第八話 人形遣い(下)

(一)


 「……それで、アンシャム叔母さんの焼くケーキときたら、いつも岩かはがねみたいに硬いのよ。ある日、その岩ケーキにお祖父様がらいついた瞬間に、歯を一本も失なっていないことがご自慢のお祖父様の前歯が欠けてしまったの」

 起き抜けのぼんやりとした意識のなかに、兄嫁の、エフェルメの声が心地よく流れ込んでくる。

 「なかから叔母さんのなくした指輪が出てきたんだろ」

 少年は少年期と青年期をつなぐ嗄声させいで話を接いだ。

 「あら、この話はまえにしたかしら」

 「もう三十回は聞いているよ。心情的には五百回くらい聞いたような気分だけどね」


 少年は、床のなかでゆっくりとそのしなやかな筋肉のついた四肢をのばし、彼が密かに手なずけている使い魔たち、蜘蛛くも百足むかで、時に蜥蜴とかげや蛇たちにそれぞれに相応しい物陰に身を隠すよう心のなかで命じた。

 急に背が伸びて身体が自分のものではないようだった。イルラギースには及ばないとしても、イレージェやセツとならんでも遜色そんしょくはないだろう。


 もうすぐ十五歳になろうという少年は羽化うかときをむかえていた。生来の暗さと、思春期の物憂ものう怠惰たいだの結合によってあらたに発現した美は、兄たちのような陽のひかりに溶け込む黄蝶の誇らしさではなく、夕闇にぼうと白く輝く夜蛾の妖艶さだった。

 色のついた石を売る家業には相変わらず気が乗らなかったが、使いで出入りする贔屓のマダムたちに求められるままにその肉体で応じたこともすでに幾たびか。請求書には彼の奉仕料もこっそりとつけ足してやった。

 胸をむかつかせる脂粉しふんの肌に玩弄がんろうされているあいだ、悪評が早くイルラギースの耳に入れば良いのにとそればかりを願った。


 「それより、朝っぱらから僕の部屋に勝手に入らないでくれ」

 「あら、何故わたしがここにいるか理由を教えてあげましょうか、寝穢いぎたなくも見目麗しい王子様。あなたを起こしに来る勇気のあるものは、この邸の使用人のなかに誰ひとりとしていないからよ」

 エフェルメは、カーテンを思い切り開いた。あふれるばかりの陽光が差し込んでくる。形有るものも無きものも、彼の配下にあるあらゆる闇の眷属たちが、蜘蛛くも蜥蜴とかげも、少年の肉体と精神に巣くう倦怠けんたいと反逆心もが、縮こまった。


 「それに、世間はもうとても朝とは呼べる時間じゃないのよ。イルラギースはあなたが朝食の席に出て来ないから不機嫌なまま出かけてしまったわ」

 「君も今日出かけるようなこと言っていたじゃないか」

 「なんだか体調がすぐれないのよ。それに婦人会のあつまりなんてつまらない。物見高いひとたちに品定めをされるのはもうたくさん」

 「くだらない。君はだれよりも気品があるし、それにとても綺麗だ。もっと自信を持てばいい」

 イムナン・サ・リは心から述べた。

 「……ありがとう」


 少年は、愛を知ったもののほとおりと焦燥しょうそうの複雑な陰翳いんえいがエフェルメの面に映ろうのをみた。

 彼女が兄のもとに嫁いできて一年が過ぎた。出会った頃とかわらずうつくしかったが、輝かしい乙女の栄光はもはやそこにはなかった。


 「それより、今度あなたの部屋のドアに閂をつけたら……」

 「また、イルラギースに言いつけてはずさせるのかい」

 「あら、わたしは二階の窓までなんて平気で登れるのよ」

 「ああ、そうだったね。君は君の部屋のまえにあるトネリコの木をつたってこっそり外出していたんだね。でも、この館にはそんな樹はないよ」

 「では、正面から突破しましょう。破城槌であなたの頑なな扉を打ち壊してあげる」


 そのとき、エフェルメの表情に彼女にそぐわない何かが横切った。その何かは、彼女自身によってすぐに振り払われた。

 「また、あなたの個人教授から暇乞いとまごいがあったわ。いったいどんな嫌がらせをすれば、これだけの破格の待遇を棒に振らせることができるのかしら」

エフェルメは薄気味悪い生きものが潜んでいそうな物陰に目をやりながら、そう嘆息すると、きっぱりとした口調で命じた。


 「起きなさい。イムナン・サ・リ。起きてさっさと顔を洗うのよ」


 水盤に注がれた湯水で少年がのろのろと身を清めていると、無慈悲な女主人にそのまま髪をつかまれて、窓のちかくの椅子に座らせられた。なるほど日は高かった。起きがけのしどけなさのまま陽だまりに引きずり出された少年は、おもわず目を眇めた。


 「ほら、しゃんとしなさい。その救いがたい髪の毛をなんとかしてあげるわ」


 エフェルメは、イムナン・サ・リの絡まった長い髪をかし始めた。有無をいわさぬ手荒さで。魔法の手が、少年の心と同じようにもつれてこんがらかってしまった髪の束をほぐして整えていく。やがて黒い巻き毛がふんわりと肩を覆った。

 イムナン・サ・リは幼な子のように満たされた心持ちに包まれて、ふたりのあいだを悩ましくわかつ暗い淵が、欲望の川が消失したかのように感じた。

 あの初めての抱擁の柔らかさを再び取り戻したかった。切に願っていた。そして、一瞬だけ叶ったようにおもえた。エフェルメが少年の目前にきらめく手鏡を差し出すまでは。


 「ごらんなさい。いっぱしの貴公子よ。どこにでてもはずかしくないわ」

 我がことのように誇らしげにエフェルメは言った。


 しかし、長い柄のついた楕円の鏡に映ったのは、よく知っている自分自身の顔ではなかった。もはや黒い巻き毛で縁取られた薔薇色の頬の少年はそこにはいなかった。

 額際を撫でつけられたうえに、乱れ髪をすっきりと束ねられて現れたのは、まるで見知らぬ若い男だった。もはや少女と間違われることもあるまい。鏡に映し出されたのは、白皙秀麗はくせきしゅうれいではあるが冷ややかな眼差しを持った翳りのある容貌だった。

 イムナン・サ・リを認めると、鏡の男はくくっと喉のおくで笑った。その途端、男の持つ底知れぬ悪意がさらけ出された。彼はその時まで知らなかった。無意識の奥底に刻まれた傷痕スティグマは覆い隠されても決して消えることがなく、少年が日々犯してきた小悪事とは比べものにならないほど、計り知れぬ深い闇がそのちいさな心の奥底に滞留していることを。そして、闇は、噴き出すのを待つばかりの岩漿マグマだった。


 (久しぶりだな、イムナン・サ・リ)


