第六話 燔祭

(零)


 躊躇ためらいいなく、レィヴンは目前の巨大な暗雲のなかに突入した。

 強い衝撃とともに輝くチタンの翼がその渦に巻き上げられると、人と機体はバラバラとなってはじけ飛び、肉体がひらりと宙に浮いた。その刹那、時がその流れを変えたかのように、すべてがゆっくりと旋回した。

 暴走する熱風、降り注ぐ巨大なひょう、青く走る雷光。すべては大いなる竜の咆吼ほうこうのただなかにあった。暗闇のなかでも熱と氷と電撃の嵐が彼の愛機を瞬く間に空中分解したことが解ったが、生身の人間として当然与えられるはずの痛みも四肢が引きちぎれるような感覚も感じなかった。


 俺はもう死んでいるのか。意外とあっさりとしたものだ。

 そう、男が思ったとき、その声は聞こえた。


 「なぜ、死を選んだのか」

 「なぜって退屈だからさ。こんな死にかけの星でじりじりと緩慢かんまんに飼い殺されていくのは耐えられないからな」

 身体がゆっくりと巨大に渦巻く暗雲を周回する。一周ごとに外周から中心へと近づいてゆく。

 「ところで、お前は誰だ」

 「名は数えきれぬほどたくさんある。そうだな。君にはアルファでありオメガであるものと言っておこう」


 (聖なるかな、聖なるかな、聖なるかな、全能者にして主なる神。昔いまし、今いまし、やがてきたるべき者)


 「ふん、神の名をかたった悪魔といったところか。まあ、いいだろう。どうせ行く先は決まっている。魂が地獄の深淵しんえんちるまで、退屈しのぎにつきあってやる」


 「わたしは神でも悪魔でもない。わたし自身は本来人間の善悪など感知しない。わたしはただ流れる。この宇宙の悠久を。ゆったりと、ゆるやかに、その初めから終わりまで。わたしは閉じられたひとつの宇宙の永劫アイオーンに過ぎない」

 「時の翁(ファーザー・タイム)なのか。その大鎌で俺の命を刈りにきたのか」

 「そのような名で呼びたければ、それもよかろう。一方で、わたしは君自身でもある。密やかにしまい込まれた、君のうちなる良心のみせる幻影ファントム


 いつのまにか、男の身体は嵐の中心部が見渡せるところにまで到達していた。

 ぽっかり空いた旋風の目のなかで、昼半球の中心で、核融合の人工太陽を抱く聖塔は、プラズマの青紫せいしに包まれながら自ら放つ熱でかげろい、属性アトリビュートであり、寓意アレゴリーである姿に変化した。神の御位に挑むオベリスクにも、天空への憧憬をたたえたカテドラルにも、屹立きつりつする巨大なファルスにも。


 「それがお前自身か。ずいぶんと低級な神だな」

 男は鼻先で嘲笑あざわらった。所詮俺が受ける啓示エピファニーはその程度なのだ、と。


 「わたしは君たちがおもっているほど、崇高でも下劣でもない。おもうに、かなり中立な立場だ。君たちはおもしろい生き物だ。失うには少々惜しい。まず、自らを、そしてわたしを発見した。他の生き物は自我など持たない。種としての存在を危険にさらすほどの狂気にも似た自由意志なぞ持たない」


 「だが、自我という狂気をうちに抱えながら、お前たちはこれまで滅びることはなかった。なぜなら、わたしを、この宇宙を揺蕩たゆたう一片の知性を見つけたからだ。そして、わたしをそのちいさく幼い魂のうちに取り込もうとした。天啓てんけいはお前たちの魂に内包され、やがて自我を超えて良心の声となった。種としての知恵づきのころから、文明の頑是無がんぜなき時代から、自らのうちなる善悪の裁定を捉えうるかぎりの宇宙の森羅万象に重ね、さらには群れのなかで普遍化した。禁忌と呪術、規範と戒律、そう信仰の始まりだ。もちろん、それは時に暴走する。個人としても集団としても。だが、たいていは正しく機能した。どの時代も、むしろ動乱期にこそ、人類は星辰の彼方にわたしを求めた。わたしは君たちをみつめ、君たちもわたしをみつめてきた。もはや、我他彼此がたひしの境なく。お互いにその精神の奥深いところで感応しあい、まさに相思相愛の関係だった。わたしは少々残念だよ。この宇宙から君たちを失うのは。わたしはまた孤独になってしまう」


 「だから、もう一度チャンスをやろう。君と人類とに。これはわたしが見せる二度目の奇跡だ。天地創造以来の……」


 「君は未来をることができる。そして、視たんだね。君の行く手でおびただしい血が流れる様を。蒼黒の六翼と千の眼を持つ君は殺戮さつりくの天使となり、愛する者をも殺めるだろう。それが、君が君を殺そうとした本当の理由だ。だが、君は生き続けなければならない」


 「目覚めると、君のあたらしい能力が開花する。君とその後裔こうえいに対するわたしからのギフトだ。君は無力さにあがきながら、わたしに挑みつづけ、うちなる良心に脅かされるだろう。君は、その使命と魂の安寧あんねいの狭間で揺れつづける……」


 いまや、男の意識はゆるやかに眠りにつこうとしていた。だが、その前に宣告することがあった。

 「ずいぶんと勝手な御託ごたくを並べているな、爺さん。いいだろう。その話に乗ってやろう。だが、ただひとつ条件がある……」


(壱)


