人連れて来い
混乱すると記憶の定着は大変悪くなると身を以て知る。
この三日間、鉄の記憶はとても残念に曖昧に仕上がっていた。
三日とは鉄の誕生日の翌日の土曜の夜の出来事から翌日以降を指す。
それは週を跨いで週中に達しようとする時間の経過があっても、思い出そうとすると身が沸騰する程の大事件の所為だ。脳みそが焦げ付きそうなくらい熱くなり、恥ずかしい。
鉄は未だに感触が残っているように思える右手の人差し指を眺める。
この指は、ウロの涙を掬って舐めた指だ。その指は有り得ないのに火傷したみたいにひりひりする。気持の問題なのは頭では分かっていたが、心は落ち着かない。
泣きじゃくるウロを衝動的に己の胸に抱き締めた。
ウロの涙が見たくなかったからというのは言い訳だ。訳も分からず泣き出すウロを見て、ただ事実に気付いただけだった。
自分自身で守りたい程、ウロの事が好きな気持ちに。
抱き締めたいから抱き締めたけれど、抱き締めてから気付いた。気付いたから余計に困った。
考えなしの行動が、今の鉄を苦しめているのである。気付かなければ少しはマシに誤魔化せただろうが、知ったものを知らないとは言いにくい。
感情の操作がそう器用ではない鉄は現在、ウロの顔がまともに見れない状況を三日と続けているのだ。
何と言い訳をしたらいいかも分からない。
告白するなんて度量もない。
けれど下らない言い訳で気持に嘘もつきたくない。
我儘で幼い暴走故、結果、鉄は逃げてしまった。
幸か不幸か、日曜から今日まではほぼ一日中雨空だった為、恒例の早朝散歩もなく、二人きりの時間を作らずに済んだ。日中は空手部の辛いしごきに精を出し、夕方は疲れ果てて眠りに落ちる。おかげでここ数日の記憶は曖昧だが、ウロとまともに顔を合わせず土曜の不埒も思い出さずにやり過ごす事が出来た。
問題は明日だ。水曜日である。
水曜といえばウロの非常勤合唱部指導の日。当然のように、歩けないウロを連れて行くのは鉄の役目だ。おまけに天気予報は明日は晴れだと告げている。
明日、ウロを避ける事は不自然な行動だろう。不自然に思うのはウロではなく、みすゞ舘の住人だ。歩く無法のゴシップガール(熟)。鉄とウロの曖昧な関係を察したらきっとある事ない事を吹聴するのは目に見えている。
ただでさえ不安定な状況なのに、これ以上騒いで貰いたくない。火に油は注ぎたくない。
つまり、腹を括らねばならないのだ。
「よっし」
勢いつけて両頬に張り手二つの気合いを入れる。
その直後、押入れの襖が開かれた。
「ウロ」
「……あの、鉄、話が……」
おずおずと寝床の押入れから顔を出すのは、久しぶりにまともに見たウロの姿。
「ど、どした?」
なるべく平常心にと向き直る鉄。しかしウロの方は瞳を揺らして虚ろにこちらを見やる。
「すまん、明日、学校、行けないかも……」
「どうして……って、おい」
「少し、熱っぽくてな……」
遅れて気付いた鉄はウロに詰め寄る。
一体ウロの何を見ていたのだろうか。
顔を赤らめ、充血して涙で潤んだ目。少し熱っぽいぐらいではない済まないはずだ。
「明日、部長さんにすまないと言付けを……」
「阿呆ぅ。それより今日は俺のベッドで寝ろ。熱は計ったか?」
「まだ……」
「早く言えよな」
一度舌打ちして鉄は軽々とウロを抱き上げる。小さく声を漏らして唸るウロにかまわず、自分のベッドに寝かしつけて上からタオルケットをかける。
「体温計取って来っから大人しく寝てろよ? 部活の件も連絡する。だから、まずは寝ろ、いいな!」
ウロを半ば強引に寝かしつけると鉄は足音を荒く部屋を出た。
ーー静まり返った鉄のベッドの上でウロは熱っぽい瞳でぼんやり天井を映し、タオルケットを深く被った。
「鉄の、匂い……」
ベッド、枕、タオルケット。
ウロの体を包む物から鉄の匂いがした。まるで鉄に抱き締めらていると錯覚する匂い。
「……他意はない、筈だ」
突然自分が泣き出したりするから、鉄は慰めるつもりで抱き締めたのだと……ウロは己に言い聞かせる。
「……タカヤス」
ウロの押入れ部屋の手前に佇む熊のぬいぐるみに手を伸ばすが、届かないので諦めた。あまりの熱に身震いする体を縮こませる。だがどんなに体を小さく縮こませても、全身を包む鉄の残り香に目眩がした。
* * * * *
天気予報は晴れだと言ったくせに、明けて水曜日も相変わらず空は雨模様だった。
「38.2℃。下がらないな」
「うむ……」
額の冷却シートを貼り替えて、鉄は心配そうに体温計を眺める。
