第五話 再会

(零) 


 ハーレイは飛翔する。無の支配する世界の中心をめざして。

 昼半球の中心地、プラズマに包まれた核融合の人工太陽をかかげた巨塔の廻りには、放射する膨大な熱量をうけて上昇気流が渦巻き、旋回しながら周囲の空気を巻き上げていた。広範囲にわたる漏斗状のあつい雲の層をなぞるように、青くきらめく稲妻が走査していた。その内部ではすさまじい雹嵐が吹き荒れていることだろう。

 この辺りに近づくものなど端からいないので、封鎖線などどこにも存在しなかった。あったとしても、チタンの翼が軽々と飛び越えるだろう。


 若者は、答えが欲しかった。

 それはおそらく、生の彼方に、この雷雲の向こうにあるのだ。少なくとも、この星のなかでは、この場所が一番ふさわしかった。


 何故、この時代のこの星にうまれてきたのか。


 その命を捧げてでも、対決すべきものは何か。自分自身なのか。不在なる父の姿か。それとも、人智を超えた大いなる存在なのか。それすらまだ解らなかった。


(壱)


 星月夜だった。

 夜空にちりばめられた星辰は、ゆらめきと瞬きを繰り返しながら煙霧質エアロゾルを通過し、無限の組み合わせで諸部族の伝説を饒舌じょうぜつに語り出す。


 北の山岳地帯。風土が人の性情を左右するなら、この偏狭な領土はそのままそこに住まう者の頑迷さにつながっている。そのひとつひとつが砦のような峡谷に散在し、孤立主義をつらぬく北の部族にも商隊や流浪民など他国者の出入りはあるのだが、正面から進めば人目につくことこのうえない。

 武器商の言葉にしたがうのは気が進まなかったが、ガムザノンが氷雪の壁に閉ざされる前にケリをつけなければならないことは自明だった。

 いずれにしても、不本意な旅である。そのことが、いまや戦友といってよい青年に友好的に迎えられることが解っていても、正面を切って訪なうことをためらわせた。

 サーマスから明かされたポーメリアン襲撃の情景を反芻すると、そのまますっきりと帰還することもできなかった。ファディシャに対する疑念が縷々まといついて、何度ふりほどいても頭から離れない。


 フィポスメリアを素通りして北に進んだイムナン・サ・リは、ポーメリアンを出立してから三夜目にガムザノンの表玄関にいたる街道からはずれて、さらに西に旋回すると、愛馬とわかれてところどころに氷層のみられる切り立った岩稜がんりょう登攀とうはんした。

 凜烈な寒さが身体の自由を奪い、吹きすさぶ風があざわらうかのように熱を掠っていくなかで、自らの息づかいを、鼓動の躍動を、駆け巡る血潮を確かめるように、その頭脳と身体能力をかけて、男はみえざるものとのゲームに昂じた。


 男は持てる力を限界まで消耗し尽くすと、やがて切り刃のような峰に登頂した。


 肩で息をつく魔術師の目に入ったガムザノンは、いまや凍えきり、死の荒涼に瀕していた。

 人狼の襲撃から立ち直れないところに、急激な寒威かんいの追い込みが人心から気力を奪っていく。なによりも、鳥獣たちは気象の変化を敏感に感じ取ったのだろう。この猟期に走獣の影ひとつみられず、啼鳥ていちょうの声すら絶えていた。

 魔術師は、精霊の影すら消えさった瀕死の都をしばらく凝視していた。やがて、思案げだった顔がにやりと笑うと、崩落直後のような急勾配の場を軽やかな足取りで降りていった。