 カルダーダ祭は、最終夜である第五夜を迎えていた。

 岩の森に設えられた舞台では、無慈悲な太陽に白鳥の娘がその身を捧げるという舞踏劇、「レッド・スワン」が演じられる頃合いだろう。過ぎ去った夏へ向けられた郷愁と情熱の渦は、いまや最高潮に達しつつあった。


 祝祭の熱狂とは無縁の男がひとり。集落のはずれ、おのが庵居あんきょのそばの岩陰にたたずんでいた。


 ひとつの影が近づいてきた。


 「魔術師よ、おるのだろう」

 なめらかさに欠けた、振り絞るような女の声だった。

 「ドゥルサーラ様、これはお珍しい」

 イムナン・サ・リは、予期せぬ客を迎えた。


 「そなたは、なぜここにいる」

 長らくファディシャの寵愛ちょうあいを独占してきたこの妾妃は、祭典にふさわしく装い、凄惨せいさんなまでに美しかった。切りそろえられた黒髪のしたのこぼれ落ちそうなトパーズの瞳。その蠱惑的こわくてきな眼差しは、端正でむしろ男性的なそれ以外の造作ぞうさくとほどよく調和していた。暗色の肌を引き立てる金の装飾具がその歩みごとにおおきく揺れる。

 「人熱ひといきれは苦手な体質たちですので」

 魔術師は、静かに近づいてくる女の真意を見定めるように眺めた。

 「……なるほど、不実な男だ」

 女は夜そのもののようにつややかに美しく、この谷にすまうすべての魔性のものと同じように微かに毒を含んでいた。長い黒髪が独立した生き物のようにうねり、細身だが美しい曲線を持つ孤影シルエットが浮かび上がる。

 「おや、今晩はずいぶん饒舌ですね」

 この奇跡のような玲瓏れいろうさを誇る妖女が、あるじ以外には滅多に口を開かぬことは承知していた。


 「……心を読まれるのは、真っ平だ」

 魔術師の目前に、ゆっくりと女の顔が近づいてくる。


 その幽鬼ゆうきのごとき双眸は、爛々と輝いていた。その眼光だけで魅入られた者の息の根をとめることができるほどに。


 「妖術使いよ、我が想いを知れ」

 死に誘いこむような口づけだった。

 男は女の細い肩を引き寄せると、躊躇ちゅうちょなく求めに応じた。

 その瞬間、女の顔が引きつった。

 魔術師の腕のなかで身を離そうともがいたが、両腕の自由を奪われて身動きが取れなかった。一方の手は後ろ手にからめ捕られ、男の首に廻された方の手はよりつよく捕捉されていた。

 男はようやく唇を離し、捉えた女のほそい手首をひねると、毒液の滲み出す長くとがった爪を眺めた。


 「なるほど良く研がれた爪だ。この甘く苦い香りは、おそらくサマンダリンか、それに類するもの。火蜥蜴サラマンダーの毒ですね。アルカロイド系の神経毒で、ほんの小量でも呼吸が止まる。わたしの大好きな小道具のひとつです。この毒爪で喉を掻き切られた者は、悲惨な末路をたどることになる。わたしを誘惑するのにこのような媚薬をつかうなんて、なんて気の利いたお方なのでしょう」

 男はその毒爪をもつ手に唇を寄せて、ちいさく口づけた。その瞳に凍りつくほどの官能の色をたたえて。


 「うつくしいあなたに殺められるのもまた一興いっきょうですが、あいにく、魔物退治はわたしの本分。並のあやかしには負ける気がしないのですよ。あなたは、わたしにたおされに来たのですか」

 男がさらにきつく手首をねじると、女の袖口がめくれおちた。その暗い色合いの腕先にはぬめりとした不揃いな紅斑が光っていた。

 「初めから、殺気が勝っていましたよ。美しきサラマンダーの女王よ」

 秘密を暴露ばくろされた女は、恥じいるように顔を背けた。


 魔術師は女を抱きしめたまま、その両手を後ろ手に押さえると、片手で、女の顎を捉え正面にむけた。いまや戦慄おののきを映した瞳が目の前にあった。

 「お互いに微妙な立場ですから、情熱的な口づけは一夜の思い出として、この逢瀬おうせはふたりだけの秘密にしてさしあげましょう。あなたが、わたしを消したい理由を教えてくだされば、の話ですが」

 捕捉者の指が、囚われた女の唇をゆっくりとなぞった。冷たく残酷な余韻を楽しむかのように。

 「あなたが、生まれながらの暗殺者とは、ね。なるほど、我があるじ好みの危険なひとだ。あなたが他にどのような毒牙を隠しているのか知りたくもありますが、それはまたの機会に」

 「……放せ。呪わしき妖術使いにあれこれ言われる筋合いはない」

 「まだ、質問にお答えになってませんよ。そうやってわたしをじらすのなら、あなたの心のやわらかなひだに入り込みましょうか」


 魔術師は恐怖にかぶりをふる女の顔をじっくりと眺めた。やがて、女は観念したかのように口を開いた。


 「そなたのせいで、空の封印が解けぬからだ」


 魔術師は、微かに目を見開いた。

 「それを何故ご存じなのです」

 「我が君は、初めからすべて承知している。ご自身や妹君の生まれついての宿命も母君から聞かされている。そして、そなたの本当の素性も我があるじはお見通しだ。お前がサイラスの王宮からの闇の使者だということも。身をうちからけがす毒と知っていて、そなたを飼っていた」

 「わたしも、あなたから蛇蝎だかつのごとく嫌われていることは承知していました。そして、正直あなたが邪魔だった。いわば、同族嫌悪でしょうか。そのわたしにこのような色仕掛けで近づくとは、よほどの決意なのですね」

