第5話 歌が災厄になる話
朝霧の町の中を小刻みにスニーカーの音が行く。
年寄りの住まいが多い、通称実家コースの通りに影二つ。
「此処が小西の婆さん家。小学生相手に駄菓子をよくくれる」
小西という表札が掛かった古い木造式の家を、鉄が指を差して教える。
「小西、婆さん、駄菓子。よし覚えた」
指差し確認で唱えながら、ウロが鉄の肩を叩いて合図する。
「そこは臼田の爺さん家。庭の桑の実は……もう少し待つか……」
草木の生い茂った広い庭が目立つ家。塀から垂れる枝になる桑の実を見上げながら、鉄がぼやいた。
鮮やかな紅い粒の実。紅黒く熟する時期を見定めているのだろうか。
「……しぶい」
試しにもいだ実を口に含んで、ウロの顔が歪む。
「だから早いんだって」
鉄は更に足を進めて、名家と言った印象の古い家でまた足を止める。
「で、猪山さん家の正月につかれるきな粉餅が絶品で……」
「お前の町紹介は食いしん坊万歳かっ」
そこで初めて呆れた口調でウロがツッコミを入れた。
「仕方ねぇだろ。此処ら通りはそういう思い出が多いんだよ」
言い訳めいた鉄の声に、ウロは仰々しく溜息をついて指折り数える。
「昨日は確か漁港の案内で、漁師さんから捕れたての魚の刺身を貰った話。その前はお稲荷さんのお供えを――……」
「煩い! 大体、朝飯前にこうやって歩かされりゃ食い物の話にもなんだよ」
流石に指摘されると恥ずかしいらしく、唇を尖らせそっぽ向く鉄。
「あ~、でも確かにお腹空くなぁ」
奥でぐるぐる鳴る腹部を擦り、ウロは目を閉じて空を仰いだ。
辺りからはまばらに朝食の仕度を始める音と共に、良い香りが立ち出す。穏やかな一日の始まりに、ウロの顔が綻んだ。
だから朝の散歩はやめられない。
こうして人々の生活を垣間見、外の空気に触れられる事が何より幸福に感じた。
「てか、何でわざわざ朝なんだよ。紫外線気になるなら夜でもいいじゃねぇか」
「夜は虫が飛び交うだろう?」
虫が苦手らしく、顔を歪ませるウロの言葉に欠伸が出る鉄。
「たかが虫の為に五日も早起きさせられたんじゃ堪んねぇよ」
「お陰で規則正しい生活が送れてるじゃないか」
「よかねぇ。寝不足だ」
また欠伸。
何の因果か、こうして歩けないウロを背負っての散歩が日課になりつつある五日目。ウロが来て七日目の朝にあたる。
散歩の時のウロは、実に楽しそうな顔をする。何が面白いのか、何もない町の案内を喜んで受け、鉄を急かしては外に出て行く早朝。
「お、みすゞ舘か。どうやらもう一周したようだな」
見えて来た特徴的な赤茶けた屋根を指差し、残念そうなウロの声。
「やっと飯にありつける」
鉄の鼻に、みすゞ舘からの朝餉の匂いが漂って来た。
「やはり日本の朝は味噌汁だなぁ。鉄、急げよ?」
「へいへい」
うっとり鼻を利かせ、背中を叩いて鉄を急かすウロ。
人の苦労も知らないで……。
諦めたように肩を落とし、鉄はウロを背負い直しながらみすゞ舘の門をくぐるのだった。
「ただいまぁ」
木製の大きな扉を開くと、より一層漂ってくる香ばしい匂い。炊きたてのご飯と芳醇な味噌の香りに、焼いた魚の香りも混ざる。
因みに。
みすゞ舘の朝食は港が近い為か、魚が定番の和食が多い。
「朝食は皆で」が管理人、三鈴の掲げるスローガンであるみすゞ舘は、ご近所関係、他者との交流不足が叫ばれる昨今とは無縁だ。無論、今ではウロもその一味に加わっている。
「おかえり。朝ご飯すぐだから座って待っててね」
朗らかに笑う三鈴は、十代のようにあどけない容姿だがこれでも三十路越え。熟練した主婦が如きの手際で、味噌汁を鍋ごと運んで来る。
