第6話 夏のから騒ぎ

 

 

 夏の夜風に、涼しげな風鈴の音が涼を奏でる。

 今夜は、心地のいい風が吹く日。まるで明日からこの町の小中高学校が夏休みに入るからなのか、大気まで浮き足だっているかのような感じだ。

 そして、此処にも浮かれる者が一人。


「鉄、夏休み期間って朝から合唱部の練習があるんだよな?」


 満面に期待の色を浮かべ、先週から始めたコーラス部の講師をする際に貰った譜面を広げたウロが、鉄を見上げて尋ねた。


「他の部活は知らないけど、そうなるんじゃないか?」


 風呂上がりの火照った体を冷ます為、冷蔵庫から麦茶を取り出す腕を休めて答える。


「あ、そうだ」


 部活の話で何か思い出したのか、鉄はテレビを見ながらストレッチする朝来の方を向く。


「おふくろ、俺も明日から本格的に空手部の練習に参加することになったから」

「あれ、あんた既に正式入部だと思ってたけど違ったの」

「道場掛け持ちしてるから断ってたのに押し切られて仮に在籍してただけなんだ。前も言ったのに忘れたのかよ」


 ストレッチする体を維持したまま、朝来は息子へと振り返った。

 右足を伸ばした左足に掛け、腰を右方向に180度捻るという何とも人には見せられない姿に、顔面パックの朝来は意味深に首を傾げる。


「捕まった?」

「拝み倒された。秋の新人大会には出てくれだと」


 面倒臭ぇなあとぼやいた鉄に、ウロは興味深々に目を輝かせた。


「鉄は空手をやってたのか?」

「そ。強かったのよ~。全国のトップ争いなんてしてたんだから! ライバルもいてね。ほら、鉄誰だっけ? 一学年上の、二年連続で争った……あ~ナントカ君」

「忘れた」


 知らぬ存ぜぬの無関心ぶりに、爪を切り始める鉄の姿は何処か不機嫌に見えた。


「鉄は何をふてくされてるんだ?」


 短気ですぐ怒鳴る鉄が、余計な事を気にかけるウロに何も言わないのが珍しい。そんな頭を捻るウロの為に、朝来は楽しみに口を開く。


「鉄ちゃんは会いたくないライバルがいるのよね~?」

「ぅぐっ」


 図星を刺された鉄。ウロはまだ不思議そうな顔をする。


「怖いライバルがいるから空手をやめたのか?」

「怖くねぇ」


 聞こえの悪い質問に思わず言葉を返す鉄。その所為で「じゃあ何故」と続け様に問われる羽目になった。


「パンチが怖くて逃げたのか?」


 兎のぬいぐるみのナガノブを繰りながら正拳突きを出すウロに、鉄は溜息を吐いてそのぬいぐるみの腹に己の拳を当てる。


「暑苦しい奴の相手が面倒なだけだ」


 うんざりぼやく鉄は、心底嫌そうな顔で遠くを見つめた。が、そんな態度もお構いなしと、はしゃぐウロ。


「暑苦しい空手家なら、このナガノブも熱血空手家なんだぞ?」

「あ~そうデスか。そんなぬいぐるみの裏設定なんて知りませんでした。つうか、ぬいぐるみに人間みたいな名前はやめやがれ」


 しみじみと呟く鉄の声には、感慨深い思いが込められていた。


「ナガノブって顔なのになぁ?」


 兎と向かい合い「ねー」なんて能天気なウロに舌打ちする鉄。

 夏休み前日、火曜の夜の会話である。



 * * * * *


 全国の学生が心踊る夏休み初日。蝉の声にも負けない歌声が校舎内を渡る。

 水曜日の合唱部は特別コーチのお陰か、いつもより声に張りがあり、澄んだ音に納涼感すら与える程に進化した。

 噂の歌姫の涼やかな声も、鉄含む空手部員が構える武道場にまで届いている。


「はぁ~。俺、この週一の歌声に癒されるかもぉ」


 などと部員の一人が現を抜かす発言に、鉄は憐れみを込めて見た。

 鉄に言わせてみれば、歌い手の中身を知らないからそんな言葉が出るのだ。


「浮かれるのは声だけにしとけ。本人知れば幻滅するだけだから」

「そっかぁ?」


 この部員からしてみれば、年上のロリ系美少女歌姫にそんな事を口に出来る事すら羨ましいのだが。


「集合ーっ」


 歌声にまったりとした空気を引き締めるように、空手部の主将が集合をかけた。その合図で、ぞろぞろ集まる部員の輪の中心に立ち、厚い胸板を誇らしげに反りながら主将は太い声を張り上げる。


