第9話 日常へ戻るための道具

 隆一が店にやってきたのは、約束の時間を五分過ぎた頃だった。注文したコーラとジントニックが来るまで二人とも無言のままだった。ウエイターが去ってから、隆一は言った。冗談かと思いましたよ。顔は笑ってなどいない。少し厚みのある封筒を差し出した。隆一は封筒の中身を少し確かめただけで、それをジャケットの内ポケットに無造作に入れた。テーブルの下の紙袋を足先で確認し、近くに引き寄せる。冗談でないことは、はじめから二人ともわかっていた。

 隆一は、コーラをストローで大事そうに飲む。俺はテーブルに置かれたジントニックにまだ手をつけていない。

「中古ですが、状態はいいです。一応、一発だけ試しました。トリガーを引く場合は、安全弁を……」

「弾は?」

「五発です。少なければ……」

「充分さ」

 一発でもいい。わざわざ口にすることでもなかった。

「使うつもりですか。……いや、愚問でした」

「少なくとも、校舎の窓ガラスは撃たないよ」

「どこかで聴いたことのある台詞ですね」

 くだらない冗談がお似合いの夜だった。くだらない冗談しか、存在してはいけないような夜だった。

「お守りさ」

「お守りね」

 隆一は笑顔を見せて、コーラをまた少し飲んだ。

「お守りね」

 しばらくして、隆一が、もう一度、つぶやくように言った。


 ふきだまりのような場所というものは、どこにでもあった。まるで、そこに集まってくる誰もが、進んで間違って迷い込んだような場所。家庭のポストへ、チラシを投函するバイトも、その部類に入った。赤い長髪の若者。まるで生活感のない角刈りの男。口げんかばかりしている中年の二人組み。この場所には似つかわしくないように見える学生風の眼鏡の女。左の頬が絶えず引きつっている中年女性。片言の日本語を話す中国人のグループ。

友也も、三年前のある時期、その中にいた。朝、雑居ビルの中の事務所に集まり、名前を呼ばれて、五、六名のグループを作り、どこかの町まで、社員がワゴン車で連れて行く。町や地域は、その日によって違った。着くと、一時間半程度の時間を決められ、おのおのが散らばって、家、マンション、アパート、事務所のポストへ複数枚のチラシを投函しにいく。時間が来ると、元いた場所に戻り、少し移動しては、また時間を決めて、散らばった。

水道管の修理、公団住宅の手続き代行、カードショッピングローン、出張ヘルス、胡散臭い匂いがするチラシが多かった。はがきサイズから大きめのサイズのチラシを一まとめにして次々とポストへ放り込む。サボってはいられない。のんびり歩いてもいられない。社員が車で巡回して監視をしていた。ゆっくりでも、走りながら次々と家々のポストを回っていないと、怒鳴られ、それが続けば、すぐに辞めさせられた。

 そのことを初日に知った。最初にグループが一緒になった赤い長髪の男が、同乗した行きの車の中で、そのことを耳打ちして教えてくれた。昼休憩のとき、赤い髪の男がよく行くという喫茶店でランチを食べた。バンドマンでギターをやっていると言った。赤い色と長髪のせいで、まともなバイトにつけないんだといった。もうこのバイト、三年もやっているんだぜ。二十八歳にもなったし、そろそろ考えないとな、と苦いコーヒーを飲んで笑っていた。

ヤニのこびりついた虫歯だらけの歯だった。何を考えないといけないのかは、なんとなくわかった。それは、あきらめろという声についてまじめに考えることだ。そして、それをまじめに考えはじめたということは、もうあきらめたのと同じだ。もちろん、そんなことを口にはしなかった。そして、ナイのことを少しだけ思い出した。

 マンションやアパートは、数をさばくには絶好の建物だった。ポストが一箇所に整然と並んでいる。社員もそこを重点的に投函することを指示する。ただ、マンションやアパートの入り口には決まってチラシ投函の禁止の張り紙がしてあり、なかには管理人が目を光らしている場合もあった。見つかっては怒鳴られ、隠れては見つかり、追い掛け回されることもあった。誰もいない時を見計らって、おそるおそる、すばやく投函していくのも、毎日のことだった。

知らない町を駆け足で走りながら、家々のポストにあやしげなチラシを投函する。住宅街では不審者を嗅ぎ分けたかのように、隣近所の犬たちが連鎖するように次々とほえ続けた。よそ者が来たぞ。よそ者は出て行け。ここに、おまえの場所はない。おまえが来るような場所ではない。よそ者だ。よそ者だ。犬たちは、容赦なく吠え続けた。

 グループは毎朝、社員が決める。同じ人間といつも組むわけではなかった。隆一と同じグループになったのは、そのバイトを始めて一週間ぐらい過ぎた頃だった。朝のグループ分けが決まり、ワゴン車に乗り込む。声をかけてきたのは隆一からだった。どんな話を、どれぐらいしたのかはよく思い出せない。ほとんど音楽の話だったような気がする。なぜか気が合った。歳は隆一がひとつ下だった。なぜか同じグループになることが多かった

。少しして、よく同じグループになる女性がいた。はじめは、隆一が話しかけて、それから三人で、自然と話すようになった。彼女はバンドでベースを弾いていると言った。真美だった。インディーズのバンド。自主制作版のミニアルバムをニ枚出していた。ライブを重ねて、少しずつファンも増えてきていると言った。全国のライブハウスをワゴン車で廻るツアーをやるために、金がいるんだと言った。