 いまや鏡は恐るべき照魔鏡となって、少年のうちなる悪を映し出した。悪意の(声)は、少年の頭蓋の檻のなかの柔らかな脳細胞を直接引っかき回すような不快さで響いた。

 「やめろ」

 イムナン・サ・リは、おもわず鏡をつよく振り払った。鏡はエフェルメの手から落ちて、床にぶつかるとおおきな音を立てて割れた。破片が床に飛び散った。

 砕け散っても、鏡の魔力は弱まらなかった。むしろその力は強まったように、陽光のなかできらきらと反照する無数の破片が少年の姿を無限にとらえた。

 破片はゆらぎ、きらめき、悪意に満ちた許多の双眸が彼を見つめ返す。

 もうすぐ、うつくしい魔物が彼のすべてを支配するだろう。


 (さあ、人形遣いよ。目覚めの刻だ)


 「ねえ、いったいどうしたの。サ・リ」

 彼を支えようとのびてくるエフェルメの手を振り払うと、耳を塞ぎながら、ベッドの脇に倒れ込んだ。


 (逃すな。お前の最初の獲物だ。その女は、心に暗い秘密を抱えている。お前に明かして、その秘め事を共有したいと願っている。なぜ、聞いてやらない)


 うるさい。彼女を巻き込むな。早く消え去れ。

 どんなに耳をふさいでも、男の声は脳髄なづきの旧き住人であるかのように、少年の頭蓋の内部に語りかけてくる。


 (それは無理だ。お前のなかで生きるために、愛と暴力の嵐のなかで、お前を慈しみ、育んだのだから。上っ面の記憶を消すなど、愚の骨頂。俺はもはや魂の一部なのだから。そして、俺を呼び出したのは、その女の闇だ。鈍いお前だって、気がついているはずだ。その女の策略と裏切り、そして深い悔恨の念を。人の世の法にそむいても、お前を支配しようとする薄暗い欲望を)


 やめろ。彼女はいつだって正直ないい人だ。


 (では、聞いてみればいい。彼女の告解を。あとは耳障りのよい甘言でなぐさめるか。怒りにまかせて激情に駆られるか。いずれにしても、どう抗おうと破滅は近い。抑制などいつまでつづくかわからぬ。そして、その女はもうすぐお前のものになる。何度も夢のなかで犯したままに)


 「サ・リ、どうしたの。何故泣いているの」

 エフェルメが少年の震える肩を抱いた。いつもと変わらぬ真摯な態度で。

 イムナン・サ・リは顔をあげた。泣き濡れた瞳が彼の想い人をまっすぐに見つめた。

 魔物は再び魂の奥深くに潜り込んだのか。少年の臆病で脆弱な魂と置き換わってしまったのか。その面からはわからなかった。ただ、彼の魔術はすでに始まっていた。静かに、愛するものの心のうちに滑り込んでいった。

 「ずっと、わからないんだ。何故、君のようなひとがイルラギースを手に入れるために、僕を利用したのか。ああ、責めている訳じゃないんだ。君になら踏みつけられたって、僕は別にかまわないさ。だけど、君は全然幸せそうじゃない。自分を貶めてまで手にしたものをいまにも投げ出そうとしている」

 エフェルメのうつくしい顔が奇妙にゆがんだ。

 「ずいぶん見事な洞察力ね。それとも、心を読めるという話は本当なのかしら」

 「ああ、だけど君の心は読めない。なにも知りたくなかったから。ただ、僕のまえで、君はいつも気高く誠実だった。君の好意はいつも心地よく流れ込んできた」

 「知り合うまえから、あなたを知っていたわ。あなたの興味のあることも、あなたが本当は悪い子だということも。そして、あのイルラギースがあなたを溺愛していることも」

 エフェルメの指が彼の涙をすくった。 

 「あなたは、彼の期待を裏切ることにかけては天才的だわ。まるでちいさな暴君のように。なのに、あの誇り高いイルラギースがだまって耐えている。あなたたちは、異常なくらい強い絆で結びついている。彼の心をつかむためには、あなたに近づくのが得策だった。あの日わざとあなたを酔わせるよう給仕に指示した……。軽蔑するかしら」

 「いいや。それで君の望みが叶うのであれば。だけど、君は……」

 「イルラギースはとても素敵よ。でもその栄光の一部になることは耐え難かった。彼を取り巻く女たちのひとりになることは……」

 「そんなことはない。君は特別な存在のはずだ」

 「同じよ。結婚して、妻の座に納まってもかわらないわ。彼は輝きつづけ、わたしは彼の付属品にすぎない。あなたにはその屈辱がわかるはずよ。なりよりも、わたしたちは同じ言葉を持たない」


 「ずっとあなたに惹かれていた。たぶん、出会う前から」

 エフェルメは、涙の跡をなぞるように少年の両頬にキスの雨をふらせた。そして、ふたりは互いの悲しみが流れ込んでくるような口づけを交わした。

 「いやがっていたくせに上手なのね。やっぱり、あなたには秘密の恋人がいたのね」

 応えのないことが、応えだった。その事実を受け止めると、思い切りをつけたかのようにエフェルメの告白が徐々に荒んでいった。

 「すべては父の意向で、わたしは父の道具だった。いやしい金融商から成り上がるための。あなたではだめだって」

 「僕がどこの馬の骨ともしれないからかい」

 「いいえ、そうじゃないわ。父はあなたの素性について良くしらべたの。サイラスや谷の伝手をつかって。ちいさい頃、あなたを看たお医者さまにも。そして、知ったのよ。リザイツェオーン家の暗部を。あなたが特別扱いされるわけを」

 エフェルメの心は抗っていたが、舌はなめらかに進んだ。破局へむかって。

 「あなたの本当の一族は、ひとの手によって造られた、ひとならざるもの。超絶なる能力とあまりの邪悪さゆえに滅ぼされた。あなたはその生き残り。リザイツェオーン家の血がながれているかも疑わしい」

 イムナン・サ・リの眼が細く吊り上がった。

 「それを知っていて、何故僕を恐れないんだ。君は昔からかわいらしい反逆の徒だった。僕を哀れんだのか。いいや、君のお得意のロマンスのなかの登場人物にでも僕を創り上げたのかい」


 術は一瞬解けた。答えを得るために。


 「わたしは、ただあなたに惹かれただけよ。あなたが背負うその闇もふくめて。闇のなかで懸命に押しつぶされまいとしている、か弱くふるえるちいさな魂を。その魂のそばにいつも寄り添いたいと願っていた。そして、いつのまにかわたし自身が暗い欲望にとらわれた闇になった。あなたもわたし自身も破滅させてしまうほどの」