 無数の岩が迫り出したつづら折りを下り切ろうとしたそのとき、「おい」と岩陰から声をかけられて、魔術師の足がふと止まった。そこには見知った影が待っていた。 

 「これはナビヌーン殿」

 悪びれもせずに、魔術師は相手の名を呼んだ。

 「お待ちしていただいていたとは、かたじけないことです。おかげで探し出す手間がはぶけました」

 「ほう、わかっていたかのような口ぶりだな。それとも、負け惜しみか」

 その若さが取り柄の屈託ない顔には、わずかに焦燥の影があった。

 「いえいえ、東タルー族と臨戦状態にあるにしては警護がこちら側だけさそいこむようにすっぽりがら空きだったからです。それにしても、あなたこそ何故わたしの取る経路までおわかりになったのですか」

 「それがたまたまさ。シノロンを覚えているか。あの少年はこちらで引き取ったのだが、ちょいと西の集落に使いにだしたところ、その帰りに見覚えのあるお前の月影をみつけた訳だ。月影もあいつになついていて連れて帰って、今はわれらの馬屋で飼い葉を食んでいるところさ」

 「ほう」

 内心おもしろくはなさそうだったが、魔術師は皮肉な笑みをうかべたままだ。

 「それはともかく、お前は本当に酔狂なやつだ。この難所を徒手で超えるとはね。お前か人狼以外は考えられんな。悪名高いウズリンの妖術使いもこの地では英雄なのだから、堂々と入来してもらってかまわなかったのにな」

 魔術師が鼻で嗤うのを聞きながら、この秘密裏の来訪はあの気狂いの主人の機嫌をおもんばかってのことかとも思う。

 「お前には積もる話があるが、客人がお待ちだ。急げ」

若き族長は、魔術師をうながした。


 「サイラスの元皇妃、アズール様ですね。何故彼女のことを最初から教えてくれなかったのです」

 イムナン・サ・リが子どものように口をとがらせた。

 「何故って」

 ナビヌーンは目を見開いて答えた。

 「あの方に口止めされていたからだ。当たり前だろ」


 「あのお方の拝眉はいびの栄に浴する前に、あなたに話があります」

 もっとすねるかと思ったのに、イムナン・サ・リは態度を一変させると唐突に切り出した。

 「なんだ」

 ナビヌーンは、魔術師のいつになく深刻さを帯びた声色に心穏やかならぬ表情で返した。

 「忌憚きたんなく申し上げると」

 イムナン・サ・リは、年若の族長の顔をまっすぐ見据えた。

 「数々の災禍さいかの兆しがガムザノンを覆っています。この地は、近く危急存亡ききゅうそんぼうの機を迎えましょう。いえ、現時点でももはや危殆きたいに瀕しているといって良い」

 「お前に何が解るんだ。確かに今は殺伐としているさ。人狼の襲撃の後だからな。だが、俺たちはすぐに立て直す。この酷寒の地で、俺たちは数え切れないほどの厳しい冬を列代れつだいに渡って乗り超えてきたのだ」


 魔術師は、ゆっくりとまじろぐと再び眼差しをあげた。

 「ですが、今回の冬はもはや確実に乗り越えることはできないでしょう。あなたの眷属けんぞくは、生来風の流れを読めるはずだ。あなたは、この重く沈んだ気流から前代未聞の豪雪がガムザノンを埋め尽くす気配を感じているはずです。おびただしい雪消水ゆきげみずはやがて谷底を洗い流します。すでに野の獣、空の鳥たちは去りました。それはあなたもご存じでしょう」

 「一体どうしろってんだ」

 ナビヌーンは、もはや焦燥を隠そうともせずに声を荒げた。

 「たとえ俺たちがどん詰まりだろうと、ガムザノンを捨てていまさらどこへ行く。ウズリン族が全てを刈り取ったあとのフィポスメリアか。お前のあるじの御高庇を頂戴できるとは思わんし、なにより目立ちすぎる。ゲルムダール街道辺りでおたおた立ち往生しているところを東の奴らに襲撃されるのがオチだ」


