第5話 Cut3
「嘘だよ、それ。妊娠していたなんて。」
歩道橋の中央で、セブンスターを口にくわえながら、この男はいった。
「あいつとは、もう1年ぐらいしてないからさ。」
車、車、車。クラクション。ブレーキ。エンジン音。サイレン。排気ガス。この男の声はとぎれとぎれにしか聞こえてこない。
「だからといって、完全に別れてしまっていたわけでもないけど、なんていうかな、たまにキスしたり、抱きしめあったりはしていたのかな。それでも2ヶ月ぐらい前に、携帯で話したきりか。」
僕は、この男に会いにきたことに少しだけ後悔をしはじめていた。自分のことを、まるで他人事のように話す男。
「ほかの男の子供ってわけでもないと思うな。これは想像でしかないけれど。」
男は歯を見せていた。それが笑っているのだと気づくのに少し時間がかかった。
「今は、もうそれどころじゃなくてね。あいつのこと、心配じゃないとはいわないけどさ、俺も来月であの会社、辞めさせられるし。」
男が顔を向けた方向には、全てを圧倒させるようなビルが建っている。一度だけ、彼女が連れてきた男。
「まあ、でも教えてくれてよかったよ。なんで君が来たのかはよくわからないけど。」
彼氏だと紹介され、会社の名刺を強引に渡された。誰もが知っているような会社名が書いてある名刺。もったいぶった肩書 き。
「東京に出てきていまさら帰る場所もないし、あいつもそんなだったら、もうあてにできないってことか。」
路上に捨てたセブンスターを靴底で踏みながら、男はまた、煙草を取り出し口にくわえる。
「給料カットにボーナスカット、挙句の果てにとうとうリストラ。せっかく大きな会社にはいったのに、こんなに生きるのに苦労す るなんてね。労組もあてになんないし。」
僕は、もう何も話す意欲がなかった。正確には、僕がこの男に話すべき言葉など何ひとつなかった。自分がどうしてこの男にわざわざ会いにきて、彼女が子供を降ろしたことを伝えたかったのかがわからなくなっていた。会って、一発ぐらい殴ろうとしたのか、罵ってやろうとしたのか、もうどうでもよかった。身体中の力が抜けていくようなめまいを感じた。僕は、あいまいに頭を下げて、背中を向けようとした。
「もしさ、また彼女に会うことがあったら、ひとつだけ伝えてくれないかな。」
僕は足を止めて、言葉を待った。だけど、この街に充満するノイズが、その言葉をかき消した。
「わかりました。伝えておきます。」
僕の声も男に聞こえたかどうかわからない。確かめることもしないで、僕は歩道橋の階段を降りる。
捨てられた煙草の吸殻の 数を数えながら僕は考える。足りないものだらけなのに、僕らはまたCUTしていく。いろんなものを次から次へCUTしていく。い つまでたっても満たされることなく、それでも僕らはいろんなものを捨てていく。どうして、どうして、どうして、どうして。
吸殻の数を22まで 数えてから、僕はそのまま歩道橋の階段に座り込んでしばらく耳を塞いだまま、目を閉じていた。
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