第4話 Cut2 冬

 彼女は、僕のバイト先の店での前からの常連だった。週に1、2度、いつも一人で来てはカウンターに座り、決まってダイキリを頼んだ。ライトラムのロンリコ・ホワイトとフレッシュライムをシェークし、カクテルグラスに注いで、僕は彼女の前に差し出す。彼女はそれを2息ほどで飲干す。彼女の喉がまるで何かの生き物のように動くのを見ると、なぜかとても不思議な感覚に捕らわれた。異様なほどの喉の渇きを覚えて、マスターに見つからないよう、さっとゴードンをストレートで口にほうりこんだ。ジンの辛さがのどに広がる。マスターがすれ違いざまに、「やめとけ」と耳元でいった。ジンを飲んだことを咎められたと思い、僕は苦笑しながら少し頭を下げた。


 去年の12月。バイト先のカウンター7席とテーブル2卓だけの狭い店もそれなりに賑わい、僕も忙しくしていた。忙しさは、余 計なことを考えずにすむだけありがたかった。余計なこととは、たとえば、自分の居場所や、中途半端な夢の捨て場所や、おりあいのつかない想い出と呼ぶには悲しすぎる出来事などだ。オーダーされたカクテルを、次々にシェークしていく。そこに余計な 想いなど入り込む隙はなかった。「余計な想いまで混ざり合った酒など、誰もおいしいとは思わない。」一度、マスターに言われた言葉を僕は忠実に守ろうとした。夜11時をまわって訪れた彼女は、ホット・バタード・ラムを注文し、コートも脱がず両腕で体を抱えたまま、カウンターの席でじっとしていた。僕は、ほかの客のオーダーを後回しにして、タンブラーにホルダーをセットし温めはじめた。アネホ・ラム・ダークと角砂糖を入れ、温めたタンブラーに7分目まで熱湯を注ぎ、そこにバターとクローブ1stepを加える。そうして出来上がったホット・バタード・ラムを彼女は両手でかかえるようにしてゆっくりと飲みほした。

 僕は、次のオーダーを目で訊ねた。

 「遊園地へ連れてってくれない。」

 紫色に変色していた唇に、少しだけ赤みが戻ってきた彼女の言葉は、冗談には聞こえなかった。僕は、彼女の喉を見なが ら、軽くうなずいてみせた。


 その次の日の昼過ぎ、彼女と僕は、近くの何の変哲もない遊園地の入り口で待ち合わせをして中にはいった。彼女はどの乗 り物に乗るかさんざん迷ったあげく、メリーゴーランドを選んだ。平日の冬の遊園地は、人も少なく、どちらかといえば寂しい場所 でメリーゴーランドは、彼女とほかに小さな少女一人を乗せて、ゆっくりとまわった。いっしょに乗ったその少女が、父親らしき人 に向かって無邪気に手を振った。彼はぎこちなく手をふりかえす。それを見た彼女が僕にむかって、同じように手を振った。僕は 慣れない笑顔をつくってから、煙草に火をつけた。

 「やっと、ちゃんと笑ってくれた。」

 そういって降りてくるまでに、結局、彼女は3回続けてメリーゴーランドにのり、1周するたびに飽きるでもなく僕に手を振った。

 「やっと、笑い方を思い出した。」

 僕の冗談に付き合おうとせず、彼女は曇った空を指差した。

 「次は、あれだよ」

 けして大きくない観覧車が、てっぺんまで昇るのに、そう時間はかからなかった。その間、彼女はまるで僕に無関心な様子で ずっと黙って外の景色を見ていた。観覧車はあっけないほどあっという間に1周し、地上に戻ってきた。

 「連れて来てくれてありがとう」

 そういって降り際に軽く僕の手に触れた彼女の指の、そのどうしようもない冷たさに、僕は死んだ父親の身体にはじめて触っ たときの冷たさを思い出していた。

 それが、彼女が声を失う8ヶ月前の冬のことだった。

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