第8話 ブルースハープ
部屋の押入れの奥にしまい込んでいた箱を引っ張りだした。埃のかぶった箱を空ける。古い匂いが、部屋に拡がる。様々なものが入っていた。ギターのピック、缶バッジ、輸入盤のカセットテープ。黒い小石、シール、ブルースハープ、何かの似顔絵。古びた布巾のようにボロボロになった旗。今となっては意味不明の言葉が書き連ねてある紙切れたち
。ひとつひとつに、ほろ苦い出来事や、はしゃぎすぎた夜や、胸の奥がぎゅっとしまる瞬間などがぶらさがっている。もう開けることなどないと思っていた箱。そのくせ捨てることのできなかった箱。その中から、一枚の細かく畳んである紙切れと、少し錆びたブルースハープを取り出し、箱の蓋を閉める。箱の表面には、『序奏、あるいは助走のかけら』と殴り書きされている。いつそれを書いたのかは、思い出せなかった。助走のかけら、今なら助走の残骸とでも書くかもしれない。取り出したブルースハープをあらためて手に取る。表面の錆びをハンドタオルでふき取る。そっと口に近づけ、吹いてみる。待っていたよ。そう呼びかけるような音がした。
小学生の頃、隣には両親と大学生の兄と高校生の妹がいた。毎朝、七時半になると、背広姿の父親が会社へ出かける。母親は、いつも玄関先で見送りに立ち、五軒先の家の角を曲がり、父親の姿が見えなくなるまで手を振っていた。その光景を毎日、ベランダで歯磨きをしながら見ていた。隣の家の兄さんのことを、ナイと呼んでいた。名前なんか記号でしかない。俺にとって名前なんて意味がない。だから必要なときは、ナイって呼べとその兄さんは言った。
ナイは、小さい頃からよく遊んでくれた。大量の爆竹を買ってくれて、近所から苦情が出るほど鳴らした。夕方、ほとんどボールが見えなくなるまでキャッチボールをした。俺も得意じゃないけどなと言いながら、逆上がりの練習にもつきあってくれた。自転車に二人乗りをして、隣の町まで遊びに行った。ナイは、いつも黄色い頭をして、細い赤いジーンズを履いていた。そして、一人でどこかへ出かけるときは、背中に黒い細長いショルダーバッグを抱えていた。ギターだった。歌はあんまりうまくはないんだ。そういいながら、ギターをつま弾いて口ずさむように歌ってくれた。ナイの声が好きだった。おまえも、もう少し大きくなったら、ギターやれよ。口癖のように、ナイはいつも言っていた。
ナイは俺をキーと呼んだ。両親は共働きで、学校から帰る頃は、誰もいなかった。そのため、いつも家の鍵を首からぶら下げていたからだ。その鍵で、家のドアを開けて入った。鍵を首からぶら下げることを忘れた日は、夕方、母親が帰ってくるまで家の前で待っていた。
ある日、ナイと近所の裏路地で、立ち並ぶ家々の屋根から屋根へ飛び移って、追いかけっこをした。大学生のナイなら、なんでもない距離でも、その頃、まだ小学校四年生だった俺には、家の屋根から次の家の屋根までの距離を飛ぶのは、スリルに満ち溢れるものだった。走る。蹴る。飛ぶ。一瞬の浮遊感。風の抵抗。抗う。靴底への衝撃。着地。開放感。この遊びに夢中になった。低い屋根から高い屋根へ、高い屋根からもっと遠い屋根へ、ベランダへ、そして地面へ。子供が夢中になる遊びには、刺激が絶対条件のひとつだ。しかし、刺激はすぐに薄れ、もっと強い刺激にエスカレートしていく。高い屋根から、もっと高い屋根へ、もっと遠くへ。
そのときは、いつもより、高く、遠かったはずだ。ナイが先に飛び移って、キー、飛べと言った。大きく息を吸って、慎重に助走し、踏み込んだ。蹴り上げる。その時、躊躇があった。一瞬の浮遊感。風の抵抗。抗えず、押し戻される。右足のつま先だけが、かろうじて屋根に届いた。バランスを失い、二階の屋根から落ちた。幸いだったというのだろう。体は強く地面に打ったものの、眉の上あたりの切り傷とひじやひざの擦り傷だけで済んだ。ひじの傷は、今も黒ずんだまま残っている。ナイは親から叱責を受けた。頭を下げたものの、一言も謝らず、言い訳もしなかった。後で、ナイは言った。飛べたはずだ。躊躇したから落ちたんだ。飛べると自分を信じて飛んでいれば、飛べる距離だった。飛ぶのを怖がっていたら、どこにもいけないよ。
屋根からの転落の件以降、ナイと、遊ぶ機会が減っていった。母親が、それを禁じたこともあるが、それだけが理由ではなかった。屋根から屋根へ飛び移る遊びもしなくなった。一度、夕方に一人で屋根に昇って立った。夕焼けがきれいだった。しばらく、そのまま立っていた。何か鳥のような黒いものが、キー、飛べと鳴いた。しかし、飛ぶことは出来なかった。
いつからか、たぶん夏休みが終わって、プールで焼いた肌の色も元通りになりはじめた頃だ。夜になるとナイとその両親のけんかの声が聞こえてくるようになった。泣き叫ぶような声がまざったり、コップなのか皿なのかわからないが、何かが壊れる音が響いたりすることもあった。その複雑な悪意の塊のような声や破壊音から逃げるように、布団をかぶって目を閉じた。最後にナイに会ったのは、そんな大喧嘩の声が深夜まで続いた夜の翌日だった。
土曜の昼の遅い時間。友也の両親は、土曜日も仕事に出かけていた。同学年で仲のよくなった友だちの待つ廃車置場横の空き地へ行こうとしていた。家の鍵を閉め、紐のついた鍵を首から提げたときだった。
「キー」
振り向くと、ナイが立っていた。
「これやるよ」
