第15話 水
残りのバドワイザーを飲み干した。わざと大きな音を立てて、瓶をテーブルに置く。混雑し始めた店に、少しの緊張がおきはじめているのを、感じていた。少し考えた後、ゆっくりと立ち上がった。入り口奥のトイレへと向かう。トイレのドアを開け、中に入り、鍵を閉める。
立ったまま、水を流す。流れる水の音に紛れるように、大きく息を吐く。決め事をつくる。その後は、考えない。つぶやいてみる。躊躇は、恐れや不安を連れてくる。もう一度、水を流す。目を閉じて、水の流れる音を聞く。目を開く。視界が明るくなる。後は、動くだけだ。
鍵を開け、ドアを開ける。鏡を見る。ひどい目をしている。ひどいだけで、悪くはない目だ。トイレを出る。感覚を研ぎ澄ます。ゆっくりと店内を見渡す。ポケットに手を入れ、ネジを触る。ワークブーツに目をやる。顔を上げる。一歩踏み出す。静かに入り口の扉を開けて出る。螺旋階段。一気に駆け上がる。歩道へ出る。左右を見渡す。人通りは、あまりなかった。少し待つ。地下で乱暴に扉が開くのがわかる。走り出す。少し坂になった道を駆け上がる。来るときに通った公園を目指す。歩いて三分程の距離だった。そこまで、奴らを引き連れてくることが出来ればいい。
何人来るか、三名来れば、上々だ。その後は、考えていない。引き寄せるだけだ。その次は、また考える。横断歩道。青。渡れば、公園はすぐ。走りながら、後ろを振り返る。追いかけてくる。人数はわからない。前を向く。ブレーキ音。目の前。車。左から現れた。避けきれない。ぶつかる。接触。身体が跳ね上がる。ボンネットの上。背中を強く打ちつけ、路上に転がり落ちる。肘、腰、後頭部がぶつかったのがわかる。息ができない。そのまま、動くことも出来ない。男の声がする。何を言っているかわからない。はじめは大きく、やがて小さくなり、そして、聞こえなくなった。
夢だと自覚したまま見る夢というものが、稀にある。町並みの中を迷っていた。どこへ行こうとしているのかは、はっきりしない。両手で地図を持ちじっと見つめているが、今、自分がどこにいるのかもよくわからないようだ。誰かに訊こうにも、すれ違う人々は、固く口をつぐんでいるか、うつむいている。誰も、俺に目を向けない。足を止めてくれそうにないことがわかる。仕方なしに、地図にもう一度、目をやる。
さっきと地図が違う。いや、逆さまに見ているだけなのかもしれない。地図に記されている記号や文字は、今まで見たこともないようなものだ。古い地図だった。色落ちし、ところどころは文字がにじみ、破れ、穴が空いているところもある。読めない地図ほど、不必要なものはない。それなのに、捨てることもできない。まるで、じっと見つめているうちに、行くべき場所がわかるかもしれないかのように。立ち止まったままの俺をよけるように、人混みは流れていく。
季節は、おそらく夏だ。容赦ない陽差しが、ふりつけてくる。汗が、頬から顎を伝って落ちていく。唇をなめる。しょっぱい味が、身体の感覚を鋭敏にする。水が飲みたい。喉がからからに渇いている。唾を飲み込むのさえ苦労する。あたりを見渡す。自販機や店は、どこにもない。両側から圧迫するように隙間なくビルが建ち並び、その間の細いアスファルトの歩道は人混みであふれかえっている。俺一人が立ち止まっている。めまいがして、ふらつく。誰かの肩がぶつかる。舌打ちが返ってくる。
