第七話 人形遣い(上)
(壱)
オーロラに包まれた要塞都市、商都タルクノエム。
この混血の融合都市、テクノロジーに支えられた中世の都で、彼の一族は格式ある宝石商として代々富と名声を引き継いでいた。父は、なかば名誉職である執政官に選出されてからも、実務は副官にまかせ不在がちなことは変わりなかった。
長兄イルラギースは、ガルムの法院開校以来の秀才で、社交界の花で、家族の希望の星だった。その下の兄たちもそれぞれの道を歩みはじめていた。
すべて、少年とはなんの関わりもなかった。
ただ、ふたりの兄イレージェとセツが相次いで館を去ったことは喜ばしかった。サイラス出身の亡き女主人の容貌を強く引き継いだという明るい金色の巻き毛。その通俗的な美貌と平凡で薄っぺらな魂をもつふたりを誰よりも彼は憎んだ。その屈託のない笑顔を心から
彼らの子どもらしい純粋さと残酷さは万死に値するとおもわれた。実際に少年はふたりの兄を夢のなかで何度も殺してやった。
だから、出て行ってくれたときは心のなかでなんども
なにをされても、決して仕返しはするな。そう、イルラギースに厳命されていた。お前は、特別な力の持ち主なのだから、と。少年は畏怖されていたが、彼らは愛されていた。金髪坊やたちは父やファーセルのお気に入りであり、イルラギースは彼らと少年を平等に扱った。理不尽なことばかりだった。
ただ、幼い彼が深く傷ついたとき、触れられることを厭うイルラギースがその膝に頬をうずめて嘆くことを許してくれた。頭を掻き撫でられると、心の痛みが少しだけ軽くなった。それも遠い思い出であり、今は傷を癒すすべもない。
青年期をむかえた彼らはそれなりの野心や夢を持っていた。イレージェはイルラギースの後を追って、ガルムの法院の寮で
何を選んでも、イルラギースの足許にもおよばないくせに、馬鹿なやつらだ。
彼らがやがて遭遇するだろう挫折をおもうと小気味よかった。
十二歳のイムナン・サ・リは、不幸な少年だった。
兄たちの去った館は、しんと静まりかえっていた。耳障りなクスクス笑いも、廊下を駆け回るにぎやかな
世界は堅固に彼のまえに立ちはだかり、イムナン・サ・リは夜の
少年の日常は、家業の使い走りで過ぎてゆく。
大人になりかけの心も身体もぎこちなく、すべてがちぐはぐで制御できないまま、少年時代はながく、永遠につづくかとおもわれた。
書斎兼用の図書室が、今も昔も少年の安住の地だった。
「おい、サ・リ。お前にまかせた計算書、でたらめもいいところだったぞ」
リザイツェオーン家の誇る所蔵本を積み上げて長いすに寝そべり、、うつくしい装飾文字の海を泳いでいると、イルラギースの声がした。
「……」
カールした黒髪は少女のように肩を覆い、少年の顔をほとんど隠していた。少年は天然の面紗のむこうから空目遣いにちらりと見たきりで、再び彼を魅了してやまないバラグラフに目を走らせた。
「サ・リ。いい加減にしろ」
とうとう秘蔵の希少本、プリニウスの『博物誌』が奪い取られた。
「返せよ」
イルラギースは、この本がここにある奇跡をわかってやしない。遠い、遠い母星のまだ文明が若かったころから語られてきた怪物や混合人間たち。なんという幻想の世界。きらきら光るだけの石ころより千倍も価値があるというのに。
「何故、そのようにだらしのない格好をしている。髪を
今にも胸座をつかまれそうだったので、しかたなくイムナン・サ・リは身体を起こした。
起き上がるのを待っていたかのように、イルラギースが隣に座った。厭な予感がした。今日の説教は、ながくつづくだろう。何かが、彼のおこなった些細な悪事がばれたんだろうか。