「えー実は昨日まで黙っていたが、今日から一週間、威王いのう高校と合同練習が決まっている」

「威王って、ブルジョア男子校の威王ッスか!?」

「そうだ」


 頷く主将の答えに、道場内が騒然とする。


「知っての通り、威王は去年の総体ベスト4入りした強豪だから、気合い入れてかかれよ!」


 瞳を爛々と輝かせ、実に楽しそうに主将は話すが、明らかに他の部員は戸惑った様子で顔色を悪くする。


「何でそんな強豪と練習が決まったんッスか!?」


 怖々と挙手しながら尋ねる部員一名にいい質問だと頷く主将は、太い腕を組んでにんまり笑う。


「それはあちらの新顧問と我らが顧問が懇意の仲だからだ! 多分、今頃こっちに威王の奴等を案内してる筈だから、すぐに顔合わせだな。いいか、お前ら。相手が誰だろうと怖気ずくんじゃないぞ!? 学べるモノはとにかく学べ! 盗めるモノは盗んで秋に備えろ!! いいな!?」

「御ッ忍!」


 初めは強豪相手に尻込みを見せた部員達だったが、主将の力強い言葉に感化させられたのだろう。頼もしく胸を張り、一丸に気合いを入れる。――新入部員の鉄を除いて。


「主将、俺ちょっと便所いッスか?」

「塚本か。いいぞ、行って来い」


 あっさりと快諾を貰い、道場を出た鉄。しかし渡り廊下から鉄が向かった先はトイレの方向ではなかった。

 練習試合以外で他校と交流する場合、大抵頭に顔合わせが入るもの。そんな堅苦しい場が苦手な鉄は、逃げる口実を作って出て来たのだ。


「三十分くらいで戻れば終わるだろう」


 ぼんやり校内の時計を確認しながら、鉄はあてもなく歩き始めた。

 歩くと言っても大した目的はない。ただ歩き慣れた学校も夏休みだとまるで違ったものに見えて退屈はしなかった。

 生徒のいない夏休み。

 校庭からは地区予選を順調に勝ち抜いて勢いのある野球部の掛声や、サッカー部のホイッスルの音が響いているのに対し、校内は水を打ったように静まり返っている。合唱部は休憩中なのだろうか、先程のような歌声は届かない。

