第8話 夏の産声

 

 

 みすゞ舘のカレンダーには何故か七月二九日に花丸印がついている。

 それは塚本家のカレンダーも例外ではなく、赤いマジックでハートを描いてその日を囲っている。おまけにキスマーク入り。

 余程大事な日なのだろう。

 ウロはその期日が近付く度に疑問を募らせていく。

 Xデーとは何なのか。


「朝来ママ、この日は何の日だ?」


 ついに尋ねたのはその前日。二八日の朝の事であった。

 日課の散歩も終り、鉄は部活、朝来以外の皆は仕事へと暇な時間だったのだ。普段引きこもりの藤子でさえ、打ち合わせだとかで外出中である。


「そういや言ってなかったっけ? 明日はパーティーよ」


 にこりと美しい妖艶な笑みを浮べ、朝来は人差し指を唇に当てる。


「私の世界一大事な人の誕生日」

「世界一……大事な?」


 誰だろう。

 ウロは首を傾げる。

 朝来の大事な夫はもういないし、第一みすゞ舘のカレンダーにまで印をつけるのだろうか。


「誰?」


 深く考えもせずすぐに白旗を上げると、口の端にある黒子を吊り上げて朝来はまたしても微笑んだ。


「鉄の誕生日よ」


 ウロはきょとんと朝来を見つめた。


「鉄の、誕生日?」

「そ。明日で満十六歳でぇす」

「とても十六歳には見えない落ち着きぶりなのだがなぁ」


 軽くツッコむウロだが、容姿と実年齢とのギャップに関してはウロも鉄には負けていない……と、朝来は思うのだが口は慎んでおいた。


「そんな訳で明日は本人そっちのけで騒ぐから楽しみにしといでちょうだいよ!」


 ぽんぽんとウロの肩を叩くと、朝来はご機嫌に鼻歌混じりで風呂場へ行った。余談だが、看護師長でシングルマザーのご多忙な彼女は夜勤明けなのである。


「……誕生日か」


 朝来が扉の向こうに消えて、ウロは一人ぬいぐるみのタカヤスと向き合う。


「やはり何かするのが筋だよな? 世話になっている訳だし」


 頭を抱えて悩む、鉄へのプレゼント。


「肩叩き券……いやいや父の日じゃあるまいし」


 真剣に考える。

 男の子が喜びそうなプレゼント。

 鉄が喜びそうなプレゼント。


「てゆうか考えた所で金がないしな……アレにしようか」


 辿り着いた結論に、ウロは携帯電話を取り出した。メタリックな桜色のハードが愛らしい文明の利器は寿喜が離れて暮らすウロの為に買い与えた物だ。


「困った時は何でも言えよ」と渡した本人は、何故か三日と空けずにみすゞ舘へと足しげく通うから、あまり活躍の場が与えられない、文明から遠ざけられた利器である。


「ああ、ナガノブか? 私だ。ウロだ」


 コール音から間もなくして相手が出る。


『な、なんだよ。どうしたんだウロ、淋しかったか?』


 ウロから初めての電話に隠せない喜びを無理に押し殺した応対だったのだが、当然ウロは気付かない。きっぱりと用件だけを述べ始める。


「突然だが、明日の朝一番に持って来て貰いたい物がある」


 その後、ぼそぼそとした秘め事が五分続いた。



 * * * * *


 甘い甘い香り。

 鉄の誕生日当日。三鈴専用の広いキッチンを占領し、ウロは何かを作っていた。


「今日の練習は昼過ぎまで続くから……ん、鉄の帰宅までには仕上がるな!」


 時計を見ながら泡立て器を回すウロが呟いた。

