第10話 カナリア

 店に入ると、雨の音はもうしなくなった。カウンターに和樹一人が座っている。奥のブースには、三、四名の客。バーテンが、二本のビールと野菜スティックを運んでいった。乾杯の声と、笑い声が漏れてくる。和樹のすぐ隣に腰掛けた。和樹はゆっくりとこちらを向いて、よぉと声をかけた。どうもと言って頭を少し下げる。バーテンが戻ってくるのを待つ。店の隅々まで、アート・ペッパーのサックスの音色が満たしている。磨きおえたロックグラスがきらきらと輝き、少しだけ虹に見えた。

「ギムレットでよろしいですか」

 頷く。煙草を取り出し、火をつけた。煙がライトを浴びて、ゆっくりと広がってゆくのが見える。

「最近は、煙の少ない煙草が多い」

 和樹は友也がカウンターに置いたラッキーストライクのパッケージに目をやっている。

 友也は、黙っていた。バーテンが、カクテルグラスにギムレットを注ぎ、ごゆっくりと言って、離れていった。ギムレットに少しだけ口をつけた。

「知っていることを話しな、それと、奴と何を話した」

 和樹は、ラッキーストライクのパッケージから、少し覗き込むようにして目線をあげた。

「この間、殴られたとき、そう言われました」

「それで?」

「俺は、何を知っていると思われたんですかね?」

「知ってどうする?」

「さぁ、ただ、理由もわからず殴られたんでね」

 店の音楽が変わった。フーのサマータイムブルース。ライブ盤。学生の頃、輸入盤のカセットテープを手に入れて、繰り返し聴いていた。キース・ムーンのドラム。まるでふざけた子供の狂気のような破壊音が耳に飛び込んでくる。

「教えてはくれませんか?」

 沈黙。待つ。待つことしか、今は出来ない。カウンターの下で、拳を強く握った。

「生きたい、という代わりに、死にたい、という奴がいる。生きたい、生きているってことを味わうために、苦しむことを、時には死ぬのも仕方ないって考える奴もいる。それも頭でなく身体が先に、そんな風に感じてしまう。そうやって、そのまま動いてしまう。生き方の癖みたいなものかもしれない。おまえは、どうやら後者のほうだな」

「そんなこと、考えたこともありませんね」

「自分じゃ気がつかない。始末におけない癖さ」

 癖。あの夜の和樹の言葉。

「同じ癖をもつ人がいたと言っていましたね」

「ただの友だちさ」

「大切な友だちだった。そう聞こえましたよ」

「そいつは死んだ。俺が死なせた。十一年になる。もうなのか、まだなのか、わからないが。俺が、二十二の時だ。だから、今でも、ただの友だちのままさ。それ以上でもそれ以下でもない。こうやって酒を飲むこともないし、女を奪い合うことも、裏切ることも、殴りあうこともない。はっきりしているのは、そいつはそれ以上、年を重ねることはない。二十二のままだ。どんどんと、遠く離れていく」

「十一年」

「昔の話さ」

「やっぱり、大切な友だちだった」

「今はもう、時々思い出すぐらいさ」

「自分が死なせたのにですか」

「ああ、殴られたおまえを見て思い出す程度のな」

「嘘が下手ですね」

「上手な嘘をつける男になりたいと、思うようになった。特に女には」

「女は、どんな嘘だって見破りますよ」

「そうかもな。それでも、上手な嘘には、やさしくつきあってくれるのも女さ」

「俺にも一枚かましてくれないですか?」

「何に?」

「和樹さんがやろうとしていることに」

「見ての通り、俺は何もしていない。ここで毎晩、飲んだくれてるだけさ」

 和樹の手の中で、ロックグラスの氷がグラスとぶつかる音がしばらく続いた。

「じゃあ、俺もここで一緒に飲んだくれることにしますよ」

「なぜ?」

 和樹がこちらを向いた。襲われる危険もありながら、この店で毎晩のように飲んでいる。あの夜も、ブースの二人組に、気づいていたのだろう。何も知らずに店に入った俺を、うまく巻き込んで襲わしたのかもしれない。襲った奴らは、この男から何かを知ろうとしている。つまり、和樹は何かを知り、何かをやろうとしている。友也はそう考えていた。

