昔町の人魚姫

藤和 葵

第1話 始まりは夜と朝が交じる色

 

 

 こうやって新しい街並みを眺めていると、改めて鹿魚しじなって田舎町だって思うよ。


 海と山しかないもんなぁ。


 交通の弁も悪いし、市街に出る為だけに繋がっているような日に数本の電車。バスも少なめ、タクシーなんて電話で呼ばなきゃ来やしねー。移動の足は徒歩か自転車か自動車がメインだろ。——あ? お前は違うって? 知ってるよ。

 ともかく、お前は知らないだろうが海辺の町は空気に強い潮気を含むから自転車や自動車は錆びやすいし手入れが面倒臭いんだ。特に夏場の体に纏わりつく潮気の鬱陶しさにこの町が嫌になったっけ。

 泳げるビーチがあるのは利点だろうけど、正直、あまり好きな町とは言えなかったんだよ。


 嫌いじゃねーよ? 育った町だしな。ただ、好きと言える程の強い感情がないだけで。


 楽しいことは漠然と外にあるもんだと思っていた。


 多分、俺だけでなく大体同年代の奴は似たように考えているだろうよ。

 知ってるだろうけど、うちの人口比率って若いのより断然年寄りが多いだろ。でもそこそこ活気を維持しているから学校は小中高と町立校が一校ずつあるし、そこそこ進学率もいいから、一応それなりに生徒数を保ってる感じだ。過疎と無縁ではないけど、少数精鋭と言わん許りに地域の繋がりはなかなかに強いしな。


 生活を支える場は主に商店街で、娯楽に欠いている。唯一のゲーセンは、レトロゲーが軒を連ねるだけだし。

 あの町はいつの時代かで時が止まってしまったような、そんなノスタルジックな空気が漂ってんだよ。


 山を背に町を見下す、木々の茂った高台には神社。

 麓の川向こうには教会。その間に寺があるだろ。

 住宅区域は瓦屋根の古めかしい家もあれば、現代風の鉄筋住宅もあるし、俺の住む一昔前的な共同アパートもある。

 その他、アニメに出てきそうな土管のある空地とか、物心ついた頃から記憶する限りずっとババアな婆ちゃんのいる駄菓子屋とか。

 寂れた無人の家は必ずお化け屋敷と称されるが、そんな場所、この町には数件ある。


 名産は海産物と山の幸と義理と人情と愛嬌。

 珍しい売りなんてないが、一度広がれば嘘も真実となる噂話の拡散力はSNSを凌ぐ勢いだ。

 そういや俺もお前もそんな噂の被害者だったな。


 だから娯楽に飢えてるっつたろ。

 子供も大人も年寄りも男も女も、嘘か真か深く考えずに楽しそうな話題なら食いついてひとしきり楽しむ下世話な趣味なんだよ。


 そんな平和と呑気が売りな、ひたすら退屈で平凡な町。


 だから嫌いじゃないって。

 ただこの平凡さが時々堪らなく退屈で、俺は物足りなさを感じていたんだよ。

 あの町が嫌いじゃないんだ。

 海も山も潮気も人柄も嫌いじゃない。本当は何処かで好いている。なのに何処かで飢えている。


 そんな隙間にお前が入って来たんだ。

 違うかな。お前を非日常と思って俺が手を伸ばしたのかな。

 どっちでもいいか。とにかく退屈な毎日に非日常と言う刺激を与えたんだよ。

 お前は煩くて、我儘で、強情で、意地っ張りの考えなしで。あの短い期間で何回喧嘩したかも分かんねぇ。

 なのに、俺はお前を背負って明方の鹿魚を歩くのが日課になっていった。

 押入れ開けりゃ、お前がいる光景も普通に感じた。


 いや……言いたいのはこんな話じゃないんだよ。


 どうして今更こんな話をしたのかとか特に意味はなくて、なんだ、その……。


 とにかくこんな話がしたいんじゃない。


 俺と、お前と、平凡な非日常。

 違うか。

 非日常だったけど、平凡な日常……。

 俺が陸にいて、お前が海で。

 出会いはそこで、始まりもそこで。

 俺はお前を背負って、明方の鹿魚を歩くのが日課になって、お前は好きな時に好きなだけ歌ってたまに泳いで。


 口にすると地味で冴えない思い出だな。味気も色気も何もねぇ。

 そうだよな。ただ散歩しただけだもんな、俺達。

 けどさ、眠い目擦りながらの散歩、実は結構好きだった。


 そんな告白……今更だな。


 ——俺はお前と出会えたあの町に感謝する。


 あの町を選んだあの人にも、感謝する。


 なあ、いい加減、俺がなに言いたいか分かるだろ?






