第四話 天空の鍵

(零)


 草木一つ生えぬ毒の大地。

 灰色の荒野には酸の湖が点在し、岩石のあいだでは地中から湧き出る硫黄ガスがそこかしこで青白い炎を上げていた。

 少年は王国一の駿馬しゅんめを駆って、きょうに任せて荒野へ遠乗りに出るようになった。

 やがて青年になる頃、それはチタン製の輝く翼を持つハーレイに代わった。レィヴンは銀色に輝く愛機を操り、不毛の大地を馳せ、時に空を飛翔した。


 冷たいぼんやりとした日差しのなか、この死の星で唯一の生命体であると主張するかように、心地よくハーレイの鼓動が響く。


 ジョアン司教に思いもかけず胸襟きょうきんを開いてから、ずっと司教の言葉の意味を考えていた。

 青年はあの時不思議と素直に彼を悩ます悪夢について話した。

 「なるほど、君は愛を恐れている」

 ささやき声は答えた。

 「だが、答えはこの宮殿のどこを探してもみつからない。それは君の心の奥底に広がる闇から生まれているからだ。闇は今も増幅を続け、やがて君からあふれ出す。告解室では、私は何千もの物語をずっと聞いてきた。真実から遠くなるほど人は雄弁になる。真の罪は語られない部分にある。君のなかにもまだ語られていない物語が存在する」


 ドクンと、強い打ち消しの言葉と感情がわき上がったが、かろうじて少年はこらえた。


 「さて、愛を説くのが私の生業だ。だが、君の心にはどんな言葉も響かないことを経験上知っている。君が未来を手に入れるには、君自身の本当の物語を紡ぎ出す必要がある。違うかね。レィヴン」


 青年がスロットルを一気にひねりあげて、飛び跳ねるように体を起こすと、ハーレイのモーターが唸り声をあげながら加速して、白銀の両翼が滑空体制に入った。


(壱)


 ザムランの堅牢かつ精緻な岩迷宮が、魔術師を拒む。

 これまで、ありえないことだった。

 ほの暗い岩場を吹き抜ける冷風が、魔物どもの囁きごとを置き土産に、より深い闇の溜まりのなかにかき消えてゆく。

 ポーメリアンは真に招かれた者しか受け容れない。なのに、彼はねつけられ、一方でぞくはやすやすと侵入できたのだ。

 やがて、夜も明けようとするころ、かすかな燻りを風が運んできた。焼き討ちの後の喉がひりつくような煤煙ばいえんではなく、かすかに香木と聖油の匂いがまじった荼毘だびの煙だった。煙は、魔術師を誘うように岩陰に隠された隧道ずいどうから流れていた。はたして仲間の葬送をおこなうような生存者がいるのだろうか。


 馬を牽いてやっと通れるほどの隧道ずいどうを抜けると、目前にポーメリアンの谷間がひろがっていた。巨大な円形谷の底は深く、急傾斜が闇と霧のなかへ続いていた。魔術師は愛馬に軽く拍車をかけると、巧緻こうち綱捌つなさばきで大きく旋回しながら谷を駆け下りた。闇の奥底で、肉を焦がしながらちろちろと燃える骨の篝火を目指して。


 霧深いポーメリアンの谷は、いまは死の静謐せいひつにつつまれていた。

 整然と集落が立ち並び、襲撃の形跡はどこにもなかったが、谷は間違いなく終焉しゅうえんをむかえていた。

 谷底の中心にある広場が野辺のべとなり、ところどころでうずたかく積まれた火葬堆かそうたいが炎の舌を出しながら燻っていた。亡骸の総数は、おそらく三十体にかけるほどだろう。谷は、常時この十倍以上の定住者を抱えていたはずだ。


 「導師よ。どこにおられるのか」


 イムナン・サ・リがどんなに感覚を研ぎ澄ましても、予言者の残した思念の切れ端さえも、感じられなかった。


 馴染なじみある光景。

 夜霧にかすむ小さな石積みの家々、共同の炊事場、治療院、湯治者たちの保養所、そして幻覚と蠱惑こわくの夜の舞台でもあるラ・ウの神殿―――その時、ポーメリアンはまるで別の貌をみせる。そのどこにも、師の一遍の思惟をも探し当てることはできなかった。