「三鈴さん、今日の魚は何だ?」
「鯵の塩焼きよ」
期待して尋ねるウロが可愛いのか、三鈴の笑みは三割増しに輝く。すっかり定着した各自の席につき、ウロはよそわれたご飯を見て嬉しそうに茶碗を手に取った。桃色の陶器の器に、白い兎の絵。朝来が昨夜「お土産」と贈った初めて使うMy茶碗だ。
本当に何が幸せなのか、ウロはこの時間は終始笑顔を絶やさない。だからなのか、みすゞ舘の女性陣のウロに対する扱いは友好的だ。
ありさや由美は、裸一貫だったウロに不便がないよう、服や下着、日用雑貨を買い与えた。
実は人見知りする気のある藤子でさえウロだけは最初から友好的だ。朝来に至っては嫁か娘が授かった気分らしい。
とにかく、今のみすゞ舘はウロを中心に回っている訳で。計らずとも鉄もその内の一人に数えられている。
「で、それから鉄はナマコの悪夢に苛まれてさぁ~」
「あれは今でも語り草よねぇ」
「アンタら、人の恥露呈して楽しいかっ!?」
大半は鉄の恥ずかしい昔話で巻き込まれている。
「ほぉ、鉄はナマコが嫌いか~」
「そこで和むなウロ!」
「何を! 今のお前からは想像もつかない可愛らしいエピソードじゃないか」
テンポ良く掛け合い言い合う二人。勿論、面白い話には食らい付くピラニアのような住人はその瞬間を逃さない。
「おいおい。見せつけるんじゃないよ」
「そうそう。もう少し慎みを持ってね?」
「先生達までからかうなって」
「そうよ、鉄。母さんが仕事でいないからって、騒音立てて隣の部屋のありさに迷惑かけないでよ!?」
「アンタも母親ならありもしない発言で息子をいたぶるのはよせっ」
比較的まともな由美とありさまで便乗する話題に、悪のりする実母に鉄は怒鳴る。
このように、みすゞ舘の朝は鉄にとって穏やかとは程遠い時間になったのである。そんな朝でもウロにとっては楽しい時間らしいから、いつも鉄は仕方なしに諦めているのであった。
みすゞ舘でいつものように揶揄われた鉄。
そんな、鉄の唯一の安息の地と思われた学校にも災厄は待っていた。
「や、鉄。土日はウロちゃんと仲良くしてたのかしら?」
「――奏」
教室に入るなり満面の笑みで迎える奏を見て、鉄は明ら様に嫌そうに肩を落とした。そこに安息がないと悟ってしまったのだ。
「鉄、どうして美少女を拾ったって僕に教えてくんなかった訳?」
奏の笑顔の裏に潜んだ仄かな闇に、鉄はビクッと顔を歪ませた。
「いっ、言ってなかったっけ?」
「言ってない。可愛い子だったって響が言ってたんだけど? 何? そんなに僕に秘密にしておきたかった?」
「秘密っつか、話がややこしいから後延ばしにしてたって言うか……」
笑顔だが鬼気迫るものを感じる奏に、鉄は気圧されながら後ずさる。
言い訳は見苦しいが、鉄は奏にはなるだけウロの事は伏せておきたかったのだから仕方がない。
一見、美少女のような甘い顔の優男も一皮捲ればみすゞ館属性。鉄を揶揄う要素を見付けたら、これでもかと飽きるまで嬲り続ける猫のような嗜虐性を秘めている。きっと秘密の多いウロは格好の良い餌食だ。
鉄は奏の今までの悪業を反芻しながら思わず身震いした。
「……響だな?」
情報源を確認するように鉄が聞くと、奏はニッコリ人の良い笑みを浮かべる。
「可愛い妹がね、本気で勝負仕掛けたいから協力してくれって」
「……」
「僕もね、鉄が女の子拾うのがきっかけかなって思ったからさー、新たな第三者の介入があるなら今回は傍観はやめようかなって思った訳だよ。公平にね」
