第三話 予言者の死

(零)


 少年の日課は単調で、何事も強制されなかったので、クムクンタルの館で過ごした日々と同じように一日の大半を馬とともに過ごした。いまやセラフィム卿となった少年は、なるべく目立たぬように振る舞いつつ、物思いに沈んでいった。人知れぬ夢と野望をそのちいさな胸に抱えながら。


 新しい生活のなかで、少年はいつの頃からか、悪夢を見るようになった。

 愛する少女が聖堂の祭壇に横たわっている。少年は滅多に礼拝することは無かったが、悪夢の舞台は決まって聖堂のなかだった。

 小女王の美しい面は青ざめて、薔薇窓から差し込む光の斑点が鮮血のように彼女を染め上げていた。彼女は死んでいた。彼が殺したのだ。

 少女の死は惑星テオティワカンの死そのものだった。

 女王レジーナの死とともに、風は止み、あらゆる生命は息絶え、死の荒涼がこの白い世界を支配する。彼らの逃れ場たる秘密の庭園もまた例外ではなかった。

 夢のなかで、少年はこれが単なる夢ではないと確信していた。

 紛う方無き予知夢だった。そう遠くない将来、少年は確実に少女をその手に掛け、この星を滅ぼすのだ。

 

 彼は、晩鐘ばんしょうの後に便宜上夜と呼ばれる真っ白な闇のなかで、眠りの神がその額に触れるやいなや、決まって痛ましい叫び声を上げるようになった。

 

 ある日少年は普段足を運ぶことのない聖堂に忍び込んだ。彼を脅えさせるものの正体を知りたかった。恐怖は理性により克服できるはずだった。

 少年は吸い寄せられるように薔薇窓を見上げた。それは精緻なステンドグラスで、若い母親と嬰児は完璧な美しさでほほえんでいた。彼の故郷で年に一度の聖週間に山車に乗せられて村中を練り歩いていた、襤褸ぼろを着せられ朽ちかけた土俗的なマリア像となんたる違いだろう。

 清らかなる身の聖母はイヴ以来の女の罪と穢れをもたず、故に生涯うら若き乙女のままであったという。たとえそれが真実だったとしても、故郷の風雪に耐えた聖行列のマリア像の方がよほど真実味があった。


 少年の心は生来暗く、底なしの闇が広がる内的世界には一灯の信仰心もなかったが、素朴な信仰が故郷の敬虔なる人々の胸に息づいていることは認めていた。だが、宮廷にあるのは空虚な偽善だけだった。

 少年は花弁のようにも、光冠コロナのようにも見える幾何学的な光の文様に囲まれた聖母子像を見つめた。その芸術的巧緻は不思議な触媒となって、白色矮星の無慈悲な陽光を天上の妙なる光明に変容させていた。


 「おや、これは珍しい」

 気がつくと、この星区の司教であり、ながらく宮廷司祭を務めるジョアン司教が背後に忍び寄っていた。

 ささやくような猫なで声は、どこか人を威圧するぞっとした響きがあった。歴代の司教は教団本部から派遣されており、ジョアン司教も浅黒い大男だったので一目で異星人と解った。

 「これは今をときめくセラフィム卿ではありませんか。あなたが許しの秘蹟を受けにきたとは思わないが……」

 少年の目を覗き込む男の瞳は、少年に負けず劣らず暗かった。それは、宮廷に根づく偽善と欺瞞の象徴でもあった。

 「心に闇を抱えているのは事実のようだ」

 たまらなくなって、少年は先に目をそらした。

 「困りましたね。君は孤独で相談相手などいないのだから。どうだろう、司祭としてではなく、君と同じくこの宮殿に迷い込んだ異邦人として、私はあなたの話に耳を傾けることはできる。あなたの悩みを教えてくれませんか」


(壱)


