第2話 Cut1

「ベリーショートで。」

この店内の明るすぎる光にとまどいながら、僕は、小さな声を出した。はじめてこの美容室を見つけて入った時の僕の注文は それだけだった。無頓着といってしまえばそれまでだけれど、僕は自分に似合うヘアースタイルがわからない。どうしてもらいた いかも思い浮かばないから、どんな店にいっても、ヘアースタイルの注文はいたってシンプルだった。

イスがふたつの小さいけれど、光が存分にはいって、とても明るい空間のこの店の奥に、ちょこんとその人は丸い椅子に腰掛 けていた。そして僕を確認すると立ちあがり、両手で大事そうに持って読んでいた文庫本を、その空いた丸い椅子に無造作に おいてこちらへ歩いてきた。いらっしゃいませのあいさつもなく、その人は僕を(正確には僕のぼさぼさの頭)を丹念に見て、触り始めた。とまどいながらも僕は、じっとなすがままにされていた。ひととおり触った後、僕の頭から手をはなし、少し考え込むようにうつむいてからまっすぐにこちらを向いて「はい」とだけ言った。その人から発せられた「はい」という言葉には、何の曖昧さもなくて、驚くほどに単純でありながら、たしかにそこにはっきりとした意思を感じた。僕がはじめてこの店を訪れたときのことを今でも克明に覚えているのは、きっとその「はい」という言葉の音のせいだと思う。


 丁寧に僕の頭を洗ったあとで、僕を中央の全身鏡のある前のイスに座らせ、赤いはさみを左手に持った。その人は、天気の話もしなければ、僕のことを訊ねることもしなかった。ただ僕の髪にだけ集中するだけで、そしてそれは僕にはとても新鮮なことだった。目を閉じて髪がゆっくりと切られていく感触。その感触がこぼれるほど素敵なことであることをはじめて知った。切り終わり、軽くドライをして仕上がったベリーショートは文字通り僕の頭を軽くしてくれたような気がした。


 イスから立ち上がって、ありがとうと言った。その人は、「どういたしまして」と言って、夏の光がまぶしいような笑顔をした。精 算した後、店のドアを開けて「よく似合うよ」と言いながら、右手を僕に差し出した。手のひらに、紙に包まれたヨーグルトキャン ディが1個。僕は、この店が好きになってしまったことに戸惑いながら、それを口に放り込んだ。


それが1年前の夏。


 それから2ヶ月に一度、第2水曜日の午前10時に、僕はこの店にいく。そうすることに決めたのに、難しい理由などない。ただ、出来るだけ自分の住む町に関心を示さないことにしてきた僕にとっては、それはささやかではあるけれど少しの決意は必要だった。この町の店や人々がだんだん染みついていき、住み慣れてしまうことに抵抗があった。この場所から離れられなくなってしまうことが耐えがたかった。正直に言えば、そういった自分の弱さを恐れていたのだと思う。ここは僕の場所ではない、 僕の場所は他にあるはず。根拠のない思い込みは、自由であればあるほど僕の思考を不自由にさせていった。生まれた町を 離れるためだけに中途半端に入った大学へは、中途半端なまま足が遠のき、今は隣町の小さなカウンターバーでシェーカーを 振る毎日。酒やバーテンに思い入れがあったわけではなく、なんとなく続けているバーテンダー。

 そしてこれはそんな僕のひどく脆かった夏の片隅での話だ。あの夏、どれだけシェーカーを振っても、けして交じり合わないカ クテルもあることを僕は覚えた。


 いつものように、最後にやさしく僕の髪に触れた後、その人は、「はい、おしまい」という。僕は、ゆっくり目を開けて、まぶしい光と、僕自身と、傍らに立つその人を鏡の中にみつける。そして、その人は鏡の中の僕に向かって微笑んだ後、きまって下手 なウインクをする。無愛想なのか、茶めっきがあるのかは判断しかねるが、そんな仕草がかわいい人だ。

「ありがとう。」

「軽くなったでしょう。今日はこれからお出かけ?」

 髪を切り終わると、その人は少しだけ話をしてくれる。僕はすぐに返事が出来ずに、足元に目をやってから答える。

「ええ、・・・・・・友人に会いに。」

「そう、また、いらっしゃいね。重たくなったら。」

 僕は、赤いはさみについて訊いてみたくなったけれど、あいまいな笑みを浮かべて背中を向けた。扉を開けると、太陽の光が待っていたかのように照りつけた。友人。そう呼ぶしかない彼女の住む町へ行くために、僕はバスターミナルへと歩いていっ た。


 彼女の住んでいる町は、抽象的にいえば、たとえばすこしだけ夏から遠い場所にある。具体的にいえば、ここからバスで1時 間。けして遠くない場所に住んでいる。ただ、正確に彼女の言葉を借りれば、彼女はその町で息をしているだけだという。

 「住んで、生活をするっていうのは、働いて帰って、駅近くの市場によって、果物や生活に必要ないろんなものを買って、レジ 袋にねぎやだいこんをつっこんで、帰り道の八百屋で気まぐれに新鮮なトマトとかを真剣に選んでみたりして、踏み切りを待ち ながら夕焼けの色や、駐車場の車の下で眠る猫を観察しながら、近所の夕食の支度の匂いをかいで、部屋へ戻ってごはんを 炊いて食べて、お風呂にはいって、お気に入りの雑誌をめくりながら眠る。朝は、眠たい目をこすりながらコーヒーを入れて、ごみの日を確認して、スーパーのチラシの特売を見て、あれが安い、これを買って帰ろうとか思いながら、時間を見ながら、また 会社へ出かけるようなこと。私はただ、家とコンビニによるだけ。」

 そしてこう続ける。

 「私には生活していくうえで、決定的に欠けている何かがあると思う。」

 彼女は、どこか誰の手も届かない遠くを旅している。夏をすっ飛ばした季節の渦に巻き込まれたような荒地を彷徨っている。 僕にはそう思えて仕方がなかった。


 揺れるバスの窓からぼんやりと外を眺めながら、僕は、彼女に会うことを憂鬱に思っている自分を少しだけ責めながら、汗ばん だ手でボケットの中の小銭を強く握り締めていた。

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