「お前の計算書は、帳尻合わせだけは完璧だった。だが、字も汚いうえに、帳簿と伝票の個々の取引がすべてがごちゃまぜで、まるであっていなかった。だが、やけにすっきりとした取引がひとつあった。ホーヴァン商会からの仕入れだ。うちの得意先じゃない。調べたところ、宝飾品など一切あつかっていない古書籍商だった」
「うちから本を買いたい変わった顧客がいたんだろ」
「ほう、ではまだ納品されていないようだな。大切な商品がなぜか我が家の書庫に紛れていたぞ」
まるで手品のように、やはり地球時代からの贈り物であるアリオストの『狂えるオルランド』の写本が、イルラギースの懐中から出てきた。
「これが、そこそこの宝石ひとつの値に相当するとは、好事家というものの気がしれないな」
イムナン・サ・リは、いまや貝のように口を閉じて、そっぽを向いていた。心のなかの舌打ちが聞こえるようだった。
殴られるだろうか。かまいやしないさ。
少年は、心のうちで
「では、納品先もないようだから、これはわたしから返品しておこう」
写本はまた懐中にもどされた。イルラギースの声は悲しそうだった。悔恨の念からほど遠い少年もいいようのない不安な感情にとらわれた。
沈黙が、拷問のようにつづいた。
やがて、イルラギースのながい指が、『博物誌』をぺらぺらとめくった。
「親父やファーセルについて、谷へ行ってみないか。お前の興味を引くものがたくさんあるはずだ」
「いやだ。ファーセルはともかく親父は嫌いだ」
「何故、そんな風に言うんだ」
「あなただって、本当は嫌いなんだろ。あの鼻につくエゴイストを」
異母兄は同意も否定もせず、ただため息をひとつついた。
「では、わたしもお前とともに谷へ行こうか。どうだ、サ・リ」
少年は横を向いたままで、その話はそこで終わりだった。だが、その言葉をイムナン・サ・リはずっと覚えていた。記憶のなかで何度も何度も繰り返した。
「タンジの工房に発注書を届けたら、寄り道せずに帰ってこい」
去り際に、背を向けたままイルラギースは言った。そう言ったあと、また振り向いてつづけた。
「今夜、わたしはアルムロス邸に招待されている。もともとは両替商だが、彼は手広く貸付業を行っていて、独自の手形を発行している。ガルムの法院でも彼らの産み出した新たな商慣行は論議の的だ。遙かなるティノティワカンの遺産はくだらぬ文芸書ばかりで、実務書はほとんど運ばれなかったからな。何人かの法学の徒が招かれた。お前も来るといい。古いギルドを食い物にして、自ら上流階級に這い上がろうという金融業者たちが顔をそろえている。皮肉なことに、彼らのような成金趣味の輩は我らが稼業にとっては上客だ。淺知恵を働かせて帳簿をごまかすよりも、まずは顧客の顔を覚えておけ」
(弐)
その錠前屋の若者セレンは、イムナン・サ・リにとって初めての師であり友であった。
ダウンタウンの職人街の宝飾職人たちのもとに使いに出るついでに、いつのまにか古書をあさりにあやしげな
巨大な螺旋の下層へと進むにつれ、建物は細長く縮こまり、互いに寄り添うように密着して、やがて巨大な建造物の集積体となっていた。
その最下層の蜘蛛の巣のような路地の入り組みは、上部の集積物に埋もれてあらたなる地下都市に変容しているのだった。
陽も満足に差さぬ貧民窟は、
この界隈には魔窟にふさわしい住人が住まい、良家の子弟が出入りするようなところではなかった。少年の感性は街の持つ悪意を敏感に感じ取った。
そして、彼は恋した。
錠前屋の狭い店先で若者のつくる鍵と錠の精緻なうつくしさに。その見事な芸術性と実用性に。
宝石は極上の
タルクノエムの下層階。ひかり届かぬようなこの場所にも夕日が差し込んできた。