 短い夏は終わろうとしていた。

 カルダーダ祭が過ぎれば、ウズリン族の共同体は北方の広大な狩猟地に点在する集落から南の都ザラスへと還る季節移住の支度で慌ただしくなるだろう。


 その若き王ファディシャは、従者もつれずに、ひとり集落の外れの狩り場へ足を踏み入れた。

 狩りには絶好の月明かり。カルダーダ祭の舞姫は、稽古場には顔を出してはいないようだ。

 ふいに、鈍い呻り音を立てながら、若者の鼻先を矢がかすめた。

 「おい、ゲイル、出てこい。お前だということはわかっている」

 まもなく、岩陰から矢筒を背負った影が飛び出してきた。

 「ファディシャか。珍しいな。だが、不用意に狩り場に足を踏み入れるお前が悪い」

 赤毛の少女は、悪びれずに答えた。足許には件の狼が控え、その面には一端いっぱしの狩人らしく燃えさしの炭で迷彩が施されていた。

 「なんだその顔は。千年の恋も冷めよう。その格好で、カルダーダ祭の舞台に引きずり出すぞ」

 ファディシャは、少女の赤い髪を乱暴につかんだ。

 「狩りの邪魔だ。用がないなら帰れ」

 兄の手を払いのけながら、少女は答えた。

 「そう邪険にするな。悪い噂があってな。噂の主に確かめに来たまでだ」

 ファディシャは、いまやダール・ヴィエーラ一の大所帯であるウズリン族を束ねる王だ。ゲイルのことには一切干渉しないが、部族内の秩序には当然厳しい。イムナン・サ・リとファディシャの直属の者たちの不協和音はゲイルも感じていた。彼との逢瀬は、いつかとがめられると思っていた。迷彩の仮面のしたに隠された少女の素顔が暗くなった。


 「先ほどの勢いはどうしたのだ」

 赤毛の王は、妹の髪をくしゃくしゃとなぜた。

 「一部の者たちが、お前が連日魔術師のもとに通っていると騒いでいる。だが、俺はお前のことをあれこれ言わせるつもりはない。すべてはお前の気持ち次第だ。不確かな関係ならば、すっぱりとあきらめろ。そうでなければ、サ・リを我が一族に加えてやろう」

 「ファディシャ」

 ゲイルは、喜びのあまりファディシャに抱きついた。

 「私に迷いなどない」

 「やめろ。貴様の顔の炭が俺にうつる」

 ファディシャは、ゲイルを押しとどめながら、続けた。

 「祭りの前に血の儀式をおこなう。やり方はお婆に聞いておけ」

 「サ・リにはもう話したのか」

 不安げにゲイルは尋ねた。

 「ふん。あいつは、先刻承知している。すべてお前の判断に任せるそうだ。そもそも、あいつには何の選択権もない。俺の妹に手を出しやがって、自ら蒔いた種だ。この話を受けなきゃ、お前の代わりに俺が叩き切ってやるところだったさ」


 穏やかになった。何故だろう。ゲイルは自問した。あの毒婦、ルー・シャディラとつるむようになってから、ファディシャは変わった。ナビヌーンとの決闘騒ぎを最後に、サ・リにも固執しなくなったようだ。

 「身体の調子は良いのか」

 思い出したように、ゲイルは尋ねた。

「まあな」

 ファディシャの答えはどこか空しかった。破滅の時は近いのだとゲイルは確信した。

 「母さんは、まだ生きていると思うか」

 恐る恐るゲイルは訪ねた。少女には吸血鬼ヴァンパイアであったという母の記憶はなかった。

 「さあな。お前と違ってはかない人だったから、闇に帰って最初の冬も越せなかっただろう」

 「なあ、ゲイル」

 ファディシャは澄んだ声で語りかけた。

 「俺は、お前の願いを叶えてやる。だから、ひとつ俺に約束してくれないか」

 「……」

 「俺に変化の兆しがみえたら、お前の手で迷わず俺を殺してくれ」

 ゲイルは兄をぎゅっと抱きしめた。ひときわ強い抱擁が答えだった。堪えても涙があふれた。少女は確信した。近い将来、それが現実になることを。


 「ところで、」

 ファディシャが、本来の冷酷さを取り戻した声で尋ねた。

 「お前の未来の夫はどうした。やつに縁のある客があるというのに」

 タルクノエムから使者が来ることはゲイルも耳にしていた。

 「知らぬ。しばらく留守にするそうだ」


 雲隠れか。女々しいやつだ。だが、それは都合がよい。


 「何故そんなことを聞く?」

 ぼんやりとゲイルが尋ねた。

 「いや、客人の相手をした後に、俺も狩りにゆかねばならない。遠征になろうから、しばらくやつとは会えぬな」


 ルー・シャディラとの約定とはいえ、ポーメリアンに攻め入るのは気が進まなかった。サ・リは、確かあのキシアン・ナージのもとに谷に出て来てしばらくは身を置いていたはずだ。事が済むまでは、彼に勘づかれてはならない。

 それにしても、あの老獪ろうかいな導師は、ファディシャの精鋭を前にどのような魔力を見せるのだろうか。それを思うと心が騒いだ。


(弐)