 「黙れ。そなたのいつわりの忠誠などとは違う。この世のすべてから忌まれ、親にも見捨てられて、宿無しだったわたしをファディシャ様は拾ってくださった。以来、ずっとともに生きてきた。いまや魂も混じり合うほどに」

 「だが、今このときも、あなたのあるじの傍らに控えるのはあなたではないでしょう」

 「……。何も知らぬのだな。あのお方とあの巫女とはお前の思うようなみだらな関係ではない」

 「あなたがそう思わされているだけでは」

 「我が君をおとしめるな。そなたのように不実で下賤げせんな人間には解らぬだろうが、ファディシャ様は他の男を愛している女には興味は持たぬ」

 魔術師は、放たれた言葉の刃にわずかに眉をひそめて返した。

 「あなたは、わたしを責める材料をたくさんお持ちのようだ。では、本題に戻りましょう。あなたは何故空の封印を解く鍵を切望するのです。あなたはすでに闇に生きるものなのでしょう」


 「すべては、生まれ来る我が子のため。ファディシャ様も同じ想いだ」


  魔術師は予期せぬ答えにほんの一瞬だけ虚を突かれたが、すぐにすべてを呑み込んだ。


 なるほど、ファディシャがあの巫女に操られ、今まで抗っていた運命にすら従順となったようにみえるのは、なんのことはない。まだ見ぬ世継ぎへの情ゆえか。いずれにせよ、あのお方の虚ろな心を懐柔するとは、あの女、よほどの餌をあたえたのだろう。光あふれるままに、無限の可能性を秘めた未来、そんなところか。なんたる絵空事。わたしとはまるで縁のない。


 「ならば、ファディシャ様が直接お命じになればいい」

 「素直に聞くそなたではなかろう。妹君を連れて逃げられては元も子もない」

 魔術師は、その言葉を認めるかのようにあっさりと拘束を解いた。

 「そろそろお帰りになられた方がいい。大切なお身体が冷えましょう。あなた様にラ・ウのご加護のあらんことを」


 魔術師は、空を見上げた。

 ラ・ウの瞳が目を眇めて、地上の事象をあまねく凝視していた。

 いずれ、はかなく消えゆく者たちをその脳裏に刻み込むかのように。


 月影よ、おいで。

 魔術師がヒューッと口笛を吹くと、いななきとともに愛馬が駆けてきた。

 男は、いまだ放心の態にある妾妃を抱き上げた。

 「な、何をする」

 「やはり、気が変わりました」

 魔術師は、にっこりと笑った。

 「舞台を見に行きましょう。まだ間に合うはずです」


(弐)


 それは、光と影の野外劇パジェントだった。

 巨大な四阿ガゼボにも似た石造りの円形舞台。

 いやむしろ、超古代の巨石神殿に近い。


 暗闇のなか、突如鳴りとどろく銅鑼くすびの音が、巨大な一柱の霹靂かみとけとなって世界に撃ちおろされた。衝撃の鞭が大気と大地を伝って見るものの聴覚を一瞬奪い鼓動を激しく震わせると同時に、舞台前に激しい火柱が幾筋も立ち上がり、ひとりの少女の完璧な肉体を露わに照らした。


 逸る軍鼓。

 高ぶる青銅琴グンデル

 そして、すべての緊張を解き放つ胴拍子シンバル

 激しく打ち鳴らされる官能のリズムのなかで、岩の柱に幾重にも張り巡らされた紗幕は、火の輪のバトンを持つシャドウ・ダンサーたちの影絵を幻想的に捉える。

 ただひとり、舞台上にその生身の姿を現すのは、王妹ゲイルの演じるレッド・スワンのみだった。

 影絵の織りなす幻惑のなかで、少女の生命が、その確固たる息づかいが、その鼓動の高まりが、圧倒的な存在感で場を支配した。


 群衆のなかに、少女は取り巻きに守られた新王ファディシャとその正妃ルー・シャディラの姿を認めた。だが、愛する男、あの軽薄な魔術師はやはり来ないのか。

 

 赤い羽根飾りとビーズのついた衣装をまとった赤毛の少女は、篝火に煽られて燃えるようにうつくしかった。そのうちなる情熱を抑制した所作も、柔らかに羞じらう表情も、孤独にうち震える魂も、すべてが夢幻のうちの確かな現し身として輝いていた。

 ふいに、打楽器の演奏がやんだ。

 静寂のなか、少女はその伸びやかな肢体で奏者の熱情を引き継ぎ、その愁いに満ちた瞳で無言歌メロディを奏でた。その恋と別れにまつわる哀切なる譚歌バラッドを。


 秘めやかに、すべての者の心の襞に滲みいるように、深く、深く……。


 

 ラ・ウは見つめる。この地上のすべてを。


 北の都、ガムザノンでは、ナビヌーンが同盟者からの密使を迎えていた。密かな盟友から送られたタルクノエム製の精緻な地図を手に、年若い部族の長は、配下の武人たちを交え脱出路について評議をかさねた。


 若者はふと想いに囚われた。この危機にあって、あの魔術師が自分の片腕であれば良いのに、と。あの美貌も、策略も、裏切りも、男に纏わるすべての記憶が愛執あいしゅうにも似た感情を呼び覚ます。次の瞬間、ばかげたことだと頭のなかから振り払った。



 タルクノエムでは、要人たちの悲報が続いていた。温厚なギルドの重鎮じゅうちんが終末を叫びながら自死したのを皮切りとして、うつくしい貴婦人の情事のさなかでの死、若き商人の路上での無惨な斬死。実務派の暗殺者の死のヴァリエーションは、あまりに多彩な様相をみせていたので、社交界には下世話な噂話を、その射程の圏内にいる者たちには血も凍りつくほどの恐怖を提供した。


