第四話 天空の鍵
(零)
草木一つ生えぬ毒の大地。
灰色の荒野には酸の湖が点在し、岩石のあいだでは地中から湧き出る硫黄ガスがそこかしこで青白い炎を上げていた。
少年は王国一の
やがて青年になる頃、それはチタン製の輝く翼を持つハーレイに代わった。レィヴンは銀色に輝く愛機を操り、不毛の大地を馳せ、時に空を飛翔した。
冷たいぼんやりとした日差しのなか、この死の星で唯一の生命体であると主張するかように、心地よくハーレイの鼓動が響く。
ジョアン司教に思いもかけず
青年はあの時不思議と素直に彼を悩ます悪夢について話した。
「なるほど、君は愛を恐れている」
ささやき声は答えた。
「だが、答えはこの宮殿のどこを探してもみつからない。それは君の心の奥底に広がる闇から生まれているからだ。闇は今も増幅を続け、やがて君からあふれ出す。告解室では、私は何千もの物語をずっと聞いてきた。真実から遠くなるほど人は雄弁になる。真の罪は語られない部分にある。君のなかにもまだ語られていない物語が存在する」
ドクンと、強い打ち消しの言葉と感情がわき上がったが、かろうじて少年はこらえた。
「さて、愛を説くのが私の生業だ。だが、君の心にはどんな言葉も響かないことを経験上知っている。君が未来を手に入れるには、君自身の本当の物語を紡ぎ出す必要がある。違うかね。レィヴン」
青年がスロットルを一気にひねりあげて、飛び跳ねるように体を起こすと、ハーレイのモーターが唸り声をあげながら加速して、白銀の両翼が滑空体制に入った。
(壱)
ザムランの堅牢かつ精緻な岩迷宮が、魔術師を拒む。
これまで、ありえないことだった。
ほの暗い岩場を吹き抜ける冷風が、魔物どもの囁きごとを置き土産に、より深い闇の溜まりのなかにかき消えてゆく。
ポーメリアンは真に招かれた者しか受け容れない。なのに、彼は
やがて、夜も明けようとするころ、かすかな燻りを風が運んできた。焼き討ちの後の喉がひりつくような
馬を牽いてやっと通れるほどの
霧深いポーメリアンの谷は、いまは死の
整然と集落が立ち並び、襲撃の形跡はどこにもなかったが、谷は間違いなく
谷底の中心にある広場が
「導師よ。どこにおられるのか」
イムナン・サ・リがどんなに感覚を研ぎ澄ましても、予言者の残した思念の切れ端さえも、感じられなかった。
夜霧にかすむ小さな石積みの家々、共同の炊事場、治療院、湯治者たちの保養所、そして幻覚と
やがて、ただひとりの生者が現れた。霧の闇から抜け出て馬を
馬の背には、一体の
そして、なんということだろうか。
黒い帽子を目深にかぶった男は、タルクノエムの武器商、イルラギースの
魔術師は相手の素性を認めると、言葉よりはやく抜く手もみせずに剣をかざした。
まさに
話に聞いたとおり、直情的な男だ。
最初の一撃を重厚なサーベルで返しながら、サーマスは苦く笑った。イムナン・サ・リとの
むしろ、先に手を出した相手の男の側にこそ一片の
武器商は
怒りの感情に
小さく身を躱しながら胸許から細身の短銃、足許のホルダーから戦闘ナイフを取り出し、次の瞬間には魔術師の背後を取り、その頭部に銃身、喉許にナイフを押し当てた。
すべては、一刹那の早業だった。
武器商の鍛えられた腕のなかにとらえた魔性の生き物は、女のようにか細く、はかなかった。
しかし、こちらの
「お遊びはそれまでだ。リザイツェオーン家の末の弟君よ。それ以上暴れると、そのきれいな顔に
その容赦なく冷めた声がイムナン・サ・リの
「それとも、件の力を使うかね。ならば、その前に俺は舌を噛み切るが。貴殿が知りたいことは何も得られん」
魔術師のうえをいく見事な手並みに、イムナン・サ・リの頬は上気した。
「汚いぞ。サーマス」
自らの行為を棚に上げて駄駄を