 その晩、ウズリンの新しい王と王妃は、石と骨と毛皮でできた天幕でタルクノエムからの使者を迎えた。

 ファーセルは、ルー・シャディラに思わず見入った。ケスの里で、彼のあるじギランと恋に落ちたファラミスに瓜二つだった。ファラミスは一族を捨てることはなかった。ギランの側にも留まる理由はなかった。

 ギランは、生まれ来る子に祖先から伝わるイムナン・サ・リの名とスノウクリスタルの守りの短剣を残して去った。奇しくも、本邸での悲報が、妻と子の二重の死が彼を呼び戻し、後ろ暗さは彼をその後も遠ざけた。

 ファーセルは、昨日のことのように思い出すことができる。巫女ファラミスの清らかなうつくしさを。その瞳は露を含んで零れ落ちそうな黒薔薇であり、星々をちりばめた夜空の天蓋そのものだった。

 ファラミスとひとつ違うとするなら、ルー・シャディラには確とした揺るぎなさがあった。その強くむすばれた口許に、控えめに伏せた目のひかりのなかに。その心根の芯は、神の御弓みたらしの、しなやかな太き弓弦ゆづる。もしくは、そのきりりとした弦音。


 「執政官殿のご厚意、ありがたくお受けしよう」

 赤毛の王ファディシャは、言葉とは裏腹に、儀礼の席などうんざりした様子で、タルクノエムの善意など端から信じていないようだった。もっともこれについてはファーセルも同じ見解だったが。

 「それにしても、サ・リ様にお会いできないのは残念です」

 「気まぐれなやつだからな。次回は、あやつの首に縄をつけておこう」

 冷たい目をした赤毛の王はそう言うと、思い出したように伝えた。

 「それと、やつは近々我が一族に加わる。カルダーダ祭の前に我が妹と血固めの儀式をおこなう。いわば我らが流儀の婚約式だ。いっそのことそなたもカルダーダ祭までこちらに滞在したらどうだ」

 「ありがたいお申し出ですが、こちらもザラスの都へ送る荷の手配で手一杯なのです」

 そう答えながら、ちらりと王妃の顔をみた。ルー・シャディラの美しい面にはいかなる動揺もみられなかった。祖国が滅びなければ、ともにケスの王と王妃になったはずの二人だったが。


 まだ、夏の終わりというのに、大気は冷え冷えとしていた。ファーセルは、身震いを打ち消した。ぞくりと怖気おぞけだつほどの冷気は、目の前のふたりからもたらされるのか。異能者であろう王妃からか。それとも、狂気を押し隠した王からだろうか。


 「実は、イルラギース様からもうひとつ言付けがあるのです」

 預かってきた櫃を取り出して、そのままふたりの前に献上した。

 「ズールムンデ様の遺品を王妃様にお届けせよ、とのことです」


 ルー・シャディラが櫃のふたを開けると、ケス王の標章レガリアである日輪の宝剣と銀の鎖帷子くさりかたびらが現れた。仮面のような美貌のしたで、王妃の感情が揺らめいていることが伝わってきた。

 「ほう」

 ファディシャは、それがルー・シャディラのみせた幻影のなかで、彼の世継ぎが身につけていたものであることを認めた。おそらく、この女にとって父祖の遺品以上の価値があるものなのだろう。

 

 輝ける未来。うずまく光のなか。真の太陽王の誕生。そのすべての御璽みしるし


 闇のなかで我らが求めるものを先刻承知という訳か。なるほど、先ほどの物資の援助の話などから、谷とサイラスの間の力の均衡を保っておきたいだけかと思ったが。タルクノエムの宰相イルラギース。ただ単に胡散臭い商人どもの親玉という訳ではないようだ。ファディシャは、初めてまだ見ぬ相手に興味を覚えた。


(参)


 イムナン・サ・リは夢見ていた。

 荒涼たる紅い谷。吹きすさぶ風の凍える指が、彼の頬をなぜては掻き消えてゆく。魔術師の精気を奪い取るように。

 幼い頃、彼を焼いた陽光は、身体の奥深くから彼の骨肉をむしばんでいた。緩慢に、だが確実に。

 ちょっとした変化に怯え、死の小さな予兆を認めるまいとする心境も、次第にさっぱりとした諦念に変わりつつあった。そもそも、自由気ままにあえて危地に赴くような彼の魂を、現世うつしよにわざわざ引き留めるものなどなかった。

