第14話 一人で飛ぶ方法
らせん階段を降りる。Jazz Bar「無名」という看板。今夜は、ピアノのトリオが出演するようだ。演奏は、第一部が午後八時半からだった。カットと店に入ったのは、午後七時を過ぎた頃だった。小さなステージが奥にある。六つの丸テーブル。丸いテーブル席に座った。まだ、客は少ない。
「今のところ、ヒトミさんはいないわね」
カットが、席から身を乗り出すように、ぐるっと周りを見回して言った。女性の一人客はいないようだ。ただ、この店なら、カウンターもあり、たとえ、女性一人で来ても、浮いたりはしないだろう。
カットは、キリンの描かれたキーホルダーをテーブルの隅に置いた。
二人ともコロナビールを頼んだ。
ライムのついたコロナビールの瓶が二本運ばれてきた。ライムを瓶の中に押し込み、なんとなく、二人、瓶を重ね合わせてから飲む。軽い味わいが口の中に広がる。メキシコのビール。今夜は、まだごつい酒を飲む気にはなれない。
「ヒトミさんというのは、どんな人なんだ」
「三十三歳。身長は百六十五㎝ぐらいで、胸あたりまでの長いまっすぐな黒い髪をしている。細くて長い腕。そして意志の強い目。美人よ。女から見ても」
「他には?」
「会ってみれば、わかるわ」
「会ってみればわかる」
「そう、一目でね」
「一目で」
「そう、そういう人。とても、素敵な人」
「会ってみたいな」
「会えるわ。かならず」
カットは、周りをもう一度、ゆっくりと眺め回している。
「カット、トイレも念のため、確認してきてくれないか」
カットは、頷くと、入り口奥のトイレへ向かった。
空いた椅子に置かれている、カットのバッグを見ていた。白いシンプルな大きめのバッグ。男にはわからないいろんな物がそこに詰め込んであるのだろう。
しばらくして、カットは戻ってきた。緊張した顔をしている。
「これから、どうすればいい?」
「チェルシー・バーへ。店の前でタクシーを拾って。ここからなら、二十分もかからない」
「そうね、そのほうがいいみたいね。足手まといにはなりたくし」
「そうか」
「もし、ヒトミさんらしき人が現れたら、電話して。店の電話のほうがいいと思う」
「ああ、店に着いたら、和樹さんに、バッグの中に入れたものを渡してほしい」
「何を入れたの」
「ただのお守りさ」
少し考えるような振りをして、カットは、コロナビールをもう一口だけ飲んだ。そしてかばんを胸に抱きかかえるように持ち、立ち上がった。一緒に立ち上がり、らせん階段をのぼり、店を出る。流しのタクシーはすぐに見つかった。カットが乗り込む。軽く、赤のリストバンドをした右手を挙げる。唇がかすかに動く。それを無視した。走り出したタクシーが見えなくなるまで、そこに立っていた。その後、らせん階段を下り、店に入った。テーブルに戻りながら、それとなくあたりを見渡す。
隣の丸テーブルに三名。カウンターに二名。はっきり気配がするのだけで五名。最初に気づいたのはカウンターの三名だった。今、カットを見送りに二人で立ち上がったときに、かすかに隣の丸テーブルの男の一人が反応した。カウンターの一名がいない。カットについて行ったのか。カットは、タクシーでチェルシー・バーまで行く。危険はない。このあと、奴らがどう動くか、いや、動かなくてもいい。その場合は、奴らをここに止めて張りつけにしておくことが出来る。ヒトミさえ、ここへ来ることがなければいい。その可能性はほとんどないと、カットは言っていた。小学校では、連中は誰もいなかった。人影も気配を感じなかった。この店の近くに来てからだ。そして、店に入ると、四名。後から二名が入ってきた。
昨夜の夜に、カットと待ち合わせ場所や日時とは別に、いくつか決めごとをした。不審なものがいる場合は、赤のリストバンド。いない場合は、白のリストバンド。符合のようなものよと、カットが言った。和樹から預かった封筒は、封も開けずに、昨夜、駅のすぐそばのできるだけ人目につきにくいコインロッカーに預けている。
テーブルに戻り、椅子に深く座り、しばらく一人で、コロナビールを飲む。舌はライムの味しか感じなくなっていた。かわりに肌がヒリヒリと感じている。カットが置いていったキリンのキーホルダーを手に取り、しばらく触った後、ズボンのポケットに入れた。あとで、カットに返さなくちゃならない。立ち上がり、カウンターへ行く。さっきからちらちらとこちらを見ている男の隣で、カウンターの中の店員に声をかける。
「バドワイザーとナッツを」
黒いメガネをかけた細い顔の店員は、こちらを向いて頷く。
「ヒトミっていう女性、知っているかな。背は、俺の首あたりで、胸ぐらいまでのストレートの黒髪をしている。この店には、よく一人で来ていると訊いたんだけど」
「さあ、申し訳ないですが。俺、最近、入ったばかりで。それに、女性の一人客も、珍しくないし」
「そうか、その人に渡すものがあるんだけど、困ったな」
店員は、バドワーザーとナッツをトレーに載せて、目の前に差し出す。
「すみません」
「いや、わからないなら、仕方ないさ」
トレーを受け取り、テーブルに戻ると、カウンターの男は携帯電話を耳にあてていた。
バドワイザーをゆっくりと飲んだ。何を飲んでも同じ味がする。舌の感覚がひどく鈍い。
しばらくたって、店の電話からチェルシー・バーに電話した。昌利が出た。
「俺だ」
「友也さん。カットは、さっき、戻ってきました。一人付けてきたようですが、何事もなかったようです。ヒトミさんは……」
「いないよ。バドワイザーを飲みながら、ナッツを五粒ほど食べたところさ」
「五人いるということですね。わかりました。一応、友也さんに言っておきます。気をつけてください。それと、不機嫌な和樹さんからの伝言です。お守りは受け取ったとのこと」
目に浮かぶようだった。苦笑しながら、続けた。
「えさは投げた。これから、釣り糸を垂らすよ」
「なぜ、釣り糸を垂らす必要がある?」
声が変わった。和樹だった。確かに不機嫌そうな声だった。
「飛び方を思い出そうかと思いまして」
「そうか、なら、勝手に飛べ」
電話は唐突に切れた。勝手に飛べ。たまらなく憂鬱な声だった。勝手に死ねと言っているようにも聞こえた。受話器を置いた。えさは確かに投げた。これからは、釣り糸を垂らす時間だ。テーブルに戻り、バドワイザーを半分ほど飲んだ。煙草を一本吸う。しばらく、隣のテーブルの男たちに気を配る。三人とも、一言も言葉を発しなかった。
音楽のボリュームが上がった。誰の声も聞こえなくなった。口だけが動いている。タクシーに乗るときのカットを思い出した。唇の動きは、はっきりと読むことが出来た。友也も逃げて。そして、それは無理な相談だった。
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