「じゃあ今から合唱部に直接休みの連絡して来る。今日は俺も部活休むからよ。帰りに何か買ってこうか?」
「いらない」
高熱に浮かされるウロは気怠げで痛々しい。
「あ、熱発したのは寿喜にも話した。後で来るっつってたから、何か欲しかったらアイツにたかれ。三鈴さんにも色々頼むから無理すんなよ」
「あぁ」
覇気のない返事に安心は出来ないが、さっさと用事を済ませた方がいいので後ろ髪を引かれる思いで鉄は部屋を後にする。
「まぁ、あいつでもいないよりマシ、かな」
ぼやいて歩きながら、階下の三鈴にウロの容体と寿喜が来る事を伝えて外に出る。空は今にも雨が落ちそうな陰鬱な色だった。まるで今の自分の気持を反映しているような空。複雑な色だ。
自分のベッドに眠るウロに対して触れたいと思った。同時に触れたくないとも思う。
好きと伝えたいし、伝えたくないし、伝えられない。
ウロの涙で拒絶されたらと考えると、鉄は踏み止まって進めなくなる。
* * * * *
寿喜は鉄と入れ違いにやって来た。
そして熱で虚ろなウロへの第一声を発する。
「またかよ」
見舞い品の桃の詰まった籠を受け取り、ウロは申し訳なく俯いた。
実は、夏のこの時期のウロの発熱は毎年恒例のものだった。だから寿喜も慣れて落ち着いたものなのだが、ウロの様子には彼なりに何か引っ掛かったみたいだ。
「怠そうなのは熱の所為だけじゃないって顔だな。鉄となんかあった?」
探る言葉にウロは不快に顔をしかめる。
「――何もない」
何もないという顔を上手く作れず、ウロはせめて口だけは固く結ぶ。貰った桃を寿喜に突き返すのは「剥け」と言う沈黙の要求だ。食欲は損なっていない。
「……だから鉄の側に置くのは嫌だったんだ」
桃を剥きながら寿喜が零した。ウロは剥いた側から桃に手を伸ばし、もくもくと食す。
「……好きなのか?」
果汁を拭い、寿喜の問いを咀嚼で流す。果肉を噛み、果汁を飲んで黙っているつもりだった。だけれど少し考えを改めて桃を食べる手を休めて虚空を仰ぐと、ウロは小さく息を吐くように零した。
「消したくないんだ……」
ぽつりと滴が落ちるような一言。
雨の音にすら掻き消すされそうなか細い声だが、今にも破れそうな風船のように張り詰めた声。
「ナガノブ、私は怖いんだ……」
涙を落としそうで落とさないウロ。本当はウロが人前で泣くのが嫌いな事は寿喜はよく知っている。
泣き虫なくせに強情で意地っ張りな性格。そんな性格はさぞ生きにくいだろうと思う。
だからだろうか。
寿喜はいつだってウロの味方で、慰め役だ。
「考えすぎなんだよ」
それだけ言って頭を撫でる。優しく撫でてくれる。
「忘れても誰も責めないよ」
納得しないウロに教えるように、寿喜は目線を合わせて微笑みを浮かべる。
「幸せになっていいと思うけど? 俺は」
その言葉にウロは悲しみを湛えたまま微笑みを返すのだった。
* * * * *
「へっぐしゅ」
音楽室を出た直後、鉄はくしゃみを盛大に一発かます。
「雨で冷えたか?」
鼻をすすり、冷えた廊下を歩く。
先程ウロの病欠を合唱部に済ませて来た所だ。ウロの病欠を説明した時の部員達の顔が残念そうだったのが印象的だった。たった二、三回程の講師だがウロは好かれていたのだろう。
そう思うと鉄の口許が自然と綻ぶ。
過ごした時間の長さが、好きという気持に比例しないという証明の気がした。
「さて、部活の休みも取ったし帰るかぁ」
大きく伸びをしながら長い廊下を歩く。鉄が所属する空手部の方には部員仲間に携帯で既に連絡を入れていた。合唱部の連絡先は知らないので、ウロの病欠を伝える為だけに登校したのだ。
わざわざ足を運ぶ自身に忠犬の影をが重なって苦虫を噛む思いだが、収穫もあった分、機嫌は良い。音楽室で鉄は見舞い品と称されて一枚のCDを渡されたのだ。
「先週、ウロちゃんにあげるって約束したの」
合唱部の部長から受け取ったのはオペラのCD。ウロにならいい気晴らしなるだろうと、鉄はそれを受け取った。
さて、ウロの容体はどうだろう。寿喜が見舞っているだろうから悪くなってはいまい。
放っておいても大丈夫。わざわざ自分が部活を休む必要もない。
そう思っていても鉄の歩みは自然と速くなる。
「鉄っ」
逸る気持ちを抑えるようなタイミングで、帰りを急ぐ鉄の足を止める声が背中から刺す。振り返るまでもなく、その声を鉄はよく知っていた。
「響」
鉄が通り過ぎた教室から追うように顔を出したのは、満面の笑みを浮かべる響だった。鉄の姿に嬉しさが隠せないのだろう。きらきらと輝く顔は好きな人に見せる恋する顔だ。