 イムナン・サ・リは、その言葉を切り取ると、瞬時に胸のうちにしまい込んだ。

 その言葉のひとつひとつの意味を味わう間もなく。これから起きることの、彼の戦いを支えるただひとつのよりどころとして。

 そして、笑った。見るものを凍りつかせるほどあでやかに。

 「君の父上の思惑も、君の嘘も、君が仕掛けた罠も、いまさら興味はない。君の本心すら、本当はどうだっていいんだ。君はいつだって揺れているから。理性が勝っているひとだから、計算高いことは初めから解っていた。そして、それでも君は自分に正直であろうとして、もがいて、さらに矛盾を深めていく。僕はそんな君を愛している。ずっと、ずっと君を愛してきた。僕は僕自身を憎み、破滅させたいのと同じくらい、君を愛して、君の幸せを願ってきた。僕の人生が欲望と汚辱のなかに墜ちていくなかで、君への愛は僕にとってただひとつの神聖なものだった」

少年もまた、今まで目を背けてきた感情を見つめて、その偽らぬ想いを吐露した。

 「君の望みどおり、君は僕のものになる。ただし、僕は僕なりの方法で君を愛する。僕は他人の心を支配できる。だから、君の心のすべてを支配して、君は僕の人形になる」


 エフェルメの唇が悲鳴をあげるかのように開いた。だが、もはや声は出なかった。

 「そこから逃れる方法はただひとつ」

 少年の目が、ゆっくりとサイドテーブルのうえに無造作に置かれた彼の短剣をみた。スノウクリスタルを刻んだ象嵌が、陽を浴びて一瞬きらめいた。

 官能の歓びに満ちた指と唇がゆっくりと肌に溶けていくのと同時に、冷たい狂気の眼差しが彼の人形に無情に命じる。


 (れ、るんだ。僕とともに奴を殺せ)


 二重の暗示。幻惑。混じり合い、引き裂かれる心。混乱。術のなかの術。術者のなかの術者。過敏なる鈍磨。研ぎ澄まされた感覚が弛緩する肉体からあふれてこぼれ出る。やがて、錯乱と狂気が静かに彼女を包み込むだろう。


 馬鹿なことを。所詮、その女にお前はれない。お前は俺を殺せない。

 お前の魂には花の翳りにも似た深紅の刻印スティグマがある。

 惨劇が繰り広げられるごとに、そのやわらかな花蕊はなしべは疼き、ぞぞめき立ち、その花弁をあでやかにほころばせて、さらなる流血を呼び込む……。

 さあ、思い出すがいい。幼き日に覚えたかの甘美なる戦慄を。欲望の果てのうまし酒を。血潮の海のなかにその蒼白な身体を浮かべながら。


(弐)


 目覚めたのは夜半過ぎだった。

 夜風のひんやりと冷たい指が少年の頬をなぜた。それとも、窓辺に一朶いちだの青ざめた百合の姿で立ち尽くすあのひとの手のなせる技だったのだろうか。

 闇に溶け込んだ暗い真鍮色かないろの髪は、喪のヴェールとなってさわさわとなびき、その悲愴をおびた美貌を覆っていた。その姿は、あまくけだるく憂いに満ちていて、古い書物に出てくる天使のようだった。


 闇のなかでヴェールが微かにきらめくと、記憶の古層の封印のひとつが解けた。

 彼はずっと昔からそのうつくしい生きものを知っていた。天使などという存在を知らされる前から。ここに連れてこられるずっと前から。

 彼が目覚めさせてしまったあの魔物に怯えながら、身体中の傷がうずくのに耐えながら、夢見ていた。いつか彼を救い出してくれる存在を。

 たったひとつの救済。光に満ちたあまやかな死の具現者。死は眠りごとにそのふんわりとしたヴェールで彼を包み込んで、頬にやさしくキスを残してくれた。


 ああ、あなただったんだね。甘美なる死の御使いよ。でも、僕はまだ死んだ訳じゃないようだ。


 イルラギースが、これほどはかなく見えるのは初めてだった。やがて、少年が目覚めた気配を感じ取ると、その面に冷たい陶器のような表情が戻った。

 「痛むか。眠りたければ、痛み止めの阿片丁幾ローダナムもある」

 応答いらえがあるとは端から期待していないようすで、イルラギースは言葉をつづけた。

 「安心しろ。派手に出血したわりに傷は浅手だ。どれひとつ臓腑に達していない」


 蒼い月、ラ・ウの眼差しが、ぼんやりと開け放れた窓から差し込んでくる。

 イルラギースの面からふたたび仮面がはげ落ちた。こまかく肩をふるわせて、泣いていた。声もなく。


 帰宅したとき、異変があったとことをすぐに察した。幼い時からの不可解な絆でイムナン・サ・リの意識がとぎれていく様子が手に取るように解った。

 まっすぐに彼の部屋のドアを開けると、悲劇が憐憫れんびん嘲笑ちょうしょうの二重唱を奏でながら彼の到着を待っていた。

 そこには、腹部を切りつけられてゆっくりと血を失っていく誰よりも慈しんで育てた少年と、血塗られた短剣を手にふるえている何よりも愛する妻がいた。その罪の重さを暗示するように、彼ら自身も室内のすべての調度もしどけなく乱れていた。

 エフェルメは彼を認めると、短剣の切っ先を喉許にあてた。


 やめろ。


 イルラギースが強く念じると、短剣は瞬時に彼女の手を離れて、空を切り裂き、壁に突き刺さった。それは最後の一押しだった。エフェルメは、目を見開くとこの世のものとはおもえない絶叫をあげた。そして、狂気が彼女を支配した。


 「ギース」

 兄が泣いた姿など見たこともなかった。少年は思わず呼びかけた。その途端傷が疼いた。叫び出しそうになるのを堪えた。


 イルラギースは窓枠に手をかけて空を仰いだ。微風と清光を受けてヴェールのような髪がちらちらと輝きながらなびいた。やがて、感情がせきを切ったように流れ出た。震える声で。

 「お前を、お前たちを裁く気はない。何が起きたのか知りたくもない。だが、もうたくさんだ。どれほど慈しんでも、お前は痛みと毒をまき散らすだけだ。お願いだから、もうわたしを解放してくれ」

いつか見放されることは解っていた。許しを請うつもりもなかった。しかし、凍えていく心に耐えられぬかのように、イムナン・サ・リは自らの肩を抱いた。

 「早晩、お前を荘園のセツの許に送る。あれならお前の扱いも心得ているだろう。お前は彼らが出て行ってから格段に悪くなったのだから」


 「厭だ。だれがあいつのところになんか」


 月下の麗人は背を向けたまま、語るつもりはなかった想いを静かに吐き出した。 

 「わたしたちは、お前の存在を受け容れ、愛してきた。亡き母と弟が死にかけていたとき、父はお前の母の許にいてお前の命がすでに育まれていた。お前に罪はないが、わたしたちもまた見捨てられて死の影にふるえていた子どもだった。わたしたちがお前の黒い瞳になにをみていたか、お前には解らないだろう。なのに、お前は憎しみしか返さない」