 ラ・ウは、知っていた。

 死の前日、敬虔なるオメガ教徒の紳士淑女が盗品流しの素性の知れぬ老婆を密かに自宅に招き入れたことを。老婆は、無論かの変幻自在な武器商の変装だった。いわくつきの宝飾品と知りながら、老紳士は孫娘のために、貴婦人は自分自身のために、若者はうつくしい新妻のために購入した。その取引の対価を自らの命で購うことになるとは知らずに。


 また、流浪の皇妃が、魔術師の媒で、ねぶりのうろ斑雪はだらゆききみらに迎えられたことを。闇を統べる女王として、終末の日まで彼らの許でしばしの休息を過ごすことを。



 ラ・ウの瞳が、再び舞台上の少女を捉えた。


 少女は舞う。限界など知らぬ肉体を解放して、高く、高く、跳躍する。数多の黒い触手が伸びて、彼女を捉えようとする。


 その頃。

 遅ればせながら到着した魔術師は、当代一の美女にてあるじの寵姫を一段高いところにある即席の貴賓席に誘導した。

 王はその意外な組み合わせに怪訝けげんそうに片眉をあげたが、その手をまっすぐと妾妃に差しのべた。それより一瞬早く王妃はさっとその優位性を譲って、うつくしき闖入者ちんにゅうしゃを自らの仮の玉座に押し込んだ。

 魔術師は優美に一礼して、その場を退出した。


 「姫君の舞台をご覧にはならないのかしら」

 思った通り、背後から女の声が追ってきた。魔術師は、肩越しにひどく冷たい視線を返した。

 「ここは頭が痛くて、耐えられない」

 少女の躍動を感じてみたかったが、もうすこし離れたところでないと無理だった。観客の昂揚こうようのうねりが直接脳裏に押し寄せてくる。

 「あら、泣く子も黙るウズリンの妖術使いがずいぶん軟弱なのね。それとも、それは人形遣い(マニピユレーター)のさがなのかしら」

 女の手が肩にふれた。イムナン・サ・リは、身を返しながらルー・シャディラのほそい手首をつかんだ。

 「この辺りで各々の役割をはっきりさせておきましょう。あなたは何を企んでいるのです」

 「ふふ、女をいたぶるのが得意なのね。知りたければ、わたしの心を読んでみればいい。あのときのようにね」

 女はみずから身体を寄せて、片方の腕を男の背中に廻した。

 ぞくりと心臓が飛び跳ねた。

 それは凍りつくほどの戦慄だった。今この瞬間にも、女は眉ひとつ動かさずに魔術師の命など軽々と握りつぶすことができるだろう。この女の魔力は底なしなのか。


 恐怖など滅多に感じたことのない魔術師は、おもわず後ろへ退いた。


 女は艶然えんぜんと笑う。

 封印された記憶のなかの魔王。

 闇のなかで、その闇よりもさらに暗い輪郭に目の前の女の相貌そうぼうが重なる。そして、それは何ものでもないおのれ自身のかおとなる。それは、欲望と憎しみ、自卑と羨望、脆さと狂気、そして絶えることのない痛み、タルクノエムで彼の魂を暗転させた出来事からその身を捉えて放さない、もつれた感情のさまざまな相を映した鏡像だった。


 慄然りつぜんとしながらも、魔術師はその幻影を見据えた。もはや、たじろがずに、まっすぐと。

 おなじ黒き瞳が交わる。時空がねじれて、さらなる遠くへ、無意識の底の幼き記憶のなかへ引きずり込まれそうになる。紅く、紅く染まった闇の底方そこいへ。


 「あなたは何ものなのです。それほどの力がありながら、あのとき何を望んであのようにわたしを受け容れたのです」

 波打つ胸の鼓動を押さえながら、男はまっすぐに問い掛けた。

 「同じ質問を返してあげるわ、イムナン・サ・リ。あの日の戯れは、あなたの好きな危険で背徳的なゲーム。あなたにとって、それ以上の意味はないのでしょう。わたしの答えも同じよ」

 女はそのうつくしい顔立ちをゆがませて、皮肉な笑みを浮かべた。清楚な面に生来の毒が滲んだ。

 「わたしが何ものだか知る前に、自分自身が何ものであるかを思い出せばいい。あのいかさまな予言者に消された記憶などたやすく戻してあげるわ。今すぐにでも」


 (あなたの一族は、ひとの手によって造られた、ひとならざるもの。超絶なる力とあまりの邪悪さゆえに滅ぼされた……)


 エフェルメの声が聞こえる。あれが耳からはなれるまでどれほどの時間がかかったのだろう。


 「結構だ」


 舞台のうえでは、レッド・スワンがシャドウ・ダンサーたちに捕捉されていた。流血の白鳥は、燃えさかる太陽の怒りを静めるための献げものとなる。


 「ひとはそれぞれ役割があるのよ。どうあがこうと、そこから逃げることはできないわ。どう抗おうとも、あなたも。あの娘も」


 しばし目を伏せて動揺を胸に収めると、男は冷たく澄んだ眼差しで妖艶に笑う巫女を捉えた。互いが仕留める獲物を目前にした捕食者の貌だった。

 獣たちの、夜の闇そのままの双眸が再び交わった。


 「心など見透かさなくとも、自明なことがふたつある。あなたは失った王国へ強い未練をお持ちだ。それは、わたしにとって痛みと憎悪しか与えないもの。逃げ出したくても決して解けぬ呪い。そして、もうひとつ」