「早々に夜が明ける。早く導師とお別れをされるがいい」
聖者の風貌と魔性の魂を同時にもった男を塵にもどすため、たがいに反発し合うふたりの男は無言で野辺をしつらえた。キシアン・ナージの亡骸は、聖油を浸した布にくるまれて、小枝と
空が赤みをおびてきたが、この霧深い地の底にひかりはまだ届かなかった。
(弐)
「なぜ貴様がここにいるのだ。これはすべて貴様の仕業なのか」
隧道の入口で、魔術師はサーマスを問い詰めた。武器商は、もう旅の
「ここを攻め込んだのは、誰かという意味なら、そんな輩はどこにもいない。何人も谷の内部までは到達できなかった」
「単刀直入に話せ。ここを攻めようとしたのは誰なのか」
本当に知らないのか。蜜月とおもわれていたウズリン族の王と腹心の魔術師の間にこれほどまでに
「北方からの帰り、ある人物を捜していたら、魔物どもにこの谷に誘導された。導師はそれまでに身の始末をしていて、多くの者は谷から去っていた。私は導師に頼まれて行き場のない何名かの信者を預かり、街道沿いの我らの公館へ送った。そして、こちらへ戻る途上、襲撃者は東から、フィポスメリアの方角からやって来るのをみた。鬼火に導かれた赤毛の王とその軍団だ。俺は彼らの通り過ぎるのをやり過ごして、戻ってみたらすべては終わっていた。導師は
圧倒的な憎悪のさざ波とともに、武器商の冷徹な視覚に捉えられた
闇のなかを疾走する黒衣の軍勢。
ファディシャが、何故なのだ。
やはり、あの女の差し金なのか。
動揺を抑えながら、怒りの矛先を武器商に向けた。
「なぜお前が一枚噛んでいるのだ」
「あいにくだが、俺が居合わせたのは、誓って俺の意志ではない。ポーメリアンの谷に招かれたのさ。キシアン・ナージ殿がいうには、ここで待てば探し人が現れると。俺は導師に託された者たちをカシャの商館に移してから、とんぼ返りをした。死人のなかには知った顔もあったから、人待ちがてら後始末をしていた。やがて導師の言葉の通り、貴殿が現れた。つまり俺が捜していたのは、貴殿だってことさ」
「お前が私を。イルラギースが私に何の用があるのだ」
イムナン・サ・リは違和感を感じた。イルラギースが、人畜無害な老ファーセルではなく右腕のサーマスを使者に使うとならば、
「貴殿に用事があるのはイルラギース様ではない」
魔術師の不審顔をみて武器商は言った。
「初めから話せばこうだ。俺はある取引のためにゲルムダール街道を北上した。馬を何頭も乗りつぶしてね。遙か北方ガムザノンで当の相手と会ったところ、その人物から貴殿に伝言を託された。この腕輪の主に覚えがあるはず。そのお方は今後この星でおこる変異のすべての趨向は貴殿次第とのたまわった。今も彼の地で、年若い族長の庇護のもとお前を待っている」
サーマスは、懐から取り出した腕輪を魔術師に手渡した。魔術師は、黄褐色の輝きが嵌め込まれた金の腕輪を受け取った。その琥珀の連なる腕輪に見覚えがあった。遠い
あの魔女、アズールがガムザノンに。フィポスメリアの目と鼻の先、よりによって、あの若者、ナビヌーンの許に
「そもそも、貴様は
「俺は、むやみに争いの種をまき散らしている訳ではない。イルラギース様の求めるものはただひとつ。空の封印を解く鍵。鍵は谷に隠されている。すべてはその探索のためだ」
空の封印を解く鍵、か。イルラギースが変わらずに追い求めているもの。破壊と再生。古い文明すべてを打ち砕く新たなる太陽。
だが、しかし―――。
「空の封印を解いたなら、サイラスはおろか、タルクノエムとて無傷では済むまい」
「犠牲は
武器商は鼻で嗤った。
「それでは、何故ギム・ア・ポトスのおぞましい実験に何故手を貸した。それもまた新しい太陽への
抑制されたその口調はほとんど
心を読まなくとも解ることがある。