 誰もいない学校。

 廊下を歩く鉄の足音が冷たく響いて大きく聞こえる。


「ん?」


 だが、誰もいない筈の校内。鉄はふと記憶にある独特の匂いに足を止めた。

 少し見回すと、廊下の突当たりの窓から一筋の紫煙が伸びている。煙草の煙だろうか。

 喫煙家には厳しいこのご時世。学校という場も、未成年に影響を与えるという事で、校内全面禁煙を唱える所も珍しくない。鹿魚高校もその一つだ。

 つまり、そこで誰かが禁じられた煙草を吸っているという事になる。

 しかし鉄にとって関係ない行為。関係ないのである。それなのに気にかけてしまうのは、この窓の真上が職員室のベランダとなっている所為だろう。

 そして、そんな愚行を犯すのは夏休みと油断している生徒だろう。

 夏休みといえど教師は出勤して来るのに……。


「おい、そこの誰か。此処での喫煙はすぐ見つかるぞ」


 余計なお世話と思いつつ忠告して窓から顔を出す鉄。そして、それがお節介であったというのを、鉄は身を持って知る事になる。


「マジで!? いやぁ、悪いなぁ。誰か知らんけど、どうもすみま――」


 不意に降って来た声に、男は慌てて煙草の火を揉み消し振返る。


「せん……」


 切れた言葉の終りを繋げて、男は鉄を見て絶句した。それは鉄とて同じであった。

 淡い栗色の長い髪を、ヘアバンドで押さえまとめた髪。

 目付きの悪い三白眼。

 口から覗く八重歯。

 忘れたくても忘れられない因縁の男。

 鉄が中学一、二年と雌雄を決した相手。

 その顔も名前も嫌という程覚えている。


「塚本……お前、此処に通ってたのかよ……」

大和屋やまとやこそ、何で……」


 互いの口からついて出る言葉は、驚き。その後、お節介な自分の行いを悔いた鉄だった。



 * * * * *


「ウロちゃんって、二組の塚本と同棲してるんだよね?」


 一方、音楽室では合唱部の女生徒一人の発言を引金に、一同から期待を込めた視線を浴びるウロがいた。


「い、居候として厄介にはなっているが……何か?」

「何って……ねぇ?」


 顔を見合わせ、含み笑いを浮かべる女生徒達。その内の一人が代表で窓辺に腰掛けるウロの前に進み出た。


「ウロちゃんと塚本って、付き合ってんの?」

「……は?」


 ウロの目が丸くなる。


「何故そんな話になるんだ?」


 ウロにとって、全く根拠の見当たらない話題に困惑すると、少女達は愉快そうに笑った。


「何でって……普通、男の子と一緒に住んでたらそう思うよ~。常識じゃん」

「そ、そうなのか」


 初めて聞く常識に、ウロは空笑いで困った表情。そんな反応がツボにハマったのか、更に少女達は話に花を咲かせ始めた。


「ってゆうか、今日塚本がウロちゃんこっちまで連れて来た時の見た?」

「見た見た! 荷物みたいに小脇に抱えてさじゃあ、面倒頼むって言った時でしょ!? 甘いよね!? マジ砂吐くっ」

「でも変に絵になってさ」

「分かる! 普段、無愛想な塚本が苦笑すんのがカッコ良かったもんね!」

「思った! 笑うと可愛いのっ」


 それはそれはよく動く口だと、ウロは感心しながら見ていた。

 話を聞けば、意外に鉄はモテる事を知り、揶揄う情報を得ながら耳を傾ける。楽しそうな笑い声が、聞いていて心地も良かった。


「あ~、でもあたし、塚本はてっきり玉浦さんと付き合ってんのかと思ってた」

「玉浦って生徒会の? 違うよ、アレは向こうの片思いらしいし」

「そうそう。双子の実の兄と塚本を取り合って修羅場だって聞くし」

「えー、だったらあたしは断然玉浦君の方を応援するね!」


 他人の恋は蜜の味。

 ウロは、どうして恋バナで鉄と奏を応援するのか理解に苦しみながら、はしゃぐ空気を満喫する。だが、小気味よい会話も空気を叩くような切れのいい手打ちの介入により、少女達の会話は途切れてしまった。