 

 やがて、ただひとりの生者が現れた。霧の闇から抜け出て馬をいて歩む男は、イムナン・サ・リのもとへむかってきた。まっすぐと。

 馬の背には、一体の亡骸なきがらが乗せられていた。なかばめくれ落ちた鈍色の外套の裾から流れる白金色プラチナの巻き毛から、身をふたつにおるようにうつぶせとなった遺骸が、彼の求める師その人であることがわかった。

 そして、なんということだろうか。

 黒い帽子を目深にかぶった男は、タルクノエムの武器商、イルラギースの懐刀ふところがたなサーマスだった。

 魔術師は相手の素性を認めると、言葉よりはやく抜く手もみせずに剣をかざした。篝火かがりびぜるその一瞬のうちに、ひらりと影が踊る。


 まさに白刃一閃はくじんいっせん


 話に聞いたとおり、直情的な男だ。

 最初の一撃を重厚なサーベルで返しながら、サーマスは苦く笑った。イムナン・サ・リとの邂逅かいこうは、まさに彼の求めるところだったが、主家の厄介者であり、彼の権益を荒らす無法者を相手に手心を加える気は起きなかった。

 むしろ、先に手を出した相手の男の側にこそ一片の躊躇ためらいがあった。迷いは隙を生む。この逡巡しゅんじゅんを利用しない手はない。

 武器商は生業柄なりわいがら、相手の虚をつく不意討ち、だまし討ち、そして短兵急たんぺいきゅうに得物を振りかざす悪党の扱いには長けていた。彼自身も手練てだれた剣客だったが、そのような輩に対して律儀に刀で返す義理はなかった。


 怒りの感情に総身そうみを委ねながらも、骨と肉の篝火に照らされた魔術師の形貌けいぼうはうつくしかった。だが、地獄にも似た光景のなかで、覆面からのぞく瞋恚しんいに燃える眼差しにも、武器商は心を動かされなかった。所詮影は影。時代の導き手であり、優れた炯眼けいがんの士であるイルラギースのような揺るぎなき志や叡智えいちのきらめきはこの男にはみられない。


 熾火おきびぜ音のなかで剣戟を交わし、魔術師の優雅で軽捷けいしょうな切り返しをわざと無骨な拙劣せつれつさで受け流した後に、サーマスは、相手の剣を力任せになぎ払うとそのまま自らの刀を捨てた。勢いよくはなたれた刀にイムナン・サ・リがほんの一瞬気取られたときには、武器商はこれまでの動きとはまったく違う敏捷びんしょうさをみせた。

 小さく身を躱しながら胸許から細身の短銃、足許のホルダーから戦闘ナイフを取り出し、次の瞬間には魔術師の背後を取り、その頭部に銃身、喉許にナイフを押し当てた。


 すべては、一刹那の早業だった。


 武器商の鍛えられた腕のなかにとらえた魔性の生き物は、女のようにか細く、はかなかった。

 しかし、こちらの嗜虐心しぎゃくしんをそそる姿態自体が、擬態ぎたいであり罠だということを武器商は本能で感じ取っていたので、腕の力を緩めはしなかった。ナイフを握ったまま魔術師の覆面をむしり取ると、サーマスは彼のあるじとはまったく異なる美貌をつくづくと吟味した。


 「お遊びはそれまでだ。リザイツェオーン家の末の弟君よ。それ以上暴れると、そのきれいな顔に風穴かざあなが開く。貴殿はイルラギース様の喉許のどもとの骨だから、始末しとくにはまたとない好機だがな」

 その容赦なく冷めた声がイムナン・サ・リのはやる激情を制した。

 「それとも、件の力を使うかね。ならば、その前に俺は舌を噛み切るが。貴殿が知りたいことは何も得られん」

 魔術師のうえをいく見事な手並みに、イムナン・サ・リの頬は上気した。

 「汚いぞ。サーマス」

 自らの行為を棚に上げて駄駄をねる童児のような口ぶりだったが、そもそも魔境に生きる男、油断はならない。イムナン・サ・リがしぶしぶ剣を鞘におさめるのを待ってから、武器商は抑制を解いだ。