この男は、イルラギースの忠実な犬だ。独断では動かない。すべてはイルラギースの意志なのだ。あの潔癖だった兄がこの世の地獄を容認したのだ。
サーマスは、魔術師の目に幼子のような絶望をみたとき、心ならずもあわれんだ。そして次の瞬間には、俺らしくないとみずからを笑った。
それにしても、さきほど見せたファディシャへの不審の念よりも、はるかに動揺していることにこの男自身気づいているだろうか。
「我々が大佐に近づいたのには訳がある。彼は有益な情報源だった」
あちらこちらに火種をまき散らす荒っぽいだけの死の商人と思っていたが、あの大佐に取り入るとは。愚直そうにみえてこの男はかなりの食わせ者だ。
イムナン・サ・リは密かに感嘆した。
それに加えて、商人の出とはおもえぬ
「サイラスの最終計画は、彼が
真相に近い話を明かすのは、決して魔術師をあわれんだからではない。
この男自身が空の封印を解く鍵にきわめて近しいと知ったからだ。この男の心情を強く揺さぶるように誘導しなければならない。すべてが、タルクノエムのみに有利に働くように。
「何故、その計画そのものを止めないのだ」
魔術師は深く息を吸った。
つめたい空気が肺をみたし、おもわず踊り出しそうになる鼓動をおさえた。
武器商があかしたことは、驚天動地の新事実という訳ではない。だが、これほどまで早く事態が進行していたとは。
イルラギースとの対決が避けられない定めなら、ダール・ヴィエーラの命運を賭けてこちらから先手を打つべきだった。
見込みの薄いサイラスへの道を探るまえに、おのれの感情など脱ぎ捨てて、彼らしい策略と
それなのに、裏切りの後ろめたさと筋違いの憎しみのはざまで身動きできないまま、感傷に溺れるのみですべての思考を停止させてきた。
いまや、彼のいるべき場所にはサーマスがいる。
「氷河の消失は、我々にとっても好機。この星の回復を数百年、いや一千年早める。爆発によって気化し、あるいは融解した膨大な水は循環を繰り返し、大地をうるおし、かつて失った大洋の誘い水となり、空の
イムナン・サ・リは両極で凍りついた母なる海洋が再び世界を満たすさまをうっとりと思い描いた。押しては引く波の音、繰り返す潮汐のリズムの心地よさ。波打ち際の光と風。
その一方で、谷には数百の部族がある。それぞれの支族を合わせると千に近い。辺境では、もはや言葉も通じなくなりつつあった。空の鍵が開けられたとしても、彼らを短期間でダール・ヴィエーラから地上に移住させるのは無理な話だ。
「諸部族を脱出させるには時間がない」
力なく魔術師は言った。
「それは谷の都合だ。この戦いでは、
武器商は、凶相といってもよい無慈悲な眼差しで、イムナン・サ・リの暗い瞳をまっすぐに覗き込んだ。そして、最後に不和の種を蒔くことも忘れなかった。
「ひとつ教えてやろう。俺の知る限り、サイラスの司祭とウズリンの新しい王妃は近しい間柄だった。キシアン・ナージ殿がサイラスに戻れば、司祭の威光は揺らいだだろう。ふたりの間にどのような盟約が存在するのかは解らんが、これだけは断言できる。ポーメリアンへの襲撃は、サイラスの司祭の意向だ。信じようと信じまいと貴殿の自由だがな」
一片の真実は、いかなる策略よりも強く人心を揺さぶる。心理戦はこの男の得意とするところだった。
妖術使いよ、
「それでは、伝言は伝えたぞ。皇妃殿に会いにいけ。一刻も早く」
武器商は黒い
(参)
これまで、過去は顧みずにきた。
ただ、前へ前へと走り続けてきた。だが、サーマスは、滅多に開かない記憶の扉をあけた。
キシアン・ナージに拾われた日のこと。イルラギースとの出会い。そう、サーマスもやはりこの谷で数年を過ごしていたのだ。あの鼻持ちならない魔術師と入れ違うように。
