第6話 癖
腹。一発。拳。また腹。三人。店を出て、一本目の路地を左に曲がったところだった。両脇を捕まれ、足を引きずられながら、せまい路地裏に連れ込まれた。何も出来なかった。あの夜の三人なのか。俺だとわかったのか、最初に考えたのは、それだった。いや違う。そんなはずはない。冷静になれ。それだけを何度も頭の中で繰り返した。
もう一発があごに入った。衝撃、そしてめまい。腹。続けて、右頬。あの夜と同じ。いや違う。男たちは言葉を発しない。冷静になれ。顔を見ろ。とにかく相手の目を見ろ。そうすれば、はっきりする。顔を上げようとする。腹。続けて、右頬。前屈みになる。よろめいて倒れそうになるが、後ろに回った男に両腕をしっかり掴まれて、倒れることもできない。腹。右頬。アスファルトが歪んで見える。声が出ない。唾も飲み込めない。呼吸が止まる。胃の中がぐちゃぐちゃとする。
歪んだままのアスファルト。吐瀉物。自分で吐いたことに、しばらく気づくことができなかった。また、何も出来ないままなのか。左耳をねじるようにして掴まれ、上へと引っ張られる。顔があがる。右頬を張られる。視点が定まらない。左耳の痛み。よく見ろ。冷静になれ。唇を噛んで意識を保とうとする。よく見えない。唇を噛み続ける。闇に目が慣れてくる。焦点が合う。違う。あの夜の三人じゃない。誰だ。一体、どうなっている。目の前の男の後ろにもう一人いる。グレイのスーツ姿。背の低い男。さっき、店を出た客。間違いない。しばらく下を向きじっとしていた男。黒いスーツの男が、友也の左耳を掴みながら口を開いた。
「知っていることを話しな」
首を横に振る。無意識のうちにそうしている。知っていること? いったい何のことだ? 痛みはある。ただ、冷静さを取り戻してきている。三人の位置関係を確認する。黒いスーツの男が正面にいる。その背後に背の低い男。後ろに体格のいい男。あの夜からほどなくして決めたことがあった。物事に決め事をつくっておく。そうしておけば、余計な考えがおよばないうちに動ける。躊躇せず、恐怖や不安が思考に追いつかないうちに動く。その後は考えない。今だけを考える。逃げない。どうなってもいい。ただ、もう何もせず這いつくばり、屈したりはしたくない。
右頬を張られる。頭に衝撃が走る。
「奴と何を話した?」
話をしているのは、黒いスーツの男だけ。後の二人は黙っている。こいつらは何かを誤解している。奴とは誰のことだ? 知っていることなど、何もない。ただ、この場で何を話しても誤解が解けるとは思えない。痛みを確認する。右頬。顎。みぞおちの下。右脇腹。唇。左耳。腹以外はたいしたことがない。後ろの男に、腕を捕まれたまま、右手を一度ゆっくり開いてから、強く握ってみる。大丈夫だ。力は入る。膝も震えていない。
「何を頼まれた?」
「何も」
また、右頬を張られる。
「わかった。話す。やめてくれ、左耳がちぎれそうだ。頼む」
左耳のねじり持っていた男の手の力が少し弱まった。虚を突く。捕まれていた腕を強引にふりほどく。黒いスーツの男の肩をつかみ、股間を思い切り蹴り上げる。すぐさま、ジーンズのポケットに手を入れ、1本のドリルネジを握る。取り出すと同時に後ろの男のこめかみに突き刺す。うずくまった男の顔を鼻に狙いをさだめて蹴り上げる。鼻から大量の血が溢れるのを目の端に捉える。
正面。呆然と立っているグレイのスーツの男に飛びつき、右ほほをネジで引き裂く。男はそのまま顔を手で覆い倒れ込む。その上に馬乗りになる。動くと腹への二発が結構堪えてきた。ネジで引き裂いた傷からは、血はほとんどあふれない。胃のむかつきが激しくなる。吐瀉物を男の顔にぶちまける。男の顔が歪む。飛び起きる。走り出す。路地裏を抜け出す。全てが歪む。ネオンの光がにじむ。しっかりとアスファルトに足がつかない。どこへ向かっているかも、よくわからない。真っ直ぐ走ることができない。追ってきているのか。後ろを振り返る余裕もない。すこしでも遠くへ。
顔を上げる。少し先に、誰かが立っている。男。店のカウンターに座っていた男だ。バーテンと女もいる。さっきの店の前。なぜ、こいつらがそこにいるのか。とにかく足を前へ進める。近づく。倒れ込みそうになる。バーテンが抱きかかえる。力が抜ける。何なんだ、いったい。吐き捨てるように言った。