 「お見込みのとおり、街道を使うのは奇襲の恐れがありたいへん危険です。まず、見方を変えましょう。あなたはオズク族の王家と縁戚関係にあるはずだ」

 「ああ、敵の敵は味方だからな。お互い東タルー族と領土争いを繰り返しているし、俺と族長のナディヤムは従兄弟同士で気心も知れている。だが、あいつらが受け容れてくれるとして、どうやって主街道を使わず、東タルー族の領土をも横切らずに到達するんだ。このあたりに俺たちの知らぬ間道は無いぞ」

 「本格的な冬の訪れの前に、重い雪雲に閉ざされ、日中でも死の光線が和らぐ日が数日続きます。その時期を逃がさずに、降り積もる雪が桎梏しっこくとなるまえに、ダール・ヴィエーラを抜け出して、風雪の舞うなか外界の荒野をひたすら直進するのです。死中に活路を見いだすには、この山越えの直路を選択する以外に方策はありません。非情ですが、この道中に耐えられぬ者は初めから連れて行かぬことです。正しい道を選べば、三昼夜でオズク族の領域に到達できます。そうすれば、彼らの都アピは目前。数の上で東タルー族に勝てぬオズク族も兵力の増強は魅力的なはずです」 


ナビヌーンは、息を呑んだ。イムナン・サ・リの奇策は、一族にとってまさに起死回生の血路であることは理解できる。おそらく、残されたただひとつの。だが、その道中でナビヌーンが決断をひとつ誤れば、一族全体が壊滅的な痛手をこうむるだろう。この地上から、西タルー族が消え失せるのだ。

 「よろしければ、後ほど詳細な経路を記した地図をお送りします」

 涼しい顔で、魔術師は言い終えた。

 

(弐)

 

 アズールは、窟のとば口にすくりと立ち、男たちの到来を待ち受けていた。その童女にも妖婦にもみえる涼やかな面差しは、星々の鏤められた穹窿きゅうりょうをうつろに彷徨さまよっていた。かつて、彼女が旅した星船の航路をたどるように。

 

 イムナン・サ・リは、不死の呪いにむしばまれた女をみつめた。

 夜陰に溶けこむような存在の希薄さ。そして、双眸に浮かぶ、魂すらもはや感じられない空虚さだけが、彼女の経た星霜の証だった。遠い昔に絶えた彼女の同胞であれば、その異質な美貌の、眉宇びうに浮かぶ憂愁の想いをむことができただろうか。

 「サ・リ」

 アズールは童女のように笑った。山稜をくだる風にあおられて肢体にまといつく長い黒髪が、女の柔婉な細腰を強調する。

 その挙止きょし嫋娜嬋娟じょうだせんえん。然るに、その性、冷酷無慚れいこくむざん


 イムナン・サ・リが、かすかな鞘鳴さやなりを走らせるとひらりと躍り出た。

 瞬刻、ふたつの影が交わった。


 黒髪が一束はらりと散った。

 「挨拶だな。サ・リ」

 くぐもった嘲笑を返す女のたおやかな手指の先には、鋭利な鉄爪てっそうが装着されていた。女は、赤い舌先をちろりとみせて、寸鉄に付着した血をめとった。

 「その綺麗な目玉をくり抜いてやっても良かったのだが」

 振り返る男の片頬には、鮮やかな傷痕が一筋残されていた。

 「ふふ。次はその生白い細首を斬って落としてさしあげましょう」

 こちらも負けず劣らずの凄艶せいえんたる微笑で答えた。


 「お、おい。なんの因縁があるか知らんが、穏やかに頼むぜ」

 たまらなくなって、ナビヌーンが割ってはいった。


 異なるようで本質のよく似た二対の双眸が、口出し無用と冷ややかな視線を投げてよこした。

 「では、よろしくやってくれ。くれぐれも死人は出すなよ。面倒なことになる」


 まあ、勝手にじゃれ合うがいいさ。俺にも少しばかり頭を働かせる時間が必要だ。

 座して死を待つのか、前人未踏の脱出劇に賭けるのか。おのれの下す決断の重さに押しつぶされそうになりながら、ナビヌーンはその場から引き上げた。物思いにはとっておきの場所である山裾の物見やぐらへ向かって。