どんな理屈だよ。
ツッコミたいが、見た目によらず鉄以上に喧嘩の強い奏に逆らえなくて無言で続きを待つ。鉄も決して腕っ節がない訳ではない。むしろ恵まれたガタイに空手有段者ともあり、部活内でも実力者なのだが奏がそれを上回るのだ。
かつての鹿魚(しじな)中の妖精魔王は奏は人差し指を唇にあて、小悪魔演出に微笑む。
「だから、放課後、二人で押掛けるから……ね? 鉄ちゃん」
悪魔の微笑だった……と、後に鉄は語った。
* * * * *
燦々と照り付ける太陽の元、海猫がさも至上の幸せと言わんばかりにニャーと鳴く。
「にぁぁぁ~」
その鳴声を恨めしそうに真似ながら、ウロはゴロンと寝返り打った。
相変わらず暇な日中。
三鈴と藤子が階下に居はするのだが、彼女らだって終始ウロに構ってやれる訳ではない。昼食を終えたらそれなりに彼女らの仕事もあるのだ。
「暇だなぁ~ナガノブ……」
ウロは真新しい白い生地が眩しい兎のぬいぐるみに話しかける。
今朝、三鈴から贈られたギャング☆スターシリーズの第二作だ。無論、今回も三鈴のぬいぐるみは世の中を荒んだ目で映している。
余談だが、第一作は熊で、ウロは「タカヤス」と名付けている。
「せっかく覚えたぬいぐるみ作りは鉄のケチがやるなって禁止令を叩き付けるし……」
見上げれば、鉄の部屋の電気コードの紐に繋がれ首を吊るうろんなライオンのマスコット。鉄曰く、呪いのライオンである。
ウロの新たな趣味として始めたぬいぐるみ製作は「トラウマになるから」とやめさせられる原因となった、件のライオン。
「何が気に食わないのか……」
己のセンスのなさには微塵も気付かず、ウロは息をつく。
「暇だな~」
ゴロンと寝返り、何度目かのセリフを繰返した。ひんやりとしたフローリングに頬を冷やし、普段は見ない部屋の隅を目を配る。
例えば、鉄のベッドの下。
一見綺麗に掃除しているが、端の方には案外埃が溜まっていたり。
「でもエロ本は置いてないなぁ」
つまらなさそうに舌打ち。
「ん……?」
ふと、奥でチカチカ光る物を見付けた。ベッドのヘッドボードから真下に、何か平たい物が立て掛かって佇んでいる。プラスチックの鈍い反射。
手を伸ばせば、ウロでもギリギリに届くその位置に、埃を被って忘れられていたような物が出て来た。
「CD?」
ジャケットもない、ケースも古い一枚のCDにウロは首を傾げた。
「何のCDだか」
相当古いのだろう。
ケースは後から百均だか何だかの雑貨で購入したような物で、ディスク本体にデザインされていたであろう文字は既に擦切れて読めない。
「何が入っているのか……」
中身が分らないと余計に気になるもの。
ウロはいそいそとベッド脇の、鉄のコンポに向かい合う。メタリックブルーのリモコンで操作し、虹色の光沢のディスクを収めた。後は中身を確かめるだけ。
そして、優しい音色が空気を震わせた。
「詰まった……」
一方みすゞ舘談話室では、目の下の隈を際立てさせた締切前の小説家が、げっそりと朝よりやつれた風体で部屋から出て来た。
「お疲れね。珈琲飲む?」
無言で頷くだけの藤子の為に、三鈴は甲斐甲斐しく席を立ち、管理人室のキッチンに入った。
「原稿、上がらないの?」
「全然。御伽話をパロッた官能って、簡単そうでどう書けばいいのやら……」
地獄だ……と突っ伏す藤子の頬に、グラス注いだアイス珈琲を差し出しながら、三鈴は吹き出す。
「好きで始めたお仕事でしょ?」
「そうだけどそうだけど! ネタが出ないから息抜きも必要なのっ」
だからウロと遊ぶのよ!
