第9話 海の味がした

 

 

 あまりの寝苦しさに響は目を覚ました。

 腕にまとわりつく温もり。ごわごわする寝床。いつものベッドの寝心地とは違う背中の感触。むわっと蒸し暑い室温も、肌にべたついて不快でならない。


「母さん、エアコン壊れてるんじゃないのー?」


 環境の悪さを訴えながら目を開けると、そこは見慣れた自分の部屋の天井ではなかった。


「……あれ?」


 起き抜けに予想外の光景に響は思わず肝を冷やす。一体自分は何処で寝ていたのか。慌てて記憶を溯った。


「――あぁ、鉄の家か」


 昨日は鉄の誕生日祝いに奏と二人で鉄の家に押し掛けたのだった。そこでみすゞ舘の面々に進まれるまま彼女らの宴に巻き込まれ、そのまま一晩世話になったのである。

 見渡せば響の周囲は参加者の男供の雑魚寝。例えエアコンが動いていたとしてもこの密集では室温も上がるのも頷ける。

 だが、極めつけは彼女だった。


「えーと……ウロさん?」


 響の右腕に自分の腕を絡め、傍らで安らかに眠るウロを見下ろした。こうも密着されてはどんな相手だろうと暑くて仕方ないというもの。


「何でこんなに張り付いてんのかなぁ」


 細い腕を引き離し、響は大きく息を吐く。

 まるで子供のような体。この幼い見た目が鉄の同情を引くのかもしれないと、響はまじまじとウロを観察する。

 見れば見る程に幼い女性だ。長く細い、黒く綺麗な髪。年上なのにキメの細かい白い肌。伏せる睫毛の長さにも目を見張った。

 響も見た目にはそこそこ自信があるのだが、ウロは別のタイプの美少女である。

 見た目は人の好みで変わるもの。鉄の好みは一概には決められない。


「スタイルは負けてないよね」


 朝来のように目を見張る程のバストではないけれど、平均女子並みのサイズは響にはある。ウロはどう見たってそれ以下だ。


「は、むなし……」


 胸のでかさで優劣を決めるなど浅ましくて自分が情けなくなる。それは彼女が追い詰められた証拠だろう。

 いつまでも乙女の恋心を察しない鈍い鉄に告白をした矢先、年若い女と同居と聞けば心穏やかではいられない。 しかも境遇が複雑な程、人の興味は引かれがちだ。

 優しい鉄だからこそ怖い。

 得体の知れないウロが怖い。


「……五時か」


 手元の携帯で時間を確認しながら響は窓の外を見た。

 だらしなく隙間の開いたカーテンから白い朝日が溢れている。話によれば、鉄はこの時間にはウロを連れて散歩に行くのが日課らしい。

 響は絡まるウロの腕を解いて塞いだ。今日も鉄はウロを連れて散歩に行くのだろうか。

 その光景を思い浮かべるだけで胸が痛んだ。

 幼い寝顔が疎ましく思う自分が卑しいと思う。すぐ側では鉄が寝息を立てているのに、今は触れるのにも躊躇ってしまう。


「切ないなぁ……」


 涙が頬を伝った。


「泣いてるのか?」

「ふゎっ!?」


 小さく尋ねる声に慌てて響は涙を拭う。床に体を預けたままのウロと目が合った。


「ゴメン……」


 悪いものを見てしまったとでも思ったのだろう。ウロは申し訳なさそうに体を起こし、頭を下げた。


「悪い夢でも、見たか?」

「まさか。子供じゃあるまいし」

「私はそれで泣くのだが……」


 困ったようにウロは笑う。


「にしても、昨日はよく騒いだな。楽しい誕生会だった」


 雑魚寝する男共を呆れて見回して、ウロは響を見つめた。探るような目だ。


「……私がいるから気分を害したか?」

「そ……っ」


 そんな事はない。

 すぐに否定しようとしたが響は言葉に詰まる。事実だからだ。

 確かに鉄の側にウロがいる事が気に食わないのだから、そうじゃないと言えば嘘になる。


「まぁ。疎まれるのには慣れてるからいいけど」

「え?」

「言われなくとも何となく分かるんだ。だから気にしないでいい」


 そう言うウロの顔は、まるで何事もないように実に飄々と笑う。


「でも、私は響ちゃんが好きだぞ?」


 明るく笑顔を振り撒き、ウロは着替えるからと押入れに入ってしまった。

 会話という会話ではなかったが、響の中のウロの像に何か違和感みたいなものが刷り込まれた。


 結局この日は響が危惧した朝の散歩はなく、徐々に起き出すみすゞ舘の面々と朝食まで世話になる事となった。


「いつもより賑やかで腕が鳴るわ~」


 管理人の三鈴は楽しそうに手料理を奮う。

 昨夜の宴会が尾を引いた食卓は賑やかを通り越して騒がしかったが、食後はあっさりとしていて土曜日というのもあってか休暇の大人組はさっさと自室で二度寝に戻っていく。