ナイは右手に持っていた物をゆっくりと放り投げた。それは、一瞬、空中で太陽の光を鈍くぎらぎらと反射させた。慌てて、両手でつかんだ。手のひらを開く。学校で使っているものより一回りぐらいちいさなハーモニカだった。使いこんでいたのがすぐにわかる程に、ところどころ銀色の表面が剥げかけている。ブルースハープっていうんだ。これはAのキー。そう教えてくれたナイは、少し大きめのスーツに赤いネクタイをして、短くなった髪の毛の色は黒っぽく変わっていた。
「よく聞いてくれ、キー」
背の高いナイは、目の高さまで、その身体を折り曲げて、頭に手をやりながら、こういった。
「バンドが解散するんだ。どうにかこれでプロとして食っていこうとしたんだけどな。ヴォーカルの奴は自信がないとはっきり言いやがった。ドラムスは、家の仕事を継ぐらしい。キーボードは教師を目指すそうだ。ベースのやつは、海外を旅したいって言ってたな
。だけど、俺は、これなしじゃ、生きていけない。音楽は生き方そのものなんだ。なんとか、一人でやってみようと思った。スタジオに張り紙して、メンバーを募集して、新しいバンド結成して、曲をいっぱい作って、ライブやって。はじめは数人の客かもしれない。でも、全然平気だよ。演奏さしてくれるなら、どこでも行く。駅のガード下で、弾き語りでも何でもやる。だって、俺にはこれしか、これしか。……嘘だよ。
全部、自分についた嘘だ。それを認めることが、怖かった。本当は俺、他のメンバーの話を聞きながら、仕方ないと思ってた。そんなもんだろうって。なんか許してた。メンバーじゃないよ、自分を。喧嘩にすらならなかった。おまえも、現実をみないとって。何も言い返せなかった。言い返せない自分もどこかで許してた。それで、おしまい。わかってしまったら、もうおしまい。一人で飛ぶ意志も勇気も自信もどこかに消えちまった。これも嘘だな。最初から、そんなものはなかった。俺は、誰かと一緒に飛びたかっただけなんだ。
一人じゃ飛べないから、誰かに、俺を一緒にどこか高く遠いところへ連れて行ってほしかっただけ。あの時、ほら、キーが屋根から落ちたとき。えらそうなこと言ったけど、ごめん。それで、家を出て、でっかい町に行くことにしたんだ」
しばらく沈黙が続いた。ナイは、うつむいたまま、しばらくじっとしていた。その間、ナイの話してくれたことを必死に理解しようとしていた。だけど、わからない言葉ばかりで、それは不可能に近かった。経験がなくても人は生きていける。けれども、それがないと他人を知ることは難しい。
「キー。俺、……怖いよ」
たぶん、ナイはもうここへは戻らない。二度と会うこともできない。それだけが、わかった。
ナイが顔を上げた。赤いネクタイを掴んで、目の周りをごしごしと拭いてから言った。
「これから、どれぐらい、こんなもので首を締めつけながら生きていくんだろうな」
それからナイは、こちらをを向いて、ニーと笑った。それは、いつものナイの顔だった。
「おまえと遊ぶのは楽しかったよ。バイバイ、キー」
言葉が見つからなかった。ありがとうというかわりに、剥げかけた銀色のブルースハープをプープーと鳴らした。プープー、プープーと、ナイが背中を向けて歩き、五軒先の家の角を曲がり、姿が見えなくなるまでプープー、プープーと鳴らして、その後、叫ぶように泣いた。
後にも先にも、そんな風に泣いたのは、そのときだけだった。鍵を忘れ、家に入れなくて日が暮れるまで母親を待ったときも、屋根から屋根へ飛び移るのに失敗して、眉の上あたりの切り、ひじやひざを擦り傷だらけにしたときも、そんな泣き方をしなかった。
ナイに会ったのは、それが最後だ。
廃車置場の、もう動くことのないくたびれた車のボンネットに座って、サイドミラーに夕日がキラキラしている中、ナイのくれたブルースハープを吹いた。でたらめなメロディーが、時々とても切なく美しい旋律に変わるときがあって、それをそっと大切な宝石箱にしまう。叫んだり、泣いたりすることがとても難しくて、拳を握りしめたり、唇を噛んでがまんするしかないとき、こうやってずっとずっと、まるで月が太陽を探してぐるぐる回るように、切なく美しいメロディーを探しつづけた。
続きをはじめよう。今しがた、箱から取り出したブルースハープが語りかけている。剥げかけた銀色のブルースハープ。あの頃、宝石箱に大事にしまったメロディーは、思い出すことはないかもしれない。ブルースハープの手触りだけが、あの時も今も変わらない気がした。続きをはじめよう。何の続きかわかっていた。走る。蹴る。飛ぶ。一瞬の浮遊感。風の抵抗。抗う。靴底への衝撃。着地。開放感。いまさら痛むはずのないひじの傷跡が、ひりひりと熱をもつ感じがした。
取り出した紙切れを開いて、そこに殴り書きされた番号に電話をかける。はじめて掛ける番号。三年前に渡された紙切れ。繋がるかどうかさえわからない。十回まで待つつもりだった。七回、呼び出し音を数えた。繋がった。騒がしい場所。久しぶりに聴く声なのに懐かしさなどはなかった。相手も、すぐにわかったようだ。用件だけを話した。一分も掛からなかった。キーホルダーを手にして、部屋を出た。鍵を首からぶら下げることをしなくなったのはいつからだったろうか。あいまいな記憶をたぐりよせながら、マンションの階段を降りていった。
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