当初の目的を思い出したのか意気込む藤子を尻目に、三鈴はこっそり溜息を吐いた。
「締切は?」
「さぁ! 何して遊ぼっかな~」
聞こえてないのか、聞こえてないフリなのか、張り切って二階に上がる藤子の姿に三鈴は一抹の不安にかられる。追い詰められた小説家はなりふりかまわなくなる。新人のウロがそのテンションに連いて行けるかは不安だった。
「程々にね」
「気が向いたらねぇ」
はっきりしない答え。仕方ないので三鈴も目付け役として、一緒に塚本宅へと階段を上がるのだった。
しかし、すぐに足を止める。
「……何かな?」
先に疑問を浮かべたのは藤子。
「……歌?」
心地の良い音色に耳を澄し、三鈴が意見を述べる。
音源は二階から。ウロしかいない筈の階上である。透き通り、響き渡る心惹かれる歌声に二人は顔を見合わせ、こっそり階段を昇った。
一段上がる度に、一段近付く度に歌声の神秘性が増して行く。
やはり音の発信源は塚本宅からで、締まっている扉を隔てていても美声は届く。
「……ところで何の歌?」
「多分、アヴェ・マリアじゃないかしら?」
藤子の質問に答えながら、三鈴はドアノブに手をかけた。まるで宝石箱を開けるような緊張感が胸をつく。
扉は音もなく開いた。
否、実際は音はあったのだが、そんな音は気にならなかったのだ。
歌声は風のように押し寄せた。
天使の歌声と言うのか、圧倒されて仕方ない。
窓辺にもたれ、歌唄うウロ。
夏の光が後光のように差す。
あの小さい体にどれだけの声量を秘めているのか。
二人は一言も発する事が出来ず、ただ息を飲んで聞き入った。
魂が揺さぶられる。
そんな感覚。
ほぉっと息をついて歌が終わると同時に、二人は千切れんばかりに拍手を贈った。
「わっ! 三鈴さん、藤子さんっ」
余程熱中して歌っていたのだろう。びくりと肩を震わせ、ウロはおどおどしながら二人を凝視した。
尻込みも当然だ。
気付けば涙も鼻水も大量に流す姿が並んでいれば驚くのも無理ないだろう。
「ど、どうかしたか?」
「どうじゃないわよ! 何なのあの歌声!? アンタ何者!?」
「何者って、私はただの……」
何故か藤子に怒鳴られ、ウロは反射的に涙汲む。
「藤子ちゃん藤子ちゃん、ウロちゃん怖がってるからっ」
「うん、感動で興奮して……」
冷めやらぬ熱を抑えられぬ藤子がウロを力いっぱい抱き締める。
「嫁に欲しいわぁ~」
「えぇ!?」
戸惑うウロを面白おかしく眺めていると、階下で騒がしくチャイムが鳴り響く音を聞く。流石管理人の三鈴は反応速く、藤子に「程々に」と忠告してから下に向かった。
「三鈴ちゃん、今、貴方の所から物凄い歌声が聞こえたんだけど、どなたが歌ってたのかしら?」
よろしければその方に会わせていただけないかしら? と、みすゞ舘に尋ねて来たのは斜向かいに住む坂田さん家の奥さんだった。
婦人会の副会長で、ママさんコーラスソプラノリーダーを務める精力的に活動する主婦の勢いは、ある意味みすゞ舘の住人にヒケを取らない。
三鈴の承諾を聞く前に上がり込み、あっという間にウロを探し当ててしまった。
鹿魚の町では、近所のよしみでプライバシーのない場合が多々発生する。少なくとも坂田の奥さんにとってはそうらしい。
白髪染めで仕上げたハニーブラウンのパーマがかった髪をまとめ上げ、若作りのお洒落なマダム坂田はうるうるとウロの手を包み取る。
「お嬢ちゃん、お名前は?」
「えと、ウ……ウロ、です」
「年は幾つ?」
「は、二十歳になりました」
「合格っ!」
とても四十代後半から出て来るとは思えない力あるガッツポーズをすると、坂田の奥さんがにんまりと悪女の笑みを浮かべて言った。
「ウロちゃん、鉄君と結婚しなさい」
「はっ!?」
あまりに唐突で無茶なセリフに三鈴と藤子も空いた口が塞がらず、返す言葉も見つからない。まるで台風の目に入ったかの沈黙が暫し続く。