 * * * * *

 

 朝の新聞配達のバイクと擦れ違い、鉄は自転車のペダルを踏んだ。

 夏とはいえ、日が昇りきらない朝霧のかかった海辺はまだ肌寒い。


「――ねむ」


 潮風は鉄の眠気を取り去る所か、逆に潮騒の音が眠気を誘う。

 鉄はハンドルを握る手が疎かにならないよう欠伸を噛み殺し、握力を入れた。居眠り運転の可能性も洒落じゃないからだ。


「……息子を使いに出すくらいなら帰宅途中に自分で買えよな」


 一人呟くなんて年寄り臭いと思いつつ、声に出して不平を零す。それ程これは理不尽なお使いだったから。

 それは時を遡る事、約二十分前。


「ただいま~! ママのご帰還でぇす。鉄ちゃんはお仕事疲れのママにご褒美を買って来てくれるのよね~?」


 思い出すも腹立たしい呂律の回らない猫撫で声の朝帰り。

 塚本家の大黒柱で鉄の母、塚本朝来ツカモトアサゴがアルコール臭を漂わせて帰宅して来たのだ。

 そして、安穏と眠る鉄を文字通り叩き蹴り起こし、有無を言わさず財布を握らせ部屋から締め出されてしまった。

 唖然とする鉄は反論の余地もなく、寝癖もそのままに言われるがまま自転車を漕ぎ出したのだが、思い出すも物悲しい。


「くそっ」


 悪態吐いて更にペダルを漕ぐ。

 ガチャガチャとコンビニ袋の中の缶が音を立てる。

 中身はビールやチューハイ等の炭酸系が入っている。乱暴な自転車の操縦で中身が振られていても鉄には関係ない。むしろ腹癒せには丁度いいぐらいだ。


 ……少しセコいかもしれないが。


(つーか未成年にアルコール売ってんじゃねーよ。俺が成人に見えるってか。まだ高校上がったばかりだぞ。いくら人相悪いと言われようが傷つくだろ!)