 イルラギースは、ゆっくりと振り返った。冷たい仮面もなく、はかなさもなく、生のままの、彼本来の芯の強さが浮かんでいた。

 「あのふたりが家を出たのは、お前に家業を譲るためでもあった。そう告げてもお前の心には何もひびかないだろうが」


 「サ・リ」

 イルラギースは歩み寄るとベッドの端に跪いた。少年のつめたい手のうえにさらに冷たい手を重ねた。金色の細かい巻き毛が彼の胸にふりかかる。悲しみに満ちた声が伝わってきた。合わせられた手からも。

 「わたしを呼ぶお前の声はずっと聞こえていた。わたし自身が壊れそうになるくらい狂おしく。だが、お前が今いる世界では、ひとはひとりで生きるのだ。わたしはお前の声に応えることはできない。睦まじい恋人たちでさえ全身全霊を預けたりしない。わたしに愛を語る資格はないかもしれないが、愛されたいと願うなら、幼な子のように泣き叫んでいないで、まずは自分の足で立つことだ」


 「エフェルメは実家に戻っている。錯乱はおさまったそうだ」

 去り際に、イルラギースは告げた。

 「医者によると、彼女は身ごもっている。わたしたちがどうなるかはわからないが、お前をこの家に戻すつもりはない」


 その夜のうちに少年は出奔した。


(三)


 イムナン・サ・リは、タルクノエムの最下層の一画にとどまっていた。外界へ出る勇気はなかった。

 ふるびた客亭で、なれない食事を取り、あたえられた部屋で眠りについた。

 奔走した後、路上でしばらく過ごし、何晩目かに酔客に拾われ、傷もいえぬうちにその美貌を代償に一夜の宿を得た。

 その稼業もながくはつづかず、猟場を荒らされた同業者たちに手酷い粛正をうけた。その最中、見事なタイミングであらわれた計算高そうな客亭の女主人に助け出されたのだ。

 よからぬ企みに巻き込まれていることは承知していたが、もはやどうでも良かった。薄汚い心のうちなど覗き込む価値もなかった。

 どうせ、物珍しい生きものとして好事家の変態にでも売り払われるのだろう。


 今度こそ、躊躇無く果てることができよう。

 少年は、守りの剣を握りしめた。みずからの血で染まった剣を雑然とした自室のなかからみつけだしたときはうれしかった。


 (その短剣はお前自身の素性の証だ。決して手放すな)


 誰の言葉だろう。

 父ギランではないことは確かだ。生まれる前に彼を捨てたのだから。

 その刃で長い巻き毛を切り落とすと、愛を請いつづけていた少年に別れをつげた。永遠に。

 家を出た未明に、少年はアルムロス邸のトネリコの樹にのぼった。しなやかにたゆむ幹枝を、爬行はこうする蜥蜴とかげのように身軽に音もなく。エフェルメの部屋の窓はうちから閂で固く閉められていた。少年は、その軒先近くの枝に三年間渡せなかった赤い石榴石のペンダントをかけた。

彼女とももはや会うことはないだろう。これもまた永遠に。

 トネリコにはふんわりと丸い飛蔦やどりぎがいくつも絡みついていた。まるで禽鳥きんちょうのようで、なかには本当に営巣したものもあり、孵らなかった卵がひとつ残されていた。少年は、故事にあるとおりにその常緑ときわなる梢、金枝を手折った。

 こうして、新しく生まれた王は、その頒土である人生の暗い森を歩み始めた。


 眠りについて、久しぶりにイレージェとセツの夢をみた。

 館のホールの螺旋階段の手前で彼らにつかまった。

 セツがイムナン・サ・リがたいせつに抱えている書物を奪い、イレージェが彼に練習用のサーベルを押しつけてきた。

 刃を落としてあるといっても、それはタルクノエムの商人がダール・ヴィエーラでの護身用につかう重量のある片刃の刀で、防具無しに振り回すには危険すぎる玩具だった。なによりも少年には大きすぎた。

 「ほら、どうした。かかってこいよ」

 と、イレージェ。しかたなく前に踏み出した途端、後ろからセツに足をすくわれた。思い切りよく前に倒れた。

 「汚いぞ」

 身を返しながら少年は毒づいた。

 「馬鹿だな、サ・リ。谷での勝負事にルールなんてないんだぞ。追いはぎどもが礼儀正しく一対一の決闘をお前に申し込むとおもうのか」

 くすくす笑いながら、セツがイムナン・サ・リを引き起こそうと腕を伸ばした。少年はそのにやけた顔にむかって唾棄すると、その胸を思い切り蹴り上げた。

 「くっ。ふざけるな。サ・リ」

 少年はすばやく螺旋階段の手すりを飛び越えると、振り向き様に重たいサーベルを力いっぱい投げつけてそのまま階段を駆け上がった。イレージェの刀は、まっすぐ飛んできたサーベルをかろうじてはじき返した。末弟の思いがけない俊敏さにイレージェとセツは一瞬顔を見合わせた。が、すぐにいつもの彼らの戻った。

 「おい、逃げるのか。だらしないぞ、ちびのイムナン・サ・リ」

 「女みたいなイムナン・サ・リ。鍛え直してやるから、はやく戻ってこいよ」

 耳をふさぎながら、廊下を走った。走って、走って、逃げた。


 少年は夢のなかで笑った。そう遠くないうちに彼の天使がその金色のヴェールをなびかせて彼を迎えにくるだろうから。もうすぐ、眠りから醒めるたびに無惨な現実のなかに引き戻されることもなくなるだろう。


 目覚めたら、そこは客亭の部屋ですらなかった。

 震えるほどの寒さ。生臭い血肉の匂い。

 固いものに、おそらく椅子に身体を縛り付けられていた。暗かった。そのうえ、頭からすっぽりと袋がかぶせられていた。


 人の声が切れ切れにきこえた。命じる声と命じられる声。


 執政官、末息子、法院、脅迫、身代金、まず、耳を削いで……。


 とぎれとぎれに聞こえる単語から理解した。身元がばれているのか。なんのことはない。彼はリザイツェオーン家の御曹司として誘拐されたのだ。だが、誰に……。

 やがて、おびえを押し殺した、命じられる方の声の主を記憶のページのなかからやっとのことで引っ張り出した。

 しばらく待つと、命令者たちの立ち去る足音が聞こえた。


 イムナン・サ・リは、かび臭い空気のこもった袋のなかでにやりと笑った。


 耳を削ぐ、ね……。

 では、このいまいましい袋をはずさなければならないだろう。僕の目がお前の精神を射貫くとき、その時点でお前はおしまいだ。お前こそ僕の囚人になる。


 跫音きょうおんが近づいてくる。

 こつこつと響く音だけで、その男の腰が引けているのがわかった。

 頭にかぶせられた黒い袋がはずされると、見覚えのある青白い陰気な顔が間近にあった。


 「お久しゅうございます。ザクロブ先生」

 その男は、少年のかつての個人教授で、イルラギースの学友のひとりだった。

 「あなたとはほんの数日のおつきあいでしたが。こんなところで副業ですか。なるほど、下司げすなあなたには法学書より精肉所の牛刀がよく似合う」


 天井から吊された鳥獣の死骸を見回すと、少年は男に笑いかけた。その瞳の奥に、深く。

 「だまれ、糞餓鬼。悪魔のような餓鬼だとおもってはいたが、ここまで身を堕としていたとはな。紅灯の街に立つ貴様を見かけたときは我が目を疑ったよ。あれだけ豪奢な生活をしていながら、まだ刺激がたりないとみえる」