ウロはぼんやりと己の頭の中の辞書から「結婚」の二文字を引いていた。
とてもよく晴れた午後の出来事である。
* * * * *
海辺に影が三つ伸びて行く。
小学生の頃より断然成長した三人の影は一番大きな鉄を真ん中に、両脇を取り合うように奏と響が固める。昔からお決まりのポジションだ。
「何か鉄の家って久しぶりだなー」
左腕を絡めて、響がしみじみと呟く。
「そういや僕も暫く鉄の部屋にエロ本仕掛けに行ってないや」
「それはいらねぇから」
右腕に絡む奏にしかめ面で鉄は溜息。期末テストも終え、気分は清々しい筈なのに鉄の顔色は憂鬱。というのも、ウロを一目見ようと双子が同伴帰宅しているからだ。
奏は興味本意。
響は敵情視察。
何度も説明している通り、鉄とウロに一切の恋心はないのだから昼ドラばりの泥沼になるなんて有り得ない筈なのに拭いきれない不安は何だろう。鉄は生唾を飲む。
問題は、この状況をより悪化させると危険性の高いみすゞ舘の住人の人を煽る発言だ。危惧するとしたらそれだった。気持の整理がつかない鉄としては、響との曖昧な関係を悪化させたくはなかった。
みすゞ舘に続く坂道を上りながら、また溜息。
街灯に明りが灯っていく。穏やかに一日が過ぎようとする黄昏時。しかし、何故か三人が向かうみすゞ舘からは賑やかな笑い声が聞こえてきた。
近所迷惑にも近い騒ぎである。
「なんだ?」
首を傾げたのは鉄。奏と響も何事かと顔を合わせた。
「あーら、鉄ちゃんが帰って来たわよぉ」
おばさんのシナを作った声の直後に、クラッカーの爆発音が耳を貫いた。色とりどりの紙吹雪が宙を舞い、ハラハラと鉄の頭に降り注ぐ。
「坂田さんまで混じって何の騒ぎだ?」
驚きを隠せず、瞬きを繰返す鉄ににんまりと笑ったのは坂田の奥さんだ。
「はぁい、新郎ご案内~」
「はぁ!?」
ぐいぐい背中を押され、鉄が談話室に通される。取り残された奏と響も首を傾げ、後に続いて入る。
この騒ぎは何なのか。
問えば彼女らは平然と答えるであろう。
嗅ぎ慣れたアルコール臭。
散乱する空き缶と瓶。
散らばったツマミの袋。
まさしくそれは宴会の姿。
何をしていると問えば、「宴会」と返す。
その宴会はみすゞ舘のメンツ他、何故か婦人会の皆々様。
それは何の宴会か、頭を痛めて鉄は大きく息を吐く。
「誰かこの状況を説明してくれる方ー」
酒の勢いに任せてはしゃぐみすゞ舘メンバーらに投げ掛ければ、代表で起立したのは体育会系由美だった。
「由美、言いまぁす! この宴会は鉄ちゃんとウロの婚約パーティーでありましてぇー……ありましてぇー、えーと、おめっとざーすっ!!!」
「待て待て待て! 誰と誰の何だって?」
「……本日はお日柄もよく、二人の婚約披露にご出席頂き誠にありが……」
「ありささんまで真面目にボケてっ」
酔っ払いの戯言に付き合いきれない。まともな人間を探して、鉄は素面のウロを見付けた。
「ウローッ!!」
「ひゃあっ!」
怒ればいいのか、呆れたらいいのか。判断に悩む鉄はとりあえず声を張り上げる。その声に驚いたウロが啄んでいたフルーツカクテルを零した。
「何をする!?」
「されたのは俺の方だ! 何の騒ぎだこりゃ!? 新郎って何だ!?」
「知らないのか? 新郎は旦那さんの事だ」
「そういう話を聞いてんじゃねぇよっ」
ぎゃあぎゃあぎゃあぎゃあ喚く二人。酔っ払った近所の婦人会のギャラリー含むみすゞ舘の面々は、生暖かい目でその様子を見守った。
「何よぅ鉄ぅ、もう夫婦喧嘩? 母さん、嫁いびりする間がないじゃない」
「うっざ! そんで酒くっさ! おい酔っ払い、婚約とか夫婦とか本人抜きで何始めてんだよっ」
「……そうよね。分かりやすく説明をいただかなきゃね」
「っ!?」
生暖かい視線とは正反対の凍て付く視線に鉄は固まった。
忘れていた。
客人を同伴して帰宅していた事を。ウロを見ようとやって来た小姑兄妹がいた事を。その内の一人が自分に好意を寄せている事を。