 再び、魔術師はルー・シャディラをその腕に捕らえ、その柔らかい身体を引き寄せた。やるせない想いが、一瞬だけ女の眉の辺りに浮かんだ。

 「わたしへの執着。かつての許嫁いいなずけ約定やくじょうなどに囚われているとはおもえないけれど、強くしたたかなあなたが、わたしの腕のなかではたおやかで従順だった。正直、あれほどまでに欲望に溺れたことはなかったし、もう少しあなたを知りたくもあった。状況が違えば、わたしはあなたを選んでいたかもしれない。ありふれた恋人たちのように、愛し合うほどに喜びが深まっていくあなたを愉しんでみたかった」

 柔らかな抱擁のなかで、男が仕掛けてきた甘く残酷な罠。

 闇色の天鵞絨ベルベット外套マントがふわりと女の肩を覆った。静かに男の顔が近づいてくる。決して拒むことはできないと確信しているかのように、ゆっくりと。


 その言葉を信じることができれば、どんなに幸せだろう。

 そうやって、あなたは偽りの愛で人の心をあやつるのね。身動きができないようにからめとってから、あなたらしい非情さであわれな被食者の息の根を止める。

 卑怯よ、サ・リ……。 

 だけど、わたしはあなたの意のままにはならない。そんな空疎な愛の真似事ごときで心乱されはしない。


 その口づけも天鵞絨ベルベットの感触だった。

 虚無的で退廃の味がする唇がゆっくりと離され、幻惑の指がそっと女の髪を、頬をなぜた。

 男は一瞬だけ逡巡しゅんじゅんする。恐るべき魔力をもつ巫女は、その胸のなかに捉えてみると、まるでちいさな少女のように無力で庇護すべきもののようにおもわれた。放逸なるままに欲望に身を任せる者の常套つねとして、満たされ難さも醒めやすさも男にとって習い性だったが、思いも掛けぬ陶酔のなかで彼女の優艶さを耽溺したのは事実であった。魔術師は、このあえかなる魂を愛しているのだと錯覚した。

 だが、彼には守るべきもうひとつの魂があった。今このときも熱狂のなかで躍動する魂を。


 「ですが、あなたは違った」

 あっと思う間に、イムナン・サ・リは、短剣の切っ先を女の喉許に突きつけた。冷たく凄みのある眼差しには妖気すらただよい、この男本来の冷酷な加虐性があらわになった。


 「残念ですが、あなたはわたしの愛を望まなかった。わたしに挑み、憎しみへと駆り立て続けている。わたしの大切なあるじ、ファディシャをおもうままに操り、わが師、キシアン・ナージをしいした。だが、そこまでです。あの娘に手をだしたら、わたしがあなたを殺す。あなたの力がどれほど強かろうと、どのような手段を使ってでもあなたを必ず倒してみせる」

 かりそめの愛を交わした相手に、いまや仇敵に臨むような無情さで魔術師は宣告した。


「ずいぶんと冷たいのね。でも、そんな言葉でわたしの心を切り裂けるとでもおもっているのかしら。そんな生ぬるい脅しではなく、いっそのこと殺してみせて。今すぐに」

 ルー・シャディラはひとつ吐息を漏らすと、突きつけられた刃をやおら素手でつかみ取り、自らの首筋に引き寄せてみせた。

 自他の境界がふたたび曖昧になり、魔術師はするどい刃の痛みを我が事のように感じた。


「なんてことを」

 魔術師は力を込めて女の固い指を開かせた。

 短刀を引き抜くと、女の掌からぽたぽたと血が滴りおちた。

 男の視界は揺らぎ、彼の心象世界のなかで、血の滴りは紅い花弁となって舞い散った。彼を脅かし続ける死の匂いを孕んだ紅い闇がこぼれ出て、現実の世界をも果てなく覆う。


 この娘は、何故わたしの心をこれほどまでにざわつかせるのか。暗く、もつれた情念の世界へわたしを引き込むのか。


 答えはみつからなかった。その大きく見開かれた黒い瞳にも、怒りに震える唇にも。


 「うぬぼれないで、サ・リ。運命から逃げるだけが取り柄のあなたに何がわかるの。あなたの薄っぺらな痛みなんてわたしが全部引き受けてあげるから、あなたこそ、わたしの邪魔はしないで」

声は、イムナン・サ・リの心に直接ひびいた。


 いまや夢現の狭間に出現した小世界で、イムナン・サ・リはルー・シャディラと相対していた。紅い花は激しい風雨となって吹き荒れ、魔物めいた女の黒髪が、情念がうねる。

 花嵐はなあらしは、底方そこいに淀んだ血紅色クリムソンの闇を掻き散らした。一条の稲妻が闇を切り裂いたとき、ぬらりとした腥風せいふうが吹き抜け、聖絶アナテマの果ての焼けただれた焦土に横たわる、累々たる残骸ざんいが姿を現した。

 イムナン・サ・リは、その光景をただ諦視ていしした。もはや達観に近い醒めた境地で。いや、むしろあらゆる感情を凍りつかせて、ただ立ちすくむしかない幼い子どもの心で。

 目を覆うような虐殺の地獄絵のなかで、押しつぶされた苦悶くもん怨嗟えんさすだきに混じって、死者の魂が彼を呼ぶ。懐かしい声でさらなる地の底へと誘う。罪深き天の御使いが堕とされるという深き坑、タルタロスへ。

 お前の居場所はここだ、と闇のなかで囁きながら。

 いつのまにか、女の髪が重く堅牢な鉄鎖てっさとなり、男の手足にがんじがらめに纏わりついた。やがて東の空は明るくにじみ、彼らは再び無慈悲な太陽への火納物おさめものとして、生きながら差し出されるだろう。