 「で、先生。あなたはなにがお望みなの。お金、それともイルラギースの評判を墜としたい?」

 「ああ、身代金はいただくさ。それに、あの男の顔に泥を塗るのも楽しみだ。どら息子らしく孔雀くじゃくのように着飾って夜ごと浮かれ騒いでいればいいものを、俺たちの世界に、ガルムの法院に居座り続けていやがる。そればかりか、誰よりもはやく教授の席を手に入れやがった。俺はお前らの本当の顔をあばいてやるのさ」

 イムナン・サ・リは、ちいさな笑みをもらした。

 「残念だけど、そうなったとしてもあなたはその結果をみることはないよ。さっきの奴らがあなたを生かしておくはずがないからね」

 「おい、黙って聞いていたら、いい気になりやがって。今にその生意気な口をきけなくさせてやる」

 男は、手にした刃をぎらつかせた。

 その残忍さにゆがんだ顔は、少年のうちなる嗜虐心しぎゃくしんを呼び覚ました。

 あまりに自らに陶酔とうすいしていたので、ザクロブは少年の瞳の奥に邪悪と官能のひかりが灯されたことに気がつかなかった。この状況にあっても少年が沼のような静寂さをたたえ、まるで怯えていないことになんら疑念をもたなかった。


 「じゃあ、さっそく耳をおとそうか。右がいい?それとも左から」

 うっとりとした表情で囚われ人の少年はいった。


 その時ザクロブは初めて異変を感じた。

 牛刀をもつ手がゆっくりとねじれていく。反対側の手が自分自身の耳をつかんでいた。いまだかつてないの恐怖が彼をとらえ、目のまえの生きものがうつくしい少年の姿をした怪物であることを理解した。


 「ねえ、さっさと白状してよ。黒幕はだれなの」

 少年は笑った。この世のものとはおもえないほどあでやかに。


 結局、口を割らせることはできなかった。

 仲立ちした客亭の女主人以外の名はあがらなかった。ザクロブは彼らの素性をまったく知らされていなかった。

 終えてみれば、うつつの夢、半醒半睡はんせいはんすいの白昼夢のように、記憶はぼんやりとかすんでいた。まるで術にかけられたのが少年自身だったかのように。

 ただ、残虐な情景のいくつかが切り取られて、夢から零れ落ちたものとして残された。そして、少年はその夢の残照とともに永遠の悪夢のなかに迷いこんでいった。


 イムナン・サ・リは、おおきな麻袋にかつてザクロブだった残骸ざんがいをつめて、宿までずるずると引きずっていった。思った通り、精肉所と客亭は二ブロックも離れていなかった。

 まだ、朝は明けきっておらず、人通りもほとんどなかったことが幸いして、この異様な行為をそう不審がられずに目的地に到着した。


 食堂で女主人は朝餉あさげの支度のため立ち働いていた。イムナン・サ・リをみると幽霊をみたような顔で青ざめた。

 「ねえ、マダム。精肉所から届け物だよ」

 少年はにっこりと笑った。血のにじんだ麻袋から、ザグロブの器官だったものが転げ落ちた。

 「こんな風になりたくなかったら、僕の質問に答えてくれないか」


 みんなあっけなく死んでしまう。

 イムナン・サ・リはもはや覚えていなかったが、人間は幼年の彼が秘密の祭壇にかつて献げたちいさな使い魔たちより軟弱な造りで、その精神は脆弱だった。翅のとれた虫や肢をぬかれた百足、手足のちぎれた蜥蜴よりも。

 客亭の女主人にいたっては想像を絶する恐怖に心臓が持たなかったらしい。黒幕の名を聞き出すと同時に、胸をぎゅっとおさえて事切れてしまった。

 少年は苦痛を長引かせる技をまだ知らなかった。


 少年はあたえられた部屋のベッドの詰め物のなかに隠しておいた荷物を取り出した。

 そして再び街へ出た。


 錠前屋のドアは開いていた。

 セレンは留守のようだった。少年は、まっすぐ工房のうらの納戸を目指した。

 「そこには近づくなっていったろ」

 暗がりからセレンが呼びかけた。半年ぶりに会う彼は以前より荒んでいるようだった。

 「ずいぶん背がのびたな。お前が俺の傑作やら商売道具やら全部かっさらっていってからもう来ないとおもっていたが。いまさらなんの用だ」

 「君のつくった鍵を返しに来たんだ。あのときはどうしても欲しかったんだ。答えはわかったよ。モーラだ。彼女の名前なんだね」

 ペンダントのように鎖につなげられた鍵は、錠前の嵌め込み式の文字を正しく組み合わせると、うつくしい炎の形の十字ブレードがぴたりと合う仕組みになっていた。そのゆらめく炎のきざみのひとつひとつが無限の愛の言葉のように精緻かつ繊細に刻まれていた。

 

 「彼女にあげるつもりだったんだね」

 少年はその炎を指でなぞった。

 「もう、いいさ。それはもう必要ない。お前が本当の名前を教えてくれていたら、同じ物をお前に作ってやってもよかったんだがな」

 咥え煙草を吐き棄てると、セレンが暗がりから歩んできた。青ざめた相貌で、右の手で左肩を押さえていた。

 「どうしたの。何をされたの」

 女を廻って悪党どもとなにかあったのだろうか。だが、イムナン・サ・リはセレンの瞳をのぞいて理解した。少年自身にとって、もっと良くないことがあったことを。


 長いショールを頭から巻き付けた長身の男。こぼれるダークブロンド。彼の小さなリボルバーから立ちのぼる硝煙。


 「イルラギース……」

 「ああ、昨日お前の別嬪べっぴんの兄貴がお前を探しに来たぞ。あの金髪は執政官の息子のひとりだ。俺でも知っている。まさか、お前があの一家のものとはな」

 「彼を怒らせたんだね」

 錠前屋の若者がどんな挑発をして侮蔑の言葉を吐いたのか、簡単に想像できた。

 「ああ、お前の兄貴は陰険なやつだ。一発で仕留めればいいものをわざと急所をはずしやがった」

 「セレン。悪かったよ。僕のせいで」

 イムナン・サ・リはセレンの手にふれようとしたが、彼は身をひいた。

 「かまわないさ。俺もお前にひどいことをしたしな」

 錠前屋は少年の凝視に堪えかねるように顔をそらした。

 「義理の親父に、尊敬していたのに、お袋が死んでからずっと同じことをされていた。大人になったら、あいつの技を全部盗んだら、殺してやろうと思っていた。実際に殺してやった。俺が殺したのに、強盗にやられんたと誰も俺を疑わなかった。これでとうとう天涯孤独になってしまったと周りは俺をあわれんだ。あいつが生きていたら、奴らにつけこまれずにすんだかもしれないな」