 死に神に急き立てられるがごとく生きてきた。今の今まで。


 岩間では、巨大な満月を背にして女が煮炊きをしていた。

 白い煙が一条、虚空へ向かって細々と立ち昇っていた。

 フードを目深にかぶっていて、女の表情はみえない。

 老婆のようにも、若い娘のようにも思えた。

 女の足許には、素朴な魔法円が描かれていた。

 女は、土地の魔女で、むっとする匂いの秘薬を煎じていたのだ。


 イムナン・サ・リは、立ち昇る煙と同じほどはかなげな立ち姿にどこか懐かしさを感じた。ずいぶん昔に失った誰かに似ていた。気配に気づいた女が顔をあげると、憎悪でゆがんだ口許がのぞいた。琥珀色アンバーの瞳を期待したが、その面をのぞきこむ勇気は無かった。


 「占ってくれ」

 男は、声をかけた。女は無言でうなずいた。


「私の残された寿命はどれくらいなのか」


 女は、手許にあった骨片をからからと投げてきた。白くひかる骨のダイスの目は、あまりにも少なすぎた。赤毛の少女の顔が浮かんできた。

 生きたい。

 そう強くねがった。


 「どうか、取引をしてくれないか」

 男は懇願した。

 女は、にやりと口許をゆがめて笑った。

 「よかろう。この三倍の年数を与えてやろう。だが、お前の魂は永遠に救済されない。この無窮むきゅうの荒野を未来永劫さまよう。それでも、よいのか」


 かまわないさ。そううそぶいたとき、濡れた鼻面に頬をなぜられて、男は夢から醒めた。


 魔術師は洞のなかで目覚めた。愛馬月影がちいさくいなないいた。荒野を幾夜彷徨ったのだろう。そろそろファーセルは帰路についただろうか。

 夢の名残の物憂い倦怠のなかで、ふいに魔術師は異変を感じた。洞の奥から光があふれている。心地よい音楽も流れてきた。明け方近くにこの洞に駆け込んできたときは気がつかなかったが、どうやら異界に足を踏みいれたらしい。


 月影の轡銜くつばみを取りながら、イムナン・サ・リは、光射す方角へ歩んでいった。

 やがて視界が急に開けて、ぽっかりとした円形の広場が現れた。洞穴の天井には大きな裂け目があり、月明かりが差し込んでいた。

 さらさらと流れる光の瀑布ばくふ

 金緑に蛍光する苔の壁模様と柔らかな羊歯しだ絨毯じゅうたん

 時忘れの返り花がそこかしこで狂い咲く。

 そして、甘い蜜酒の香り。

 中心には勢いよく炎をあげる丸太の焚き火が設えられ、取り囲むようにして、季節外れの花々や毒々しい色の茸、乾燥した、あるいは生の果実でかざられた岩のベンチが配されていた。

 異界の住人たちがそこにいた。裂けた尾をもつ白狐がゆっくりとその尾を揺らすのにあわせて、白貂の楽団が飄々としながらもどこか悲哀めいた旋律を奏で、タビネズミは調子っぱずれのコーラスを披露して、家鴨の嘴のような唇をしたでっぷりと太った朱儒がおどけた様子で踊っていた。