貧しい彼の一族は、ダール・ヴィエーラでの行商を生業としていた。タルクノエムに帰郷することはほとんどなく、サーマスは少年の日の大半を旅のなかで過ごした。一族が、このザムラン峡谷群にほど近い辺境で山賊どもに惨殺されるまでは。
彼だけはひとり生かされ、
彼らは、愚かにもポーメリアンの谷を標的にした。サーマスは数日前に潜入し彼らの手引きをするはずだった。略奪にも無告の民を殺すことにも喜びは感じなかったが、もはや心が痛むこともなかった。
そして、こっそりと作成した要図を仲間に渡し、襲来を待つばかりの時、キシアン・ナージその人に遭遇した。
彼は、少年の瞳をじっくりと見据えると、ただ穏やかな声で、悪党の卵に声をかけた。
「とてもつらい思いをされたようだ。よく生き抜きましたね。今日はよくお休みなさい」
そのとき、囚われ人特有の呪縛がするりと解かれ、心のどこかに置き去りにされていた感情が
導師はやさしく笑っただけだった。
「ご安心なさい。この聖なるポーメリアンの地は何人にも侵すことはできぬのです」
そう言って労りの言葉を投げかけた。
少年は、勧められるままに甘露のごとき液体を飲み、深い眠りについた。目覚めるとすべてが終わっていた。山賊の遺体はすべて手足が奇妙にねじれ、その凶悪な顔はあり得ないほど無惨にゆがんでいた。
少年は、虫一匹殺さぬ風情の予言者が、おそらくは恐ろしい魔力を使ったのだと理解した。そして、死者の首をゆっくりとあらためて、予言者が一族の敵をひとりとして逃がさなかったことを確認した。
予言者の護衛として、数年をポーメリアンの谷で過ごした。
そして、イルラギースがやって来た。
サーマスは、供ひとり連れずにやって来た故郷タルクノエムの貴人が気になってならなかった。面紗の向こうから覗く端正な顔立ちはなにもかも自分とは違っていた。
ただ、彼をもっと見つめたくて、キシアン・ナージの主室の控えの間にこっそりと身を隠し、暗がりから一部始終を覗いた。
高慢さの裏側に沈痛な表情を隠した青年を、夜盗になりそこなった男は食い入るように凝視した。
「また、お会いできましたね。執政官殿。ご立派になられたことだ。あなたにはよほど私が必要なようだ」
師の手がイルラギースの頬にふれた。これまでに聞いたことのない導師の妖しい声音にサーマスは驚いた。
「冗談もたいがいにしろ。本当は私になぞ興味は無いのだろう」
ぴしゃりと手を払いのけながら、不機嫌な声が帰ってきた。
「ほう、何故そう思われるのか」
キシアン・ナージはおもしろそうに笑った。
「貴様のはったりめいた生き方、すべては人を惑わせる
これから助言を請うものとはおもえないほど、迷える魂の持ち主は冷たく言い放った。
「それには納得できかねますが、そういうあなたも虚像に生きようとしている。すでに嘘と偽りの頂点に立ったあなたが、今更何故私に会いにこられたのか」
「母のことが知りたい。サイラスでは知己だったはずだ」
しばしの沈黙の後、イルラギースは旅の真の目的を告げた。その声は、これまでと違って、幼く無防備になったような気がした。
「ほう、お母様はサイラスの出身でしたか」
「とぼけるな。古来からの掟通り、母はすべてのしがらみを捨ててタルクノエムへ移住した。最後の移住者のひとりだ。あちらの縁者は誰かも解らん。だが、貴様は知っているはずだ」
キシアン・ナージは、イルラギースの瞳をまっすぐ覗きこんだ。心を読み取っているのだろうか。やがて視線をはずすとひとつため息をついた。
「サイラスの司祭にお会いになったのですね」
「ああ、噂通りの邪悪な、取るに足りぬ男だった」
「その司祭から何を感じたのです」
「……目だ。冷たく凍えた、母と同じ目をしていた。サ・リにも似たものを感じたが、また別種のものだ」