 少年は視た。セレンの隣に、今の自分と同じくらいの年頃のセレンを。その手を血に染めて茫然と立ち尽くす凍えついた少年を。


 「なのに、お前が現れて、すがるような瞳にみつめられて、結局俺は親父と同じことをした」

 

 (お前のなかで生きるために、愛と暴力の嵐のなかで、お前をいつくしみ、はぐくんだ……)


 「セレン、悪いけど僕は君の思い出話に興味はないんだ。ただ、願いをひとつきいてほしい。納戸のなかのものが、君が管理している奴らの銃がほしいんだ」 

 「おい、何馬鹿なことをいっているんだ」

 若者は、イムナン・サ・リをみつめた。そして、瞳のおくに深い孤独と絶望がゆらめいているのをみた。少年はなんら術をつかわなかった。ただ、懇願した。すがりつく暗い瞳で。

 「……いいだろう。あいつらにはもう義理はないからな」


 「彼女はどうなったの」

 イムナン・サ・リにはその光景がみえていたが、直接尋ねた。

 「死んだ。もともと薬漬けだったが、朝起きたらつめたくなっていた。偶然なのか、自分の意志だったのかも俺にはわからない」

 秘密の倉庫のなかは、禁制の武器がひととおりかくされていた。

 「これが、いいだろう。銃身はアルミで軽い」

 小口径のライフルと弾倉が渡され、操作方法を教えられた。手榴弾にも心ひかれた。イムナン・サ・リが目で合図すると、セレンが無言で渡してくれた。


 去り際に、少年は若者の首に腕をまきつけて耳朶じだに触れんばかりにささやいた。その言葉が砧骨きぬたこつを打ち震わせて、そのおくのリンパの海でみたされた骨の迷路に永久に残されるように。

 「君は僕のただひとりの友だちだった。僕は君を憎んではいない。ただ、ずっとつらかった。どうせなら、一番に愛されたかった」

 それはどんな言葉よりも、若者の胸を突き刺した。

 「それがお前の復讐なんだな」

 再び何もかも失って、虚像も淀みもはがれおちて、無防備な少年の顔に戻ったセレンがいった。互いの暗い瞳をとおして、この街で何故ふたりが引き寄せられたのか理解した。

 「さよなら、セレン」


 店先を出るところで、後ろから銃声がした。セレンが絶望のつまった頭蓋を撃ちぬいたのだと判った。痛みが胸を貫いたが、振り返らなかった。


 人間を恐れていた少年は、いまや街衢まちなみに溶け込んで、喧騒のなかで息を潜めていた。ただ夜の到来を待った。もはや闇への恐怖はなかった。彼自身が夜の一部であり、あのうちなる声そのものになったのだから。もうすぐ、闇はやさしく彼を包み、彼のなかであらたなる悪が開花するだろう。魂に刻まれた邪悪の花は歓びにうち震え、深紅の涙を流すだろう。


 イムナン・サ・リは再び最上層に戻ってきた。

 ヴェネド家は、代々つづく鉱石の採掘事業を手がける鉱山師の家であり、そこで使役される奴隷にひとしい労務者たちの手配師でもあった。その取引先であるサイラスの地下工場と強力なつながりを持っていた。

 当主のザイレは、慈善家として知られているが、もともとは人入れ稼業から身を起こした血筋らしく人身売買の暗い噂もたえない。

 なによりも、いまやリザイツェオーン家と並ぶ権門だった。


 そして、今朝ヴェネド家がタルクノエムの闇を支配していることを知った。

 彼らは、彼の家系に、三代を開けずに執政官を輩出する商都の枢要すうようたる家系、いまは亡き古代の王家に連なる絢爛けんらんたる家系、常にあたらしい血を求め続ける貪欲なる家系に牙をむいた。

 よりによって、その栄光の暗い影であるイムナン・サ・リを香餌こうじにザイレが企んだのは、安っぽい誘拐劇ではないはずだ。

 権謀が錯綜する世界のねじまがった理屈はわからない。少年は単純明快なやり方で報復するだけだった。


 館を囲む高い塀のそとで、イムナン・サ・リは眼を閉じて、両の掌のなかに捉えたちいさな使い魔にそっと息を吹きかけた。


 一頭の燭蛾ひいるがふうわりと闇を舞う。

 上階の窓が閉められるそのときに、使い魔はその薄緑の鱗翅りんしを室内に滑り込ませた。


 少年は視た。ゆらゆらと揺れながら、闇を吸い込む蛾の目(モスアイ)をとおして、すべてを。晩餐の準備。侵入経路。賑やかな談笑。侍衛たちの配置。立ち働く人々。そして標的ザイレその人。花ならぬ灯火の蜜に次々と導かれながら。


 イムナン・サ・リが再び眼をあけると、燭蛾ひいるは灯火をかすめながら、ちりちりと翅を焦がしてぽたりと墜ちた。


 身軽に高い塀を乗り越えると、音もなく地面におりた。寄ってきた番犬たちを一瞥すると、犬どもは闇のあるじに恭順の意をあらわすように頭をたれた。

 イムナン・サ・リは完全に闇と静寂に溶け込んだ。庭のそこかしこで銀の刃がきらめくたびに、大兵がまたひとり斃れた。

 くくっ。

 喉のおくであざ笑う声がする。我のものか、彼のものか。ただそれはしかと存在する。もはや分別わいだめなく。

 少年の形をした闇は、身軽に二階のバルコニーに降り立った。ガラス一枚隔てて、貴族然としたザイラが背をむけて書見していた。イムナン・サ・リは、両開きの框戸かまちどに渾身の力をこめてテラス椅子を振り下ろした。


 ただならぬ衝撃音を聞きつけた護衛の一団が、あるじの部屋に踏み込んだとき。

 ドアが開くと同時に、少年は腕のなかにかかえた男の背後から銃弾のシャワーを浴びせた。

 華麗に爆ぜる連射音が、日常と悲劇をつなぐ走句パッセージのように彼らを歓迎した。

 反動をしっかりと受け止めながら、少年は奏でる。その心をこまかく震わせ、掻き乱すトリルの躍動を。カチリと鳴る撃針音はこの即興曲の前打音であり、パラパラと飛び散る薬莢は後打音だった。