 「早々に夜が明ける。早く導師とお別れをされるがいい」


 聖者の風貌と魔性の魂を同時にもった男を塵にもどすため、たがいに反発し合うふたりの男は無言で野辺をしつらえた。キシアン・ナージの亡骸は、聖油を浸した布にくるまれて、小枝と泥炭でいたん火葬堆かそうたいに横たえられた。やがて、たち昇る炎がすべてを浄めた。その徳とその罪とを。

 空が赤みをおびてきたが、この霧深い地の底にひかりはまだ届かなかった。


(弐)


 「なぜ貴様がここにいるのだ。これはすべて貴様の仕業なのか」

 隧道の入口で、魔術師はサーマスを問い詰めた。武器商は、もう旅の身拵みごしらえを始めていた。

 「ここを攻め込んだのは、誰かという意味なら、そんな輩はどこにもいない。何人も谷の内部までは到達できなかった」

 「単刀直入に話せ。ここを攻めようとしたのは誰なのか」

 本当に知らないのか。蜜月とおもわれていたウズリン族の王と腹心の魔術師の間にこれほどまでに齟齬そごが生じていることを武器商は意外におもった。理由はひとつ。あの鬼火の主だろう。女とはかくも恐ろしいものか。

 「北方からの帰り、ある人物を捜していたら、魔物どもにこの谷に誘導された。導師はそれまでに身の始末をしていて、多くの者は谷から去っていた。私は導師に頼まれて行き場のない何名かの信者を預かり、街道沿いの我らの公館へ送った。そして、こちらへ戻る途上、襲撃者は東から、フィポスメリアの方角からやって来るのをみた。鬼火に導かれた赤毛の王とその軍団だ。俺は彼らの通り過ぎるのをやり過ごして、戻ってみたらすべては終わっていた。導師は自刃じじんされて、弟子たちもすでに殉じていた」

 圧倒的な憎悪のさざ波とともに、武器商の冷徹な視覚に捉えられた心象ヴィジョンが、魔術師の心に流れてきた。


 闇のなかを疾走する黒衣の軍勢。

 前駆さきうまもつけずに自ら先陣を切って鬼火のあとに続く影は、その横貌、その眼差し、外套マントのフードから零れる赤毛は、紛れもなく彼の年若いあるじファディシャその人だった。


 ファディシャが、何故なのだ。

 やはり、あの女の差し金なのか。


 動揺を抑えながら、怒りの矛先を武器商に向けた。

 「なぜお前が一枚噛んでいるのだ」

 「あいにくだが、俺が居合わせたのは、誓って俺の意志ではない。ポーメリアンの谷に招かれたのさ。キシアン・ナージ殿がいうには、ここで待てば探し人が現れると。俺は導師に託された者たちをカシャの商館に移してから、とんぼ返りをした。死人のなかには知った顔もあったから、人待ちがてら後始末をしていた。やがて導師の言葉の通り、貴殿が現れた。つまり俺が捜していたのは、貴殿だってことさ」

 「お前が私を。イルラギースが私に何の用があるのだ」

 イムナン・サ・リは違和感を感じた。イルラギースが、人畜無害な老ファーセルではなく右腕のサーマスを使者に使うとならば、穏当おんとうな話ではないことは明らかだ。彼をからめ捕るために周到かつ巧妙なわなを仕向けてくるはずだ。このような偶発的な邂逅かいこうなどあり得ない。そもそもこれが偶然だとすればの話だが。


 「貴殿に用事があるのはイルラギース様ではない」

 魔術師の不審顔をみて武器商は言った。

 「初めから話せばこうだ。俺はある取引のためにゲルムダール街道を北上した。馬を何頭も乗りつぶしてね。遙か北方ガムザノンで当の相手と会ったところ、その人物から貴殿に伝言を託された。この腕輪の主に覚えがあるはず。そのお方は今後この星でおこる変異のすべての趨向は貴殿次第とのたまわった。今も彼の地で、年若い族長の庇護のもとお前を待っている」