少年は、錠前屋の上階にある小部屋のベッドからもぞもぞと起き上がった。
錠前屋の若者、セレンはまだ
錠前屋は彼が何ものであるか誰何しなかった。少年が彼の錠前に恋したように、錠前屋も少年の錠前破りの腕前とその未熟な肉体を愛した。
「俺は仕事柄いろんな悪い奴らを知っているが、お前は俺の知っているどんな悪党より、とびきりの悪人になるだろう。どこの金持ちの坊やだか知らないが、先行きが楽しみな餓鬼だ」
少年のまつろわぬ瞳を覗きながら、若者は言った。
錠前屋は若く、その肉体はしなやかで、力強い腕と繊細な指先を持っていた。
ベッドのうえで
なによりも、セレンが生来持っている冷ややかで無自覚な悪に少年は心ひかれた。その空疎な眼差しと彼に対する無関心さも心地よかった。
さすがの若者も、少年がタルクノエムの上層にすまう
帰らねばならない。帰らなければ、ここでこうしていることがばれたら、それこそイルラギースに殺されるだろう。
それに、イムナン・サ・リは知っていた。
夜になるとセレンの本当の恋人が訪れる。どこか醒めた昼の顔とは別に、若者は身を滅ぼすほどの情熱を隠し持っていた。
彼の運命の恋人は、彼の雇い主である悪党の情婦のひとりだった。
錠前屋は錠前破りから銃器の改造までその卓越した知識と技能を悪党たちに提供していた。どのようないきさつで女と馴れ初めたのか。彼らとの暗い接触のなかで知り合ったのか、はじめから若者を引き入れる残酷な罠だったのか。
ただ、女の胸許には、彼らの所有物であることをしめす刺青がほどこされていた。
午睡の前の戯れのなかで、少年は若者の心を、情熱の在処を見つめて、彼の不幸な恋を知った。
血塗られた未来がそう遠くない日に訪れるだろう。少年は、若者が女の心変わりを恐れるよりも、自らの身の破滅を待ち望んでいることも知っていた。
沈みゆく太陽は呪われたように蒼く、沈むにつれて巨大さを増して、とうとう空全体に広がったかのようにみえた。プラズマの結界に守られているとはいえ、禍々しさには変わりなかった。
だが、やがて、完全に沈み込み、太陽の巨大な鏡である月が、ラ・ウの右目が、夜を支配するだろう。
(こちらだ。イムナン・サ・リ)
(光はこちらだ。お前の住む世界はここだ。明るい方へ来い)
僕は、どこへ行けばいいんだろう。どこへ。
何もみえないんだ、イルラギース。あなたの心すら。
少年は愛に包まれた記憶がなかった。
それは、記憶の欠落のせいではないと確信していた。
事実、滅亡したあの一族のものに愛されたことがなかったのだ。何故わかるのか。答えは自明だった。彼という存在の根源にかかわるからだ。
どっちつかずの余分な存在。
おぼろに覚えている。あの異質な一族のなかでもさらなる異質なものとして忌まれていたことを。それはここでも変わらない。
父は生まれる前に彼を棄てた。その事実を知ってから、それまでの無関心さをかなぐりすてて憎むことにした。まわりはすべて敵で、ただイルラギースだけが、ひとり彼の庇護者だった。
かすかに覚えている虐殺の、それ以上に恐ろしい陽のひかりで焚き殺そうという磔刑の、あの圧倒的な暴力すら霞んでいく。自分が望まれない、必要とされない人間であるという事実からは。
火傷の後遺症で寿命にすら影響があるかもしれないと聞かされていたが、少年にとっては、願ってもないことだった。
(お前はこの世の地獄を生き抜いた。強く、選ばれた人間なんだ。だから、耐えなければならない。その孤独に)