「はぁい! 一年生、さぼってないで練習再開っ。パート毎に分かれて声出しするするっ」


 散った散ったと犬を払うように手を振るのは、今まで私用で教室を出ていた合唱部の部長の菜月であった。


「残念。ウロちゃんまた後でね」


 彼女の号令一つで、少女達は残念そうだが文句なく練習に戻っていく。それは、一重に部長の人徳だろう。


「すみません、ウチの部員達の身のならない話に付き合わせちゃって。でも元気でしょ? ウチの部員達」


 人だかりのなくなったウロに近寄り、菜月は申し訳なさそうに笑った。


「悪気はないので許して下さい」


 そう言う彼女はウロより年下なのに、まるでに姉のように目を細める。


「許すも何も……私も面白かったし」

「良かった」


 安堵の息をつく菜月が優しく微笑む。


「突然先生が講師とか頼むから迷惑じゃないかなって思ってたんです。だから、部員と上手くいってると嬉しいです」


 彼女なりにウロを気遣っていたのだろう。ほっと胸を撫で下ろす姿に、ウロも安心した。


「私はむしろ喜んだぞ? 此処にいていい理由が出来た気がしたから」

「え、あぁそうですか……」


 ふと虚ろに呟くウロを、菜月は訝しげに見つめる。ウロは、菜月にふんわりと微笑んで静かに歌いだした。

 沈黙ではなく、歌う事で何かを誤魔化した。

 静寂を奏でるようなカンツォーネ。

 夏の風に溶けるような涼しいウロの歌声が何処までも木霊した。



 * * * * *


 鉄より更に上背を行くその男は、土足で窓を越えてそのまま縁に長い足を組んで座った。

 そして、そのまま立腹した様子で鉄を睨みつける。


「まずは久しぶり」

「――あぁ」


 鉄は気まずそうに、面倒臭そうにその視線から目を逸す。


 目の前にいる男、名を大和屋寿喜(ヤマトヤナガノブ)といい、鉄にとって友人でなく知人とも形容したくない相手である。

 住む場所も学校も違う二人の接点は、中学時代の空手の大会だった。

 互いにエースを張る二人は、二度、全国を懸けて雌雄を分けた仲で、俗に、ライバルと言った関係だ。鉄はあまり認めていないが。


「今年からお前が高校に上がると待っていたのに、前の大会、何処にもいなかったな。逃げたんじゃなかったのか?」


 口の端を下げ、眉間の皺を深く刻む質問は、鉄の着る胴着に向けられていた。


「今日から正式入部なんだよ」

「何で今頃」

「続ける理由もなかったけど、拝み倒されて折れたからだ」


 投げやりに答える鉄。それが余計に寿喜を煽る結果になると知っていても、その態度は正せない。


「続ける理由ならあるだろっ。お前は俺の唯一の黒星なんだからよ! 勝ち逃げする気か!?」

「戦績だけ見りゃお前の勝ちだろうが!」

「阿呆か! 最後の試合で負けたら、お前の方が強くなったみたいだろうがっ!」

「強いんだよ! 分かったら諦めろ」


 案の定、白熱してくる喧嘩腰の寿喜に鉄はうんざりと耳を塞いで対応した。

 鉄の記憶の限りでは、寿喜はいつだって勝負にこだわる熱血漢で鬱陶しい存在だった。それは再会した今も健在なのが至極残念だ。


「つうか、お前がいるって事は威王なのか?」

「あぁそうだ。だから後で再戦な!」

「喧しいな。わざわざ他校でさぼって煙草吸ってる奴に負けるかよ」


 思わず売り言葉に買い言葉が出た。てっきり寿喜が反応して更に喚くのかと思っていたが、そうではないのに空振った気持ちになる。


「……それは……ヘコんでる時は仕方ないじゃんか……」


 どういう訳か、落込まれてしまった。

 喫煙が、ヘコんでる時の行動なのかはともかく、急に士気をなくす寿喜に張り合いを失う。

 いまいち状況は掴めない。が、落ち込んでいる人が例え苦手な相手でも気を使ってしまう。少なくとも鉄はそうだった。


「な、何か分かんねぇけど元気出せよ、な?」


 どんな気の効いた言葉をかけたらいいのだろう。というか、何故こんな他人の面倒ばかり見ないといけないのかとか内心思いながら、鉄は寿喜の背中に喝を入れてやる。

 勿論、一応ライバルの鉄の励ましが効くとは思わないが、ないよりはマシな気がした。


「……はぁ」


 当然と言うべきか、寿喜は浮上しない。重い沈黙だけが流れる。

 この息の詰まる空気がどのくらい啄くが鉄は危惧したが、案外すぐに沈黙は破られる。歌声が届いて来たのだ。


「歌……」


 小さく呟く寿喜の声を聞いた。寿喜は、態度を一変して立ち上がる。


「歌が……聴こえる……」


 何を驚くのか、此処まで伝わって来た歌を耳に寿喜は目を見開いて固まっている。


(ウロの声だよな……)