「すでに答えを得られていますね。私から何を知りたいのです」
「司祭は私にとって何ものなのだ。母とかなり近しい親族のはずだ」
「近しいもなにも、宇宙船時代そのままに閉じられたサイラスの都に
「私がほしいのはごまかしや慰みではなく真実だ。隠す必要はないだろう」
話の中身はさっぱりみえなかったが、サーマスは、イルラギースの権高な物言いのなかにどこか痛ましさを感じた。
「では、お伝えしましょう。お見込みのとおりです。あなたの母は、司祭の姉。母をおなじくするただふたりの姉弟でした。それで満足ですか」
イルラギースは導師の言葉をゆっくりと反駁しているのだろう。しばらく沈黙が続いた。
「まだだ。奴の姉だとすると、母は覚醒者だったのか」
「それは解りません。彼女は訓練を受ける前にサイラスを後にした。司祭が彼女を逃したのです。あなたの父の許に。それが彼女の不幸の始まりでした」
預言者は、ゆっくりと言葉を紡ぎ出した。
「それを知ってどうするのです。母上のことは司祭にとって憎しみの原因になりこそすれ、あなたに手加減することは無いでしょう」
「私は自分が何ものだか知りたかっただけだ。このサイキックとしての能力は、単にサ・リに同調したことから得られたものなのか。それとももともと私の血に流れていたものなのか」
「それを問いつめて何が変わるのです。あなたの力は、あなた自身のもの」
導師は静かに続けた。皮肉めいた刺々しさは影を潜め、その声は慈愛に満ちていた。
「あなたは、むしろ母上を取り巻く悲劇をあなたなりに理解したいのでしょう。小さなあなたはいつもご自分を責めていた。母上の悲しみはあなたのせいだと」
「ふん、知った風なことをいう」
その声はどこか弱々しかった。
「あなたは、母上の静かな狂気の前でちいさな身と心を凍らせるしかなかった。母上がお亡くなりになったとき、悲しみの一方で心の枷がはずれるのを感じたのでしょう。それがまた罪の意識を上乗せした」
「それ以上私の心を覗き込むな」
イルラギースの声は弱々しかった。
予言者の手が若者の肩を抱いた。彼はもう拒まなかった。
「奥方のことはお悔やみ申し上げます。あなたは誰に対しても心を尽くした。あなたが悪い訳ではない。あなたの異母弟も堕ちるべくして堕ちていったのです。司祭に会って、あなたはさらなる運命を感じた。大いなる運命の紡ぐ糸にもてあそばれているのではないかと」
それはサーマスのよく知っている清らかな聖者の声だった。
「そんな風に考えるのはおやめなさい。すべては彼ら自身が選んだこと。自ら不幸に堕ちていく者もいるのです。そして、あなたはあなたの道を選んだのです。人は、運命などに支配されない。地下の狂信者たちがいうように、人の感情の揺らめきから原子に至るまで、すべての歯車の動きが細かく定められた精緻な装置のごとき因果律などこの世には存在しない。宇宙はただ無から生まれたのです。運命などという愚かしい思いに囚われることは、端から無意味なのです」
「それよりも、目前の対策を取られた方が良いでしょう。司祭は人の心をなんなくあやつることができます。それに対する防御術をお教えしましょう」
サーマスは、夢見るような心持ちで、この華麗な若者が彼と同じくらい孤独で不幸なのだと知った。
そのとき、予言者の声が彼を現実に引き戻した。
「そういえば、私はあなたの民をひとり保護していました。サーマスよ、出ておいで」
おずおずと姿を現したサーマスは、うつくしい客人の冷ややかな凝視を浴びた。
武器商は疾走する。
かつて、イルラギースに伴われて帰郷した途を。
やはり夏の終わりだった。
時おり大きな翼が頭上に黒い影を落としたことを覚えている。若いサーマスはイルラギースの旅が異形の護り手に見守られていることに気づいたのだった。
(四)