そうだ。
響がこの状況を見ればどう思うだろう。
ウロとは何の関係もないと言っておいてこの有様だ。
無関係を証明する所か、取り付く島もない。
「朝来母さん。私、鉄がどうして婚約するのか気になるんですが……」
「あら響ちゃん、いらっしゃい。聞いてくれる? 面白い話なの~」
「そうですか? 私は全然全くちっとも面白くないんですけどね」
愛らしく微笑む響。だが、微塵も揺るがない冷徹な瞳がその場の空気を一気に氷点下に突き落とす。
これには流石のギャラリーも黙った。
ウロも半分泣きそうに丸くなり、フルーツカクテルどころではない。兄の奏でさえ笑顔が硬直しているのだ。鉄に至っては生きた心地がしない。
「質問、答えて下さいね」
にっこり。
愛らしい笑顔も、目が笑ってなければ凍て付くツンドラ気候。八甲田山雪中死の行軍。
* * * * *
澄んだ薄い青が空に敷かれた。
本日も晴天なりと、鉄の背中でウロが呟いて、大きく深呼吸する。
「……喉がイガイガだ」
呼吸に噎せ、喉の痛みを訴えるウロに続けて鉄もぼやいた。
「歌いすぎだ、バカヤロー」
昨夜の惨事を思い出すだけで頭の痛くなる鉄は、ツッコム声にも覇気がない。
「お前、実はお人好しだろ」
「鉄に言われたくない」
ムッとして返しながら、ウロは小さく咳をした。鉄は小さく息を吐く。
「ママさん、コーラスに入る為に結婚とかがそもそも馬鹿なんだ」
「違う! 偽装婚約の後、解消するんだ」
「どのみち俺に迷惑しかねーじゃねーか」
唇を尖らせ、ウロを持ち直す。
抵抗も薄れつつある、この早朝の散歩、六日目。鉄にとってこの六日目の朝がとても長かった。長い夜だった。
勝手に婚約パーティーを開かれ、響が切れて大波乱。
何とか説明をして事なきを得たが、その後は玉浦兄妹も交えての大宴会。それは真夜中まで続いたのだ。
連日の夜更かしと、気苦労が絶えない鉄の吐く息は重い。
「あの後、響に悪ふざけを説明すんのにどんだけ骨が折れたか……」
愚痴の一つや二つ百だって零したくもなる。
「それは私の責任ではない。乙女の告白に煮え切らない鉄のカイショナシが悪い」
あっけらかんと答えるウロに誰が元凶かと問い質したい気持を堪える鉄。きっと言った所で何も変わりはしないのだ。
「ま、結局はママさんコーラスに入らずに済んだんだがな」
ほっとした中、みすゞ舘が見えて来た。本日の散歩の終着点だ。
「あらウロちゃん鉄ちゃん! 昨日は残念だったわねぇ」
みすゞ舘の向かいで、朝も早くから坂田の奥さんが声を高らかに竹箒を振ってのご挨拶。
「さっちゃん、おはようございます」
さっちゃんこと坂田の奥さんは快活に笑い、さも残念そうに頬に手を当てる。
「ホント、ウロちゃんの歌はどこかで生かすべきなのに……」
「鉄が結婚は嫌だとゴネるから……」
二人分の溜息。
「すんません。朝飯の時間なんで」
このままだと自分が責め立てられる事に気付いた鉄は、そそくさと坂田の奥さんに頭を下げてみすゞ舘の門をくぐって逃げた。
「ホント、勿体ない」
まるで悪戯を思い浮んだような坂田の奥さん。怪しい笑みを浮べ、おもむろにエプロンのポケットから携帯電話を取り出した。
鉄の本当の災厄はこれからだった。
* * * * *
その日は朝から教室中が変だった。
騒がしいと思えば、鉄と目が合うと視線を逸すクラスメイト。鉄を取り巻く空気の異様さは直に肌に伝わる。
しかし、その理由もこれからすぐに判明するのだろう。
鉄は今、風紀の鬼と呼ばれる暑苦しい熱血教師を前に生徒指導室にてタイマンで向かい合っていた。
「……塚本、俺は婚約が悪いとは言ってねぇんだ」
その一言で鉄はウロの話だと納得する。
「あの、先生……俺は別に婚約は……」
「いい! 言わなくても分かるさ。足の悪い家なき子、引き取って芽生えた愛なんだろ!? 美談じゃないか。先生はそんな純愛は素敵だと思うっ!」
