第7話 波の中で泣いていた

 

 

 目を開けたら闇の中。

 ウロは驚いて手を伸ばすが、そこは壁で阻まれていた。

 四方囲まれたそこはまるで箱の中。

 籠の中の鳥。

 そんな言葉が即座に頭を過る。

 不安で泣き叫びたい気持に駆られた。

 助けてと声高らかに叫んで誰かに縋りたいくらい心細くなる。

 ——そんな時。


「起きてるか?」


 少年から抜け出たばかりの幼い輪郭を残す青年の声と同時に光が溢れた。ウロは眩しさに目を細め、その先の顔を見つめる。少しぶっきらぼうに映っているが、本当は彼がどんなに優しいかウロは知っている。


「――タカ……ヤス?」

「タカ……ああ、ぬいぐるみならお前の頭の上にあるぜ」


 言葉のちぐはぐさに、ウロは怪訝な色を浮かべる。声の通り頭上に手を伸ばせば、綿の入った布の質感。手元に引き寄せれば三鈴がウロに贈った手作りの熊のぬいぐるみと分かった。

 名前はタカヤス。ウロが名付けた。

 どうやら寝起きだったと気付き、その瞬間どんどん頭の中が冴えて来る。

 ぬいぐるみは熊の他にとセットで兎のぬいぐるみもあった。

 そして、此処は箱の中ではない。ウロが住まう鉄の部屋の押入れの中だ。


「……朝、なのか」


 ウロは起こしに来た鉄にぼんやりと微笑んだ。


「散歩に連れてってくれ」


 ねだるように差し出される手を、鉄は無言で引っ張り上げる。



 * * * * *


 この日はいつもより静かな朝だった。


「海へ行こう」


 ウロの一声で本日の散歩コースは決まった。

 みすゞ舘を出てすぐの坂道を下ればそこは海。白い砂浜に、まだ薄い白い波が寄せては引き、海面は山間から昇る朝日に照らされ輝きを増していく。

 思えば、この光があったからこそウロを見付け出す事が出来たのだと鉄は思い出す。

 あの日のウロは波に晒され、まるで死人のように横たわっていた。全身ずぶ濡れで、打ち捨てられていたかのようなウロ。

 死体にも見えた。

 人形にも見えた。

 とにかく、生きていなかった。

 それが最初の印象だ。

 ウロは深い悲しみの中を彷徨っている。きっと寿喜ならその理由を知っているのだろう。

 けれども不用意に自分からウロの秘密を聞いていいものか。もどかしい気持で、鉄は砂浜に足をつける。


「下ろしてくれないか?」


 不意にウロが背中から鉄にせがむので、砂の上にゆっくり下ろした。海に向かって腰を下ろすウロの隣りに、鉄も座る。


「……分かりやすいな」


 鉄を見てウロが吹き出した。


「話が聞きたいのか?」


 分かっている。

 そう呟いて、ウロは空を仰いだ。

 薄く伸ばした雲と朝靄は、混り合い空を隠す。まるで読めないウロの心のようだ。


「そうだ。まず最初の告白な」


 柔らかく笑うと、ウロさ砂の上に指で文字を綴り始めた。

 天野空。

 鉄は砂地の名前にウロを伺った。


「私の字だ。アマノウロと読む。別に隠したかった訳じゃないが、下手に名乗って身元が割れやすくなると嫌だったし。加えるならナガノブは弟だ」

「うげっ」


 いかにも「あんなのが弟なのかよ」と露骨に嫌な顔を見せる鉄にウロは笑う。


「正確には従兄弟だ」

「どのみち血縁なのか」


 つい苦虫を噛み潰したような顔になるのは、鉄が寿喜を苦手とするからか。心なしかウロからも身を引いてしまう。


「で、なんで大和屋がお前を探すんだ。単なる従兄弟だろ?」

「私がナガノブの兄と結婚したからだ」

「マジで!?」

「嘘だ」


 間髪入れない否定。


「ナガノブに兄はいないよ」


 人妻発言に動揺する鉄に向かって、ふふんと鼻で笑う音が聞こえた。揶揄われたのだ。


「ホントは話す気なんかないんだろ」


 少々不機嫌に口を尖らせれば、ウロは微苦笑に頭を振る。


「話すさ。フェアじゃない」


 いつもと違う、真剣味の帯びた声音。だから聞いてくれと懇願されては鉄も黙るしかない。


「でも、何を話そうか」


 ウロは深く息を落とした。


「ナガノブは従兄弟だが弟には変わりない。私が大和屋の家で養われているからだ。両親は十年前に他界してるからな」

「そう……なのか?」


 さらりと明される不幸な身の上に、返事に戸惑う鉄。けれど、当の本人はさほど気に病む様子はない。


「あ、足は生れつき悪いんだ。理由は説明しても意味がないな。治せないらしいからな」


 本当にウロは己の身の上をあっけらかんと喋る。おどけた口調で、おどけた目で、その裏に隠した表情なんて読めやしなかった。


「足の事はその……」


 鉄の上擦る声にウロは肩を竦める。


「私は、はじめから歩く自由を知らないから……歩けないのは普通なんだ。だから今更不自由という気にはならないな。手間は色々かかるが移動も風呂も昔から足を使わないでやって来たし、慣れたよ」