 サーマスは、懐から取り出した腕輪を魔術師に手渡した。魔術師は、黄褐色の輝きが嵌め込まれた金の腕輪を受け取った。その琥珀の連なる腕輪に見覚えがあった。遠い地球テラで産出された樹脂の化石を持つものはこの星ではただひとりだろう。

 あの魔女、アズールがガムザノンに。フィポスメリアの目と鼻の先、よりによって、あの若者、ナビヌーンの許にかくまわれていたとは。


 「そもそも、貴様は人狼ウルフマンのガムザノン襲撃に一枚噛んでいたはず。イルラギースの思惑は何なのだ」 

 「俺は、むやみに争いの種をまき散らしている訳ではない。イルラギース様の求めるものはただひとつ。空の封印を解く鍵。鍵は谷に隠されている。すべてはその探索のためだ」


 空の封印を解く鍵、か。イルラギースが変わらずに追い求めているもの。破壊と再生。古い文明すべてを打ち砕く新たなる太陽。惑星改造テラフォーミングによる新たなる天地創造。そして、それを口にすればあまたの悪行が許されるらしい。


 だが、しかし―――。


 「空の封印を解いたなら、サイラスはおろか、タルクノエムとて無傷では済むまい」

 「犠牲ははなから承知のうえだ」

 武器商は鼻で嗤った。 


 「それでは、何故ギム・ア・ポトスのおぞましい実験に何故手を貸した。それもまた新しい太陽への供物くもつなのか」


 抑制されたその口調はほとんどささやきに近かったが、魔術師の悲痛な心情のすべてを覆い隠すことは不可能だった。


 心を読まなくとも解ることがある。

 この男は、イルラギースの忠実な犬だ。独断では動かない。すべてはイルラギースの意志なのだ。あの潔癖だった兄がこの世の地獄を容認したのだ。


 サーマスは、魔術師の目に幼子のような絶望をみたとき、心ならずもあわれんだ。そして次の瞬間には、俺らしくないとみずからを笑った。

 それにしても、さきほど見せたファディシャへの不審の念よりも、はるかに動揺していることにこの男自身気づいているだろうか。


 「我々が大佐に近づいたのには訳がある。彼は有益な情報源だった」


 あちらこちらに火種をまき散らす荒っぽいだけの死の商人と思っていたが、あの大佐に取り入るとは。愚直そうにみえてこの男はかなりの食わせ者だ。

 イムナン・サ・リは密かに感嘆した。

 それに加えて、商人の出とはおもえぬ凄腕すごうで凶手きょうしゅだ。先ほどの屈辱がまた甦り、魔術師はわずかに頬を上気させた。


 「サイラスの最終計画は、彼が暗暗裡あんあんりに仄めかしたいくつかの兆候から明らかになった。サイラスの政情と人心の荒廃。氷河地方への調査団の派遣。地下深くの兵站工場へいたんこうじょうの動向。大佐自身の谷での任務。それらのことからひとつの答えが導かれた。サイラスは、ダール・ヴィエーラの北方にある巨大氷河を古代の大熱量兵器をもちいて融解させる。すべては氷と岩と泥の濁流に呑まれる。谷もサイラスも。タルクノエムさえ無傷とはいかぬだろう。その計画が実行されるのは、おそらく次の雪解けに合わせて、だ。その前に空の鍵を開けなければならない」


 真相に近い話を明かすのは、決して魔術師をあわれんだからではない。

 この男自身が空の封印を解く鍵にきわめて近しいと知ったからだ。この男の心情を強く揺さぶるように誘導しなければならない。すべてが、タルクノエムのみに有利に働くように。


 「何故、その計画そのものを止めないのだ」


 魔術師は深く息を吸った。

 つめたい空気が肺をみたし、おもわず踊り出しそうになる鼓動をおさえた。

 武器商があかしたことは、驚天動地の新事実という訳ではない。だが、これほどまで早く事態が進行していたとは。

 イルラギースとの対決が避けられない定めなら、ダール・ヴィエーラの命運を賭けてこちらから先手を打つべきだった。

 見込みの薄いサイラスへの道を探るまえに、おのれの感情など脱ぎ捨てて、彼らしい策略と奸計かんけいをもってして、タルクノエムの核心部に、イルラギースその人に再び相見えるべきだったのだ。

