第3話 Cut2 夏

 幸せでないことの不幸と不幸でないことの幸せ、君ならどっちを選ぶ?答えようのない質問を彼女がして僕が黙り込んでから 5分が過ぎた。小学校の運動場。校舎の時計。屋上の黄色い旗。鉄棒。逆上がりを練習する少女が一人。まるで、泥の中を泳 いでいるような感触。肌にまとわりつく砂と熱風。グラウンド奥のシーソーのなぜか片方に僕らはバランスを保ちながら座ってい た。

「せつなさの意味って知ってる?」

 僕の返事を待たずに、彼女は続ける。

「せつないって、切ないって書くよね。」

 土のグラウンドに彼女は、指で書く。白すぎる手首。何重にも巻かれた包帯。

「辞書で調べたら、胸がしめつけられるような気持ちだ。つらくやるせない・・・・・・だって。悲しいとか、寂しいとか、つらいとか なら、なんとかわかる気がするけれど、せつなさって何?わからない。教室ではいつも答えを求められた。わからない出来事や わかりあえない他人がいるってこともみんな知っているくせに、ここではいつも答えがあることからはじめなければならなかっ た。わからないって返事するたびに、いつも自分の存在が消えていくような気がしたわ。もうずっと昔の話だけれど、今も時々、 あのときの気分を思い出すの。」

 逆上がりを練習する少女は、何度も、何度も同じ動作を繰り返す。弱々しく土を蹴っては、そのまま座り込む。少女の顔はここからでは見えない。か細い両足にたくさんの砂がついているのがみえるだけだ。

「心の痛みとせつなさは同じなのかな。胸がしめつけられるような痛みに人はどれぐらいまで耐えることが出来るかな。」

 彼女は僕の言葉など期待していない。それは、あの鉄棒にいる少女が何度やっても逆上がりが出来そうにもないことがわかるのと同じぐらいよくわかっていた。

 「・・・・・・そんなことを考えていたら、手首を切っていた。薬で朦朧としていたから、あんまり力がはいらなくて、後で見ると浅い 傷しか作れなかったけれど、血が少しずつ流れてきて、でも、全然痛くないの。テーブルにばら撒いた薬を一粒ずつ飲みなが ら、そうか血って赤いけれど、真っ赤じゃなくて、鈍い赤、錆びたような色なんだとか考えていた。なぜかな。体の痛みが、心の痛みで中和されたのかな。」

 さっきからずっと鉄棒の少女を見ながら話す彼女の言葉はえんえんと続くように思えた。

 「どうして、みんな何にでも意味や理由をつけたがるのかな。意味や理由を自分の中だけで考える分にはまだいいけど、どうして、人に訊ねるの。どうして、みんながわかるような理由が必要なの。本当に知りたいのなら、私と同じ24年分を、私と同じ ように生きるしかないのに。」

 シーソーが一度だけギーという音をたてた。どんな言葉も彼女の前では、無意味に変化してしまうことはわかりながら、僕は 沈黙の扉の中に閉じ込められるのが怖くて口を開いた。

 「たぶん、みんな安心したいだよ。君が感じるほどには、誰も強くはないし、普段、俺は俺、私は私とか、他人とは違うとか。 自分らしくなきゃだめだとか言っていても、本当は、自分以外になれないことで、怯えたり、嫉妬したり、あきらめたりしてるんだよ、きっと。」

 彼女は何もいわずに、一度だけ、大きく深呼吸した後、ゆっくりと首を横に振った。

「昨日、子供を降ろしたの。」

 僕は、ある男の顔を思い浮かべていた。

 いつしか鉄棒には少女はいなかった。校舎のアナウンスが聞こえる。光化学スモッグ警報発令。屋上の黄色い旗が赤に変 わるまでの時間、彼女は黙ってぼやけた土を見ていた。それから彼女は、水滴をぽたぽたと落としながら缶ジュースをごくごくと飲んだ。彼女の喉が汗と水滴で濡れて光る。

 「鉄棒と絶望って似てる。」

 その言葉を最後に、彼女は声を失った。

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