第5話 同じ目をしている

 チェルシー・バー。よくある名前だった。派手な看板もない。両隣の店のシャッターは閉まったままだ。ずいぶん前につぶれてしまったような寂しさがある。重い扉だった。ゆっくりと開ける。バーテンが俺に一瞥をくれ、いらっしゃいませという。シェーカーを振っている。カウンター十席程度とブースがふたつだけの小さな店。店には、ジャズ風のナンバーがボリュームを下げて、かかっている。しばらく聴く。オーバー・ザ・レインボウ。酒のボトルとグラスとシンプルなオイルランプのほかは、無駄な装飾のない店だった

。カウンターに男と女がそれぞれ離れて座っている。テーブル席には背広姿の二名の客。早い時間の割には客がいる。まだ七時を回った頃だ。一通り店を眺めてから、カウンターの隅に座り、バーテンのシェーカーを振る姿を見ていた。早い時間帯だからだろうか、バーテンが一人で対応しているように見える。若いバーテンにしては落ち着いた雰囲気があった。白いシャツに黒のベスト。着慣れた感がある。首の蝶ネクタイだけが浮いて見えた。女の前にカクテルグラスがおかれ、透明な液が注がれた。女は何もいわず、二口で飲み干した。白い喉が生き物のように脈打つ。何かの儀式をみているような気分にさせられる。

「ご注文は?」

 バーテンが差し出したメニューを見ずに、ギムレットを頼んだ。バーテンは、軽く頷くと、ゴードンのボトルを手に取る。新しいシェーカーに砕いた氷を放り込む。生のライムを使うようだ。カウンターに座る男が、じっとバーテンの動き見ている。男はバーボンのロックを飲んでいた。よく磨かれたロックグラスに、大きな丸い氷の塊が一個。そばには、ワイルド・ターキーの十二年物が置かれていた。

 バーテンが友也の前にカクテルグラスを置き、シェーカーを傾ける。シェーカーから落とされた最後の一滴でグラスがちょうど満たされた。目の前に差し出されたギムレットを二口で飲む。悪くはない。悪くはないとわかる程度には酒を飲んできた。

 酒は好きだった。弱くもなかった。カクテルやバーボンをよく飲んだ。一人で飲む酒。気障でも何でも構わなかった。工場だけの毎日の中で、唯一の楽しみであり、それ以外の時間は、部屋で古い音楽を聴くか、寝ながら本を読むぐらいだった。飲むのは一人と決めていた。ただ、飲む店は、ひとつに決めはしなかった。近くの駅の周辺で、小さなショット・バーのような店を見つけては飲んだ。スナックなどは、好きではなかった。店に流れるカラオケ、下品な歌声や、常連客の酔った嬌声、夜に酔い、賑わいに隠された、そこに充満する寂しさの固まりのような空気に触れるのが嫌だった。

静かに一人で酒を味わうのが性に合っていた。酔いつぶれるまで飲むようなこともなかった。カクテルなどは、店によって、同じレシピでも味が異なる。店を決めなかったのは、その味の違いを楽しむこともひとつにはあった。良し悪しはよく分からない。ただ、そうやって飲んでいくうちに、自分の好みの味というものはわかってきた

 ふと気配を感じて、横目でカウンターを見た。目が合う。まるで何かの答えを待っているかのように、女がこちらを見ている。

「何か?」

「別に」

 女は、もう関心を失ったかのように、正面を向く。同じぐらいの歳。二十五、六歳。幼さと大人の雰囲気が混ざり合ったような不思議な雰囲気をしている。黒い瞳。色白。黒い艶のあるショートヘアー。白い喉。細い腕。カウンターに置いた女の左手から、細い傷が剥き出しのまま、瘡蓋になっているのが見えた。気をつけていないとバランスを崩して落ちていきそうな、落ち着かない気分をこの女は連れてくると感じた。しかし、それは、寂しさの固まりのようなものとは、はっきりと違うものではあった。

