第7話 チープなロマンチストたち
痛みはもう次の夜には引いていた。身体がぎしぎし音を立てる感じはしたが、それもその次の日にはなくなっていた。全身鏡の前に立ってみる。目立つのは、右頬の腫れと唇の噛み切った後のかさぶたぐらいだった。何もすることはなかった。一日中、ベッドに寝転び、天井を見ながら、外の音を聞いていた。音楽を聴く気分でもなかった。
小学生らの声。自転車の走る音。車のクラクション。廃品回収のスピーカーの声。近くの中学校の放送。ふとんを叩く音。工事現場のドリルの音。近くの家から聞こえる大音量の野球中継。どちらが勝っているか、テレビをつけなくてもわかった。ひとつひとつ確かめてみた。大きな音に怯えることはなくなっていた。夜を恐れることもなくなった。胸の痛みもしなくなった。そして、胃のぐちゃぐちゃした感じもしない。そうやって、確かめた後、ゆっくりと立ち上がった。
扉。開ける。音楽。しわがれた声。バーテンの視線。氷が重なる音。シェーカー。キラキラと磨かれたグラスたち。カットとバーテン。カズキはいない。2つある奥のブースにも今夜は、誰もいない。この間と同じカウンターの隅の席に座った。
「しばらくはこないほうがよかったんですが」
「ギムレット」
バーテンダーは頷き、それ以上何も言わなかった。カットの前のカクテルグラスに、酒が注がれている。
「カット、その酒はなんていうんだ」
「カットって呼べるのは、カズキさんとマサトシだけよ」
カットは視線を合わせない。
「呼んでもいいから、この前、教えたんだろう」
カットは、目の前のカクテルグラスの酒を二口で飲み干した。ごくんと、三度動いた白い喉が、妙に色っぽかった。飲み干した後、グラスをカウンターに戻す。そのまま両肘をついて、しばらく何かを考えている様子だった。
「そうね、いいわ、カットって呼んでも。あなたは、なんて呼べばいい」
首をかしげただけで、返事はしなかった。
「まあ、いいわ。君の大事なものをひとつ教えてくれたら、このお酒の名前、教えてあげる」
ギムレットが置かれた。バーテンがあるかなきかの目配せをしたが、気づかないふりをした。気づき過ぎることが、必ずしも良い結果を生むことになるとは限らない。置かれたカクテルグラスを持ち、一息で飲んだ。この間と同じ味かは、はっきりとはわからなかった。ただ、悪くはなかった。唇がヒリヒリと痛む。空になったカクテルグラスを右によけ、ジントニックを注文する。バーテンが軽く頷く。
ジントニックが出来上がるまで、黙ってバーテンを目で追っていた。普通はタンカレイを使用するが、バーテンはゴードンの瓶を手にした。ジンを30ml。氷を入れたグラスにジンとトニックを順に注ぎ、軽くステアする。スライスしたライムをつける。ジントニックのグラスと残ったトニックの瓶を目の前に置く。ちょっとしたホテルのバーのようなことをする。
「どうしたの、大事なものをたったひとつでいいのよ」
しびれを切らしたのか、カットが口を開く。本当に大事なもの。それを、言葉として正しく表現できるなら、もっと楽な生き方ができるかもしれない。
「小指かな」
「なぜ?」
「誰かと赤い糸で結ばれているかもしれないからさ」
カットがふきだすように笑った。
「来ると思ったよ」
不意に後ろから声をかけられた。カットはまだおかしそうに、口に手をやり笑っている。 カズキが隣に腰掛けた。
「もう二、三日後かと思ったが、意外と早かったな」
「来るな、といったのは、あなたですよ」
「カズキだ。そう呼んでくれ。平和の和に樹木の樹だ。」
和樹の前に、ロックグラスと十二年物のターキーが置かれた。
「カット、おまえが、そんなふうに笑うなんて珍しいな。皮肉と仲良しのおまえが」
「小指。赤い糸。あの夜、血だらけだった唇からそんな言葉が聞けるなんて、それがおかしくないわけないでしょ」
「その赤い糸を手繰り寄せると、俺の小指につながっているかもな」
「和樹さんまで。今夜はみんなどうかしているわ」
カットが空のカクテルグラスを目の高さまでかざした。もう笑ってはいなかった。
「サリンジャー。このお酒の名前」
「特別なんです。正式じゃないですよ」
バーテンの声。
「私だけのお酒」
誰にも飲ませない。目が語っていた。わかる。同じ目をしている。あながち嘘ではないのかもしれない。友也は軽く頷いた。
「友也。友だちの友に也だ」
「友也ね。いい名前ね。それにしても、小指とはね」
友也はわざと少しあきれたような態度をとった。
「臆病なんだな、愛に。カットは」
カットが、きつい顔して、こちらを睨んだ。
バーテンが、ついでのように店の名刺を置いた。
「昌利です。俺もちゃんと名乗っておこうと思いまして」
友也は、その小さな白い長方形の紙を見つめた。
「和樹さんの大事なものは」
皮肉と仲良しの女が訊いている。
「青い空かな」
深い思いを内に秘めたような男が答えた。
「みんな、チープなロマンチストね」
「この店が、そうさせるのさ。男にとって、ロマンチストでいることの出来る場所が一つあるっていうのも悪くはないだろう」
「この店が、そうなの?」
カットと和樹の会話を聞きながら、店に流れる古いジャズの曲を思いだそうとしていた。そして、どうしても思い出せないまま、五杯目の酒を飲み干した。
男が入ってきたのは、支払いを済ませ、最後の煙草に火をつけた時だった。髪をオールバックにし、ほっそりとした黒のスーツをきちんと着こなしていた。背が高く、姿勢もいい。そのまま、和樹の隣の席に座る。和樹は男を一瞥しただけで、そのまま前を向いている。男が、こちらを見る。目が合うと、男は軽く笑みを見せた。見たことのない男だった。どこかで出会ったことがあるのか。しばらく考えたが、思いつかなかった。
男の前に、ウイスキーのロックが置かれた。男も和樹も無言のまま、酒を口に運んでいる。和樹は、厳しい顔を崩さない。友也のカウンターの前に、小銭が置かれた。昌利を見つめる。何故か話しかけられない雰囲気がそこにあった。仕方なく、立ち上がり、ポケットに小銭を入れ、重い扉を押した。
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