 一方のふたり。

 窟の奥にしつらえられた仮寓かぐうは、質素で心地よいものだった。玉座のごとき岩の椅子には銀色の毛皮が幾重にも敷かれていた。アズールはそこにゆったりと座った。部屋の一角には、彼女の文明の海の娘、女神たちの母、航海神であり、千年に及ぶ長い航路を共にしてきた天后聖母シェンムーのちいさな祭壇が設けられていた。無造作に並べられた燭光が冷たい大気をほのかに暖めながら、岩肌の柔らかで複雑な陰影を映していた。

 一切の人目が払われると、魔術師は女の足下そっかにひざまづき、長らく隠してきた本来の主人に対する忠誠心を露わにした。

 「お久しゅうございます、陛下。野にくだっても、その崇高なる美しさは変わらないようですね。安心しました」

 再び顔をあげたとき、その口許の皮肉な笑みを完全に押さえ込めたら、その言葉はさぞかし真摯しんしに響いただろう。

 「お前も変わらぬな、イムナン・サ・リ。相変わらず、ねた子どものような顔をしている。もう少し、大人になっているかと思っていたが」

 「ふふっ、私の品性に対する誹謗ひぼうはもうたくさんです。私の長い任務はこれで終わりなのですね」

 魔術師は皮相な態度を脱ぎ捨てると、凜とした佇まいを漂わせながら、再び女の前に端座たんざした。

 アズールは、男の眼を覗き込んだ。その美しさや魔力ではなく漆黒の虹彩の向こうに刻印された損傷を。

 「平然を装っても私はだませぬ。陽に灼かれた眼はまだみえるのか。底翳そこひが進行しておるのだろう」 

 「ご心配なく。昼日中ならともかく、夜を生きる分には支障はありませぬ」

 魔術師はねぶりのうろでの死に神との取引を思い出した。ただの夢とは思えなかった。アズールの冷徹な指摘に、おのれの最期はそれほど遠くなかろうと改めて思い知った。だが、柔和な笑みすらみせて、触れられたくはない問い掛けをいなしてみせた。


 「お前の従姉妹、ルー・シャディラには会ったか」

 魔術師は嘆息をひとつ吐くと、あらぬ方を見やった。

 「あなたにそっくりのいけすかない女でしたよ。あれの役割はなんなのですか。私と同じ……」

 「あれにはあれの役目がある。お前はまだ知らぬ方がよい。ところで、お前はお前の任務を覚えているのか」

再び、魔術師は真のあるじを真っ直ぐに見つめた。野蛮でうつくしいこの谷での夢のような刻は過ぎた。ひたひたとおのれの本来の使命が、呪われた運命が迫ってくるのを感じた。

 「ええ。ウズリン族に潜入し、年若き世継ぎの兄妹をその掌中に収めよ。さすれば、空の封印を解く鍵がおのずとみつからん。そう、あなたはおっしゃいました」

 

 「それで、鍵はみつかったのか」

 「いいえ、皆目見当もつきません」

 魔術師は、目をゆっくりと伏せた。

 「やれやれ、自力ではみつけられなかったか。あの兄妹を籠絡ろうらくせよと命じて、何年が経つ。まだ、解らぬとは驚きだ。すでにその力は発現していよう。あの仮想世界に触れたことがある人間には、わかりやすいプログラムだったはず」


 「……」

 イムナン・サ・リは、心の奥底の一番温かいところにあるひとつの扉を開けた。ぱらぱらと記憶の断片がこぼれていく。

 彼とともに夜空をみあげていたちいさな少女。サイラスの間諜を躊躇無く倒し、あやかしの女王をほふり、妖鳥どもを打ち倒す流血の女神。そして、彼の腕のなかの柔らかな肢体。