 それなのに、裏切りの後ろめたさと筋違いの憎しみのはざまで身動きできないまま、感傷に溺れるのみですべての思考を停止させてきた。つぐないなどあり得はしないのに、許しを請えばいつでも得られると心中でうそぶき、だからこそ、背を向けつづけていた。

 いまや、彼のいるべき場所にはサーマスがいる。


 「氷河の消失は、我々にとっても好機。この星の回復を数百年、いや一千年早める。爆発によって気化し、あるいは融解した膨大な水は循環を繰り返し、大地をうるおし、かつて失った大洋の誘い水となり、空の煙霧質エアロゾルをも洗い流すだろう。この計画を止めるつもりはない」


 イムナン・サ・リは両極で凍りついた母なる海洋が再び世界を満たすさまをうっとりと思い描いた。押しては引く波の音、繰り返す潮汐のリズムの心地よさ。波打ち際の光と風。

 その一方で、谷には数百の部族がある。それぞれの支族を合わせると千に近い。辺境では、もはや言葉も通じなくなりつつあった。空の鍵が開けられたとしても、彼らを短期間でダール・ヴィエーラから地上に移住させるのは無理な話だ。


 「諸部族を脱出させるには時間がない」

 力なく魔術師は言った。

 「それは谷の都合だ。この戦いでは、未曾有みぞうの変化にたじろぎ、停まった者の負けなのだ。皇妃は貴殿の掌中に天空の鍵があるという。貴殿が動かなければなにも始まらん」

 武器商は、凶相といってもよい無慈悲な眼差しで、イムナン・サ・リの暗い瞳をまっすぐに覗き込んだ。そして、最後に不和の種を蒔くことも忘れなかった。


 「ひとつ教えてやろう。俺の知る限り、サイラスの司祭とウズリンの新しい王妃は近しい間柄だった。キシアン・ナージ殿がサイラスに戻れば、司祭の威光は揺らいだだろう。ふたりの間にどのような盟約が存在するのかは解らんが、これだけは断言できる。ポーメリアンへの襲撃は、サイラスの司祭の意向だ。信じようと信じまいと貴殿の自由だがな」

 一片の真実は、いかなる策略よりも強く人心を揺さぶる。心理戦はこの男の得意とするところだった。


 妖術使いよ、猜疑心さいぎしんという名の愚者の陥穽かんせいに嵌りこむがよい。


 「それでは、伝言は伝えたぞ。皇妃殿に会いにいけ。一刻も早く」


 武器商は黒い外套マントで人馬を覆い、帽子を斜めに深く傾けると、足止めされた時間を取り戻すかのように夜明けを迎えようとしているザムラン峡谷群の魔境に駆けていった。

 

(参)


 これまで、過去は顧みずにきた。

 ただ、前へ前へと走り続けてきた。だが、サーマスは、滅多に開かない記憶の扉をあけた。

 キシアン・ナージに拾われた日のこと。イルラギースとの出会い。そう、サーマスもやはりこの谷で数年を過ごしていたのだ。あの鼻持ちならない魔術師と入れ違うように。


 貧しい彼の一族は、ダール・ヴィエーラでの行商を生業としていた。タルクノエムに帰郷することはほとんどなく、サーマスは少年の日の大半を旅のなかで過ごした。一族が、このザムラン峡谷群にほど近い辺境で山賊どもに惨殺されるまでは。

 彼だけはひとり生かされ、奴僕ぬぼくとして、やがて身軽な斥候せっこうとして、彼らに奉仕することになった。やがてその生活にとけ込み父母の顔も忘れた頃、あるじであった兇徒きょうとどもの命運が尽きる日が訪れた。


 彼らは、愚かにもポーメリアンの谷を標的にした。サーマスは数日前に潜入し彼らの手引きをするはずだった。略奪にも無告の民を殺すことにも喜びは感じなかったが、もはや心が痛むこともなかった。襤褸ぼろを着て迷い込んだ浮浪児を装った少年は、彼らのコミュニティーにあっさりと溶け込んだ。