 その中心に斑模様の野生馬ムスタングがいた。


 明るい栗色のうえに雪片を散らしたかのようなうつくしい斑を持つ野生馬は、その背にたてがみと同じ甘いクリーム色の翼を有しており、あきらかに王者の風格をそなえていた。

 野生馬は背中の羽をゆっくりと広げると、魔術師の方角へむかって来た。

 そして、傍らの月影の頬にやさしくその頬をすり寄せると、あまくいなないた。月影は軽く胴震どうぶるいして応じた。


 「魔術師よ。このうつくしい牝馬に免じて、貴様の非礼を許そう。我が名は、斑雪はだらゆき。ここは我が小庭なるねぶりのうろ。ゆるりと休むがよい」


 声ならぬ声が、おごそかに響いた。


 「ウズリンの妖術使いだ。ウズリンの妖術使いだ。その覆面を取って、きれいなお顔をみせておくれよ」

 朱儒たちが騒ぎ始めた。

 「知っているよ。彼はすごい笛の名手なんだ。ねえ、お願い。何か聞かせてよ」


 求めに応じて、イムナン・サ・リは魔笛を吹き興じた。異界の住人たちは、予期せぬ客人の童話めいた無言歌にうっとりと聞き惚れた。


 「妖術使いよ、僕たちの庇護者になっておくれよ。あの野を駆ける赤毛の姫君とともに」

 「あのヤ・バル・クーンをたおしたんだよね。すごいや。彼は本当にいやな奴だったよ」

 「斑雪はだらゆききみよ。君からもお願いしてよ。君はいつだって、僕たちをおいて気ままに旅をしているじゃないか」

 「ふたりに刺草いらくさで編み上げた冠をつくってあげるよ。僕たちの指から流れる血で染めあげた赤いいばらの冠を捧げよう。僕たちのうつくしい王と女王に」

 甘い誘いを聞き流しながら、この場を立ち去る潮時をはかっていた。どれほど愛らしく、また愛嬌たっぷりにみえようと、彼らには鋭い牙や爪が隠されている。魂が奪われるまえに退散せねば。


 そう魔術師が思案していると、突として一羽の白梟が飛び込んできた。

 「弔いだ。弔いだ。ホロッホー」

 ばさばさと羽が飛び散った。

 「浮かれている場合じゃない。ポーメリアンが攻め落とされた。我らの友、キシアン・ナージと彼の一門は滅んだ」

 「弔いだ。弔いだ。ホロッホー」

 朱儒たちは、手を翼代わりにぱたぱたさせて、梟の口まねをした。


 イムナン・サ・リは、その凶報に瞬時に反応した。

 「いくぞ。月影」

 短い口笛で、野生馬の隣で苔をはんでいた月影を呼んだ。月影は名残惜しそうに野生馬にひとつ嘶くと、あるじのもとへ馳せた。

 「人の世の争いは醜いもの。行って真実を知れば、貴様は深く傷つこう。現世のことなど忘れて、我らの王となれ。これはただ一度のチャンスだ」


 斑雪はだらゆきの心地よい声音が心に響いた。

 「キシアン・ナージには恩義がある。頼むから、この異界から出しておくれ」

 「よかろう」


 翼ある野生馬は、しぶしぶあきらめた。

 「かの聖者は、我らにとっても古き友だった。今回は貴様を傷つけぬが、次に我らの境界に足を踏み入れたならば、貴様の安全は保障しない。魔術師よ、ゆめゆめ忘れるな」


 イムナン・サ・リは虚を離れると、天を仰ぎ、星と月から時を読んだ。ほんの半時ほどの拘束としかおもえなかったが、ラ・ウの瞳は二夜分西に落ちていた。闇の力は強まっている。彼らと我らの境界は、少しずつ薄まっていく。このままでは、先刻見た風景が谷の日常となろう。


 人馬は、一路ポーメリアンを目指した。


 フィポスメリアの南東にある、狭く、深い峡谷が複雑に入り組むザムラン峡谷群。

 ダール・ヴィエーラの西の大動脈であるゲルムダール街道は、大きくこの地を迂回している。

 そのまま進めば、タルクノエム、そしてサイラスに通じるが、タルクノエムの商人たちも、この地に足を踏み入れることは滅多にない。谷の表玄関であり、すべての街道の分岐点であるカシャを経由するのが習わしだった。


 いかなる勢力の版図でもない化外けがいの地。辺境のなかの辺境。


 狭くうねった小径の両側にそびえる奇峭きしょうな岩壁は、空を閉じるように庇岩ひさしいわが張り出して急勾配のアーチを描き、経路そのものが天然の拱廊ガレリアとなっていた。ラ・ウの瞳のひかりもめったに届かぬ暗黒のザムラン峡谷群のいずこかに、霧深きポーメリアンの谷はひっそりと隠されていた。


 頬を切りつける冷風は、魔術師に思い起こさせた。初めてポーメリアンの地に足を踏み入れた夜のことを。


(四)


 少年は、もはや無垢ではなかった。

 タルクノエムで大罪を犯しながらも、今はサイラスの皇妃の庇護のもとにあった。あれほど手痛い裏切りを受けても、異母兄は彼を窮地から救い出して退路をあたえてくれた。その見事な手腕やむしろ残酷の域にあろう寛容さを彼は憎んだ。


 皇妃の隠れ家に匿われながら、彼はのちに異能の魔術師として活躍することになる礎石そせきを学んだ。彼のサイキックとしての能力の限界は、密かに皇妃を落胆させた。その代わりとして、兵学、戦史、地政学はもとより、心理戦をふくめたあらゆる戦闘プログラムを叩き込まれた。理不尽な試練をあたえる皇妃を激しく憎んだが、同時にそれによって得られる危険な力への憧れもあった。だから、表面上は従順にしたがい、この機会を利用してやることにした。兄が知れば、ここに彼を送ったことを後悔するだろうと夢想することも小気味よかった。