もっと幼いとき、すべてに耐えられなくて泣くと、イルラギースはよくそう言ってなぐさめた。少年は強くなんてなかった。人のうちなる欲望が勝手に聞こえるだけだった。人の心のいやしさを見透かせるだけだった。世界は悪意に満ちて、重く彼にのしかかる。
はじめてその身にうけた愛すらも暴力的だった。
セレンは決して粗暴な男ではなく、繊細さが勝っていた。それでも、他者を支配する優位性、圧倒的な力による統制こそが愛というものの本質なのだと少年は理解した。
今も、何かに怯えて、逃げ続けていることに変わりはなかった。組鐘塔のカリオンが創世を思わせる妙なる調べを奏でるなか、目をつぶってでも歩けるタルクノエムの奥深い街路を、彼の心象風景そのままに
(参)
「遅いぞ」
帰ると、白銀のロープをはおったイルラギースがホールで彼を待っていた。イムナン・サ・リをその視野に捉えるのを恐れるように、窓辺に立ち、背を向けたまま。
使用人たちに身支度を調えられた。ぼさぼさの長髪は苦心のすえ、三人がかりでポンパドール風に前髪をねじり上げられ、そのうえにちいさな円筒帽が置かれると、異国の王子のようだと使用人たちは口々に
あたらしく卸されたシャツは、藍とも黒ともつかぬ地に金色が浮かび上がるモアレの生地で、全体にうつくしい刺繍がほどこされていた。その煌めきがなるべく見えないように持っているなかで一番地味なローブで全身を覆った。それからイルラギースとともに銀色の馬車に乗った。
アルムロス邸は、ミドルタウンにあった。植樹の多さが目につく小庭と白亜のこじんまりとした細長い館は、豪商たちの邸宅とは違う趣をみせていた。館のあるじは、イルラギースによれば、その人柄も
そのささやかな
タルクノエムの上層階で催されるような
軽業師たちの曲芸もどこか控えめにみえた。
信心の薄いタルクノエムで僧侶のごとく敬われる前途有望なガルムの法学者の一団が招かれたのは、このような招宴だった。
できるだけ心地よく設えられた会場のなかで、ただひとり居心地の悪さを感じながら、イムナン・サ・リは部屋の奥の長いすにうずくまるように座っていた。
(どうした。そんなこともできないのか。ちびのイムナン・サ・リ。女みたいなイムナン・サ・リ)
イレージェとセツの彼を
イルラギースは学友たちと談笑している。そのまわりをこういった場にお決まりの女たちが囲んでいた。
少年が見るのも飽き飽きした光景。
あの場にいる女たちは、顔ぶれは違っていても中身はいつも同じだった。イルラギースと寝たい女か、イルラギースがすでに寝た女のどちらかだった。
「気持ち悪い」
間違ってカクテルを口にしてしまったらしい。ただでさえ、人に酔うというのに。
少年は、ふと視線を感じた。
広間の扉の近くに、甘い顔立ちの少女が今やって来たばかりのように立っていた。
落ち着いた暗褐色の巻き毛、そして
少女は少年を見つめていた。ただ、少年だけを。
その時、少年の鈍重さで鎧われた繊細な心と身体に痛みにも似た閃光が走った。
端的にいえば、恋に落ちたのだ。愚かにも。荒んで淀みきった心根に、そのような柔らかな感情が残されていることが、当人にとってなによりも驚きだった。よりによって、相手は自らから最も遠いもの、花のように愛らしい乙女なのだ。
少女は痩せて小柄なだけで大人の女性のようにもみえたし、本当に年若い少女のようにもみえた。そして、生き生きと悪戯に輝く瞳は少年だけをみていた。
やがて少年と目が合ったことがわかると、そのままこちらへ進んできた。まっすぐと。
イムナン・サ・リはかつてないほどの胸の高まりを感じていたが、それは慣れぬリキュールを口にしたせいだと自分に言い聞かせた。
「みつけたわ。わたしの黒い巻き毛さん」