 寿喜はウロにもう少しかまってから帰ると言い、奏と響は高校生の身として一旦自宅に帰る事にした。


「わざわざありがとな」


 見送りの際、鉄がはにかんで言った。


「お礼は倍返しでね」

「却下」


 鉄と奏の親友らしいやり取りを横目に、響はウロのいる塚本家の窓を眺める。その様子に気付いた鉄が響に尋ねた。


「どうした。何かあったか?」

「え? あ、何もないよ?」


 響の否定に首を傾げ、頭を掻く鉄。


「そうか? ウロも元気がないみたいだから気になったんだけど……」


 何気なく呟いた言葉に、響の胸が軋んだ。

 確かに朝はウロと気まずい会話があった。でも朝食の頃には何ともないようにはしゃぎ、みすゞ舘の住人らとふざけあって鉄に怒鳴られていたのだ。

 少なくとも響の目には元気がないようには見えなかった。

 鉄だけが気付いたのだろうか?

 出会ってたった数週間なのに、幼馴染みの響の気持を察する以上に。


「……じゃあね」

「おぅ、またな」


 笑顔で見送られる淋しさ。笑って手を振ったが、本当は笑える気分じゃない。鉄はそんな響の心の機微に気付いているのだろうか。


「馬鹿だなぁ……」


 帰り道、奏がぼやいた。

 それは鉄に言っているのか、自分に言っているのか響は聞かない。





「あ、携帯忘れてる」


 響がその事に気がついたのは家に着いてからだった。


「取りに行くべきかな~」


 病的に携帯を必要としている訳ではないが、やはり手元にない物を放っておく訳にも行かない。帰って来て間もないが、響は脱いだばかりの靴を履き直す。


「母さん、鉄ん家に携帯忘れたからまた行って来る」


 母にそう告げて、響は再びみすゞ舘へと向かった。

 正直、足取りは重い。

 それでも鉄に会える口実ならなんだってかまわなかった。けれど鉄の側には自分じゃない女性がいる。それが何よりも苦しくて仕方ない。

 鉄はウロの事を何とも思っていないと言う。ウロも鉄に特別な好意を寄せている態度ではなかった。

 それでも不安は不安だ。

 今は違うかもしれない。

 でも、いつかは始まるかもしれない。

 自覚がないだけで既に始まっているのかもしれない。

 だって鉄はウロの些細な表情の変化に気付いている。

 二人の距離は確実に短くなっている。


「私の方が先に好きになったのに……長い間好きなのに……」


 みすゞ舘へと続く上り坂の中腹で立ち止まり、呟いた。

 泣きたかった。焦れったい不安に息がつまりそうなくらい。


「お邪魔しまぁす。忘れ物を取りに来ましたぁ」


 長く感じた道程でやっと辿り着いたみすゞ舘のドアを開けるが返事はない。多分、昨夜の宴会が祟って深い眠りに落ちているのだろう。幾度かそんな光景を目の当たりにしているだけあり、響は気にする事なく奥に入り、二階の塚本家のドアをノックした。木製のドアの乾いた高い音が廊下に渡る。


「鉄、響だけどそこに私の携帯忘れてない?」


 返事はない。寝ているだけなのだろうかとドアノブを回すと、鍵はかかっていなかったようで簡単にドアは開く。


「入るよー」


 靴を脱いで、リビング奥の襖を開ければそこは鉄の部屋。けれど主不在。居たのはベッドの脇で目を赤く腫らしたウロだった。


「――泣いてるの?」


 かける言葉が見付からず「泣いてるの?」はないだろうと、言った後で響は思った。ウロはそんな響の率直な問いを気にするでもなく小さく笑う。


「怖い夢を見たら泣くと言ったではないか」


 目元を拭い、ウロは響に向かって居住いを正して改める。


「何かあったか?」

「うん、そうなんだけど……鉄は?」

「部活だ」

「大和屋君は?」

「さっき帰った」

「朝来さん……」

「自室で寝てる」

「……」


 つまりほぼ二人きりだ。

 一応ライバルのような存在とこのシチュエーションは気まずい。

 ウロはウロで泣き顔を見られてバツが悪いのだろう。今更だが両目を擦り、落ちる訳でもない腫れぼったさを誤魔化そうとしている。


「本当は、私の所為?」

「ん?」

「泣いてたの」


 朝の一件で響がウロを疎ましく思っているのは通じていた。だから響は罪悪感を覚えている。


「私が鉄を好きだから?」


 ウロは首を振って否定した。


「そんなの関係ない」

「私は鉄を好きでいいの?」


 何を聞いているのだろうと響自身が馬鹿らしく思った。ウロを見ているとやきもちしか焼けない自分の狭量さを思い知らされているようで惨めな気になる。響にとってウロは不安を煽る存在でしかない。、ウロを前にすると響はどうしても強くなれなかった。