 そして、こっそりと作成した要図を仲間に渡し、襲来を待つばかりの時、キシアン・ナージその人に遭遇した。

 彼は、少年の瞳をじっくりと見据えると、ただ穏やかな声で、悪党の卵に声をかけた。

 「とてもつらい思いをされたようだ。よく生き抜きましたね。今日はよくお休みなさい」

 そのとき、囚われ人特有の呪縛がするりと解かれ、心のどこかに置き去りにされていた感情がせきを切ったように流れ出した。サーマスは泣きながら自分が山賊の手引きであり、取り返しのつかないことをしてしまったと告げた。


 導師はやさしく笑っただけだった。

 「ご安心なさい。この聖なるポーメリアンの地は何人にも侵すことはできぬのです」

 そう言って労りの言葉を投げかけた。


 少年は、勧められるままに甘露のごとき液体を飲み、深い眠りについた。目覚めるとすべてが終わっていた。山賊の遺体はすべて手足が奇妙にねじれ、その凶悪な顔はあり得ないほど無惨にゆがんでいた。

 少年は、虫一匹殺さぬ風情の予言者が、おそらくは恐ろしい魔力を使ったのだと理解した。そして、死者の首をゆっくりとあらためて、予言者が一族の敵をひとりとして逃がさなかったことを確認した。


 予言者の護衛として、数年をポーメリアンの谷で過ごした。

 そして、イルラギースがやって来た。


 サーマスは、供ひとり連れずにやって来た故郷タルクノエムの貴人が気になってならなかった。面紗の向こうから覗く端正な顔立ちはなにもかも自分とは違っていた。

 ただ、彼をもっと見つめたくて、キシアン・ナージの主室の控えの間にこっそりと身を隠し、暗がりから一部始終を覗いた。

 高慢さの裏側に沈痛な表情を隠した青年を、夜盗になりそこなった男は食い入るように凝視した。


 「また、お会いできましたね。執政官殿。ご立派になられたことだ。あなたにはよほど私が必要なようだ」

 師の手がイルラギースの頬にふれた。これまでに聞いたことのない導師の妖しい声音にサーマスは驚いた。

 「冗談もたいがいにしろ。本当は私になぞ興味は無いのだろう」

 ぴしゃりと手を払いのけながら、不機嫌な声が帰ってきた。

 「ほう、何故そう思われるのか」

 キシアン・ナージはおもしろそうに笑った。

 「貴様のはったりめいた生き方、すべては人を惑わせる煙幕えんまくだ。貴様のような男が本心をそう易々と人に見せることはなかろう」

 これから助言を請うものとはおもえないほど、迷える魂の持ち主は冷たく言い放った。

 「それには納得できかねますが、そういうあなたも虚像に生きようとしている。すでに嘘と偽りの頂点に立ったあなたが、今更何故私に会いにこられたのか」


 「母のことが知りたい。サイラスでは知己だったはずだ」

 しばしの沈黙の後、イルラギースは旅の真の目的を告げた。その声は、これまでと違って、幼く無防備になったような気がした。


 「ほう、お母様はサイラスの出身でしたか」

 「とぼけるな。古来からの掟通り、母はすべてのしがらみを捨ててタルクノエムへ移住した。最後の移住者のひとりだ。あちらの縁者は誰かも解らん。だが、貴様は知っているはずだ」