 破局へのオーヴァチュアは終わりを知らぬかのようにつづいた。凄絶なる掃射の真の標的が、少年自身であるかのように。


 「ねえ、行くよ」

 死体を踏みつけながら、少年は部屋を出るようザイレをうながした。

 「離せ。貴様は何ものだ」

 蒼白さをうかべながらも、鉱山師はまだ威厳をたもっていた。その時点までは。

 「僕がまだわからないの?あなたのせいで、今朝あの屑の変態に殺されかけたのに」

 「ふん。ギランの息子に、毛色のちがう闇の申し子がひとり混じっているといううわさは本当のようだ」

 「僕をどうするつもりだったの。さんざん痛めつけたところを助け出して、親父に恩を売るつもりだった?それとも、厭がらせになぶり殺した残骸を送りつけるつもりだった?」

 「そんな幼稚なことはせん。これは、純然たる商談だ。ギランがみつけたまま打ち棄てているジルコンの鉱床を得るための」

 「そんな屑石の鉱床のどこがいいのさ」

 少年は、瞳を覗き込むと、鉱山師の舌をすこし滑らかにしてやった。

 「我々の狙いは、そこに含まれるウランやトリウムだ。それを基に古代の兵器がいくらでも再現できよう。すでにサイラスの工場主も動いている。これはサイラスとの協商の問題だ。貴様の父親は超然としているが、陰に陽に仕掛けた恫喝どうかつ懐柔かいじゅうで評議会がこちらの手におちるのはあと一息だろう。貴様は、すでに張り巡らされた権謀術数けんぼうじゅっすうの網にかかった愚か者にすぎない」

 彼を産み出した生のままの悪とはまた違う色の悪。

 少年は清廉なヴェールにつつまれた彼の天使を思った。この陰謀と詐術の渦巻く世界に、イルラギースも生きるのだろうか。優美に謎めいた笑みを浮かべながら。

 「あなたの話はよくわからないけど、晩餐の時間だ。行くよ」


 うながされるままに、夢うつつの状態で、ザイレは一族の待つ食堂に向かった。

 すべては夢のなかのようにおぼろだった。使用人たちが息をひそめる部屋に無慈悲な少年の手で手榴弾が投げ込まれたときも。食堂で怯えて救助を待つ彼の家族が、命乞いの間もないまま次々と兇弾に倒れたときも。

 タルクノエムの暗部に君臨してきた商人貴族にも、自らの血族にむかって非情にも小銃を撃つその魔手が、よりによって自分のものとは到底思えなかった。

 少年が再び彼に笑いかけるまでは。


 「ねえ、あなたの命はあなたに選ばせてあげるよ。生きてこのまま永遠の狂気のなかに取り残されたい?それとも……」

 

 すべてを終えたとき、少年は歌った。

 酸鼻をきわめた正餐の宴の締めくくりに、

 真ん中の兄たちがよく歌っていた戯れ歌を。

 彼らのように無邪気に、

 無垢なるままに。


 失った世界は、あれほど憎んでいた景色は、断ちがたい郷愁のなかに封ぜられて、いまやうつくしく輝いていた。二度と取り戻せないと悟った瞬間から。


 時はふたつに別れた。

 彼のなかで永遠に循環する残酷で優しい少年時代と、決して逆行せずによどみなく進む、緩慢かんまんに老いゆく時とに。


(四)


 夜も更けゆく頃、イルラギースはタルクノエムでもっとも高くそびえる組鐘塔の尖端に登り、人の耳には聞こえぬ呼子を吹き鳴らした。

 やがて、夜の闇が翼の形に切り取られて、異形の守護神が彼のまえに降り立った。

 蝙蝠族、ムルカベールの戦士だった。

 王朝時代から彼の家系につかえる闇の一族。彼らの忠誠は、貴種の放つ特有の冷淡さとともに父祖から受け継いだ遺産であり、逆境にあって身を守る堅牢な鎧だった。

 その肌は黒き鋼。その翼はつよくなめした滑革ぬめかわの輝き。赤く燃える双眸。

 翼ある魔神が年若いあるじの前にひざまづき、頭をたれた。イルラギースはそのかがやく裸身に自らのマントを掛けてやった。

 

 それからほどなくして、淑女のような慎ましやかさで、その青ざめた相貌をショールに包んだ長身の男が、タルクノエムの司直をつかさどる秩序の門に赴いた。

 彼にとっては馴染みの場所だったが、今宵は窓ひとつない黒いアーチ状の建物の裏戸からひっそりと入場した。深く傷つけられた誇りと、いいあらわせぬ屈辱感とともに、異相をマントで覆い隠した闇の翼を引き連れて。


 この非常識な時間に彼を呼び立てた警吏けいりは、ガルムの法院の後輩だという。ガディという名の誠実そうな顔をした男だった。


 「用向きはなんだ」

 「ヴェネド家の惨劇の件でお耳にいれたいことがありまして」

 「当主のザイレが錯乱を起こした上、自害したと聞いているが」

 ここに呼ばれた以上、そうではないことはわかっていた。

 「実は、その日の朝に別の遺体があがっているのです。被害者は法院のザクロブ先生です。やはり全身に拷問の後がみられる猟奇的な犯行なのです。発見されたのは、ダウンタウンのある客亭。その女主人も遺体でみつかっています」

 「女主人に外傷はみられませんが、ザクロブ先生は全身の器官が切り落とされ、袋詰めになった無惨な姿でみつかりました。ザイレ様の御遺体は、割腹し腸をみずから引き出した凄惨きわまりないものです」

 「それで」

 「実は、ヴェネド家にひとり生存者がいました。黒い瞳の少年でこちらの短剣を所持していました」

 ガディは、机のうえのスノウクリスタルの短剣をしめした。イルラギースはその短剣を手に取った。その刃は新しい血に濡れていた。

 「何ものだと名乗っているのだ」

 「名乗りません。ただ、ザイレ様に金で買われた、と。短剣は盗んだものだと。そして、同じ風体の男娼の少年が客亭でも目撃されています」

 「盗んだものというなら、そやつのいう通りなのだろう。何故わたしをわざわざ呼びつけた」

 「実は、以前お見かけしたことがあるのです。あなた様があの少年を連れていらっしゃるところを。もっとおさなく、印象も違いましたが」

 「だとしても、そのような卑しきもののためにわたしが動くとおもうのか」

 「実際には育ちの良さげなお方です。自称通りの街の少年とはおもえません。そのときのあなたの眼差しが、かけがえのないものをみるように、見守っていらっしゃったのを覚えているのです。なによりも、あなた様に六花雪紋の短剣の件と言づけたところ、実際にいらっしゃいました。命じていただければ、秘密裏に処理します」

 イルラギースは悲しげにガディをみつめた。 

 「忠誠心は買おう。だが、お前にはこの秘密は重すぎる」

 イルラギースが軽く首にふれると、ガディの首が奇妙にねじれそのまま息絶えた。自らも出口なき闇の領域に足を踏み入れたことを否応なく認識し、唇をかみしめながらその身の罪深さを呪った。いつか、いかなる恥辱も呵責かしゃくも感じない日が来るのだろうか。