 何故もっと早く彼女を逃がしてあげられなかったのだろう。


 幻想は続く。

 男は最愛の少女を抱きかかえて音もなく歩む。やがて、眼前には底なしの虚無が深潭となって大地の下方にひろがる。

 一片の逡巡しゅんじゅんすらみせずに、男はぽっかりと口を開けた底方無そこいなき暗黒の淵に少女を投げ落とす。彼がほんのとば口しか知らない、終わらない悪夢の連鎖シーケンスへ、無辺の虚空にパルスの新星ノヴァがきらめくメインフレームの宇宙へ、少女は声もなく墜ちていく。不信に見開かれた瞳で彼をみつめながら。

 

 「ふふ。その顔つきではおおかた認めたくなかったのだろう。兄の方は使いものにならぬようだが、妹は問題なく成長したようだな。その活躍ぶりはこちらにも届いている」

「お言葉ですが、私は今後の計画一切に荷担できません。八年は長過ぎました。彼らとともに過ごした年月は私にはかけがえのないものです。彼らに出会わなければ、早晩私の魂は闇の中で朽ち果て、もはや人ではない何ものかに成り果てていたでしょう」

 魔術師は、この男らしからぬ真摯しんしな心情を吐露した。

 「なにをいまさら。お前の魂なぞとうの昔に汚れておろう。お前の真の役目はかの兄妹に近づき、その魔手に絡め捕り、来るべき時まで保全することだった。長い潜入生活でその使命を忘れて標的に情を移すとは、どこまでも脇の甘い男だな」


 「お祖母様」

 魔術師は、弱々しく女の膝に顔を埋めた。

 「泣き落としは無駄だ。肉親ともおもわぬくせに」

 アズールは魔術師の顔を起こさせると、その双眸を覗き込んだ。何ものにもまつろわぬ不敵な光がそこにあった。鉤爪をつけたままの指が、魔術師の髪をなぜた。

 「イルラギースからお前を取り戻したとき、廃人のごときお前に新たな魂を吹き込んで、その魔性を磨いてやったというのに、小娘ひとり籠絡ろうらくできずにその牙を抜かれたとは。所詮その脆弱な魂は変わることはなかったな」

 言葉の辛辣さとは裏腹に、同じ魔性の血を引き継ぐ男を憐れんでいるのか、女はその美貌を翳らせた。

 「お見込み違いということであれば、私の存在などこの場で消し去ればいい。初めから、救うつもりはなかったくせに。あのすべての始まりの日、あなたは生存者を探しにきたのではない。愚かしい実験の失敗を認め、すべてを抹殺するために来たのでしょう。あなたと夫君の能力を分け与えた怪物たちを消し去るために」

 絶望と激情の間で揺れながらもまっすぐに見つめる瞳が、焦土に取り残されたあの日の幼い少年と重なった。彼女に既定のプログラムに従うことを翻意ほんいさせた、強い光を宿した眼差しに。

 「よかろう。好きにするが良い。だが、あの娘は天空の封印を解く唯一無二の鍵。それ以外に方策はないのだ。手を打たねば、お前の愛するものは早晩すべて滅びる。お前に残された時間も限られておろう。愛に生きるいとまなどない。わたしはお前に世界を託した。それを忘れるな」

 男は力が抜けたようにふたたび女の膝に顔を埋めた。アズールはその創造主から慈愛という感情はあたえられなかったが、それでも男の痛みが澄み渡るように綿々とその身に流れてくるのを感じた。


(参)


 夜も更けたタルクノエム。蕭然たる商都の月なき暗夜。

 街は星のひかりも弱く、そこには本来の夜の姿があった。すなわち、あらゆる秘事と密謀が深く進行する時間である。


 イルラギースは、谷帰りのファーセルを自宅に迎えていた。司祭との不愉快な会談の後、谷との接点に結びつくものには一様に慎重になっていた。ファーセルは老いても有能な男だったが、もともと政治的な嗅覚が抜け落ちており、イルラギースの態度の変化など一向に察しない。大勢の使用人が今日に限ってみられないことすらいぶかしく思わず、この不自然な内談も主が谷との時差を考慮してくれた結果と素直に受け取って、ウズリンの新王との謁見の様子を報告した。


