第2話 みすゞ舘
鉄が住む共同アパート『みすゞ舘』は、
築半世紀は経つ古い木造建築で、元は資産家の屋敷だった建造物だ。
アパート経営の為にあちこち改装を施してはいるものの、当時の名残を崩さずに西洋風の骨董みたいな洒落た住まいになっている。
さて。
早朝にも関わらず、みすゞ舘内の談話室兼リビングは賑わいを見せていた。
なにしろこのアパートの住人らが(生)温く成長を見守ってきた鉄が、初めて幼馴染み以外の女の子を連れて来たのだから。
しかも、全身ずぶ濡れで足の不自由だと言う曰く有りげなとびきりの美少女をだ。
初めは鉄の帰りを待っていた母・朝来一人が騒いでいたところを、その興奮に目を覚ました住人らが徐々に加わっていった流れだ。
ところで、みすゞ舘の外装は趣があり品が良いと近所でもとても評判だが、だからと言って住人までも品があるとは限らない。
「きゃあっ! カワイイお嬢さん、お名前は?」
「あ……えと……私は……」
「いーのいーの! ほらこの糠漬けも食べて、自家製なの」
自ら投げた質問の収集をせず、ひたすらウロに手料理を与え続ける女性。
彼女がみすゞ舘の管理人・東山三鈴(ヒガシヤマミスズ)である。
管理人としてまだ三十代半ばと若いのは、孫を溺愛した祖父が彼女にこの屋敷を譲り渡した為だ。
しかし、祖父の屋敷は独り身の女性には広すぎる。そんな祖父の思い出の屋敷を残す為、アパートに改装したのがみすゞ舘の始まりだ。
そして彼女は今日も煩いくらいハツラツとアパートを切り盛りしている。
「ちっちゃいねぇ。お人形さんみたいだ」
「ホント、髪も長くて綺麗よね。お風呂は一人で大丈夫だった?」
「はい、慣れてますので」
濡れた身体を風呂で暖めたウロをまじまじと見つめ、その容姿を褒めたのは、みすゞ舘の3号室に住む小林
由美はこの町の中学校教諭で、去年まで鉄の担任だった。ありさは市街地の企業に勤めるOLである。
「はぁ~。にしても、鉄がいっちょ前に女持ち帰るたぁアタシも年を取ったねぇ」
感慨深げに息を吐き、頬杖つきながらウロを正面から捉えるのは1号室の官能小説家、森藤子。
「そうねぇ。これで私の息子も、息子のムスコも独り立ちかぁ~」
とどめを刺すように締めたのは、鉄の母で白衣の天使もとい4号室の看護師、塚本朝来だ。
みすゞ舘は、住み込みの管理人が若い女性だからか外装の趣からか、女性受けの良いアパートで、住人も鉄を除いてすべて女性で構成されている。素晴らしい点は住人が揃いも揃って美人な事。残念な点は歯に衣着せず、黙るという術を知らないと言う事。
ウロを取囲み、あれこれと話を始める女四人の黄色い声。たまに飛び交う下ネタに度肝を抜かれながら、ウロは少し不安そうに三鈴が作った味噌汁を啜った。
「コラ。出会い頭からテンション高けぇよ。ガキがビビってんじゃねぇか」
全身に湯気を立たせ、肩にタオルを引っさげて鉄が談話室に現れた。
全身ずぶ濡れの歩けないウロを抱えて運んだから、必然的に濡れてしまい、今までシャワーを浴びていたのだ。
「何よ鉄。母親が息子の女を品定めすんのがそんなに悪い?」
「黙れ。違うっつってんだろ」
揶揄う朝来を尻目に、鉄は不機嫌に生乾きの髪を拭きながら空いている席に着く。
「鉄君、沢山食べる?」
「や、普通盛りで」
「りょーかい」
三鈴は手慣れた風に用意してあった青い茶碗にご飯をよそう。
「ハイ、鉄君の分」
「サンキュ、三鈴さん」
三鈴から青い茶碗によそわれたご飯を受け取り、鉄はいつもより少し早い朝食につく。
みすゞ舘の変わった所は、毎日朝食は共同の談話室兼、共同リビングにて住人揃って朝食を摂る所だ。
住人が独身の女性ばかりで、また仲が良いからついた習慣である。
賄いは管理人の三鈴が趣味でこなす。費用は家賃に込み。
そんな訳で、ウロは割と簡単にみすゞ舘の朝食を相伴に預かる事が出来たのだ。
「突然なのだが……」
鉄が加わった所で、ウロは不意に箸を休め向かいに座る鉄に言葉を発した。
「……何だ?」
何を言い出すのかと鉄が顔を上げると、ウロは真剣な面持ちで口を開いた。
「……私をお前の所に住まわせてくれないか」
「――は?」
鉄の口から食べかけの米がポロリと落ちた。
奇妙な静寂。
ウロの言葉を聞いたお姉さん方も、思わず息を飲んで
「いや、無理だろ……つか、帰る気ないのかよ」
冷静を辛うじて保ちながら、鉄は大人の態度で答える。だが、その対応も無碍にするようにウロ次の言葉が鉄の冷静の文字を台無しにした。
「酷いっ! お前は私を捨てるのだなっ!?」
「はぁっ!?」
「白を切るのか!? あの海の出来事は遊びか!? 服が濡れても構わないと、激しく愛し合ったのも全て遊びだったと!?」
「何が愛だっ! いつだ!? いつの話だ!? さっきか!? ある訳ねぇだろっ! 何、捏造してんだよっ」
「え? え? 鉄君、愛ってどうゆうこと?」
「三鈴さんは黙ってて」
話がややこしくなる。
鉄としては、まさかこんなでたらめな妄言が出てこようとは思いもよらず、痛くなるこめかみを押えてウロを見下ろす。