 ガルムの法院で誰よりも清冽な輝きを放っていた斯界しかいの新星は、今宵このとき地上から消え失せた。残されたのは傷つき膿んだ心を抱えたひとりの孤独な男だった。法院からのイルラギースの放逐というザクロブのひそかな望みは、はからずも達せられたのだ。

 残された良心は、彼に法と正義の僕としてありつづけることを許さなかった。彼は気鋭の学究として心血を注いだ夢の舞台から自らの意志で退くだろう。もはや彼が高邁な気概を法衣に包んで、列柱が陰を落とす大講堂バシリカの回廊を聖職者のごとくゆったりと歩むことはないだろう。


 「若君」

 異形の魔神が初めて口をひらいた。

 「わざわざお手を汚されなくとも。命じていただければ……」

 「わたしにかまうな。行くぞ」


 イルラギースは前日の出来事を苦々しく思い出していた。

 イムナン・サ・リを探しにダウンタウンに足を踏み入れたときのことを。あの男のところに出入りしているという話は工房筋から伝わっていた。ふたりの兄たちが去ってから、少年が秘密を抱えだしたことも薄々感じてはいた。

 あの錠前屋のところに逃げ込んでいるとおもっていたが、読み誤ったらしい。

 屈辱にたえながら訪れたところ、錠前屋は想像よりずっと若く、イレージェやセツとさほど変わらなかった。

 「黒い目の少年を捜している。いるなら早く引き渡せ」

 若者は鼻で嗤った。

 「あの手癖の悪い餓鬼のことなら、もう半年も前からここに来ていないぜ。あんたもあいつにだまされたクチかい」

 「言葉が過ぎるぞ。あれはわたしの弟だ」

 「冗談だろ。あいつはあんたのようなお上品な別嬪さんとは似ても似つかない性悪な泥棒猫で……」

 錠前屋はイルラギースのショールを剥ぐと、しげしげと見つめた。

 「これは驚きだ。執政官殿の御世継ぎじゃないか。式典で華々しいあんたを見かけたことがある。なるほどわかったよ。あいつは自分の身の上を呪っていた。どうせ、あんたの親父が娼婦かなにかに産ませた別腹なんだろ。それにあんたのねじれ具合はあいつに似ている。確かに同じ根から生えている」

 「ふざけるな。居場所を知らないのか。匿っていたら、ただではおかない……」

 「あいつは俺の商売道具や金目のものをすべてかっさらっていったんだ。戻ってくるわけないだろう。まあ、その分あいつには愉しませてもらったからチャラにしておいてやるよ」

 言い終えぬうちに、銃声と同時に錠前屋の左肩に痛みが貫いた。悲鳴とうめき声がつづいた。

 「くっ、撃つならはずすなよ。それだけあいつに執着しているんだったら、ふらふらと出歩かせずに閉じ込めておけば良かっただろう」


 引き取ってから、ずっと光差さぬような暗室に幽閉しておけば、いまより良かっただろうか。

 あれほど心を砕いて育てたのに、与えられるものはすべて与えたのに、少年はもはや彼の手の及ばぬ闇の淵に墜ちていった。

 いずれにしても、今宵すべてが終わる。


 見えない力で閂がはずされ、重い鉄の扉が開くたびに、刑吏のねじれた死体が通路に転がった。

 やがて、イルラギースは、秩序の門の最深部に到達した。格子のそとから、獄につながれている少年をながめた。

 思春期を迎えてから、破滅への行路を駆け抜けることのみに情熱を費やした少年は、寝台によりかかって膝をかかえたまま微睡んでいた。その手足には枷がかけられていた。

 イルラギースは少年が初めてつれられてきた日を思い起こした。焼かれた肌のその手首と足首には鎖の痕がしっかりと残っていた。


 出会いのときもお前は捕囚だった。今宵決別のときも。

 これは助けられたことへの復讐なのか。わたしは、お前の苦痛をいたずらに長引かせていただけなのか。


 イルラギースが頸をわずかに傾げると、見えない手が格子戸の鍵をカチリとあけて、軋みながら扉がひらいた。

 少年は目を開けた。

 「何故来た。今度は呼んでないぞ。イルラギース」

 入口に立ち尽くすイルラギースをみると、その暗いまつろわぬ瞳は言った。

 「ああ、そうか。僕を殺しに来たのか」

 僕の天使。やっと迎えにきたんだね。

 合点がいったかのように、にっこりと笑った。


 イルラギースはショールを解くと、つかつかと歩んで行った。そして、かがんで少年の両肩をつかむと、身体の重みをこめて寝台にぐっと押し当てた。

 「殺しはせぬ。そんな生ぬるい最期などお前には与えない」

 銀色に輝く失望と憎悪を込めた視線が、イムナン・サ・リの黒い瞳を射貫いた。

 怒りに満ちた冷たい面差しが少年に迫ってくる。きらめく暗い金の巻き毛に覆われると、荒々しい口づけが彼に与えられた。

 「愛には幾つもの別称がある」

 その情熱も、その奥の憤怒すらも、冷ややかな氷原のごとき威容のうちにあった。冷たい氷のような仮面は、もはや仮面ではなく、彼自身の本質となった。

 「お前はいつもわたしを裏切り、試してきた。それがお前の愛なら、それほどわたしの愛がほしいなら、くれてやろう。憎悪という名前の愛を。いいか、よく聞け。わたしは一生お前を許さない。自ら陥った奈落でせいぜい足掻くがいい。目覚めても決して醒めぬ悪夢のなかで、もがき、のたうちまわれ。再び這い上がってきたそのとき、わたしがこの手でお前を殺してやる」

 言い終えると、イルラギースの指が少年の喉頸をぐっと抑えた。とたんに、少年の意識が消失した。

しばらくその顔を覗き込み、彼の短剣をベルトに差し込んでやったあと、イルラギースは闇の従者に命じた。

 「お前たちの巣へ連れて行け。折りをみてサイラスの皇妃に引き渡す」


(五)


 イムナン・サ・リは異質な闇のなかにいた。

 地中深くのセピアの闇のなか。

 「かわいそうに。大切にされ過ぎて、愛の何たるかも解らずにだめになってしまったのね。あの地獄を生き抜いたあなたが、穏やかで恵まれた日常のなかで少しずつ壊れていくなんて。それとも、あなたにかけられた呪いの力が強すぎたのかしら」

 少女は傷つき横たわる少年の肌をゆっくりとなぜた。微睡みのなかで、イムナン・サ・リは痛みが少しずつ消えるのを感じた。

 「あなたは夜の獣。生まれて来た闇のなかへお戻りなさい。あなたがもっとも輝く世界で自由に生きなさい」


 「ルー・シャディラ、離れろ。そやつはお前の毒にしかならない。しばらく最果ての離宮にあられる皇帝陛下の許へ身を移すといい」

 再び少年を手に入れた女は言った。


 「わかりました。お祖母様」


 夜の獣よ、目覚めよ。

 少女は、少年にほほえみかけた。

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