 キシアン・ナージは、イルラギースの瞳をまっすぐ覗きこんだ。心を読み取っているのだろうか。やがて視線をはずすとひとつため息をついた。

 「サイラスの司祭にお会いになったのですね」

 「ああ、噂通りの邪悪な、取るに足りぬ男だった」

 「その司祭から何を感じたのです」

 「……目だ。冷たく凍えた、母と同じ目をしていた。サ・リにも似たものを感じたが、また別種のものだ」

 「すでに答えを得られていますね。私から何を知りたいのです」

 「司祭は私にとって何ものなのだ。母とかなり近しい親族のはずだ」

 「近しいもなにも、宇宙船時代そのままに閉じられたサイラスの都に逼塞ひっそくするコーダはひとつの大きな家族です。皆なんらかのつながりがある」

 「私がほしいのはごまかしや慰みではなく真実だ。隠す必要はないだろう」

 話の中身はさっぱりみえなかったが、サーマスは、イルラギースの権高な物言いのなかにどこか痛ましさを感じた。


 「では、お伝えしましょう。お見込みのとおりです。あなたの母は、司祭の姉。母をおなじくするただふたりの姉弟でした。それで満足ですか」

 イルラギースは導師の言葉をゆっくりと反駁しているのだろう。しばらく沈黙が続いた。

 「まだだ。奴の姉だとすると、母は覚醒者だったのか」

 「それは解りません。彼女は訓練を受ける前にサイラスを後にした。司祭が彼女を逃したのです。あなたの父の許に。それが彼女の不幸の始まりでした」

 預言者は、ゆっくりと言葉を紡ぎ出した。

 「それを知ってどうするのです。母上のことは司祭にとって憎しみの原因になりこそすれ、あなたに手加減することは無いでしょう」

 「私は自分が何ものだか知りたかっただけだ。このサイキックとしての能力は、単にサ・リに同調したことから得られたものなのか。それとももともと私の血に流れていたものなのか」

 「それを問いつめて何が変わるのです。あなたの力は、あなた自身のもの」

 導師は静かに続けた。皮肉めいた刺々しさは影を潜め、その声は慈愛に満ちていた。

 「あなたは、むしろ母上を取り巻く悲劇をあなたなりに理解したいのでしょう。小さなあなたはいつもご自分を責めていた。母上の悲しみはあなたのせいだと」

 

 「ふん、知った風なことをいう」

 その声はどこか弱々しかった。


 「あなたは、母上の静かな狂気の前でちいさな身と心を凍らせるしかなかった。母上がお亡くなりになったとき、悲しみの一方で心の枷がはずれるのを感じたのでしょう。それがまた罪の意識を上乗せした」

 「それ以上私の心を覗き込むな」

 イルラギースの声は弱々しかった。

 予言者の手が若者の肩を抱いた。彼はもう拒まなかった。

 「奥方のことはお悔やみ申し上げます。あなたは誰に対しても心を尽くした。あなたが悪い訳ではない。あなたの異母弟も堕ちるべくして堕ちていったのです。司祭に会って、あなたはさらなる運命を感じた。大いなる運命の紡ぐ糸にもてあそばれているのではないかと」

 それはサーマスのよく知っている清らかな聖者の声だった。

 「そんな風に考えるのはおやめなさい。すべては彼ら自身が選んだこと。自ら不幸に堕ちていく者もいるのです。そして、あなたはあなたの道を選んだのです。人は、運命などに支配されない。地下の狂信者たちがいうように、人の感情の揺らめきから原子に至るまで、すべての歯車の動きが細かく定められた精緻な装置のごとき因果律などこの世には存在しない。宇宙はただ無から生まれたのです。運命などという愚かしい思いに囚われることは、端から無意味なのです」


 「それよりも、目前の対策を取られた方が良いでしょう。司祭は人の心をなんなくあやつることができます。それに対する防御術をお教えしましょう」


 サーマスは、夢見るような心持ちで、この華麗な若者が彼と同じくらい孤独で不幸なのだと知った。

 そのとき、予言者の声が彼を現実に引き戻した。

 「そういえば、私はあなたの民をひとり保護していました。サーマスよ、出ておいで」

 おずおずと姿を現したサーマスは、うつくしい客人の冷ややかな凝視を浴びた。


 武器商は疾走する。

 かつて、イルラギースに伴われて帰郷した途を。

 やはり夏の終わりだった。

 時おり大きな翼が頭上に黒い影を落としたことを覚えている。若いサーマスはイルラギースの旅が異形の護り手に見守られていることに気づいたのだった。


(四)


 サーマスが帰還したとき、タルクノエムは夜半過ぎだった。おそらく執政官は憂愁宮の執務室で彼を待っているはずだ。

 まっすぐ宮殿に向かうと、思ったとおりすぐに取り次がれた、彼をタルクノエムに帰還させ、失われた彼の家名を回復させて、ギルドでのあらたな地位をあたえた男に。この恩人のために手を汚すことなど厭わなかった。彼の手はもう遠い昔に血にまみれていたのだから。