「ねぇ」

 女がバーテンに声をかける。バーテンは女に替わりのグラスを差し出していた。

「いつになったら、虹の向こうに連れてってくれるの?」

「いつか、それしかいえないよ」

 女は常連客なのだろう。バーテンの口調も少しくだけている。

「そう、私、いつかって言葉は嫌い」

 バーテンは困り果てた様子でもなく、いつものごとく静かに笑っている。

「虹の向こうか」

 カウンターの男がつぶやく。

「そこには何があるんだ?」

「いつかの果て。その景色を見たい」

 女はバーテンの姿を目で追いながら話す。

「みんな、いつか、いつか ばっかり口にして、何もしない。何もしないで、いつかが目の前に来るのを待っているだけ。いいかげんな恋をしたり、いいかげんな夢をみたり、それで、いいかげんに傷ついて、いいかげんにあきらめて、でもいくら待っていても、そのままじゃ、いつかなんて絶対来やしないわ」

 バーテンが女の話を遮るように、空になったグラスに目をやった。

「フォアローゼズ黒をロック、ダブルで」

 バーテンは軽く頷くと、ボトルをつかむ。手早くグラスに丸い氷を一個入れ、酒を注ぐ。キラキラと輝いたロックグラスが目の前に置かれる。

「あんたが店長か」

「まさか。マスターは今、留守です。こんな若造はシェークするだけで精一杯ですよ」

「おまえが自分で若造っていうとはな」

 カウンターの男が、バーテンに笑いかけながら声をかけた。

「こいつの酒は最初、飲めるもんじゃなかった」

「他の客には、はじめから好まれていましたよ」 

「おいしい酒さ。でもそれだけだった」

 こちらを向き、カウンターの男は話した。

「しかし、何の思いも入ってない味さ、自分の思いが何もない味気ない味だった」

「ひどい言い方だな。カズキさん」

 バーテンがマッチをすって煙草に火をつける。少しの間、火薬の匂いが充満した。

「はじめてのお客さんに話す話じゃないですよ。営業妨害です、全く」

「それでも最近、少しは飲める酒になったさ。自分の思いが混じった味になった」

「マスターに聞かれたら、どやされそうだな」

「余計な思いまで混ざり合った酒など誰も好まないか」

「たしかにそうですよ、カズキさんを除いては」

「それでも、少しは混じるようになった」

「まぁ、カズキさんに出す酒にはね」

 バーテンは、俺のことを、はじめての客だと言った。一度来た客の顔は覚えている。好みの酒も、客の名前も知れば、当たり前のように覚えてしまうだろう。そんなことさえ出来ない店も増えてきた。

「なぜ、俺にそんな話を……。この店で飲むのも今夜がはじめてだし」

「だからさ。カットが、珍しくマサトシ以外の男に興味がある素振りをしているんでね」

 カズキがそういって、女のほうを見た。カットと呼ばれた女は、カズキが吐き出した煙の行方を目で追っていた。マサトシというのは、このバーテンのことだろう。ロックグラスのバーボンを一息で飲み干した。胸が焼ける。それはそれで心地よいものではあった。知らないうちにチェーサーが置かれている。手を伸ばす。

「俺も飲んでみたいな。その思いってものがまじった酒を」

 バーテンが一瞬、何かを探るような目を向けた。

「いいですよ、お気に召すかどうか」

「ラムベースで」

「わかりました」

 バーテンの手際が先ほどと、まるで違う気がした。無駄と呼べる動きがない。素早く、それでいて雑でもない。ライトラムのロンリコ・ホワイトとフレッシュライム。どこに何がどれだけあるかわかっている動き。工場で働いていたころの自分と重ねてしまう。シェーカーが振られる。ぶつかる氷の音。酒が水っぽくならないためのリズム。必要なものだけが、ここにきちんとあり、不必要なものは、どこにも見当たらなかった。丁寧に磨かれたカクテルグラスにぴたりと注がれる。ダイキリ。バーテンの目を見る。どうぞというように首を少し傾ける。ちょっとした興味で確かめるつもりが、反対に何かを確かめられている気分になった。グラスを持ち、二口で空ける。