 一体それがどうしたのか、寿喜は茫然自失と覚束ない足取りで歩き始めた。さながらハーメルンの笛吹き。その動向が気になる鉄も寿喜の後を追う。

 まさかウロの歌声に当てられたとでも言うのだろうか。

 奏辺りが、人魚の歌声には人を惑わす力があるよとは言っていたが、まさかそんな訳がある筈ない。

 馬鹿な説を打ち消し、寿喜を見る。寿喜はたどたどしくもウロの歌声だけを頼りに、土地勘もない他校の音楽室のあるフロアまで辿りついた。

 音楽室を見付けた。寿喜は確信を持って早足に進む。


「おい! 大和屋っ」


 背後から見ても荒々しい寿喜の背中に鉄は怒鳴った。様子がおかしい所じゃない。何処か常軌を逸している。


「大和屋っ」


 寿喜を制そうと鉄は手を伸ばしたが、僅かに届かなかった。ドア枠を叩いて開く扉の音が歌声を相殺する。

 しんと静まる音楽室。

 合唱部の女子達が何事かと怯えた目で侵入者を見る。寿喜はそんな視線など歯牙にもかけず、ただ一点だけを激しく睨んだ。

 緊張で張り詰める空気。視線の先にいた者は楽譜を零し、唖然と硬直する。


「探したぞ……」


 静かに怒りを湛えた声が微かに震えている。


「ウロ……」

「ナガノブ……」


 この時のウロの顔を鉄はよく覚えていた。初めて出会った時の、生気のないあの表情かおだった。



 * * * * *


 例えば、こんな状況。

 女一人に男が二人襲来すれば、それはもう普通の乙女なら出歯亀上等な修羅場だろう。

 そんな真昼の泥沼ばっち来いな修羅場見世物に備え、合唱部の少女

が用意した部屋は音楽室隣りの楽器保管室。

 そこにウロ、寿喜、そして鉄まで交えて三巴で睨み合う。気を利かせたつもりの合唱部員達は扉の隙間からしっかりと三人を覗いていた。

 どことなく緩くなった緊張感の中、まず寿喜が口を開いた。


「つか、何で塚本がいんだよ!」


 話そうにも彼にとって部外者の鉄は邪魔な存在。意見は最もだと頷きつつ鉄は腕を組む。


「でも一応、保護者? だし、俺」

「なっ!?」


 鉄が答えると、寿喜はどういう事だとウロに視線で問う。


「なんだ鉄はナガノブと知り合いか。なら話は早い。ナガノブ、私の居候先の鉄だ」

「いそっ……!!」


 先程見せた狼狽の「ろ」の字も見せないウロの態度に、寿喜の何かが切れたらしい。


「ど阿呆かーっ! 失踪したと思ったらよりによって男の家に世話なってたのか!? 馬鹿か!? お前、知ってたけど馬鹿か!? 何も……何も変な事されてないよなっ!?」

「変なって、何だ」


 目を血走らせ、鬼気迫る形相で肩を掴まえる寿喜の手を振りほどき、ウロは冷ややかに一瞥する。


「痛い」


 顔を歪めるウロは、寿喜と視線を交わそうとはしない。


「塚本、マジで何もしてないよな?」


 返答次第では……と殺気が籠る寿喜に鉄は首肯する。


「てか、コイツを女として見る方が無理だし」

「はぁっ!? お前の目は節穴!?」

「あ?」


 付いて出た、声量ある寿喜の声が狭い楽器室に木霊する。

 一瞬の変な間。寿喜も失言に気付いたか、誤魔化すように咳払い。


「あ、ウロ、別に深い意味ないから……」

「意味って?」

「あ……いや……」


 首を傾げるウロに、複雑そうに安堵した寿喜の肩が落ちる。


「分かってないね、アレ」

「うん。分かってないよ、アレ」


 中の様子を盗み見ていた少女達が口々にウロと寿喜のやり取りを唱えた。


「鈍……」


 つい鉄まで零してしまった。鈍いと言われる鉄でさえ気付いた、寿喜のウロに対する特別な感情。見れば筒抜けなのに、ウロは全く欠片も察していなかった。

 気の毒な寿喜に思わず合掌。


「と、とにかくウチに帰るぞっ」


 空振りを仕切り直すように、寿喜はウロの手を取る。