 「ほう、イムナン・サ・リがウズリン族の王妹を娶るのか」

 ファーセルをまえに、イルラギースは頭の中でかの一族の系図をなぞった。

 「確か、亡きアルムントの妻は皇妃の仲立ちでサイラスから嫁いだはず」

 アズール曰く、天空の鍵はサ・リの掌中にある、と。

 なるほど、そうか。

 イルラギースはすべての事柄がぴったりと符合することに気づいた。アズールは天空の封印を解く鍵をダール・ヴィエーラの中心に隠したのだ。その娘が鍵なのだ。鍵が生身の人間だったとは、あの魔女らしい残酷な話だ。イムナン・サ・リは、恋人と谷の命運を天秤にかけることになるだろう。

 試練だな。サ・リ。お前のことだから、またすべてを放り出して遁走するのか。


 イルラギースは、その昔父とともに訪れたというケスの里の話をファーセルから聞き出そうかとおもったが、この男の口から追憶の甘い感傷以外の言葉は引き出せそうもないとあっさり取りやめた。 


 「そういえば、ファーセル。アルムロス殿に谷のことでなにか聞かれたか」

 最後に、イルラギースは尋ねた。 

 「はて」

 ファーセルは、しばらく記憶の引き出しをあちこちあけていたが、思案に落ちたように言った。

 「ああ、そうです。ウズリンの妖術使いはあなたの弟君のイムナン・サ・リ様その人なのかと、そうアルムロス様はおっしゃってました」

 聞いておいて、イルラギースはなにも答えなかった。沈黙のゆるぎなさは、会談はもう終わったと告げていた。

 開け放った窓の辺に腰をついて外のひやりとした冷気を浴びる男の横顔からは、ファーセルはいかなる表情も読み取れなかった。

 やれやれ、幼い頃からかわらず、可愛げのないお方だ。

 老商人は、胸のなかで独りごちた。


 一方のアルムントの邸宅。

 浅い眠りのなかにいたゾイエは、寝室としてあてがわれた幼い主人の隣の小部屋で異変を感じた。ゆっくりと眼をあけると、窓辺に男の黒い影がひっそり佇んでいた。

 幾重にも厳重に警備されているはずの館への許されざる侵入者に女は恐怖したが、男は、穏当なそぶりで口もとに指をたてて声を出すなと合図した。

 男は、身軽な身のこなしで音もなくゾイエに近づいてくる。

 家庭教師は身を起こして、急ぎ威儀を繕った。

 「そのままでいてください」

 見覚えのある顔だった。武器商のサーマス、執政官の懐刀ふところがたな。どうやってここまで忍び込んだのだろうか。

 武器商は、柔らかな物腰で手近にあったショールを女の肩にふんわりと掛けた。ゾイエはおもわず身をかたくした。

 「ふたつのリストを訊きます。ひとつ目がこの館でおこなわれている礼拝の参加者。ふたつ目はあなたが帰されてからアルムントを尋ねた人物。どちらも二度ずつ繰り返してください」

いわれるままに、ゾイエは男の耳元に二十人余の名を挙げていった。男は胸のうちで復唱したようだった。

 「いいでしょう。かのお方の命運はあなたにかっています。くれぐれも慎重に」

 伝え聞く悪名とは打って変わって、武器商は紳士的な穏やかさで言った。侵入路はどこかとゾイエが小声で尋ねると、それは知らぬ方がよいと答えるかのように女の唇を指でおさえた。