 不満はコンビニ店員に火種し、まだ幼気な十五歳は物憂げに息を零し、力なくゴチる。


「さっさと帰って寝直そう……」


 何度目かの欠伸をしながら、ブレーキを握り締め自転車を止める。浜辺の防波堤に面した坂道を昇れば、鉄の住むアパートはすぐそこだ。


「今、何時だ……?」


 時計も携帯も家に置いている。

 叩き起されたのも唐突だから、起きた時間は分からない。

 コンビニには時計が設置されていなかった。レシートに購入時間が記されていただろうが、今更わざわざ財布から取り出して確認するのも億劫だし、あまり意味もない。


「太陽は……まだ上がりきらねぇか」


 西に面する海はまだぼんやりと暗く、薄墨を吐いたような無機質な色をしている。

 しかしそれはほんの一瞬で、背後の山間から徐々に光が差し、西の空と海と砂浜は闇と混沌とした夜明の色に染め上げられていく。

 海面の光を波が返し、星のように瞬く。

 だから気付けたのだろう。

 僅かに生じた光がナニか照らしたのを。


「何だ……?」


 浜に寄せる波がナニかの上を通り過ぎて行く。

 立体的で、人形のように見えた。場違いに不法投棄されたマネキン……そう思い込もうとしたのかも知れない。

 それが人の姿、ましてや少女の形として捉えてしまうと平静ではいられないからだ。


「マジかよ……っ!」


 心臓が凍った。

 鉄から冷汗が頬を伝う。慌てて自転車を放り、防波堤を飛び越えて少女の方まで駆け寄った。

 波打ち際には、一人の少女が横たわっている。

 黒く長い髪が扇のように広がり、少女は空を仰いでいた。

 真っ白なワンピースが波に浸されていても、目を閉じる少女は微動だにしない。

 本物の人形が転がっているかの冗談に見える。

 否、冗談であってほしい。


「……おい」


 生暖かい唾を飲込み、鉄は恐る恐る少女の頭上から声をかけた。

 情けない事に声が少し震えている。

 少女の瞳は鉄の声にピクリとも反応せず、長い睫毛が風に揺れるだけだ。

 まるで本当に生きていないかのようだ。

 精巧に作られた人形細工のように愛らしい少女。

 息はしているだろうか。

 目を凝らして見ても、夜も明けきらない時間と、絶え間なく打寄せる波のうねりの所為で少女の胸の上下の動きに確信が持てない。

 まさか……という嫌な想像まで思い付く。


「あ、あんた大丈夫か?」


 もう一度、今度はさっきより踏み込んで少女を頭から覗き込んだ。

 白い肌に長い睫毛が伏せっている。

 閉じられているが大きそうな瞳と整った形の小さな鼻、小さく膨む唇。

 まだ小学生か中学生ぐらいの年頃の少女は、眠っている――のだろう。


「おい、大丈夫……か?」


 再三呼び掛けた。

 頼むから目を開けてくれ。

 願うように鉄は少女の肩を揺らそうと手を伸す。すると……


「……死んだかと思ったか?」

「おわっ!?」


 瞳を閉じたまま少女の口が開かれた。

 鉄は思わず後退る。

 生きていた。

 驚愕しながらも安堵で鉄は胸を撫で下ろす。

 そんな鉄を心中余所に、少女は鉄に背中を向けゆっくり体を起こした。それから髪や背中、いたる所に纏わりつく砂と潮を気にかける素振りなく、振返り様に頭を下げた。


「どうやら要らぬ心配をかけたようですまなかった」

「えっ、あ、いや、俺の早とちりだし……」


 幼い見た目とは裏腹な、少女の時代錯誤的な口調に些か戸惑いながら鉄は頭を掻く。そこで漸く顔を上げた少女と初めて目が合った。

 刹那、少女が小さく息を飲んだような気がしたが、そんな機微など次の台詞ですぐに気にならなくなる。


「死体じゃなくて悪かったな」

「あ?」


 カチンと来る物言いだった。

 別に謝辞を期待したつもりはない。が、鼻で笑われる筋合いもない。


「死体でも打上げられたとでも思ったか? 残念だな、栄光の第一発見者になれなくて」

「な……何なんだよ、テメェが紛わしいんだろ! こんな明方にこんな所で寝てたら誰だって驚くだろうがっ」

「ビビりか」

「――っ!?」


 切れそうだった。

 初対面なのに、恐らく歳下だろう子供相手に切れそうだった。

 きっと生まれ持った相性の悪さなのだと、鉄は相手が子供だと言うのを忘れて口調が荒くなる。


「大体、テメェは何だよ。家はどうした。家出か?」

「心中だ」


 ニヤリと大人顔負けのシニカルな笑みを浮べ、少女は小さく答える。


「心中?」


 訝しげに鉄が聞く。冗談だろうと含んで。

 そもそも心中するにも自分と少女以外は他に誰もいないし、大体少女の歳が幾つだと言うのか。今日日のガキはませているものだと、つい数ヶ月前まで中学生だった鉄は内心呆れる。


「からかうなら警察に突出すぞ」

「それは困るっ!」


 途端、少女は顔色を変えて食下がった。


「騒がせて悪かった。素直に謝ろう。だから私の事など見なかった事にしてもう帰れ」

「馬鹿言うな。そう言う奴をほっとけるかよ」

「でもお前は私を警察に突き出すのだろう!?」

「知るか。お前の出方次第だろうが。心中だろうがなんだろうが、こんな時間にこんな状態のお前をちゃんと送り届けなきゃいけねーだろーが!」

「帰れないんだっ」


 ギョッとするくらい泣きそうな顔だった。

 鉄は黙る。

 口論で熱くなったのか、いつの間にか作っていた握り拳を解いた。


「――帰れないんだ……」


 少女はまた小さく呟いた。

 何と言えばいいのだろう。

 どう対処すべきだろう。

 鉄は無造作に頭を掻き毟った。

 警察に預けるのが一番正しい判断なのだろうが、極端にしおらしくなる少女を見ると無理強いも気の毒に思えた。

 ましてやまだ子供。

 此所は優しく諭して自主性を促すのが最良か。


「……なあ、お前はどうしたい?」


 いい考えなど思い浮かばず、鉄は屈んで少女に目線を合わせて窺った。

 少女は選択肢を与えられた事に驚いたか、大きな目を見開く。


「どう……って?」


 ぐ~きゅるるるるるるるる。


 その時、少女の戸惑いと共に一際大きな音が鳴った。

 発信源は少女の腹からだ。


「あう……」


 恥ずかしいような悔しいような。少女は腹を押えて何故か鉄を睨む。

 笑えばいいのか憐れんだらいいのか。

 鉄は少女を見つめる。


「……飯、食ってくか?」


 不意に鉄の口をついて出た言葉に少女はまた目を丸くし、力なく笑った。


「そうだな。身体は行きたがってるものな」


 自嘲するように呟きに何か事情を抱えていると踏んだが、追及するのも今は間が悪い気がして少し言葉を考える。


「何て呼べばいい?」


 名前だけ尋ねた。


「――ウロ。お前は?」

「鉄。行き場所に困ってんならうち来いよ。何か食わせてやる」


 軽く手招いて鉄は元来た道を歩き出す。だが、乾いた白い砂を踏む足音の数は一人分だった。

 ウロがついて来ていない事に気付いた鉄は、どうしたのかと振り返る。ウロは先程と同じ場所から微動だにせず、ちょこんと座していた。


「おい、別に拉致ろうとかそんなんじゃねぇからな」


 よくよく考えれば(考えなくとも)、まるで誘拐犯のようだと気付いた鉄が慌てて断りを入れる。


「うち、共同アパートで住人も若い女ばっかなんだよ。だから安心しろってのも怪しいか、怪しいよな」


 自らの提案に狼狽える鉄にウロは「そんなんじゃない」と首を振って、鉄を見上げた。


「歩けない足なんだよ」


 ウロは事もなげに言った。


「歩けない」


 彼女の言葉が本当なら謎が生まれる。

 見回す限り、足の不自由だと言う少女に必要そうな介助道具は見当たらない。

 波打ち際の砂浜に打ち上げられたようにずぶ濡れの少女。

 鉄は、自分を見上げる少女を見つめ返しながら思った。

 ——それじゃあ、こいつはどうやってこの浜に現れたのか——と。


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