「腹を殴られた。二発。結構、ごついボディ・ブローでした。あと、顎にも一発、そして耳たぶをひきちぎられそうになった」

「理由になってないな」

「何かが起きるのを、一緒にここで待つっていうだけのことです」

「仕事は?」

「先月まで、工場で働いていましたよ」

「今は?」

「何も」

「時間を持て余しているってとこか」

「最初に、俺を巻き込んだのは、和樹さんですよね」

「おまえの思い違いさ」

「人生を持て余しているってほうが正しいかな」

「やはり癖っていうのは、やっかいなものだな」

 そう言って、和樹は氷が溶け始めかけたグラスの酒を一息で空けた。

「関われば、しんどいことが、つきまとうかもしれない」

「つまり、暴力ってやつですか?」

「わからない。暴れたいだけなら、他でやれ」

「理不尽な暴力は嫌いですよ」

「暴力ってやつは、いつも理不尽なもんだ」

「カナリアを探してほしいの」

 振り返るとカットが立っていた。全身が濡れていた。緑のワンピースが肌にまとわりついている。短い栗毛の髪から水が滴り落ちる。

「カット」

 今まで洗い物をし、グラスを磨いていたバーテンが近づいてきた。このバーテンは、こちらの会話にも聞き耳をたてていたはずだ。傍観者。このバーテンには、やはりぴったりなのかもしれない。

「また、雨の中を歩いてきたのか」

 バーテンがそう言いながら乾いたタオルを差し出す。カットはそれを受け取り、タオルで頭をすっぽりと覆う。顔のほとんどが隠れ、カットの紫色に変色した唇が動くのだけが見える。

「若くてか弱い、おまけにちょっと魅力的な女性が一人。傘もなしに雨に濡れながらとぼとぼ歩いていると、通りがかったタクシーがね、乗せてくれることがあるの。もちろんタダで。関係ないけど、都会で一番、他人とのつながりがあるのは、もしかしたらタクシーの運転手かもしれない。

とにかく、雨に濡れた女が一人。失恋でもしたかのようにうつむいて歩道をとぼとぼ。頬を伝うのは、雨、それとも涙。まあ、それでなのかどうか、わからないけど、ほっとけないみたいで乗してくれるの。ねえちゃん、乗りなって。びしょ濡れだよって言っても、いいから乗りなって。それも結構、高い確率でね。まるでやせた子猫を拾うように。子猫を拾うようにって、例えが古いかな。でもこれで三連敗、今夜もはずれ。女も二十四を越えると、そんな不思議な魔力も消えちゃうのかな。三百円のビニール傘も買えない、ただの貧乏女だと思われちゃったか。ため息もでない。昌利、ホット・バタード・ラムが欲しい」

 バーテンはあきれたように一度、左右に首を振った後、カウンターを背にし、タンブラーにホルダーをセットし温めはじめた。アネホ・ラム・ダークと角砂糖を入れ、温めたタンブラーに七分目まで熱湯を注ぎ、そこにバターとクローブ1stepを加える。傍観者で悲観者のバーテン。腕は見事だった。

「カナリア」

 カットの声は、独特の声だった。弱くあまり唇を動かさない。しかし優しくクリアでよく透る声だ。白い喉元。ただ、きれいだと思った。カットは、ホット・バタード・ラムを片手に持って、少し口に含む。

「カナリア、和樹さんが命より大切にしているもの。友也が適任だと思うよ」

 最後の言葉は、和樹に向けられた言葉のようだ。俺に人差し指を向け、くるくると回している。

 和樹は少し困ったような顔し、空になったロックグラスを見つめている。

「なぜ、自分で?」

 なぜ、自分で探さないのか? 和樹のかわりにカットが応える。

「信じているからじゃない。最後には戻ってくるって。最後には自分を頼ってくれるって」 カットの声に違和感のような響きが混入した。

「でも女は、特に彼女はそんなに弱くないわ。それを和樹さんもきっとよくわかっているはず。わかりすぎるほどにね。それなのに……」

 和樹は、何かあきらめたように背もたれに背中をあずけて、マルボロをくわえた。

「待つしかないんだ、今は」

 和樹の声は、吐き出された煙草の煙と同じく、店に広がり、やがて消えていった。

「賭けているのさ。あいつは」

 何にも、何をも、和樹は話さなかった。

「よく、わからないな」

「それでいいと思う。すぐにわかったような気になる男は、最低よ」

 カットは、少しいらだったような声でそういった後、バサバサとタオルで六月の雨で濡れた髪を拭き始めた。ホット・バタード・ラムはグラスに半分、残ったままだった。

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