第12話 決定的に欠けている何かについて

 バスを降りて二分程歩き、文房具店の角を曲がる。文房具店には、閉店セールの色あせた紙がガラス窓に貼ってあった。小学校の校門が小さく見える。おそろいの野球のユニフォームを来た子供たちとすれ違う。校門にもたれるように立っていたカットが、笑いながら大げさに手を振る。薄い緑色のワンピース。右手には、白のリストバンド。ポケットに手をつっこんだまま近づいていく。あと十歩ほどになったとき、手を上げて、笑顔をつくった。ぎこちない笑顔であることは、自分が一番よく知っていた。

「やっと、ちゃんと笑ってくれた」

「やっと、笑いかたを思い出したよ」

 ヘリコプターの轟音が聞こえる。何もかもを全て滅茶苦茶にしてしまいそうな破壊音に似ている。胸に痛みを感じることは、なくなっていた。かわりに、肌がヒリヒリする感触を覚える。太陽は隠れ、いつのまにか濁った空になっている。不機嫌な子供のように、いきなり激しい雨を叩きつけるような空だった。

「図書室はこっちよ」

 カットが手招きした。

 カットの細く薄い背中を見ながら、後ろをついて校舎の門から中に入った。

 

 読み聞かせの会が、ちょうど終わったところだった。図書室や教室に子供たちが集まって、主に絵本を大人たちが読み聞かせる会。週に何度かはヒトミが受け持っているとのことだった。もう一年は続けている。それが、急に今月は休むとの連絡があり、姿を見せていない。今まで、一度もこんなことはなかった。彼女にしては、珍しいんですよ、どうしたんでしょうね、何かあったんですか。替わりにやってきていた四十代後半の女性が、明らかにそれとわかるように迷惑そうな顔で、そしてどこか好奇心を含んだ高い声で二人に話した。

 

 「幸せでないことの不幸と不幸でないことの幸せ、友也ならどっちを選ぶ?」

 小学校のグラウンド奥のブランコに乗って揺られながら、カットが訊く。答えなどはじめから存在しない問いかけ。ブランコの隣に腰を下ろした。低い視線。小学校に入学した頃の視線。

「わかんないな。ただ、どちらでもない幸せというものもあるんじゃないか」

 カットは、それには応えず、ブランコに座りながら、足をぶらぶらさせている。

「私ね、この小学校に通っていたの。なぜか、懐かしいとかちっとも感じないけど。教室ではいつも答えを求められた。わからない出来事や、わかりあえない他人がいるってことを大人はみんな知っているくせに、教室ではいつも答えがあることからはじめなければならなかった。あらかじめ答えのあることしか教えてもらえなかった。

国語のテストによくあったでしょ。文章が並んでいて、主人公の気持ちについて、いくつかの選択肢の中から、「もっとも正しいものを選びなさい」って。あれは何なんだろう。あいまいな質問をして、あいまいさを許さない答えを求める。わからないって答えるたびに、大人たちは信じられないといった顔をする。わからないわけはないだろうって。そのたびに、すーっと自分の存在と他人との関連が消えていくような気がした。もうずっと昔の話かもしれないけど、今でもあのときの気分を、時々思い出すことがある」

 広いとはいえない砂のグラウンド。午後四時を指している校舎の時計。校庭の外まで不必要なほどに音が届きそうなスピーカー。静まり返った体育館。水を欲しがっているプール。屋上の向こうの曇り空。グラウンドの外に黒い煙を出した銭湯の煙突が見える。バランスを失ったシーソー。遠近感を失うようなジャングルジム。誰も傷つけないように、ありとあらゆる危険を排除しましたと自慢そうな滑り台。高さの異なる鉄棒。そこに逆上がりを練習する少女が一人いる。肌にまとわりつく湿気を含んだ風。

「私はこの町で生きている」

 ブランコから勢いよく飛び降り、カットは、かばんから缶ジュースを取り出し、俺の隣に、そっと座る。

「でも、私には生活していくうえで、どうしても決定的に欠けている何かがあると思う」

 逆上がりを練習する少女は、何度も、何度も同じ動作を繰り返す。弱々しく土を蹴っては、そのまま座り込む。少女の顔はここからでは見えない。か細い両足やお尻にたくさんの砂がついているのが見えるだけだ。

「住んで、生活をするっていうのは、一生懸命働いて、ちょっと残業して帰って、駅近くの市場によって、果物や生活に必要ないろんなものを買って、レジ袋にねぎやだいこんをつっこんで、

帰り道の八百屋で気まぐれに新鮮なトマトとかを選んでみたり、踏み切りを待ちながら夕焼けの色や、駐車場の車の下で眠る猫を観察しながら、近所の夕食の支度の匂いをかいで、部屋へ戻ってごはんを炊いて食べて、お風呂にはいって、お気に入りの雑誌をめくりながら、時には週末の予定とか考えたりして、眠たくなったら、ベッドライトを消して眠る。

朝は、眠たい目をこすりながら、カーテンを開けて、ラジオをFMにあわせて、温かいコーヒーを入れて、ごみの日を確認して、新聞を軽く読んで、スーパーのチラシの特売を見て、あれが安い、これを買って帰ろうとか思い、時間を見ながら、また会社へ出かけるようなこと。私はただ、家とコンビニによるだけ。それに、息をして生きるだけなら動物園のキリンのほうが上手かもしれない」