 繰り返される燔祭ホロコーストの悪夢。

 これは誰のものなのか。わたしのもの。違う。わたしはずっと以前にここから抜け出した。あの声に導かれて。


 (こちらだ。イムナン・サ・リ)

 (光はこちらだ。お前の住む世界はここだ。明るい方へ来い)

 

 何故、この娘はこの冥境にいつまでもとどまり続けるのか。


 「やめろ、わたしをお前の地獄に引きずり込むな」

 魔術師が強く念じると、幻影はあっさりと消えた。現実の世界を取り戻したイムナン・サ・リは、目の前の青ざめた面の女を見つめた。気高さとはかなさを併せ持った魂を。

 再び、慈しみの気持ちが湧いた。劣情こそが先にある関係だった。それ以外のものは存在し得ないはずだった。だが、今は女の健気さが愛おしかった。

 男は、自らの感情の揺らめきに戸惑い、そして理解した。彼のなかで密やかに発露はつろされた想いは、暗い情熱として心の奥底にふかく潜み、彼を長く苦しめるだろうことを。


 「止血しましょう」

 魔術師は、首許からストールを引き抜くと、血まみれの女の手にきつく巻き付けた。


 「気遣いは無用よ。それよりも、ほら、あなたのお姫様がちょうど見せ場を迎えているわ」


 太陽に見立てられた巨大な篝火に、少女は身を捧げようとしているところだった。

 その瞬間、少女はにやりと笑ったかにみえた。篝火の燃えさしをひとつ引き抜くと、幾重ものしゃの天幕に火を放った。

 聴衆はざわめきだったが、パニックを起こす寸前に、終末めいた角笛を合図に打楽器のリズムがたけるように激しく打ち鳴らされて、その行為が過激ながらも演出であることが告げられた。

 あり得ないほどの熱狂の波のなかで、群衆はいつ暴徒と化してもおかしくはなかった。一触即発いっしょくしょくはつ、まさに累卵るいらんの危うきだった。魔術師は、その計算しつくされた意匠いしょうのあざとさに眉をひそめた。


 少女は踊りつづける。燃えさかる天幕を背に、炎々と奔放なるままに、彼女を取り巻く世界を挑発しづつける。


 もはや、少女は少女の姿を取りながら無性の存在となった。激しい愛の交合を連想させる原始のリズムが波打つなか、官能からほど遠い所作が紡ぎ出す主題は、いまや見えざるもの、霊的な世界を映し出す幻想譚となった。圧倒的な潜在力を秘めた肉体がすべての欲望を凌駕りょうがする。その奇跡は、すべてのものをはげしく果てのない忘我ぼうがの領域へと誘う。

 愛、憧れ、情熱、夢、あきらめ、悲しみ、絶望、恐れ、欲望、虚飾きょしょく驕慢きょうまん妄執もうしゅう、怒り、憎しみ。あらゆる世の些末事さまつごとが、魂にまつわるあらゆる感情が、さかしらな自我の表層が洗い流されていく。

 魂は、したたるしずく、土塊、風、雪の一片ひとひらつぶて、ざわめく木々のこずえ、虹、瞬く星、あるいはそのすべてをはらんだ広大なそらそのものと同等になった。

 人間———。

 そこにあるのは人間の生そのもの。性すら乗り超えた命の輝き。


 強く、より強く。

 その超絶なる肉体から、いまや魂は解き放たれる。誰もが精神の躍動を感じ、高みへと、極みへとのぼりつめる。

 高く、より高く。

 虚空へ、至高なる天界の彼方へ。

 浮遊、上昇、昇華。それは、内的宇宙への深化しんかの旅でもあった。

 深く、より深く。

 魂の深淵へ。

 欲望のすべての熱源である生の根源へ。ふつふつとたぎる精神の溶鉱炉るつぼへ。

 少女の躍動を触媒として、極小ミクロ極大マクロの宇宙は原始的な照応関係しょうおうかんけいで結びついた。


 魔術師は、このあまりに馬鹿げた舞台構成とゲイルの神がかり的なまでの熱演がただひとり、自分に向けられたものだと理解した。だが、キシアン・ナージの死の前後しばらく不在がつづいたとはいえ、わずかな間にこれほどまでに舞台の本質と少女の技巧が豹変ひょうへんしたことは信じがたかった。


 高揚感が果てなく極まるとともに、炎の幕が刻々と緋色の髪の少女を包み込もうとしていた。演じている物語そのままに、少女は躍動する命までもこの祝祭に奉納しようとしているかに思われた。


 (正気の沙汰じゃない)


 イムナン・サ・リは、舞台へむかって、いまや絶頂に達した熱狂と喧噪けんそうの渦へむかって、駆けだした。もうひとつの、恋によく似た暗く惑う心を抱えたまま。


 男の背を見送ると、ルー・シャディラは空を仰いだ。

 蒼白色の夜の支配者が、すべてを見つめていた。


 そのようなか弱き光で人心を惑わす偽神にせがみよ。お前の時代などすぐに終わる。もうすぐ、新しい太陽の時代がやって来る。


 心のなかで毒づきながら、それでも女は空の天蓋を見上げていた。上を向きつづけてさえいれば涙は流れない。  


 大好きだったお父様。

 あなたがあれほど憎んでいたサ・リを最後まで生かしておいたのは、今際いまわの力でわたしたちをお守りくださったのは、わたしたちの血を薄めないため。あなたのように絶大なる能力と邪悪な心をもつ超越者を再びこの世に蘇らせるため。