 地下に延びる帝国の隠された宮殿の小部屋で、ナトリウム灯のセピア光のなかで、少年は地球時代から縷々と語り継がれてきたさまざまな戦史に目を通していた。その殺戮さつりくの営みの無機的な記述は、少年の目には錦繍のはらわたのごとくうつくしく彩られ、ゆがんだ情念を暗く掻きたてた。


 サイラスの情勢は日々悪化していた。皇帝の権威は日増しに薄れ、カリスマ性のある指導者に率いられたオメガ教徒たちが台頭してきた。彼らは、遠い昔に救世主を見失い、かつての教義から終末に関わる部分のみを切り取っていた。しかし、少年は現実世界のことにはほとんど興味を持たなかった。仮想の世界だけがもはや彼のよりどころだった。


 ぎぃーと、隠し戸の開く音がした。

 おどろいて振り返ると、彼よりも年若い少女がいた。彼の罪すべてを見透かすかのような黒く沈んだ瞳。


 「おい、そんなに悠長にしている暇はないぞ」

 少女の後ろから、男が近づいてきた。

 「アズールは、すでに無法者どもに拘束された。あいつらしくないが、ここで小競り合いはできぬ」

 男は、サイラスを離れ、ながらく最果ての離宮で過ごしていた皇帝その人だった。彼こそが機械仕掛けの不死の王。


 なんだろう。ざわざわするこの厭な感じは。やはり、この人は並の人間とは違う。


 少年のか細い顎をぐいっとあげさせると、男はまっすぐにのぞき込んだ。そして、少年のうちなる恐怖を見透かしたのか、口許をゆがめて笑った。

 「お前がアズールの秘蔵っ子か。ずいぶん繊細な小僧だな。あいつが心配していた訳だ。だが、もう独り立ちしてもらわないと困る。ここではお前を守れない」


 「ルー・シャディラ、ここを引き払え。一切の痕跡は残すな。手順はわかるな」

 その声には有無をいわさぬ切迫さが含まれていた。

 「はい、レィヴン様」

 暗い瞳の少女は、動じることはなく淡々と答えた。


 「来い、小僧。アズールが何故俺を呼び出したかと思ったら、お前を逃がしてやれだとさ」


 気がつくと、皇帝の操る翼あるハーレイの背に乗って、夜のダール・ヴィエーラを飛翔していた。身を切るような寒さに気を失いかけながら、少年の凍えてゆがんだ魂が次第に解放されてゆくのを感じた。すべては、この夜のなかに溶けてゆく。執拗に彼に纏わって、ひとりでは解けなくなってしまった憎しみさえも。


 一段と暗い、迷宮のようなザムラン渓谷で、彼を待つ一条の光があった。

 炬火をゆっくりと振りながら、穏やかな顔をしたキシアン・ナージが空を見上げていた。それが人生で二回目の邂逅であることをイムナン・サ・リはもはや覚えていなかった。


(五)


 闇の狭間に迷いこんだ魔術師が、夢のなかで死に神と取引していた頃。


 キシアン・ナージは、彼を取り巻く惨状をみつめながら、空谷に逃れた傍観者にふさわしい末路だと自嘲した。最後まで残った少数の信奉者たちはすでに毒をあおり自死していた。

 コーダとしては、寿命に近かった。長きに渡る谷での生活と生業のためのさまざまな幻覚剤はその心身に堪えた。もはや引き際だ。だが、我が身はともかく、最期まで彼を信じた者たちの死は痛ましかった。巷間こうかんでは淫祠邪教いんしじゃきょうと捉えられていたが、ポーメリアンは弱き者の聖域だった。ここには、永遠の命も約束された来世はない。暖かな食事と穏やかな生活とつかのまの愛だけがあった。それを背徳と呼びたければ呼ぶが良い。