 焼き上がった生地もいい具合に冷めて来た。生クリームを作りながらウロは鼻歌混り。その楽しげな背中を憮然と眺めるのが寿喜だった。

 昨夜、ウロからの電話の用件にまだ不機嫌な様子だ。


「鉄にケーキを作る為の材料を何で俺が……」


 ぶつぶつ愚痴を零しながらも苺のヘタを取る辺りが不毛である。結果、気に食わない男の誕生ケーキを作る羽目になっているのだから。


「大体、無理にプレゼントなんて用意しないでもいいだろうが」

「何を。衣食住の世話になってるのだ。当然の行いだろう? ん、程よい甘さだ」


 ツノの立った生クリームの出来に満足するウロを、やはり釈然としない寿喜が嘆息つく。


「だからって、何で手作り……」

「私が出来るのは歌うかお菓子作りだけだからな」

「お菓子作りじゃなくて、このケーキ限定だろ」


 揶揄され、頬を膨らませたウロは口を尖らせる。


「お前、何か勘違いしてないか? このケーキは日頃の感謝の気持であって、特別な想いは何一つないぞ?」

「あーそうですか、何て言うと思ったか。首にいつまでも未練残しているくせに」

「――っ!?」


 寿喜の痛い視線に、ウロは胸元を隠した。それでも隠しきれずに指の間から白銀の指輪がキラリと光る。


「言っとくけど、俺が許したのは夏の期間だけ。夏が終れば家に帰るんだからな」

「わ、分かってる。そう約束したじゃないか」

「アイツ好きになったって仕方ないんだからな」

「好きになるものか」


 首を千切れんばかり否定するウロが今にも泣きそうだったので、寿喜もそれ以上つっつくのをやめた。

 ウロはいじけると喋らなくなる。今年二十歳になった筈なのに、まるで子供と変わらない。


「もっと気に入る指輪があれば、この指輪を首に下げたり、しない……」


 小さく反論するウロに寿喜は呆れて肩を竦める。それから誰にも聞こえないようにぼやいた。


「新しい指輪なんて、欲しがらないくせに……」


 ケーキの甘い香りが二人の空間を埋めた。それなのに、ウロの顔は涙が出そうなしょっぱい気持ちだ。そんな顔を前にしては悪態を吐いてもつい頭を撫でて甘やかすのが寿喜の悪い性分である。

 甘い甘い香りが埋める空間。

 電子レンジが新たな生地の焼き上がりを高らかな音で知らせた。



 * * * * *


「うーわー……」


 あらかた予想はしていたがこの有様はどうだろう。鉄は目頭を押さえ、玄関先で立ち眩んだ。

 七月二九日と言えば鉄の誕生日だ。今日である。当人なのでよく知っている。

 別に楽しみにしていた訳ではないが、イベント好きなみすゞ舘の住人が何もしないとは思ってはいなかった。が、まさか当の主役が帰り着くより先に酒を浴びる程飲んで潰れているとは思わなかった。


『鉄、誕生日オメデトウ』と書かれた横断幕は天井に下げられていたのだろうが、今や無惨にも端が床に垂れ下がってお祝いの気配は微塵も感じられない。幼稚園のお楽しみ会等でよく作られる色紙の輪っかの鎖も何の為に作られたのか、飾られる事なく床に散っていた。


「あ~鉄、うぉかぇりぃ~Happy Birthday~」

「いいからいいから。酔っ払いの抱擁とキスはいらねぇから大人しく寝てろ」


 擦り寄ってくる酔っ払い一号朝来を回避しながら、鉄は奥へと進む。宴会中のみすゞ舘は、空き缶空き瓶酒の肴の袋の散乱で足の踏み場もない。過酷な部活の後なのに、胴着を肩に下げ、足を引き摺り歩く姿の情けなさを思うと惨めに感じた。