 いいえ、もっといえば、あなた自身の魂を転生させ、この地上に再臨するため。あなたの治世は、黒き太陽、終わらないエクリプス、まさに悪夢そのもの。


 おいたわしいお父様。

 それほどの強い無念をこの世界にお持ちだったのですね。

 残念ですが、わたしはあなたの御心みこころを引き継ぐことはできない。

 だから、わたしの恋は一生叶うことはない。


 その代わりに、わたしは、わたしの王国をこの地上に築き上げましょう。なによりも強大で、どこまでも広がりつづける、壮麗で野蛮な光に満ちあふれた太陽の王国を。その道程でどれほど血が流れようとかまわない。積み上げられ山となすかばね礎石そせきとして、あらゆる犠牲のうえに輝く王国の栄華を、お父様、あなたもきっとお気に召すはずよ。

 あなたの苦しみも悲しみも、すべてわたしのもの。あなたの尊き御力とともにわたしが引き継いだもの。あなたも、御身おんみからあふれるほどの愛を、決して叶わぬ想いをご存じのはず。ああ、だからどうか、お鎮まりください。


 ラ・ウは、驚きをもって凝視する。女の精神の類い希なる強きを。


 サ・リよ。わたしを憎むがいい。

 その憎しみすら我が使命のかてとして、わたしは前に進もう。


 とうとう、こらえきれずに、掌中の男の切れ端を握りしめながら、女は静かに顔を伏せた。


(参)


 ラ・ウの瞳は、静かに凝視を続けていた。


 野外劇パジェントはいまや大団円を迎えようとしていた。

 踊り手は舞台を取り巻く石柱のひとつに難なく昇ると、いまや火の海と化した舞台に飛び込むかとおもわれた。


 ようやく少女は群衆のなかに愛する男をみつけた。その青ざめた貌に満足すると、両手を翼のように広げて思い切りよくその身を宙に躍らせた。

 ゆっくりと回転しながら、少女は墜ちていく。炎の幻影のなかに。


 その鮮やかで潔い技に、誰もが一瞬息を呑んだ。やがて、喝采と興奮の波濤はとうが押し寄せてきた。幾たびも、幾重にも。

 やがて、エクスタシスの海のなかですべての激情は放出され、人々はやっと熱狂から解放される。満たされたのちに空っぽになった心を残して。虚脱にも似たカタルシス。そしてあらたな渇きを残して。


 しばし呆気にとられた後、魔術師はにやりと笑った。

 少年の日。タルクノエムの邸の大広間で、三人の兄たちとともに、軽業師たちの曲芸をみた。誰かの誕生日だったのだろうか。めずらしく父もいて、イルラギースはなぜか上機嫌だった。長兄の影に隠れるように、少年はおずおずと未知の世界にふれた。ふたり並べると取っ組み合いのけんかになる真ん中の兄たちもどこかかしこまっていた。軽妙でどこかもの悲しい音楽が流れる。

 いくつもの曲芸や奇術が披露された。

 その日の見せ所は、やはり炎のなかに掻き消える奇術師だった。

 誰よりも喜び、驚嘆の声をあげるイルラギースの姿を今も覚えている。あれも鏡をもちいた単純なトリックだった。


 カルダーダ祭を彩る最大の絵巻は終幕しゅうまくを迎え、人の群れは、名残を惜しむかのように散っていった。


 もはや残骸と化した舞台の後方では、演じ手や楽団の面々は三々五々に火を炊いて、円座になっていた。

 珍しくドゥルサーラを伴ったファディシャが、いつもながらの素っ気ないねぎらいの言葉を妹に掛けてすぐに立ち去っていった。


 「まったく、あなたはいつから奇術師に弟子入りしたのです」

 すすまみれの舞姫を腕のなかに抱き留めて、魔術師は嘆息たんそくした。

 「ああ、まだ顔合わせしていなかったな。お前は最近ほとんど見かけなかったから。あれが当代切っての興行師ファトラン殿だ。お前の古い知己ちきなのだろう」

 やはり、あのときの。

 黒い瞳がゆらめいた瞬間に、影が近づいてきた。

 「お久しゅうございます。イムナン・サ・リ様」

 その壮年の男は、まさにその昔炎のなかに消えた男だった。柔らかな物腰で、おどけたふうに一礼した。

 「時間がなくにわか仕込みの装置となりましたが、姫君はとても勘が良い方で、すばらしい出来に仕上がりました。肝心の舞も左利きの姫君にとっては利き腕と利き足とが逆だったので少し踏み足を直したところ、ずいぶん良くなりました。それにしても、リザイツェオーン家の若君とこのような場で再会できるとは僥倖ぎょうこうでございます」

 そのような偶然などあるものか。

 心のなかでそう吐き出しながら、魔術師は目を伏せた。

 「こちらの姫君と晴れてご婚約されたとか、誠に喜ばしい」


 「ちょうど探していたのだ。我が舞踏をより洗練されたものにするための仕掛けを、な。ちょうどその頃、ファトラン殿から駆け込みでカルダーダ祭で公演したいと申し出があったのだ。渡りに船とはこのことで、お前が幼い頃愉しんだという余興を組み入れてみた」