 魔境に無謀にも踏み込む軍馬いくさうまの響きを遠く耳にしながら、予言者は最後の身仕舞いをした。


 「日輪の巫女よ。そなたは、来ぬのか」

 予言者の意識はいまやたかく舞い上がり、ダール・ヴィエーラの全景が彼の眼下にあった。館にひとり籠もっている女の姿がみえた。

 「ほう、おびえているのか。そなたらしくもない。ならば、そなたへの置き土産として、ひとつのヴィジョンを届けよう」 


 「そなたは、そなたが真に求める者を手に入れる。我が不肖の弟子、あの軽薄な魔術師を。喜ぶがいい。あの赤毛の娘から最愛の男を取り戻せるのだから。だが手に入れたときには、もはや男はむくろ同然だ。そなたはただ悲嘆にくれるだけ。死にゆく男のかたわらで、なすすべ無く」


 「それが、そなたの選んだ道だ。そなたが求める王国の栄光にあの男は殉ずるだろう。最愛の男の犠牲のうえにそなたの王国の礎石は築かれるのだ」


 「どうする。もうひとつ道があるぞ。そなたはてる闇の女王として魔の道に転落した魔術師とともに地上に君臨する。そして、暗黒の太陽のもとで、常闇の王国はいよいよ栄え、永遠に続くしょくはあらゆる希望の光を覆い隠し、絶望や憎悪とも違うまったくあたらしい名の恐怖が世に満ちあふれるだろう」


 館のなかでルー・シャディラはきっとくうをにらんだ。

 「お黙り。死に損ないのペテン師よ。臆病なのはお前だ。お前は持てる力に見合う責務を果たさなかった」

 右の掌を顔のまえでひろげると、ふうっとつめたい吐息を吹きつけた。キシアン・ナージの消えかけた魂の灯を吹き消すように。

 「司祭がなにを思おうとわたしは知らない。だが、お前はあたらしい時代の足枷になる。その存在が人々の心を闇と谷とにとどめる。邪魔だ。消えておしまい」

 ぞっとするほどの冷気が、予言者の意識に直接流れ込んできた。


 「ほう、たいした手並みだ。なるほど、そなたは父親を凌駕するほどの力を持っているようだ」


 ならば、何故ズールムンデのように世を呪わないのか。化けものとして産み出されながら。


 女の指が空を切り、その見えない魔力の矢が放たれたときには、もはや予言者の意識は谷からかき消えていた。


 「我が古き友よ」

 キシアン・ナージの意識は、生まれ育った鋼鉄でできた地下の迷宮にむかった。

 「今は司祭の名で呼ばれし者よ」


 「お前の心は閉じられていて、もはや私の言葉は届かないだろう。お前が耳にするのは、ファラミスの悲痛な叫びのみ。あれから、ずっと聞き続けているのだろう。その身を呪い、この世のすべてを焼き滅ぼさんとする巫女の深い嘆きを」


 その魂に記された追憶の詩篇をめくると、預言者の意識に巫女の嘆きの詩歌うたがなまなましく呼び覚まされた。憎悪という名の鉄鎖てっさに囚われた魂は、今もなお果つることなき業苦のなかを彷徨さまよっているのだろうか。


 超越者たちよ。

 業報の疾雷しつらいであまたの塔を撃ち倒し、火焔の旋風をもって生きとし生けるものをあまねく塵に帰すがいい。

 この不義と暴虐で覆われた地上を焼き尽くすために。

 すべてを消し去るのだ。

 世界には、もはや喜びの光はないのだから。

 (お願い。もう、すべてを終わらせて)


 「だが、はたしてそれが彼女の真意だったと思うのか。救いようのない呪詛をのこしたまま虚しく世を去ったと。我らが愛したあの清浄なるファラミスが」


 サイラスの政変を逃れて、皇帝レィヴンに連れられてきた少年は、この地で暫し休養し、他者の苦痛を癒す術を学んだ。予言者の愛弟子は、今頃時間すらねじ曲がった異界に迷いこんでいるだろう。ねぶりのうろ斑雪はだらゆききみには、いましばらく彼を引き留めてもわらねば。


 イムナン・サ・リよ。お前もやがて知るだろう。終末へむかい練りゆくこの長い葬列の、その発端であるファラミスの絶望を。そのとき、再び対峙するのだ。あのおそるべき記憶、そしてズールムンデによってかけられた呪いと。お前は、どこまでも逃げ続けるつもりなのか。だが、それはできない。自分自身からは逃れられない。お前がズールムンデを乗り越えたときに、お前の戦いは終わる。


 キシアン・ナージはもうひとりの少年の面影を思い起こした。あの日の聡明な目をした少年は、彼の見込み通りいまやタルクノエムの命運を握っている。頂点に登りつめるほどに、その背後に深く濃密な影を落とし、その双眸につめたい輝きを増していきながら。