そんなふうに呼びかけられると、イムナン・サ・リは膝を抱えて、こっそり階段下に潜り込んでいる幼い少年になった気がした。
むかしの人は黒が美しいとは思わなかった。よし、
そう思っても、口に出して美しいとは言わなかった。
だが、当今では、黒が美の相続人になりあがり、
美のほうは、私生児めなどとあしざまに罵られている。
少女は、賢しらな表情でからかうように
「ああ、黒の貴婦人(ダーク・レディ)だね。シェイクスピアの。ずいぶん古いものをきみは知っているんだね」
そういうと、少年は顔を翳らせた。
「きみも僕が女みたいだとおもうの」
少女は、ふふっと笑った。
「では、これではどう」
きみの顔は自然がみずからの手で描きあげた女の顔だ。
わが情熱をつかさどる男の恋人よ。
女のやさしい心根はあるが、不実な女どもの習いである
移り気などはついぞあずかりしらぬ。
「詩人の同性愛の恋人よ。少年ではないかともいわれているわ。彼は詩人を裏切って、詩人の愛人である黒の貴婦人と結ばれる。
「ずいぶん詳しいんだね」
少年は、もはや愚弄されたとは感じていなかった。少女の博識ぶりに素直に感心し、目の辺りの才走った驕慢さすら好ましいと感じた。
「わたしの父はサイラスへよく行くの。行くたびにわたしのためにあたらしい本を手に入れてくれる。太古のむかし、テオティワカンの王宮にあったという書物の写本もあるわ。良ければみせてあげる。今すぐにでも」
「いいけど、僕はきみがだれかも知らない。この近くに住んでいるのかい」
酔いは舌を軽くしたが、同時に頭がぐらぐらと重くなってきた。
「ああ、ごめんなさい。わたしはエフェルメ。この家のものなの。あなたのことは知っているわ。招待客のリストのなかにあった、もうひとりのリザイツェオーン家の若君でしょう。イムナン・サ・リ。恐れ多くも、タルクノエムの初代の王とおなじ名前」
なんだ、初めから身許を調べられていたのか。少年の残された理性は警報を鳴らしたが、その時点で目のまえの少女の顔が揺れ始めた。
「すてきなシャツね。寸法もぴったりだし、手が込んでいて、あなたにとてもよく似合っている。まるで恋人が選んだみたい」
少年の記憶はそこでいったん途切れ、目が覚めると、そこはみたこともない部屋のベッドだった。甘い香りと花模様とフリルで飾られた調度。
「王子様は、お目覚めかしら」
先ほどの少女、エフェルメがいた。どこかおもしろがっているかのような表情だった。
「ここはきみの部屋、だよね」
イムナン・サ・リは、あわてて起き上がった。
「ええ、そうよ。なんだか気分が悪そうだったから、支えてきてあげたのよ。あなたは部屋につくなり倒れてしまったわ」
「ごめん。きみの時間を無駄にしてしまった」
「大丈夫よ。そんなに時間は経っていないわ。会場も、いまは
少女の手がつめたい水を口許に運んでくれた。
「ありがとう」
礼をいいながら、少女の精神の瑞々しいまでの健全さと誠実さを少年は間近に感じた。あまりに自分にそぐわないものだった。
少年の心が静かに沈み始めたことを打ち消すかのように、エフェルメは語り始めた。アッパータウンでの寄宿生活の話だった。少女はおもったより年上のようだった。良家の子女のあいだで、しがない両替商の娘として
「その
商家にうまれたものは、良い耳と滑らかな舌を持たねばならない。
言葉に関しては、少年の学ぶことは多くあった。タルクノエムの公用語である
だが、エフェルメの話す言葉の内容は、その感性の瑞々しさは、少年の理解を超えていた。
ただ、心に滲み込むように心地よく流れた。風にそよぐ木々の葉音、鳥のさえずり、水のせせらぎにも似た調べで。
気がつくと、エフェルメの栄光に満ちた輝かしい顔が目のまえにあった。