相手は子供なんだと念仏のように唱え、振り回されないよう、これ以上騒がれないよう脅しも込めて威圧をかけたつもりだ。
身の丈が180cm近い鉄が立ち上がって女性を見下ろせば、それは如何なる言葉の前より恐ろしい。残念なことに鉄は怒ってもいないのに「怒ってるの?」と怯えられるような仏頂面だ。威圧する気もないのに学校の女子供からの評判はあまり良くないという折り紙つきである。加えてウロはかなり小柄だ。鉄など壁のように影を落とす。
けれど、ウロは怯えるどころか鉄を真っ直ぐ見据えて小首を傾げていた。
「私は遊びなのだな……?」
ポロリ。
銀の滴がウロの頬を伝った。
「泣いた」
「泣かした」
「泣かしましたね」
「……号泣」
女性陣口々の非難の声が湧く。
そのくせ瞳は面白いモノを見るように好奇心で輝いていた。
「な、なんだよ……」
五人分の好奇の視線を浴び、鉄がたじたじとウロへのプレッシャーを解く。
「あんたら、まさか俺よりこのガキを信じんのか!?」
「カラダは小さくともナカミはオンナだってアナタがイチバン知ってるでしょう!?」
「知るかっ! 片言になってるし!」
鉄に言い訳する暇も与えず、弱い女を演じるウロ。
涙は女の武器である。
ウロは一気にみすゞ舘のお姉さん方を仲間に引き込んでしまった。
「鉄最低ー」
「鉄君鬼畜ー」
「ダメ男ー」
「……不埒」
まるで弟のように可愛がってくれた姉のような存在達からの仇視、言葉は痛かった。
鉄は、自分こそ泣きたい気持で母親に訴える。
「おふくろは俺を“そんな事する息子じゃない”って言ってくれるよな!?」
何をすがっているのだろう。
鉄は暫く黙って傍観していた朝来を見やる。
「…………」
朝来は煙草を右手に、胸に溜めた煙を吐き出し口を尖らせた。
「息子は育てても、息子のムスコまで責任持てないしね~」
「分かった。黙れ。そこの下ネタ女」
吐き捨て、鉄は肩を落とす。
すがる相手を間違えた。
最早味方は何処にもいない。
「言っとくけど、俺脅しても此処には住めないぞ。親がいんだろ。保護者の許可貰って来い」
「二十歳だ」
ウロはさっきの涙は何処吹く風と、あっさりと答えた。
「まぁ童顔で小柄だから子供にも見えなくもないだろうが、成人式も済んだ。心配せずとも未成年略取にはならん。お前こそ幾つなんだ?」
「……十五。高校一年」
言いたくなさそうに答える鉄に、ウロは勝ち誇ったように笑った。
「ガキはお前だな」
やたらと歳上ぶるウロが小憎たらしい。調子づくウロに苛々させながら、鉄は口を噤む。
「ま、年齢なんかどうでもいいんだ。私を拾ったお前が責任を取るか否かだから」
「帰れ」
大人なら自分の心配の及ぶまでもない、と鉄は冷たく切り捨てた。
そして、後悔した。
「当然の答えだな」
ウロは平然とした声で言った。
声だけ聞けば何も思わなかった。
まるで、存在を放り出されたような酷く傷付いた顔さえ見なければ、鉄は罪悪感なんて覚えなかった。
ウロの、言葉とは裏腹な暗い表情を見つめて鉄は海辺での会話を思い出す。
‘帰れない’
帰る場所に帰れない理由なんて、鉄には知る由もない。
だけど、歩けない足でこんな片田舎に来るのは余程の覚悟がかかっただろう……と思う。
どうしてあんな場所に独りでいたのか気になる。
よく考えたら名前だって本当かどうか分からない。
年齢も嘘かもしれない。
別に、それがどうであったって鉄は全部を明らかにしようなんて不躾なことは考えない。
ただ、帰れないという気持がどんなものかと思った。
そんなに辛い顔をする程苦しいのだろうか。
「……仕方ねーなぁ」
暗く落ちた瞳。
気に入らなかった。
仕方がないと、諦める姿勢に、鉄はどうしようもなく腹が立って仕方なかった。
それから何かを考えるように唇を結び、考えがまとまると朝来の方に体を向けた。
「なぁ……おふくろ。落ち着くまで面倒見てもいいか?」
まるで、捨て犬や猫を飼うように母を伺う鉄の姿がおかしかった。
鉄は非常識と怒るだろうが、朝来はウロが始めに打診した時から賛成だった。
朝来から見てもウロには静養が必要だと感じた。鉄もそう思ったからこそ受諾したのだろう。
朝来の答えは決まっていた。
「好きにしな」
はっきりとした声がよく通る。
鉄はホッと一息吐いて、ウロへと向き直る。
「そんじゃ、まぁ……よろしく」
ウロは差し出された鉄の右手を見て、不安そうに鉄の顔を見る。
「嫌か? 警察以外なら此処しかねぇぞ?」
眉間に皺を寄せ、焦れったそうに鉄はウロに右手を突き出す。迷うように宙を彷徨っていたウロの右手指先が鉄の右手に触れた。
「――お人好し」
その右手に頼っていいものかと、悩むのも馬鹿らしい強引さにウロは吹き出す。けれど、嫌な感じはしなかった。
「世話になる」
それからウロは、鉄の掌程の小さな右手に力を込めた。
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