 鉄はワンピースから伸びたウロの足を見た。白く波打つスカートの裾から覗く足はあまりに白く細い。見ただけで歩けない足だと納得できるくらい足には生気がなかった。


「それに……」


 続けてウロが零す。

 思い詰めたように、ウロは体を引き摺り海へと向かった。

 寄せては引き、泡立つ小波に指先が触れる。ウロは服が濡れるのも構わずに這い進みどんどん海水に浸かって行った。


「おいっ」


 驚いて鉄が止めようとした時には、既にウロは自身の足も付かない深さで海に浮かんでいた。


「安心しろ」


 ウロが笑った。


「歩けはしないが、泳ぎは得意なんだ」


 得意そうに腕を広げ水を掻き、長い黒髪に宝石のように水滴を光らせ、ウロのワンピースがヒレのように広がっている。

 確かにウロは自由に海を泳いでいた。まるで魚のように生き生きと波に乗る。


「死んだ私の親がな、歩けない私の為に泳ぎを教えてくれたんだ。だから私は歩けなくても悔いてはないんだ」


 水を滴らせ、朝日を浴びて微笑むウロはいつになく眩しかった。大きな瞳がキラキラといつも以上に輝いている。それでもその表情も長くは保たず、再び暗い影を落とした。


「……本当はいたたまれなかった」


 ぽつり、ぽつり。雨が落ちるように言葉を降らす。


「私の足はこんなだから歩けなくて、伯母夫婦に迷惑をかけるだけの私は、いなくてもいいと思った……」

「いたたまれないから家出か?」


 ウロは無言で肯定も否定もしない。


「……家出を持ち掛けたのは、ナガノブからだった。必ず自分が助けるからって、手を差し述べてくれた……寿喜は、昔からまるで姉のように私を慕ってくれてたからな」


 それは姉ではなく女として慕っていたのだと鉄は思ったが、敢えて口にはしない。此処で寿喜に手を貸す義理もない。


「そういや、家出に大和屋も荷担したなら、何でアイツはお前を探していたんだ?」


 矛盾を指摘する鉄に、ウロは苦々しく口角を上げた。


「ナガノブには心配をかけたな」


 静かな口調でウロは囁くように言葉を紡ぐ。少し、長い話になるがと前置きして。


「——あの朝の前夜、私達は僅かな金と車椅子一つで屋敷を出、タクシーに乗り込んだ。難儀な車椅子をトランクに詰めて、何処か適当な場所に向かった。タクシーの運転手は陽気でな、私達を駆け落ちカップルだと思い込んでた。道中は、そうだな……イケナイ事をしながらの高揚感で見るもの全てが面白かった。でも――」


 小さく言葉を区切り、ウロは上目遣いで悪戯っぽく微笑う。


「途中、私がナガノブに何か飲みたいと駄々をこねてな。アイツを下ろしてコンビニに行かせた。それから私はナガノブを置いて車を出させたんだ。持ってるお金の分だけタクシーを走らせ、ナガノブを裏切った。さいごまで巻き込む訳にも行かないだろ?」


 問い掛ける言葉は鉄に投げ掛けたものじゃなく、自分自身に言い聞かせているようだった。


「我が儘だ。ナガノブを巻き込みたくないと勝手して……詭弁だな。私は結局、次は鉄を巻き込んでしまった」


 己に冷笑するウロの姿は、あまりに痛々しく映る。


「そうそう! タクシーで行ける所まで行った私はな、車椅子を運転手の手助けで出して貰い、独りで夜道を突っ走ったんだ。しかし、道中潮騒に誘われて浜に下りたのが誤りだな。私の足は砂に捕われあっけなく使い物にならなくなったんだ。そこからが大変だぞ!? 歩けない私は体を引き摺り海に入った。その姿はまさに海亀! けれども海に入れば私は泳げるからな、浜沿いを闇雲に進んで此処まで来たんだ。流石に疲労困憊! 苦しみに私が喘いでいる所を鉄が拾ってくれたのでありましたとさっ」

「とさってな……」


 呆れて二の句が継げられない鉄だが、ウロの顔色の変化は見逃さない。暗く、重い顔をしたかと思えばおどけた口調で一気に捲し立てる。一見、小馬鹿にした態度は鼻につきそうだが、生憎と鉄はウロが何かを誤魔化しているのに気付いてしまっていた。