 「また、連絡します」

 武器商は、ドアの向こうの様子を確認すると、音も立てずに出て行った。男を見送ると、ゾイエは自分が震えていることに始めて気がついた。


 ゾイエと別れたサーマスは、身持ちの固い女にむけた偽善的な仮面を脱ぎ去ると迷路のような邸宅の内部をよどみなく進み、炊事場の奥の飯炊き女の寝所にするりと滑り込んだ。彼をこの屋敷に手引きした女はおおきな寝息をたてている。このけんもほろろに無口な男は、昼間やたらと愛想の良い御用聞きを演じきると、下女の一人に近づきなんなく籠絡した。

 こんな時は夜明けまで待って炊房が慌ただしくなるのに紛れて去るのが定石だったが、とてもそれまで待てる心情ではなかった。

 寝所のちいさな窓からはらりと脱出すると、奇術師のごとく衛士たちのわずかな死角をかい潜り、あっという間に街路に抜け出した。


 今さっき場末の酒場を抜け出てきた酔客のように飄々とふらつきながら、武器商は整然とした町並みをジグザグに抜け、隠れ家の近くの街路園でひと息ついた。


 さて、不遜ふそんきわまる凶徒たちをどう処すべきか。

 怪しげな礼拝の日にでも一網打尽にしてしまうのが手っ取り早い。だが、イルラギースからはくれぐれも殉教者は出すなと厳命されている。これは、タルクノエムを毒するオメガ教徒の弾圧ではない。謀逆者ぼうぎゃくしゃたちの制圧なのだ。たとえこのふたつが同義であったとしても。

 オメガ教徒としてゾイエが挙げた名前を思い浮かべ、彼らの相関関係から頭の中で狂信者たちの有機的なネットワークを再現してみた。アルムロスを頂点に複数の命令系統の中心にある人物が数人浮かんだ。それは謀議ぼうぎの当事者であろう直近の訪問者とほぼ重なった。

 武器商は、非情な眼差しでこの鎮圧劇の果て口を見極めた。

 アルムロスの処遇はイルラギースが握っている。彼をのぞく重要人物は、事を成す前に密かに消してしまわねばなるまい。捕捉し、公の裁判にかけるのは、彼らに近しい周辺人物だ。末端は放っておけば自滅するだろう。衆人に媚びつつ政権の正当性を訴えるには、少しばかりの寛容さも必要だ。命乞いの見返りに首謀者たちの悪行を公の面前で暴露してくれてもよいだろう。

 男は指一本ふれなくとも拘束者の魂を恐慌させ、慚愧ざんきの涙にむせばずにはいられぬほどの苦痛をあたえる技に長けていたが、イルラギースが山賊上がりの流儀を駆使することを望まないことは自明だった。事は粛々と進行させねばならない。


 商用という名目でアルムロスは地下の都に頻繁に出向いていたが、サイラス人たちもまた公然と館に出入りしていた。そのなかに、まったく別の事案で彼が内偵していた人物もあった。偶然である訳がなかった。当人を捕縛しても早急に解明しなければならない。

 意外な名も二、三あった。まずはイズリー夫人。サーマスは、イルラギースのかつての愛人と記憶していた。彼の見立てでは反逆者の上層部に位置している。なんらかの意趣返しなのか。女とは恐ろしいものだ。

 アロス老。温厚な人柄で知られるギルドの重鎮。

 ゼノッグ。ああ、年若いゼノッグ。改革派とおもわれていた若手のギルド構成員。失うには惜しい人物だが、仕方あるまい。保守派の有力者である毛皮商のカーマイン。あの二枚舌め、銃殺刑に処し、あのでっぷりとした腹に穴をあけるのも良かろう。

 なによりも、これ以上イルラギース様に近しい人物、たとえばふたりの弟君の名がなくてよかった。と武器商は心から安堵した。


 潜入で得た情報を記憶の棚にしまい込んでしまうと、サーマスはゾイエの無防備な寝顔と理知的な瞳を想った。今宵本当に欲しかったのはあの女だが、面倒はごめんだとそのしどけない残像を記憶から追いやった。