「困ったな」


 響の不穏な空気を感じ取ったか、ウロは困惑して言葉に詰まっている。暫し対応に迷いを見せた後、ウロは今にも泣き出しそうな響の頭を優しく撫で、人差し指を唇に当てて微笑んで見せた。


「響ちゃん、内緒の話をしよう」


 ウロは響の鉄への想い、恋心のその先への不安を察したように声の芯が力強い。

 大丈夫。心配ない。そう裏付けさせる内緒の話をウロはする。

 ウロと鉄の恋が始まらない言い訳を。



 * * * * *


 風呂上がりに浴びる夜風は心地がいい。


「ぷはぁ」


 ウロは瓶のフルーツ牛乳を一口飲んで、豪快に息を吐いた。

 鉄のベッド脇の窓からは海が見える。遠くの灯台の光がちかちか灯り、涼感ある景色が眺められるこの場所はウロイチ押しの寛げる場所だ。


「極楽極楽」


 窓辺に頬杖つき、潮の匂いを含んだ夜風を浴びての風呂上がりの一杯は格別だ。天気のいい日は大体そこでまどろむのがウロの日課なのを鉄は水を差す。


「ウロ、風呂場にあった指輪、お前のじゃねぇか?」


 ウロの後に風呂に入った鉄は脱衣場で見つけたネックレスチェーンに繋がった指輪を宙に揺らして見せた。


「あ、すまない。入浴中に外したままだった」

「——なぁ、何で指輪なのに指にはめないんだ?」


 受け取った指輪を首に下げる様子のウロを眺め、鉄は尋ねる。


「別に。深い意味はないさ」

「でも勿体なくないか? その指輪、お前の指にはめた方が似合うぜ?」

「そ、そうか?」


 幼い頃から女除帯で暮らしている所為か、鉄はこの手の言葉を臆面なく言う時がある。この服が似合うとか、今日は髪型が違うとか日本男児が気付いてあげられない点に目敏くなるよう仕込まれたか躾られたか、とにかくよく見ている。寿喜なら褒めるはおろか、気付くかどうかも怪しい。

 けれどこの指輪に限ってはあまり見られたくなかったと、ウロは胸元で光る指輪を隠すように包み込む。

 標準よりも小さいリングだが、鉄の指摘通りウロの細い指にはぴったりはまりそうな大きさだ。


「……指輪なんてどうでもいいじゃないか」


 そっと指輪を服の下にしまい、ウロは無表情に吐き捨てる。その仕草が鉄に違和感を与えた。


「ウロ、お前さ、朝からおかしくね?」


 ウロは顔を伏せ、鉄と視線を合わせようとはしない。その態度が鉄には無性に気に食わない。


「ウロ?」


 鉄は強引にウロの顎を引き、無理矢理顔を上げさせる。ぎょっとした。ウロが泣いていたから。

 ウロの深い漆黒の瞳からは、光の粒のような涙が零れていた。


「何だよ……何で泣いてんだよ」

「鉄には、関係ない……」

「関係ない訳あるか」


 止まらない涙を見つめながら、鉄はウロの顔と向き合う。


「み、見るなぁ」


 泣き顔を隠そうとウロが身をよじるが、鉄が防ぐ。


「泣くなよ……」


 ウロの涙に鉄の心臓は締付けられた。ウロは一言も発せず顔をくしゃくしゃに咽び泣く。

 何故泣くのか。

 どうしたら止まるのか。

 自分の預かり知らぬ理由で泣かれるのが腹立たしく、その涙を塞き止めたくなる。


「ウロ……」


 鉄は切なく名前を呼んだ。

 泣くな。

 俺の前で泣くんじゃない。

 何故。どうして泣く。何がウロを苦しめる。何がウロの心を占領する。

 鉄はウロの涙を見つめて考えた。考えるがすぐに埒があかないと諦める。


「どうしたら泣きやむんだよ」

「……何も、するな。私の問題だ。お前を気に病ませてすまない……」


 嗚咽混じりに返答された。


「お前は私を放っておけばいい」


 涙声だが明らかな拒絶をウロは見せる。かと言って、ハイ、そーですかと聞き分けの良い鉄でもない。胸に燻る何かが鉄を苛立たせる。

 拒まれても鉄はウロの頬に触れた。衝動的に手が伸びて気付いたら指先でウロの頬を伝う涙をすくっていた。


「俺が放っておけないからお前は今そこにいるんじゃねーか。俺が嫌なら何だってお前は此処にいるんだよ……」


 感情的に漏れ出た言葉と同時に、鉄の指先は本能が導いているようにすくい取った涙を舐める。

 その後の行動は余計に歯止めが効かない。鉄はウロの体を引き寄せて抱き締める。その嗚咽を胸に閉じ込める。

 どうして泣くのか。

 何故泣くのか。

 鉄には理由わけが分らない。

 ウロの気持は分かりようがない。

 ただはっきりしているのは、鉄自身がウロの涙を見たくない事。

 ウロの涙は海の味がした事。

 ウロが好きだという事――……。

 

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