その小さな、しかし強い舌打ちが、人混みに伝染する。舌打ち。舌打ち。舌打ち。目をこらすと、遠くに、公園が見える。それは、アスファルトの路上から立ちのぼる水蒸気が陽炎のようにゆらゆらと揺れ、はっきりとは見えない。公園に行けば、水を飲むことができるかもしれない。水を飲みたい欲求が我慢できないほど大きくなっている。地図を無造作にたたみ、ポケットに入れ、人混みをかき分けて、公園の見える方へ歩き出す。なかなか前へ進めない。足が重い。ほとんど動かない。公園が遠ざかっていく。気のせいとは思えない。奇妙だ。倒れ込みたいが、倒れ込むことも出来ない。
突然、はっきりする。これは夢なのだ。しかし、それが、わかったとしても、簡単に目覚めることはできない。また、誰かの肩がぶつかる。舌打ち。舌打ち。舌打ち。舌打ちの伝染。チッ、チッ、チッ。チッ、チッ、チッ。耳をふさぐ。声。声を出すことに、全ての神経を集中する。誰かの肩があたる。そのとき、声が叫びとなった。そして叫びは、ようやく現実の声になった。
目が開く。暗闇。しばらくして、目が慣れてきた。荒い呼吸を何度かする。蒸し暑い。喉の渇き。水が欲しい。無防備に動かそうとした手は、動かなかった。後ろ手で両手首を縛られていた。足も同様に縛られている。横に寝かされていることに、ようやく気づく
。膝と腰に少し動かすと痛みが走る。車。ボンネット。少しずつ、思い出す。ボンネットの上から引きずり下ろされ、車の後部座席に押し込められた。両側を男たちが挟んでいる。車が動き出し、そこから先はわからない。目の前が闇になった気がした。気を失ったのだろう。頭を左右に振る。後頭部に痛みを感じる。今、何時だ。後ろで両手首を縛られているため、腕時計をみることができない。
あたりを見回してみる。薄暗い部屋。八畳程の広さ。広くはない。冷えてきている。コンクリートがむき出し。ドアなのだろうか。薄く光が漏れている。耳を澄ませてみる。話し声が、かすかに聞こえる気がした。時計の秒針が動く音はしない。カーテンが締めてある。外の音は聞こえない。夜であることは間違いなさそうだ。マンションの一室のようにも感じる。目を閉じる。捕まってしまった。店には五名いた。店の外にも車で待機していた奴らがいたということなのだろう。
自分の計算の甘さだ。ひんやりとした汗が背中を伝う。拭うことも出来ない。足音。ドアが開く。急に明かりが入ってくる。まぶしくて目を閉じる。足音が近づいてくる。目を開ける。目が明かりに慣れるのを待つ。目の前にキリンのキーホルダー。男が中腰になり、ぶらぶらと動かす。
「目が醒めたようだな」
男の声。髪をオールバックにした、きつい整髪料の臭いがする。チェルシー・バーで会った男だ。和樹の隣の席に座り、ウイスキーのロックを飲んでいた。
「君には、苦労させられたよ。いろいろかき回してくれたもんだ」
何も答えず、キリンのキーホルダーを見つめる。
「少し前に、怪我をした奴もいてね。おまえに、よろしくとのことだ」
渇きで喉がへばりつき、思うように声が出せない。
「、、ずを、く」
「なんだと」
「みず、をくれ」
「いいとも、だが、その前に、教えてもらえないかな。この鍵は、どこのロッカーのだ」
「きだ」
「きだ?」
「水が、先だ。この部屋は、蒸し暑い。おまけに変な夢も見た」
「冗談はそれぐらいにしておいてくれ。さもないと、もっとおかしな夢を見ることになるかもしれない。こちらも急いでいる。どこのロッカーの鍵か教えてくれるなら、おまえがこちらに掛けた迷惑、全部、水に流してやってもいい」
「ひどく気前がいいな」
「そうだな。もう、あまり時間がないんだ。どこのロッカーだ」
「わからない」
「もう一度だけ、訊く」
「わからない」
「そうか」
「そうさ」
「なら、痛い目にあってもらうしかないな」
「こりごりだな」
「自分で選んだんだ。仕方ない」