サーマスが帰還したとき、タルクノエムは夜半過ぎだった。おそらく執政官は憂愁宮の執務室で彼を待っているはずだ。
まっすぐ宮殿に向かうと、思ったとおりすぐに取り次がれた、彼をタルクノエムに帰還させ、失われた彼の家名を回復させて、ギルドでのあらたな地位をあたえた男に。この恩人のために手を汚すことなど厭わなかった。彼の手はもう遠い昔に血にまみれていたのだから。
「人は運命などに支配されぬ、か」
イルラギースは執務室の事務椅子に深く腰掛け、手すさびのように書簡の束を閲していた。
「覚えているか。キシアン・ナージのその場しのぎの方便を。あの男はそのとおりに生きて、死んでいったのか」
執政官の目がまっすぐに覗き込んだ。
「会いに行ったのだろう」
「さあ、導師様の生き様については、解りかねますが、」
武器商は短く答えた。
「その最期は、安らかな死に顔でした」
「ほう、それはつまらんことだ」
イルラギースは、手許の資料に目を落とした。
「お前にとっては恩人だろうが、あの男は巷間伝えられるような聖人ではない。さまざまな秘薬を闇の世界に流し、金で買われれば自ら暗殺者となった」
あの共同体を維持するために、キシアン・ナージが手段を選ばなかったことをサーマスも承知していた。
彼を
先代から、リザイツェオーン家はポーメリアンの暗い恩恵を受けていたのだろう。
サーマスはあえて
「そもそも、私が最初にお会いしたのは、ガムザノンに潜伏中のアズール殿です。今夜はそのご報告です。空の封印を解く鍵は何かは解りませんでしたが、そのものはすでにイムナン・サ・リ様の掌中にあるとのことです。空の封印を解く鍵は、サ・リ様によってタルクノエムに運ばれ、イルラギース様には、サ・リ様よりその鍵を預かり、皇帝のもとへ届けていただきたいとのことです」
「ほう、サ・リの掌中にあると言ったのか」
面白い、そう思うと同時に、イルラギースはやれやれとひそかに嘆息した。
あいつが私に素直に鍵を引き渡すものか。
確かに、わたしに極地への便を手配する手立てはなくはない。そして、最果てへの旅はあいつの身体には過酷すぎるだろう。
ましてや、極地方にはこれから闇と氷の支配する季節が到来する。
「そして、私にサ・リ様に皇妃との面会を手引きするよう頼まれました」
「それで」
なるほど、話の核心はそこか。執政官は手許の資料から目を離し、ふたたび顔を起こした。
「ポーメリアンの廃墟でサ・リ様に遭遇し、皇妃からの言付けをお伝えしました」
サーマスは短く答えた。
「それだけか」
イルラギースはおもしろそうに尋ねた。
「ええ、サ・リ様との対面は、
しれっとしたポーカーフェイスで武器商は答えた。
イムナン・サ・リとサーマス、か。
イルラギースは、さぞかし友好的な
武器商は、襲撃はファディシャ自ら行ったこと、サ・リと新王との関係は良好とは思えないことを簡潔に伝えた。
サーマスの報告を聞き終わると、イルラギースは内通者が何ものだったのか、タルクノエムで今後何が起きるのかを伝達した。それは、もはや革命に近かった。そして、イルラギースの払う犠牲を考えると、サーマスはやはり運命を感じずにはいられなかった。
人は運命などに支配されない。
この孤独な男はその言葉を深く噛みしめ、心の奥深くに沈めていたのだろう、とサーマスは思った。
「ご苦労だった。谷は祝祭の季節だったな。じゅうぶんに休んだら、ファトランを呼んでくれ。頼みたいことがある」
来るべき政変にむけてか、谷の動乱を見込んでか、自らの配下にある当代一の興行師の名が告げられた。
イルラギースの胸のうちで、なつかしい音楽が流れた。忘れていたはずの
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