「すまなかった」
頭を下げているのは、カズキだった。
「奴ら、俺と関係がある奴と勘ぐったらしいな。普段、あの時間に店にいる客は、ほとんど俺とカットだけだ。間違えたとしても不思議じゃない」
「どういうことだ」
そう言うのがやっとだった。ただ、カズキは友也の問いかけには答えなかった。
「俺の代わりに、おまえは殴られたようなもんだ。すまない。貸しにしてくれてもいい」
呼吸の乱れが徐々に収まる。息をするのが楽になる。
「貸し借りは嫌いなんですよ。殴られたから、自分を守っただけで」
「自分を守るだけか」
カズキは笑う。不思議に嫌な感じはしない。
「それにしても、ひどいやり方だ」
バーテンが友也の顔を冷たいタオルで丁寧に拭く。
「ああ、店を出て、いきなり腹に一発くらった。両脇をつかまれてな」
バーテンのあきれたような笑い声が聞こえる。
「やつらじゃないですよ、あなたです。加減ってものをしらない。いや、加減を分かっていて、あえてと言ったほうが適切かも知れないですね。冷静に急所をついていた。それは残酷なほど徹底していた」
「冷静なんかじゃない、必死だったさ。それに、怖かったよ」
「そうかもしれません。でも、途中までです。その後は、ちょっとぞっとするぐらいでした」
このバーテンは、ずっと見ていたのか。カズキが代弁した。
「こいつが、傍観者というのもあながち嘘じゃないだろう」
カズキの吸うマルボロの匂いが流れてくる。無性に煙草が吸いたくなった。
「連れ去られるときから、ほとんど最後まで見ていたんだから、助けもしないでね」
女の声が聞こえた。声の調子はどうでもよさそうに響いた。カットだろう。姿は視界から外れていた。声の方へ顔を向けるのもうんざりするぐらい、頭が重かった。
「助ける暇も、必要もなかったよ。まあ、それでも、見ているだけだったかもしれないけど」
「煙草」
バーテンがキャメルをくわえさせる。ジッポーの火。深くは吸えない。数回、吐き出した煙が目に染みる。
「おかしな話かもしれませんが、奴らに同情しますよ。ただの脅しのようだったから」
「次は、俺ということか」
カズキは、そういって黙り込んだ。そのことを恐れているような声の調子ではなかった。バーテンが頷くのも見える。煙に染みた目でカズキを見た。カズキもこちらを見ていた。すぐに顔を逸らした。見てはいけないものを見てしまった気分になった。
「あいつもお前と同じ癖を持っていた」
ふいにカズキはいった。
「誰です。あいつって」
煙草が落ちないように気をつけながら口を動かした。
「ただの友だちさ」
カズキはそれ以上、何も言わなかった。俺の前に腰をおろした。
「すまなかった。もう、この店には、こないほうがいい」
それだけ言って、立ち上がった。
「知っていることを話せ、そう言っていたな。奴ら」
「そうか」
「奴と何を話した? とも」
少し歯を見せてカズキは笑った。この店にまた来るかどうか、それは俺が決めることだ、そういいかけて口をつぐんだ。煙草のフィルターを噛む。こんな笑顔を見たことはなかった。どんな生き方をすれば、こんな笑顔になるのか。背中を向け、ゆっくり遠ざかる姿。何もなかったようなその背中を、しばらく見ていた。
「一番心配していたのはカズキさんです。あなたが出て行って、すぐ俺に様子を見にいかせましたから」
バーテンダーが言った。
「なんで俺は殴られたんだ」
「理由というものに、意味などないでしょ」
「理由があれば、安心することもある」
「俺に訊かれても」
「少しは知っているんだろう」
バーテンも煙草をくわえた。バーテンはマサトシと呼ばれていた。しかし、あの店に客として通う限りは、バーテンはバーテンでしかない。少し腕のいいという形容詞ぐらいはつけてやっても構わない。
「いろいろあるってことです」
バーテンはくわえた煙草に火をつける素振りを見せなかった。冷たいタオルを左耳とこめかみ部分にあてる。何も話す気はないということか。
「いろいろか」
ゆっくりと背中を起こした。しばらく路上に座り込み、短くなったキャメルを口にくわえたまま、斜め上の細い月を眺めていた。
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