 得意げにゲイルは語った。あれほどの大舞台をこなしても、まったく疲れは感じないらしい。

 わたしが不在のあいだに自ら毒蛾どくがを招き寄せるとは……。苦々しい心持ちで恋人を見やると、その額に口づけて、魔術師はいとまを告げた。

 「気分がすぐれませぬので、これで失礼します。客人はごゆるりと。我が姫と歓談の場をしつらえるよう申しつけておきましょう」


 立ち去ろうとしたときに、ファトランが指をならした。

 音楽がながれ、軽業師たちが動き出した。あの日のように。


 気がつくと、興行師がひっそりと彼の脇に寄り添っていた。

 「イルラギース様から病弱で邸から出ることのない幼い弟君を慰めるようにとお召しいただいたのが、昨日のことのようです。ギラン様のご子息はどなたも見目麗しく、わけてもあなたは特別だった。闇から生み出されたかと思われるほど、見る者を引きつけてやまない暗い瞳を持っていた。成人されたお姿も、まさにラ・ウの申し子のよう……」

 興行師は、魔術師の耳許でささやいた。

 「回りくどいぞ。あいつの用件はなんなのだ」

 魔術師は小声で返した。

 「では、イルラギース様からの伝言をお伝えしましょう。サイラスと接触されましたね。あなたは少し派手に動きすぎました。オメガ教徒に用心なさいますようにとのことです。この祭典の喧騒けんそうのなかには彼らの気配は感じられませんでしたが」

 「……。タルクノエムでは、奴らが台頭してきているのか」

 「ええ、名だたる権門けんもんのなかにも広がっております。たとえば、イルラギース様の岳父がくふであらせられたアルムロス様など」

 「もういい。この曲をとめてくれ。早く」

 興行師の指がふたたび鳴り、ぴたりとすべてが止まった。今度は、まるで時間ごと止まってしまったかのように、ぽっかりと空いた時空の空隙くうげきが魔術師を包んだ。


 魔術師の意識のなかで音楽は流れつづけていた。

 あれは、アルムロス邸の招宴しょうえん。やはり彼らが、軽業師の一団がいて、場内ではさまざまな遊戯と社交が繰り広げられていた。

 少年は臆しながら、にこやかに談笑する長兄のあとにひっそりとしたがう。きらめく光明につつましく控える影として。

 ひとりの少女が彼をみつめていた。砂糖菓子のように甘く、可憐で、きらきらと輝くそれは、彼の邸では目にすることのないうつくしい生きものだった。少年はどぎまぎした。その夜一番の衆目を集めていたイルラギースではなく、他の誰でもない自分を少女がみつめていたから。

 それが、エフェルメとの出会い、ゆがんだ初恋の序章だった。

 すべてを破滅させる恋の。


(四)


 祝祭の終わりとともに南下行の季節が到来する。

 薄雪が舞うなか、ウズリン族はゲルムダール街道をくだり、遥か南へ、ザラス回廊の冬都へ向かう。

 前駆は黒衣の魔術師。毛皮で裏打ちされた闇色のマントで深々と総身を包み、口許すら覆ったこの男は魔を払うかのように炬火トーチをかかげ、ゆるゆると馬を進めた。舟の舳先のごとき陣形をとる戦士たちに随従された王族の騎行が続き、荷馬や徒歩かちの群がゆるやかに波状に広がる。ぽつりぽつりと点された灯火を道行きのしるべとして。


 天空の主ラ・ウは、その行進の切れ切れに輝く灯明みあかしが、地上の星群れのようにうつろうのを目を眇めてうっとりと眺めた。


 炎の冠を戴いた虚ろなる王はく。

 ふたりの見目麗しき女を、その胸に果て無き野望の情火を抱いた女と絶えることのない愛を宿した女を付き従えて。

 何ものも彼の魂の空隙を満たさない。うちなる虚無は、女たちの愛や野心にその食指を動かすことはない。彼を導いてきた魔術師の死と退廃の誘惑すら、いまや色あせた。

 ここに渇きはない。

 虚ろの王は、もはや自らの胸の鼓動すら感じない。

 彼の若い精神の至った境地は、憂鬱症メランコリアなる言葉では語りきれぬ。

 虚無はその身からあふれ出て、暗黒とも違う無機的な荒涼感でじわりと世界一面を満たして、すべての事象を味気ないものに変えてゆく。


 ゲイルは、貴人たちの騎行には加わらず、旅行く人群れの後方で侍女らとともにあった。ちいさな手にランタンを提げたカリンを鞍前に乗せて、ジャコウ牛の仔を牽きながら、少女は黒駒を並み足でゆっくりと歩ませた。つかずはなれず、彼女の狼が追ってくる。侍女のスーラはその豊かな体躯で荷車に陣取り、古びた車軸をいっそうきしませている。

 魔術師にジャコウ牛の仔にザラスの都は暖か過ぎると指摘され、手放すことを考えたが、もう帰すべき群はどこにもみつからなかった。


 やがて岩陰に骨と毛皮の天幕を設営する頃、愛する魔術師がふらりと姿を現すだろう。彼のおとないとともに、荒野での起臥おきふしの何気ない情景が喜びに満ちた世界に変わる。

 少女は、知っていた。男がその身体に刻まれた無数の疵痕と同じほどの秘密を抱えていることを。もはや、その刻印スティグマに触れようとは思わなかった。ともに空を見上げるときの浸み渡るような魂の静けさだけが、この男が見せるありのままの姿だと少女は信じていた。


 イムナン・サ・リよ。お前は、嘘つきで、残酷で、優しい。だが、わたしを想う気持ちだけは信じてよいな。


 男の胸に頬を寄せながら、少女は無言で語りかけた。言葉無く静かにたたずむ恋人たちの姿を月光はうつくしく照らした。



 時は、しばしかえる。

 魔術師が、何故故郷を捨てなければならなかったか。どのような経緯で庇護者たる異母兄と袂を分かったのか。当人たちが決して語ることのない物語を解き明かすために。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る