 世界を揺り動かす者たちはそろった。善と悪は、かの者たちの魂のなかでせめぎ合い、時に惑いと恐れがほの昏い道に誘うだろう。だが、それでも人間の習性として光射す方角へと進むのだ。あの偽悪者を気取る皇帝も、不撓不屈の反逆心で神に挑み続ける司祭すらも。


 私のような例外をのぞいて。


 善と悪との狭間をたゆたいながら、魂の深遠に潜む獣を飼い慣らしてきたと思っていた。だが、そのうちなる悪に崇め使えるうちに、いつしかわたしの闇は膨れあがり、獣は我が良心の呪縛を解いてやがてわたしを呑み込むだろう。

 わたしの愛するものは、善きものも邪悪なるものも、すべて闇のなかにこそある。魂が躍動するような生命の煌めきは闇のなかに隠されている。わたしは光など求めない。よろこんで無明の闇の囚人となろう。ましてやそこにファラミスがいるのなら。


(六)


 ファディシャは、夜の到来を待たずにフィポスメリアの広野を出立していた。

 彼の率いる精鋭部隊は、百に満たない編成で、致死光線を遮断する厚い黒地のマントで人馬を覆い、ルー・シャディラが放った鬼火を頼りにポーメリアンの谷へつづくザムラン峡谷群の迷宮に分け入った。青白い燐火りんかは、その標的まで的確に彼の軍を導いていく。


 「ほう、ウズリンの総領息子か。いまやその手を汚して、王位を継いだようだな。何故そのように死に急ぐのか。そなたには、今しばらくこの世界に踏みとどまってもらわねばならぬ」


 蹄音ていおんが谷にこだまする。

 勝手知ったるザムランの地、ここをいくさの庭として、無礼きわまりない侵掠者たちを何の痕跡ものこさずに消し去ることなど、予言者には造作ないことだった。人にも魔にも聖域であるこの地を守るためならば、冷然とやってのけただろう。そう、これまでは。

 されど、もはやこの冬はこの地では越せない。未曾有の大雪はポーメリアンを深く埋めるだろう。ましてや、次の夏は永遠に訪れない。


 ファディシャを導いてきた鬼火が、ぴたりと静止したかとおもうと、ぱっと掻ききえた。


 仰ぎ見れば、正面には行き止まりの断崖があるのみ。

 その中腹には、こちらへむかってくるかのように細長く張り出した岩棚があった。

 だが、ファディシャはこの袋道のどこかにポーメリアンへの扉が、新たな迷宮への入口が隠されていることがわかった。


 岩棚の切っ先に不意に人影が現れた。目に見えぬ抜け穴が隠されているのか。鈍色のマントをはおった影のフードの奥の表情は、ヌークの瞳を持ってしてもわからない。


 陣形は、自然と両翼をひらいた方陣の形をとった。

 ファディシャは片手をあげて、彼の後方を囲むように矢を構えた射手隊を制した。


 天性の軍人いくさびとであるファディシャは、相手に戦意がないことをみてとった。そして、同時に先を越されたことがわかった。予言者は待っていたのだ。この夜の到来を。この男にとっても死は救いなのだ。


 岩上の影法師の手には光るものが握られていた。それは、ゆっくりと喉許に当てられた。そのまま、影は逆落さかおとしに墜落した。


 ファディシャは、馬を進めて落下地点まで近づくと、自ら予言者の骸をあらためた。

 自刃して果てた伝説のサイラス人は、まるで青年のように若々しく、あれほどの高さから落下したにもかかわらず、身体には自らあたえた致命傷以は傷ひとつなかった。その死に顔は、おどろくほど柔和な面持ちをしていた。女のように小作りな面を雪のような白金色プラチナの髪が彩っていた。

 こいつも、化けものなのだ。自らを憎んでやまない。そう、ファディシャは確信した。


 「どうされます。首級しるしを持ち帰りますか」

 おそるおそる配下のひとりが尋ねた。

 「ふん、イムナン・サ・リにでも見せるのか。検分は、もう俺が済ませた。このような男、谷にふたりといまい。そのまま捨て置け」

 肩すかしをくらったが、不思議と怒りはわいてこなかった。どこか清々とした心持ちになった王は、そのまま馬上の人となると一気にもと来た闇にむかって駆け出した。もはや予言者にもまだ見ぬポーメリアンの谷にも興味はなかった。配下の者たちはあわてて主を追った。


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