一度、曲を聴かせてもらったことがあった。隆一が興味を持った。バンドの音か、真美になのかは、わからない。おそらく、両方だろう。隆一に、誘われるがまま、真美のバンドの出演するライブのチケットを買った。

 隆一と二人で金曜日の夜、真美のバンドが出演するライブハウスに出かけた。そのほか二組のバンドとのブッキングだった。ライブハウスの固い椅子に座りながら、真美のバンドの出演を待った。テーブルには、バスペールエールとコーラ、フィッシュアンドチップスが載っていた。これいりませんか。隆一はそういいながら、握り締めた拳から、ゆっくり右手の人差し指を前につきだして、親指を上にあげた。

今すぐでなくても、欲しくなったら、ここに連絡ください。小さな紙切れを渡された。書きなぐりの番号が並んでいた。なんで俺に、そう訊くと隆一は言った。わかりません。隆一は笑った。わからないことを、無理にわかろうとしないことにしているんです。人間は数式のような完璧な美しさを手に入れることはできないですから。こんな矛盾だらけの道具ってないですよ。

矛盾だらけの人間だから、持つことを許された道具なのかも。持った人間に全てを委ねられる。人を殺すことも、自分や誰かを守ることも、そして自分を殺すことも。興味本位で手に入れたんですけどね。持ってみてわかりました。自分の立ち位置ってやつが。それと愚かさの類を。使ったのか? いや、近所の河原で深夜に十発程度。それで充分でした。俺はその紙切れをジーンズのポケットに入れた。

何があったのか、何が充分だったのか、それ以上、二人とも話すことはなかった。

 その夜の真美のバンドは、青臭さの象徴のような演奏だった。嘲笑われることを恐れず、厳しい現実や、障害に真正面から立ち向かうことしか知らないような青臭さ。友也は、自然と右手の拳を固く握り、胸に当てていた。熱いような、痛むような、締め付けられるような感じがした。血が激しく全身を巡る。しばらくして、わかったような気がした。真里のベース音は聴く者の心臓の音と一緒なんだと。

翌日から、隆一がバイトに来なくなった。誰も何も聞かされていなかった。連絡先も住んでいる場所も知らなかった。そして、ジーンズのポケットの中の紙切れ一枚が残った。ただ、そこに並んでいる数字は、たったひとつの目的のためだけにしか使ってはいけない番号だった。


 あれから三年が過ぎた。今夜、あの夜のライブハウスを待ち合わせの場所にした。二人が会うのに適当な場所は、ここしか思いつかなかったからだ。

「なんで俺に、ってあのとき、友也さん訊きましたよね」

「ああ、わかりませんって、はぐらかされた。そして、矛盾だらけの道具について話した」

「そうでしたっけ。あの頃は、ちょっと自分自身、混乱してて、うまく言えなかったのかもしれませんね」

 隆一のコーラの入ったグラスの氷が溶けて、小さな音をさせた。

「日常と非日常に、こうやって線を引くとするでしょう」

 テーブルに水で書いた線を人差し指で行き来しながら隆一が話し始める。

「日常からはみだすのも、日常へ戻るのも、どっちも大変なことだと思うんです」

 少し声を落として隆一は確かめるように話を続けた。

「友也さんにとって、このお守りは、どっちなんでしょうね」

「日常へ戻ることができたら、捨てるよ」

 はみ出していこうとしている。予感めいたものが確かにあった。そして、いったん、はみ出してしまえば、隆一の言うとおり、戻るのも大変なことだろう。

 指先を見つめた。爪が伸びている。無性に切りたくなった。

「そうですか、俺は、日常からはみだすために、あれを手に入れました。それも永遠にはみだすために」

 隆一は、そういって、こめかみに人差し指を突き刺した。

 ベース音。ステージに目をやる。誰かがチューニングをしていた。おそらく隆一も、同じことを思っている。そして、二人とも、それを口にすることはなかった。

「なんにせよ、お守りなら大事に扱ってください。お守りはお守りである間しか、効果はないですから」

 使わないですむなら、使うな。そう言いたいのだろうか。それとも、ためらわずに使えということだろうか。あいまいに軽く頷いた俺を見た後、隆一はコーラを最後まで飲み干した。


 隆一と別れたあと、住んでいる最寄りの駅まで戻り、近くの河川敷を歩く。鉄橋の下で立ち止まり、紙袋の中の塊を手にする。ひんやりとした手触り。ちょっとした重み。目の前の壁。誰かがつけた落書き。くずれた乱暴なWの文字に狙いを定めてみる。安全弁をはずす。指。引き金。固さを確認する。

鉄橋を電車が来るのを待つ。来た。電車が真上を通る。轟音。人差し指を絞る。カチャ。弾はこめなかった。ただ、引き金を引いた。確かに引いた。やっかいだな。やっかいでくだらない。少し落ち込んだ。ただ、それは一晩も眠れば、なんともない程度の落ち込みに過ぎない。空を見た。顔に、雨が少し落ちはじめた。右手に握った塊を紙袋に戻す。しばらく、黒い流れの遅い川を見つめた。ブルースハープを吹きたいと思った。持ってこなかったことを後悔した。それから、川に背を向け、無分別に立ち並ぶ高層マンションの光ある方向へ歩き出した。

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