「悪くないな」

 少し間をおいて、正直に感想を口にした。

「おいしいかどうかはわからない。ただ、好きな味だった」

「驚いたな。カズキさんと同じ感想だ」

「本当に味は悪くなかった。正直な感想だよ」

「ありがとうございます」

 バーテンは頭を少し下げて、笑った。笑うと、隠している若さのようなものが滲みでてくる。新しいロックグラスを目の前に置く。フォアローゼズの黒が注がれる。

「あなた、きっと私のこと嫌いね」

 不意に視線がこちらに向くのを感じた。カットの目がじっと見ている。

「どうしてかな、別に気にかけてやしないし、俺はただ、ここに酒を飲みにきただけさ」

「だって、同じ目をしているもの、あたしと」

 口に酒をほうりこみかけたグラスを止めた。もう一度、女の目を見る。

「やめな」

 バーテンが女にやさしくなだめるように言う。

「自分と同じって、結構、人は許せないものよ」

「会ったばかりじゃ、わからないな」

「すみません」

 バーテンが頭を下げる。

「かまわないさ、名前は」

「カット、そう呼ばれている」

「美容師か何かか」

「切るのは、他人の髪じゃないわ」

「カット、もうやめな、どうしたんだ。急に」

「気になるんだ、こいつが。店に入ってきてから様子が変だったからな」

 カズキがこちらを向いて笑いかける。三十三、四歳。嫌な笑顔ではなかった。ただ、心の底から何かを楽しむことが出来ないような笑顔だった。

「マサトシが、いつまでも中途半端なままだから、カットも落ち着かないんだろう」

「別に俺は」

「ここのバーテンは、いつも傍観者なんだ」

 カズキが話しかける。

「傍観者で悲観者」

 カットが付け加える。

「別にいつも傍観しているわけじゃないですよ」

「結果的には、傍観者さ。最後までどうなるかを見届けるだけ。口も手も出さないで。そして、最後の結果だけを自分の中でだけで受け止めようとする。そのくせ受け入れることにも臆病なんだ」

「もういいですよ。俺の話は」

 バーテンが後ろを向く。会話はそこで途切れた。何の話をしているのかよくわからなかった。わかるつもりもない。それでもなぜか吸い込まれそうな気分になったのも確かだった。おかしな気分を和らげるように、ポケットの中に紛れ込んでいた一本のドリルネジを触っていた。

 店で飲むのは、五杯までと決めていた。五杯目は、バーボンをゆっくりと飲んだ。煙草を一本吸い、帰ろうと席を立った。ブース席の二人も立ち上がっている。帰ろうとしているみたいだ。バーテンが勘定を書いた紙を渡している。黒のスーツの男が金を払う。その間、グレイのスーツを着た背の低い男は、下を向きじっとしていた。会社の上司と部下の関係のように見える。黒のスーツは若く、もうひとりは年配の男だった。

ブースにいたからか、話し声は聞こえてこなかった。常連客というわけでもなさそうだ。バーテンとも親しく言葉を交わしているわけでもない。ふらりと立ち寄り、ゆっくりと静かに酒を飲む。そんな男たちが似合う店といえば、そうかもしれない。静かに飲むにはいい店だ。カクテルの味もいい。男二人が扉を開け、外へ出て行った。紙を渡される。書かれた数字は妥当なものだった。金を払う。出て行こうとしたとき、カズキと目が合った

。カズキはそのままドアに目をやった後、靴元に目を落とした。あるかなきかの血がワークブーツにこびりついている。ただ、血といわなければ、わからない程度のものだ。店の音楽が変わった。しわがれた声。ブルースの香り。形容し難い感情が押し入ってくる。酔ったわけではなかった。扉を開ける。やはり扉が重いと思った。

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