「わたしたちもキスをしましょう。友情の証として」
「ちょっと、待ってよ。きみの言うことはまったく良く解らなかったけど、純潔の誓いとやらをしたんだろ」
「誓いは破られるためにあるのよ。わたしと友だちになりたくないの」
「ごめん。僕はあまりそういうことは好きじゃないんだ。それにきみは僕がこわくないのかい。僕がなにかきみを痛い目にあわせるんじゃないかって思わないのか」
イムナン・サ・リは、ながい午後に錠前屋に刻まれた感触を思い出して、ぞくりと身を震わせた。
「あら、あなたはちっともこわくないわ。こんなにやさしい顔を、こんなにやさしい目をしているんだもの」
エフェルメの指先が、イムナン・サ・リの髪をすくって隠された瞳を露わにすると、少女のようにふっくらとした薔薇色の頬をなぜた。
「では、友情の証としてどうすればいいかしら」
「わからない。でも、僕は、ただ抱きしめてほしかったんだ。ずっと前から、だれかに」
少年は口に出してみて初めて、自らの心からの願望を知った。
今までのからかうような態度は影を潜めて、エフェルメは真摯な笑顔を彼にむけた。
「わかったわ。三十秒だけあなたを抱きしめてあげる」
少女の抱擁は、やはりそのリズミカルな口調とおなじで、なにか心地よいもののさざめきのようだった。
懐かしい。ぼくは、この感覚を以前知っていたのだろうか。
少年は、心のなかの剥落した記憶の頁をめくった。
答えは、すぐに出た。否、否、否。
物心ついた頃から父方に拾われる前後の幼年期の一章はところどころ文字が抜け落ちて判別しがたかったが、その頁をぱらぱらとまくり上げるのは、底知れぬ求心力で渦巻く恐るべき虚無。それが彼の人間性の
恋と呼ぶにはあまりに幼く淡い感情だったがために、未来については悲観的な所見しかもたぬ少年も、その先にある悲劇を読み取ることはできなかった。
(四)
タンジの工房で、イムナン・サ・リはそれをみつけた。金の鎖に留められた愛らしいちいさなまるい石榴石のペンダント。
今まで装飾具の類には興味はなかったが、どうしても手に入れたかった。赤いちいさな輝きを横目でみながら、それを掠めとる算段を考えていると、老タンジが振り返った。
「おや、さすがリザイツェオーン家の坊っちゃんは目が利く。その石榴石は、ニョークの街道のはずれ、ザッハスの谷のものです。このような深紅のものは滅多にとれません」
それは、煌々と輝くちいさな熾火、一顆の血の雫。誰よりもあの少女の胸許に似合いそうな気がした。
「今まで、まじめに仕事をされていたから、よろしければ差し上げましょう」
イムナン・サ・リは、まっすぐ家路に向かった。その掌の内側のちいさな革袋のなかには赤い雫のペンダントが収められていた。
帰ると、来客がある様子だった。ホールの奥のちいさな客間から、良く知っている声と最近知った声が漏れてきた。声はひそひそとさざめき、くすくすと笑い合っていた。イムナン・サ・リは少しひらいたドアをおそるおそる開けてみた。
「おい、サ・リ。お前に客だ」
イルラギースが窓を背に立っていた。めずらしく機嫌のよさそうな笑顔を浮かべて。
陽光を受けるかたちで、イルラギースに向かい合っていたシルエットがゆっくりと振り返った。
「ご機嫌いかが、イムナン・サ・リ。あなたに約束していた本を届けにきたのよ。フレイザーの『金枝篇』。すべてそろっているわ」
エフェルメが振り返った。その微かに赤みの差した頬から、少年は彼の初恋があっけなく終わったことを悟った。
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