 「人は運命などに支配されぬ、か」

 イルラギースは執務室の事務椅子に深く腰掛け、手すさびのように書簡の束を閲していた。

 「覚えているか。キシアン・ナージのその場しのぎの方便を。あの男はそのとおりに生きて、死んでいったのか」

 執政官の目がまっすぐに覗き込んだ。

 「会いに行ったのだろう」

 「さあ、導師様の生き様については、解りかねますが、」

 武器商は短く答えた。

 「その最期は、安らかな死に顔でした」

 「ほう、それはつまらんことだ」

 イルラギースは、手許の資料に目を落とした。

 「お前にとっては恩人だろうが、あの男は巷間伝えられるような聖人ではない。さまざまな秘薬を闇の世界に流し、金で買われれば自ら暗殺者となった」

 あの共同体を維持するために、キシアン・ナージが手段を選ばなかったことをサーマスも承知していた。

 彼をおとしめた夜盗に導師が直接手を下したのは、ポーメリアンに牙をむいたからに過ぎない。ここ数年ポーメリアンに出入りしていたのは、ヤ・バル・クーンなどの大物の賊徒ぞくとに接触するためだった。

 先代から、リザイツェオーン家はポーメリアンの暗い恩恵を受けていたのだろう。

 サーマスはあえて詮索せんさくしなかったが、予言者に対する苛立いらだちにも似た憎悪とそれを裏返したかのような拗ねた依存心から、イルラギース自身も、頂点を極めるまでになにがしかの力を借りたと見ていた。


 「そもそも、私が最初にお会いしたのは、ガムザノンに潜伏中のアズール殿です。今夜はそのご報告です。空の封印を解く鍵は何かは解りませんでしたが、そのものはすでにイムナン・サ・リ様の掌中にあるとのことです。空の封印を解く鍵は、サ・リ様によってタルクノエムに運ばれ、イルラギース様には、サ・リ様よりその鍵を預かり、皇帝のもとへ届けていただきたいとのことです」

 「ほう、サ・リの掌中にあると言ったのか」

 面白い、そう思うと同時に、イルラギースはやれやれとひそかに嘆息した。


 あいつが私に素直に鍵を引き渡すものか。

 確かに、わたしに極地への便を手配する手立てはなくはない。そして、最果てへの旅はあいつの身体には過酷すぎるだろう。

 ましてや、極地方にはこれから闇と氷の支配する季節が到来する。


 「そして、私にサ・リ様に皇妃との面会を手引きするよう頼まれました」

 「それで」

 なるほど、話の核心はそこか。執政官は手許の資料から目を離し、ふたたび顔を起こした。

 「ポーメリアンの廃墟でサ・リ様に遭遇し、皇妃からの言付けをお伝えしました」

 サーマスは短く答えた。

 「それだけか」

 イルラギースはおもしろそうに尋ねた。

 「ええ、サ・リ様との対面は、虚心坦懐きょしんたんかい、穏便なうちに終わりました」

 しれっとしたポーカーフェイスで武器商は答えた。


 イムナン・サ・リとサーマス、か。

 イルラギースは、さぞかし友好的な邂逅かいこうだったろうと想像した。お互いに手創てきずを負うことなく終わったのだとしたら、僥倖ぎょうこうといってよいだろう。夜の支配者ラ・ウの気まぐれに幸いあれ。


 武器商は、襲撃はファディシャ自ら行ったこと、サ・リと新王との関係は良好とは思えないことを簡潔に伝えた。


 サーマスの報告を聞き終わると、イルラギースは内通者が何ものだったのか、タルクノエムで今後何が起きるのかを伝達した。それは、もはや革命に近かった。そして、イルラギースの払う犠牲を考えると、サーマスはやはり運命を感じずにはいられなかった。


 人は運命などに支配されない。


 この孤独な男はその言葉を深く噛みしめ、心の奥深くに沈めていたのだろう、とサーマスは思った。

 「ご苦労だった。谷は祝祭の季節だったな。じゅうぶんに休んだら、ファトランを呼んでくれ。頼みたいことがある」

 来るべき政変にむけてか、谷の動乱を見込んでか、自らの配下にある当代一の興行師の名が告げられた。


 イルラギースの胸のうちで、なつかしい音楽が流れた。忘れていたはずの曲馬団サーカスの幻影とともに

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