第11話 それぞれの約束
「ヒトミという女性だ」
和樹は静かに淡々と語り始めた。
「ヒトミが姿を見せなくなって三週間たった。マンションの部屋に戻った気配もない。自分から姿を消した。それは確かだと思う。俺がこの店でキープしているボトルに、タグのようにメモがかけてあった。ヒトミの文字だった」
「メモにはなんて書いてあったんです?」
「ひとつの約束」
「ひとつの約束?」
「何でもない言葉が、一言書かれていたよ」
「心当たりは?」
和樹は首を振った。
「詳しくは何も。わかっているのは、自分の意志でやろうとしていることがある。そして、ヒトミの行方を追っているものがいる。この間、おまえを襲った連中もそうだ。つまり、それなりに荒っぽい連中が関わっているということだ」
少し間をおいて、和樹は言った。
「俺は、ヒトミがやろうとしていることを、やりたいようにやらせてやりたい」
「それで、待つだけですか?」
「ヒトミが、それを望んでいるからさ。毎晩、俺は、この店のカウンターで待っている。これからもな。命一つ分の時間、その間なら待てる」
「命一つ分の時間」
「毎晩、この店の重い扉を開けるとき、もしかしたら、ヒトミがいるんじゃないか、ただいまって笑って座っているじゃないかと思ってきたよ」
和樹は、少し考えるように、一点を見つめていた。
「ただ、ヒトミに渡したい物を手に入れた」
和樹はスーツの胸ポケットから、薄っぺらな白い封筒を取り出し、しばらく見つめていた。
「俺が、渡しますよ。そのヒトミという人を見つけて」
無意識に、そう言っていた。動きたかった、とにかく動きたかった。待つのは、うんざりだ。
和樹は、俺のの前のカウンターに、封筒を置いて言った。
「破った、守ることができなかった。心の底にずっと残るのは、そんなものさ。そのことに耐えられない奴が守る」
俺は、前に置かれた白い封筒を手に取り、和樹を見た。
「約束ってやつですか、それが」
和樹が、少しだけ笑みを浮かべた。
「そうさ。そして、俺は、ヒトミとの約束で手一杯さ」
「ボトルに掛けてあったメモにはなんて書いてあったんですか?」
「待っていて」
「それだけ」
「それだけさ」
「だから、待つ」
「ああ」
「必ず、渡します」
「最後のぎりぎりまで、がまんするな。今のおまえには難しいかもしれないが」
ただ頷いた。ただ頷くしか出来ないほど、和樹の目は暗かった。
部屋のドアを開けると、雲の隙間から太陽が申し訳なさそうに顔を出していた。電車に乗り、二駅先で降り、改札口を出て、バスターミナルへと歩いて行った。三番の停留所に行く。バスは扉を開けて止まっていた。数人が既に乗っており、座席に座っている。一番奥のシートから一つ前の席に座った。窓の外を見る。
昨夜のこと。もう一度、必要なことを整理してみる。ヒトミという女性が、何らかの理由で姿を消した。それを探している荒っぽい連中もいる。ヒトミを探して、和樹から預かった封筒を渡す。普段なら、よく姿を見せる場所があるという。まずは、そこを当たってみることにした。写真のようなものはないのかと訊いた。私がヒトミさんを知っている。一緒について行く、とカットが言った。
カット。よくわからない女だった。白い喉が最初に目に浮かぶ。皮肉と仲良しだと和樹が言った。サリンジャーという自分だけの酒を持ち、左手首に薄い傷がある。それにしても、下手をすれば危険な目に遭うかもしれないのに、一緒について行くことに和樹もバーテンも何も言わなかった。俺も別に拒むことはしなかった。足手まといになる可能性もあるが、危険を感じれば、すぐ逃げさせればいいとだけ考えた。そんな簡単なことではないかもしれない。ただ、そんなことは、もうどうでもよかった。
その後、カットと待ち合わせの場所と時間、いくつかの事について確認したり、決めておいたほうがいいことを、決めたりした。
低いエンジン音。バスが動き出した。揺れるバスの窓に映る自分の顔をぼんやりと眺めた。初めて会ったとき、カットは、同じ目をしていると言った。自分と同じ目をしているって、許せないものだと言っていた。窓に映る自分の目を見つめた。よくわからなかった。汗ばんだ手でポケットの中のネジを強く握り締めた。
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