「身体の痛みで、心の痛みを中和するそうだ」
「何の話だ」
「中学生の女の子の話さ」
「愉快な話じゃないな」
「人生ってのは、不愉快のオンパレードのような気がしてきたよ」
「他に言っておきたいことはあるか」
「金の話はしないんだな」
「金じゃ転ばんさ、おまえは」
「コップにあふれるほどの水なら、転ぶかもしれない」
「まるで、太陽と北風のような話だな」
「そうかな」
「暴力は、若い奴にまかせる。しゃべる気になったら、俺を呼んでくれ」
「あんたの名前は?」
「名前なんてどうでもいいんだよ。近頃じゃ、力をもつのは、名前じゃなく、肩書きだ。そして、肩書きに実態はない。名刺に適当にすり込んでおけばいい」
「わかったよ」
「若い奴だ。早めに俺を呼ぶんだな」
「若い奴ね」
「ああ、加減を知らん」
開け放たれていたドアが閉まった。部屋がさっきと同じように薄暗くなった。同じでなかったのは、その後、頬に拳が飛んできたことだった。
無言のまま、拳が何発も頬に飛んできた。しばらくして、靴のつま先が、脇腹にめり込んだ。痛み。いったい、何種類の痛みが存在するのか。横たわったところへ、顎につま先がめり込む。目がチカチカとする。口に中を切ったようだ。口の中がぬめぬめする。唾を吐き出す。
薄暗い部屋で、相手の動きがよくわからない。それが、恐怖を増幅させる。両手足が縛られているので、庇うこともできない。いつまで続くかわからない暴力。身体の痛みよりも、そちらのほうがきつい。このままでは、動けなくなる。逃げ出す方法も考えなくてはならない。背中を蹴られる。男の荒い息が聞こえる。
「しゃべる気になったか。これから、もっとひどくなるぜ」
「あいつの言うとおりだな」
「何だと」
「加減を知らん」
すぐさま、背中を蹴られる。
「社長さ。あいつ、じゃねえ」
身体の中を痛みが渦巻く。両手首は、きつく縛られているためか、感覚がなくなってきた。頭の奥が痺れている。頬を張られる。気づかないうちに、意識がなくなっていたようだ。このまま、死んでゆくのか。わからない。こんな程度で、死ぬことはないだろう。休みなく、腹や背中を殴られる。男の息づかい。
「しゃべりな。これから、ひどくなるぜ」
首を左右に振った。今、出来る最大限の抵抗。
舌打ち。
まだ、夢の中にいるようだ。喉の渇き。水がほしい。痛みはよくわからなくなった。全ての感覚が麻痺しているようだ。どうする。どうすればいい。
頬に冷たさを感じた。
目を開ける。目を閉じていたことさえ、ようやく気づく。
頬に、ナイフがあてられている。
「耳」
男を見つめる
「耳、もらうぜ」
男の指が、右の耳たぶをつかみ、引っ張る。
「癖」
「なんだ?」
「癖ってのは、やっかいなものだな」
「何言ってやがる」
「痛みは、生きていることをわからせてくれる」
「強がりはよしな。ぼろぼろに傷ついて、結局は、誰だってしゃべっちまうんだ」
「それでも、あきらめたくないのさ」
「何を?」
「男であることに」
そう言いながら、別に男にこだわっているわけでもなかった。
「それなら、せいぜい、強がりな。耳たぶをもらうぜ。最初は、右。次は、左だ」
ナイフが、耳にあたる。
血が頬を伝い、顎からしたたり落ちていく。
大きな物音。破裂したような衝撃音。
「なんだ?」
男の手が止まる。
隣の部屋からだ。叫ぶ声が聞こえる。男は立ち上がる。
ドアが蹴破られるように開く。大きな音が、二度聞こえた。銃声のようだ。わかったときには、意識が遠のきはじめていた。
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