 つくづく女はしっぺ返しがこわい。イルラギース様も難儀なことだ、と任務遂行の産物とはいえ自らの行状は脇に置いてうそぶくと、武器商は、先ほど彼の冷徹な頭脳が産み出したばかりの暗殺リストの吟味に入った。


(四)


 タルクノエムで数々の陰謀が深く密やかに進行していた同じ夜、フィポスメリアは厳粛な空気につつまれていた。

 カルダーダ祭の前に示しをつけたい、というファディシャの意向で、イムナン・サ・リを一族に加える血固めの儀がおこなわれていた。よりによって天のあるじが不在のときにその日を決めたことに不服だったが、老巫女は出来る限り旧例にのっとりこの聖なる儀式を取り仕切った。

 朔のつづく夜、星明かりのみの石の森で、王と王妃、そしてネルヴァトをはじめとした妖術使いに仇視きゅうしをはなつ戦士たちが参列していた。

 主役であるイムナン・サ・リの半身には、その肩から腕にかけて、青と黒の染料で一族の起源を物語る渦巻く文様が描かれていた。ゲイルは自らの指先を次々とナイフで切り、両手で愛する男の頬をなぜると、するどい刀疵のような赤い線が平行して走った。最後の仕上げに男の額に第三の眼を、ラ・ウの隻眼の刻印を滴る血潮で描くと、この瞬間に魔術師はウズリン族に迎えられ、王妹の婚約者となった。


 老巫女が、遠つ異境で生まれ異邦人あだしびとが、女の血で浄められてふたたび天狼ラ・ウの嬰児みどりごとしてこの世界に産み落とされた、とおごそかに宣告した。


 やがて、蛮族の文様を白い肢体に絡みつけた男は、すっくりと立ち上がった。緊張で青ざめた貌の少女の肩を抱きながら、口許に件の薄氷うすらいのごとき笑みをうかべて。

 まさに不在なる狼神ラ・ウの名代ともいうべき禍々しさで、魔術師の妖気を秘めた視線がゆっくりと四辺あたりを射付けると、男に悪念をいだく者たちはただ戦慄した。


 王からは、ウズリン族の戦士の証の楯と剣が賜下かしされた。

 (ふん、逃げ出すかと思っていたが、この不毛な蛮土に腰をすえようとはなかなか見上げた心懸けだな)

 (ご冗談を。それより、このような重い装具がなんの役に立ちましょう)

 例のごとく小声でささやきあう主従に、並み居る戦士のひとりネルヴァトはあらためて嫌悪の情を呼び覚ました。 


 「馬鹿なことを。お祖母様への幼稚な反抗心から、この星の運命を変えてしまうなんて」

 王に寄り添って高慢な笑みをうかべる王妃の声が、魔術師の脳裏に直接ひびいた。


 魔術師は、祖母アズールから最後に託された言葉を思い起こした。


 「もし、お前の気が変わってこの世界を救う気になったならば、赤毛の娘をお前の兄イルラギースへ引き渡すがいい。彼ならば、皇帝陛下の眠る最果ての離宮まで娘を送り届けてくれよう」


 すべては、初めから仕組まれていた。ダール・ヴィエーラ、タルクノエム、サイラス───バラバラに起きていると思われた三つの舞台の事象は、理想と欲望のあいだを揺れるその思惑は、それぞれの正義を抱き込んで、ありとあらゆる打算や陰謀ですら歯車のごとく精緻に噛み合っていた。

 タルクノエムの中枢をつかさどる組鐘塔ベルフリーの内部装置のように。

 また、その組鐘カリヨンの奏でる音楽の、宇宙の創生、あるいは世界の終わりを思わせるあの妙なる調べのように。

 彼は、張り巡らされた罠にかかった哀れな獲物であり、同時に暗い陰謀の歯車の一端だった。


 男は、彼の精神を揺さぶる脳裏の声に静かに応えた。


 「かまいはしないさ。たとえ世界が早晩滅びようとも、この娘はわたしが守る」

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