 ウロは、海に身を沈める事で涙を隠している。

 バレていないとでも思っているのだろうか。だとしたらあまりに滑稽だ。赤く腫らした目を隠せずに何を誤魔化すのか。


「……阿呆」


 鉄は小さく呟いて、自分もウロに続き服のまま海へと身を投じた。


「風邪引くだろ、馬鹿」

「わっ」


 全身ずぶ濡れのウロの腹部に腕をかけて抱え、鉄は浜まで歩いた。

 細く小さな薄いウロの体が鉄の腕に張り付く。

 阿呆は誰だろう。

 涙を隠すウロなのか、気付かないフリをしている鉄なのか。


「……アリガトウ」


 囁くようなウロの声が聞こえた。




「で、お前は今までの経緯を俺に話してどうするつもりなんだよ」


 海水を吸ったシャツを荒く絞りながら鉄が尋ねると、同じようにスカートの裾を絞るウロが小首を傾げた。


「ちょっと可哀相なウロちゃんを演出して、家出続行の許可を鉄に許して貰う、とか」

「馬鹿だろお前」


 計画を暴露して同情票が入るものか。


「大体、家出を続行したいなら俺じゃなく大和屋だろ? アイツを先に懐柔しろよ」

「そうすると、つまり鉄は私がまだ居候でも異論はないのか?」


 ぽかんとして尋ねるウロの間抜け面。鉄は思わず吹き出す。


「無理矢理押し掛けといて、今更居候するのに俺の意見が必要なのかよ」

「そうだな」


 バツが悪そうなウロの頭を、鉄は小さい子にするように優しく撫でた。


「大和屋と仲直りしろよ。アイツ、どうせ今日もこっちに来るんだからよ」

「あぁ」


 頑張る。

 ウロは笑った。先程とは打って変わった、晴晴れとした澄んだ笑みだった。



 * * * * *


 明けて今日も見事な快晴。

 みすゞ舘ではずぶ濡れで帰ってきた鉄とウロを冷やかす声を浴びせて来たが、それ以外はいつもと変わらない穏やかな始まりだった。

 軽くシャワーを浴びて、朝食を終えると鉄は九時からの部活に合わせて準備をする。ウロは水曜日の合唱部の講師以外学校に用はないのだが、寿喜と話をつけるという希望もあって、昨日に続き再び学校へと行く運びとなった。

 昨日と違うのは行き先は音楽室ではなく、空手部控える武道場だということ。

 噂の歌姫の来訪に思春期真っ直中の少年らのボルテージが上がるが、更に驚いたのは寿喜の方だ。


「おはよう……」

「……はよ」


 既に慣れ親しんだ仲の筈の二人なのに、ウロと寿喜の交わす言葉はぎこちない。


「二人で話をしないか?」


 ウロのそんな持ち掛けを寿喜は受諾したのだろう。二人は周囲から少し離れた所に場所を移す。

 ただならぬ雰囲気に誰も立ち入れない。

 ウロの隠れファンも多い空手部一同は、指を咥えて遠くから眺めるだけだった。


「……塚本。お前の彼女、威王の大和屋にナンパされてないか?」

「ほっといて下さい。つか、彼女じゃないし」


 心配そうに尋ねる主将の声に構わず鉄は練習を続ける。

 時折、遠目でウロの様子を伺うが、当然ながら会話は聞こえない。それでも寿喜が怒っているのはよく見えた。流れはよく分からなかったがウロが食い下がり、寿喜が折れたのだろう。次第に怒りを収めた寿喜が渋々頷くのを見た。

 案の定ウロは希望通り、引き続きみすゞ舘に残る事になったようだ。


「やっぱ、当分はまだ早起きしないといけねぇのかよ」


 流した汗を拭いながら、鉄は溜息と一緒に小さく笑った。


 さて、やはりウロはめでたく再度みすゞ舘の一員として落ち着いた訳だが人生何があるか分らない。その日の夕方、鉄はいたくそう思った。


「チッス! どぉも大和屋寿喜ッス。ウチのウロがえらくお世話になりましてぇ~。あ~、本人の希望によりまたこのアパートにウロを預かって貰う運びになりましたので、今日はお礼と挨拶に伺いに参りました。これ、つまらないモノですが皆さんでお召し上がり下さい」

「あらやだ。麒麟堂の限定フロマージュじゃないの!」


 代表で寿喜から菓子折りを受け取った朝来が全ての答えだった。

 すなわち「みすゞ舘は全面的に寿喜君を歓迎してお迎えします」という意だ。


「たかがケーキ一つで懐柔されんなよっ」

「甘いわね、鉄。たかがケーキじゃないのよ。これはね、高価で生産量僅かの入手度困難な特別な美味しいケーキなの!」

「そうだぜ鉄。たかがケーキじゃお姉様方に失礼だろ」

「うっさい。てか何でいつの間に呼び捨てになってんだよ」

「苗字より名前のが呼びやすいじゃん。ウロもそう呼んでるし」


 鼻歌混りにご機嫌な寿喜。どうやらウロと仲直りしたのが嬉しいらしく、鉄に対してもにこにこしていて逆に不気味だ。鉄と寿喜の本来の不仲を知らないウロは現在、寿喜差し入れによるお気に入りの紅茶を飲んでご満悦中。


「それで鉄、とりあえず、ウロが居着く夏中は俺も通い詰めるつもりなんでよろしくな」

「んなっ!?」


 寝耳に水発言。

 そんなこんなでちゃっかりみすゞ舘ご一行様と親しくティーパーティーを始める寿喜。


「煩い人間はウロで十分だ……」


 そんな鉄の嘆き。


 余談だが、そんな彼も暫くしたら寿喜と名前で呼び合う仲になる。

 それはまた別の話。

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