「鉄! 空手家復活記念に簡易鉄アレイプレゼント~」

「先生サンキュ!」

「私からはレコードプレーヤーと往年の名作映画サントラLPね」

「すげー! ありがと、ありささん」

「鉄ちゃぁん。鉄ちゃんに合わせたシルバーアクセ作ってみたけどどーぉ?」

「器用だなぁ、三鈴さん。店で売ってるみてー」


 腐海の道を進みながらみすゞ舘の住人からの温かなプレゼントに素直に喜ぶ鉄。次に控えるは含みのある笑みを浮かべる小説家だ。


「おい鉄! これあたしオススメのエロDVDだ。やる」

「いらねぇ」


 流石に藤子の贈り物は断った。


「何よぉ、そりゃ肝心な部分は観れないけど絶品よ。奇跡の巨乳と呼ばれた伝説の女優なのよぉ?」

「女優が問題じゃねぇ。不必要なんだよ!」

「あ、貧乳派?」

「黙れ酔っ払い」


 ぶち壊しだ。

 せっかくのいい気分も、藤子一人に疲労困憊だ。


「はぁ。食い物くらいねぇの?」


 散らかる酒のつまみやスナックの残りカス。祝われるべき誕生日の主役への施しは何一つ残っていない。


「いーや。風呂入ろ……」


 両手にプレゼントを抱え、鉄は重い足取で階段を上がった。プレゼントを貰ったのに、心が寒いのは何故だろう。


「……ただいまぁ」

「おかえり様だよ!」


 スパーンと歯切れのよい音が鉄の耳を通過する。目の前を散っていく紙吹雪。


「お誕生日おめでとうだ。鉄」


 クラッカーを握ったウロが待ち構えていたと言わんばかりに鉄を見上げた。


「……お前が祝ってくれるって思わなかったけど……ソレ、どうした?」


 意外な人物の歓迎に驚きながら、鉄はウロの隣りで横たわるモノに指を差す。


「酔い潰れた愚弟だ」

「飲んでるのかよ」

「誤飲だ。と言うかフルーツカクテルのアルコール量でこのザマだ」


 しょうがない奴だよ。

 ふっと歯を零してウロが寿喜の頭を撫でる。その姿が何故か鉄には面白くない。


「それより何か食い物ねぇ?」


 理由の分からない気持を振り払うように別の話題を持ち出した。少し白々しくも思えたがウロはパッと顔を輝かせる。


「それなら冷蔵庫だ!」


 言葉を返すウロの口角が上がるのを冷蔵庫に向かった鉄は気付かない。

 親子二人使用の塚本さん家の冷蔵庫は小さい。なので鉄は屈んで薄緑色の扉を開ける。

 庫内の明りが鉄を照らした。そして見付けた。狭い冷蔵庫を占拠する白い物体を。


「これ、食えるのか?」

「存分に食せ。その為に私が作ったのだからな」

「あ、やっぱお前が作ったのか」

「私からの誕生日プレゼントだ」


 確認の為に運んで来たケーキ。誕生日には定番のショートケーキ……らしき物と鉄はこっそり心の中で加える。

 果物は豪華だ。

 ストロベリーにクランベリー、ラズベリー、ブルーベリーとベリーのゲシュタルト崩壊。しかし生の果物という高単価なデコの相棒は苺を模しているので有名なチョコレート製菓が点在するのは何故だろう。更に蝋燭にでも見立てているのか、チョコプレッツェルまで鉄の年の数だけ立っている。

 どうも女子中高生が面白おかしく安い材料で飾り付けした感が否めない。

 とどめに不安を煽るのが潰れた台座。肝心要のケーキの土台、スポンジがぺったりと薄いのは味に保証が出来るのであろうか。

 ウロには裁縫の前例もある為、いまいち彼女の家庭科技術に不信のある鉄は、今一歩が踏み込めない。


「腹壊さねぇ?」

「果物は新鮮だぞ」

「そうじゃなくて……」


 瞳を爛々と輝かせるウロが鉄がケーキを食べるのを今か今かと待っている。期待に満ちた視線に激しくプレッシャーを感じるし、真心と食べ物を粗末にするのは鉄の良心が咎められる。