その顔を見て、鉄は今更ながら響が自分に好意を抱いている事を思い出す。その自身の鈍感さに、それがどういう意味するか鉄はもう分かった。
「どうしたの? 今は部活中じゃないの?」
「……今日は休み。お前こそどうしたんだよ」
「私は生徒会執行部の仕事。学園祭の準備で夏休み返上なんだよ」
晴れやかに笑う響に、鉄はどうしても心から笑ってやれない。響の気持が針のように痛い。
「今ね、休憩中で皆でお菓子食べてたんだ。鉄も寄ってく?」
「いや、いい……」
手を振って断る。早くこの場から去りたかった。まだ響にまで向き合う覚悟は固まってはいない。
「……鉄?」
「悪い。ウロが熱出してて、俺急いで帰んねぇと……」
何処かよそよそしい鉄を、響は敏感に感知する。
瞬間、空気が冷えるのを感じた。
それも仕方ない。鉄はキュッと絞まる胸の痛みに耐える。仕方がないのだ。鉄は響の気持に応えられないのだから、気を持たすような事は出来ない。それだけははっきりと理解したいた。
「ゴメン……」
響の顔が見れなかった。申し訳ない気持だった。答えを引き延ばすだけ延ばして、彼女を選べないのが申し訳ない。
鉄は何も言えず響に背を向ける。その態度に響も不安に駆られたか、逃げる鉄の服の裾を追い掛けて捕まえた。
足元を湿った空気が流れる。いつの間にか生徒用玄関まで来ていたようだ。
外は雨が降る。
濡れた重い湿気は足に纏わりつく。
「鉄、ウロさん……心配だね」
「……あぁ」
響は二の句に迷っている。鉄は気まずさから背中を向けるしか出来ない。
響から見れば、このように突き放す鉄はまるで知らない人のように映るだろう。それでも響は引かない。
繋ぎ止めたい必死さが鉄の背中に伝わる。
「ねえ、知ってる?」
鉄が傘立ての中の一本に手ををかけた時、響が動いた。それでも鉄は振り返らない。それで響が責めてくれるなら楽だった。楽になろうとしたから罰が当たった。
「ウロさんね、婚約者がいるんだよ」
雨はより一層強く大地を叩き出す。鉄は踏み出そうとした足の動きが止まる。
それは鉄の知らない時にウロと響の間で共有する内緒の話。響にとっては、ウロが鉄を好きにならないという絶対の約束。
とうとう鉄は振り返って響を見下ろすと、少女は目を真っ赤にして震えていた。
口を真一に引き絞り、悔しそうに鉄を睨め上げる。
おそらく、これは響にとっても禁じ手で、本当なら口にしたくはなかっただろうと、彼女の性格をよく知る鉄は表情を見て察する。
狡い手だと知っていて手を出したのが腑に落ちないと、腫れた目で訴えていた。それでも引けないのは鉄も一緒だ。
「それで、響は何が言いたいんだよ」
「分かるでしょ。だから、鉄がウロさんを好きになったって……」
なったって何だよ。
響の言葉を半ばで切るように鉄は無言で睨んだ。響はそれ以上何も言わず、一瞥もしないで校舎内に戻って行った。取り残された鉄はぼんやりと佇む。
響が言わんとした事に舌打ちが出た。
「――遅いよ、馬鹿」
胸が痛い。腹の底で渦を巻くような不快感が溜まって行く。
頭の中で何かがわんわんと泣いている。
悲しんでいるのかもしれない。
怒っているのかもしれない。
鉄は無言で空を睨んだまま落ちて来る滴を睨む。
「そんなに泣くんじゃねぇよ」
ウロが泣く姿を思い出す。
ウロの顔が無性に見たくなった。
鉄は傘を差すのも忘れて歩き出す。体が雨に打たれるのも気にならず、むしろドロドロに重く汚れた心を洗い流してしまいたい気持で一杯だ。シャツが肌に張り付くのも気にならない。
このまま逆上せた心身共に冷まして帰ろうかと鉄は歩く。
「風邪、引きますよ」
この状態で校門を出た時、声を掛けて来た男によって足を止めた。
黒光りの高級車の窓から頭一つだけ出しての会釈する、眼鏡を掛けた、物腰柔らかそうな若い男。しかし知らない男だ。
「あ、車の中からすみません。私、成宮と申します」
訝しむ鉄に気付いたか、成宮と名乗る男は綺麗に作られた笑みを崩さずに見やる。
「塚本鉄君、ですよね?」
「……何の用ですか?」
少し警戒して鉄は口を聞く。成宮の眼鏡の奥の瞳が笑ってない事は見逃さない。
鉄の警戒を知って楽しんでいるのか、まるで煽るように成宮は微笑みを絶やさない。
嫌な男だ。
それが第一印象。嫌な予感もする。そして、悪い勘はよく当たる。
「僕、ウロさんの婚約者なんですよ。彼女を連れ戻しに来ました」
雨は体を貫くように撃ち続けた。
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