 カットは、口から吐き出される言葉をうまく制御できないように、一気に話した。

「店には?」

「昌利のいる店にいくようになったのは、一年ほど前からかな。私には仕事と家とをゆるやかにつなぐための基地が必要になったの」

「仕事は何を?」

「心理士の卵」

「もうひとつ、訊いていいか?」

「キリンのことなら、ノーコメント」

 訊きたかったのは、別のことだったが、苦笑しながら、ジッポーの蓋を開けては閉じた。小学校のグランドで煙草を吸う気にはなれなかった。

「友也は、何をしているの?」

「人生に味をつけようとしている」

「人生に味を」

「似合わないか?」

「別に。人生に味をつけようとしている人が、人捜し、のようなことをしている」

「退屈な会話だな」

「気にしないで、会話はいつだって意味もなく退屈なものよ」

「本当に、皮肉が好きなんだな」

「皮肉じゃないわ。現実が、ただ皮肉なだけ。私は現実を直接、そのまま声にしている。だから、そのように聞こえるのかも。それに、退屈が悪いことだとは言っていないよ」

「心理士というのは、カウンセラーのようなものなのか?」

「そうね。それだけじゃないけど。……中学生の少女がね、胸がしめつけられるような、切り刻まれるようなこの痛みに人はどれぐらいまで耐えることが出来るのかって、私に訊いたことがある。

その少女は何度か手首を切ることもしていた。体の痛みで、心の痛みが中和されるかもしれないからって。テーブルにばら撒いた薬を一粒ずつ飲みながら。薬で朦朧として、あんまり力がはいらなかったからか、傷は浅くて、命に関わるようなものではなかったけれど。とてもやせた女の子だった。たった十三年しか生きていない女の子」

 やせた少女とカットが会話している場面を上手く想像することができなかった。それは、鉄棒にいる少女が逆上がりをするところを想像するのと同じぐらいにぼやけていた。

「私が、そのとき、なんて答えたかわかる?」

「わからない」

「そう、わからない。私もわからなかった。でも、嘘をついた。わかるよって。つらいねって。でも、こんなことしちゃ駄目だよ。身体を傷つけちゃだめだよって。でも、他人への共感にも、他人との共有にも限界があることを、少女は直感的に知っていた。私は、正直に、わからないって答えるべきだった。それから、少女の私を見る目は変わった。私があれだけ憎んだ、答えを強制する教師を見るような目になってしまった」

 カットがうつむいた。左手首の傷が目に入った。

「その傷は?」

「余計なことを訊かないのが、友也のいいところだった」

「すまない」

「あやまらないで。愚か者には、愚か者なりのやり方しかなかっただけ」

 カットは、うつむいたまま小さな声で言った。

「その少女のことを本当にわかるためには、彼女が生きた年数分を、全く同じように生きるしか、ないのかもしれない。でも、もしそうだとしたら……」

 カットは、その先に考えをつきつめてしまうことをためらうかのように、口をつぐんだ。

 カットの左手首の傷から目が離せなくなった。そのうち、その傷に触りたい欲望がわきあがった。そっと、カットの左手首に右の人差し指で触れる。冷たい感触。折れてしまいそうな細い手首。数カ所の傷跡。瘡蓋に沿って、指を滑らせる

 カットは、まるで気づいてないかのように、別の話をはじめた。

「みんな安心が欲しいんだ。私も欲しい。誰も強くなんかない。普段、俺は俺、私は私、他人とは違う、とか、自分らしくなきゃだめだって言っても、本当は、けして自分以外にはなれないことで、怯えたり、嫉妬したり、焦ったり、あきらめたり、不安定になっていったりしている。

それに自分らしく生きるなんて、ひとつ間違えれば、むき出しのエゴよ。自分らしくなんてなくてもいい。誰かの真似でも、適当でもいい、生きていてさえすれば、形作られるものがある。それだけでいい。無理矢理、自分探しをするなんてことが、どんなに不自然で、自分を追い込むことになるか。でも、そのメッセージはなかなか届かない。距離の問題なんかじゃない。間違って届いたり、届くのが遅すぎたり。届いてほしい人に届いてくれない。子供の頃から、ヒーローは、いつも遅れてやってくる。

だから、ヒロインしか助けることが出来ない。他人のかける言葉は、ほとんどの場合、無力でしかない。言葉の限界を知ることは、いつも私から希望を奪う。でもどんなに無力でも、私は、言葉の力を信じるしかない」

 さっきと同じだと、感じていた。言いたいことをうまく制御できないように、カットは話す。まるで、奥深く留まっていた想いが休みなく激しい渦を巻いていて、整理したり、取捨選択したりすることを途中で放棄したまま、口から吐き出されたような感じだ。カットの言うとおり、『現実を直接、そのまま声に』するとこうなるのか。彼女は一度だけ、大きく息を吐いた後、首を横に激しく振った。それは、自分の吐き出した、むきだしの言葉たちを、自分で激しく罰するかのようだった。

 下校を強制する校舎のアナウンスが聞こえてきた。いつしか鉄棒には少女はいない。アナウンスが終わるまで、カットは黙ってぼやけた土を見ていた。それから、水滴をぽたぽたと落としながら缶ジュースをごくごくと飲んだ。白い喉が汗と水滴で濡れて光る。

「鉄棒と絶望って似ている」

 カットはブランコの揺れが止まるまでの間、それ以外は何も言わず、そこを動かなかった。

 成長するために用意された悲しみのようなもの。鉄棒。小学生のある時期、逆上がりはたしかに成長を表すひとつの象徴だった。空は、赤い夕日が沈みかけていた。近頃は、よく夕焼けを見る。この二年間、工場で働いていた。この時間はいつもラインに立っていた。夕焼けなど見ることなどなかった。

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