「切り分けるなど耳っちい事など気にせず、がぶりと行け」


 キラキラと輝くウロの期待を裏切れなかった。

 ——薬代は寿喜に請求しよう。

 やむなく腹をくくり、鉄はケーキを一口頬張った。スポンジがショートケーキの割に歯応えがある。程なくして生クリームの甘さと、苺の酸味が口の中に広がった。


「あれ……美味い」

「だろぉ?」


 ウロは得意気にない胸を張るが、鉄からしてみれば意外な結果だった。


「わりとお菓子のチョコもイケるなぁ」

「そうだろう? 苺との甘さと相性がいいのだコレが。そうそう、変わってるのはそれだけじゃないぞ」


 鉄の言葉に嬉しそうにウロが身を乗り出してケーキの解説を始めた。


「ショートケーキのショートは元々パンの意味らしい。だからビスケット風に固めに作ったスポンジが斬新で歯応えが美味いだろう?」

「パン生地なのか?」

「企業秘密だ」


 嬉嬉として話すのはケーキ作りが好きだからか、鉄が味に満足したからなのか。今のウロはいつもより饒舌だ。


「このケーキはな、私が滅多にしか作らない貴重な物なんだぞ。感謝して食えよ?」

「あーありがとうございますぅ」


 多少恩着せがましくとも、鉄はそれも流してケーキを食べた。だが、ふと見るウロの顔はどうだろう。


「おい、冗談だぞ? 今日は鉄が主役の鉄の誕生日だ。もっと偉くしても良いじゃないか」


 誕生日効果なのか、鉄を気使うように狼狽えるウロの顔が面白かった。


「そうだ! 他に何かしようか? 私が出来る事なら今日一日くらい肩叩きでもしてやっていいぞ!?」

「いいよ。俺に気を遣うウロなんて気色悪いし」

「気色悪いってなぁっ」


 憤慨しながら、それでもウロは上目使いに何かないのかとしきりに催促してくる。まるでどちらが誕生日の主役なのか分らない。それでも時間は穏やかに過ぎて、鉄が風呂から上がって来た頃には疲れていたのかウロは寿喜の隣りで寝入っていた。一生懸命鉄をもてなそうと朝から奮闘していたからだろう。肩を揉もうとしたり、背中を流そうとしたりありがた迷惑な行動もあったが気持ちは嬉しかった。

 意外に律義な性格らしい。


「変な奴」


 額に張り付いているウロの髪を取り除きながら鉄はゴチる。


「ん~」


 寝苦しそうにウロが寝返りを打った。猫のように丸く眠る姿が何処か愛しい。

 静かに。静かに鉄はウロの寝顔を伺った。

 静寂の中、遠くで蝉の鳴声が耳鳴りのように溶ける。伸ばした鉄の指が、ウロの睫毛に触れた――時だった。


「鉄ー」


 びくりと鉄の肩が跳ね上がる。驚いて声のした方を見やれば外から聞こえた気がした。鉄は窓を開けて下を見る。


「お祝いに来たよ~」


 プレゼントが入っているのであろう紙袋を掲げ、奏と響が破顔していた。

 大事な幼馴染みが来てくれた。嬉しい筈なのに、少し残念と思うのは何故だろう。

 きっと気の所為だ。

 言い聞かせるように首を振り、鉄は外の二人に手招きする。


「上がれよ。美味いケーキがあるぞ」


 見た目は少し悪いケーキが意外に絶品だと知った時の二人の反応を想像すると何となく愉快になる。

 何故だろう。特別変わった事はなかった筈なのに、今年の誕生日はいつもと違う気がした。

 今年にあって去年にない……ウロがいるからだろうか。

 夏の期間だけ居座る事が決まったウロ。

 無駄に早起きさせられてばかりの毎日なのに、夏が終って秋を迎える頃にはウロがいない日を物足りなく感じたりする時が訪れるのだろうか。

 もしそう思う日が来るとしたら、いつかウロがいなくなる生活が来なければいいのにと思った。

 そんな十六回目の誕生日。

 

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