「やだ」


 けれど簡素な拒絶でその手を振り払うウロ。


「ウロ……」

「嫌なものは嫌だっ」


 優しく諭そうにも、頑として首を縦に振らないウロに怒りを募らせる寿喜だが、不満なのは彼だけじゃなかった。


「大体、初めに家出を持掛けたのは寿喜からじゃないかっ」

「……っ」


 ついにウロから口火を切り出した。それは寿喜の心を抉るには十分な効果があったようで、あからさまな動揺がしかと取れる。


「まだ、帰らない」


 俯いて、スカートをギュッと握り、ウロは寿喜を真っ直ぐと見据えた。


「それは、塚本の所為か?」

「は?」

「……」


 何故か引き合いに出される自分の名前を聞いて驚く鉄。ウロは何も言い返さない。

 何も言えないのか。

 言いたくないのか。

 頑に口を結んで縮こまる。説得は無理のようだ。


「……仕方ない」

「うわっ」


 ぼやくのと同時に寿喜が椅子替わりに用意された棚に腰掛けていたウロを抱き上げた。元々歩けないウロだ。逃げる手段など初めからない。つまり、彼女には非道だが、寿喜なりの強行手段だった。


「観念しろ」

「やっ、嫌だ! 離せ寿喜っ」


 ウロの必死の抵抗空しく、振り回した腕はさほどダメージを与えられない。


「塚本、一応世話になったな」


 ウロを抱き上げた寿喜が鉄に一言返す。言葉とは裏腹に、感謝の色が見えないのが鉄は引っ掛かった。


「嫌だ……」


 寿喜に抱えられたウロが、泣き出しそうに訴える。寿喜は聞こえないふりをする。そしてそのまま歩きだすと二人は鉄の横を過ぎて行く。


「まだ……嫌だ……鉄……」


 か細い声に小さな反抗。

 救いを求めた右手を未練と呼ぶのだろうか。

 鉄は、寿喜に抱えられて過ぎ去ろうとする腕の温もりに触れながらそう思った。

 帰りたくないウロの最後の抵抗。

 ウロは寿喜の背中越しに、鉄の腕を掴まえていた。

 縋っていた。


「……まだ、帰りたくないんだ……」


 寿喜にではない。ウロは鉄に伝えた。


「まだ、此処にいたい……」


 いつも生意気なウロからの弱々しい姿。普段から強気だからあまり気にもかけなかったが、歩けないウロに抗う力はないのだ。

 力に抗う力を持っていない。

 鉄を掴まえる細い手を見ればすぐ分かるのに分かっていなかった。


「分かったよ……」


 鉄は僅かに舌打つと、寿喜の腕からウロを奪い取る。


「おいっ」

「俺が拾って世話したんだ。事情の一つくらい聞いたっていいだろ」

「いいだろって……」

「大体、歩けないウロの家出の詳細が不明の所為で浮上する人魚説に辟易してたんだ」

「にん……何だって?」


 ツッコミかけて寿喜は思い留まる。此処で相手のペースに飲まれる訳にはいかないようだ。


「ナガノブ……」


 なのに、頼りなげに鉄にしがみつくウロと目が合うと、心が折れかけているのは鉄から見ても明白だった。


「……俺、塚本の顔がマジ気に食わねぇ」

「あぁ?」


 何故に今、男に顔の善し悪しを言われなければいけないのかと鉄は顔を顰める。ウロは寿喜を悲しそうに見つめている。

 寿喜は諦めたか、長く深く息を吐いた。


「明日、改めて話そう。此処に残って、お前が幸せになれるとは、俺は思わないけど……」

「ナガノブ……」


 今日は引くのだと答える寿喜を見つめ、ウロは何とも言えない顔をする。寿喜が去った後も、ウロは鉄と目を合わせないまま、じっと抱えられたまま。


「……すまない」


 小さな声の謝罪は誰に向けた言の葉か。涙を堪えるように縮こまるウロに対し、鉄はかける言葉も見つけられない。

 そんな、少し不甲斐ない夏休みの始まり……。

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