目頭を熱く抑え、その教師は鉄を恭しくじっと見る。
「でもな、塚本! それじゃ
「はぁ……」
気の抜けた返事だけをし、鉄は言い訳のタイミングを探す。
この熱血教師こと近藤雅人氏は、語り出すと外の声が聞こえなくなる傍迷惑な人種だ。近藤の話に耳を傾けながら、鉄は事態を冷静に判断しようとする。
要約するとこうだ。
今朝、学校に近藤教諭あてに町民から一本のタレ込み情報が舞い込んだ。
内容は「塚本鉄は、足の不自由な歌姫家なき子を救い、婚約をしている」
それが光よりも速く、校内中に広まったのだ。恐るべし、娯楽とスキャンダルに乏しい田舎ならではのネットワーク。
否、ウロの事が広まるより何よりも厄介なのは、鉄の処分に当たったのがこの近藤教諭という事だった。
生徒指導の風紀の鬼、近藤雅人。体育教師にしか見えない音楽教師にて合唱部の顧問。
「確かにマリア・カラスの再来と言われ、触れると溶けてしまいそうな儚げな美少女が相手では、胸も高鳴るさ。先生だってそう思う!」
思わねぇよ。
割れた顎を撫でる、スポコン風味の教師に大きくツッコんで、鉄は覚悟を決めて息を飲んだ。
そもそも相手が悪い。
近藤教諭が顧問する合唱部の全国制覇に懸ける想いは半端じゃなく有名な話。
「……要求は何ですか?」
飲み込みの早い問い掛けに近藤教諭は咳払い。うっすら髭が残る口許を緩めて破顔した。
よく晴れた夏休みの近い朝。
鉄は、神様の「ドンマイ!」と励ます声を聞いた気がした。
* * * * *
相も変わらず晴晴れとした空は広がっている。
今日も鹿魚町上空は文句なしの快晴、夏日。
照り付ける太陽と、その光を跳ね返すアスファルトの熱の二重の仕打ちに苦しみながら、誰もが歩く。
この男もその内の一人だ。
「指導は……とりあえず週一……」
「おぅ」
息も切れ切れに自転車を立ちながら漕ぐ鉄が、額から流れる汗に目を細める。
只今、九年道坂と呼ばれる傾斜の急な地獄を徒歩で上がるだけでも苦しいのに自転車、ましてや後ろに人を乗せて漕ぐなんて自殺行為を冒している最中だ。
普段は登校には使わない自転車に、何故かウロも同伴で学校に向かう鉄。その鉄の無謀な行為と後ろの美少女を、他の生徒達は興味深そうに見送る。
すっかりご機嫌のウロは、鉄のシャツをしっかり握り近付く校舎を見つめている。
「放課後、部活……が、始ま、る……まで、図書館、を、控え室に使え、だと……」
「うん」
坂道で自転車を漕ぎながら喋るだけで呼吸は苦しい。やっとの思いで校門に辿りついた時は、酸欠で脳味噌が溶けそうだった。それなのにウロは満面の笑み。
「ウロを学校に」
それこそが昨日の近藤教諭の要求だった。
『歌姫ウロを合唱部の特別コーチに!』
鉄に後ろめたい事なんてない筈なのに、下らない噂から平穏な学校生活を人質に取られたら要求なんて断れない。
歌を教えるのには乗り気なウロだから、簡単にその要求は簡単に成立した。
そして、本日が最初の講習日。
鉄はウロを運ぶ為に自転車を使ったのだ。車椅子はないし、人前でおんぶは恥ずかしい。まあ、ウロを連れて来るだけで注目は浴びてしまうのだが……。
「流石に視線が痛ぇ」
ちくちくする首の後ろを掻きながら、鉄は思う。
これから毎週水曜日。歌姫を乗せた自転車が、地獄の坂道をあくせく上る姿が鹿魚高校の名物になるのだろうか、と。
そう考えると、そろそろ本気で泣きたくなる鉄なのであった。
* * * * *
天蓋に掛かるシルクのカーテンを静かに開く。
誰もいないベッド。此処暫く温もりを抱いた事のないベッドに、男は腰掛ける。
此処でいつも歌っていた女は今何処にいるのだろうか、想いを馳せる。
一週間以上も探しているのに、まだ見つからない。
「ウロ……」
男は呟いた。
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