第3話 人の心で遊ぶということ

 砂が顔を打つ。海鳥が風に逆らうように飛んでいるのが見える。海沿いに続く道路をトラックがスピードを上げて次々と走り抜けた。潮の匂いがきつい。人影のほとんどない海岸。ウェットスーツを着た若者が数名、波乗りをしているのが遠くに見えるだけだ。細かな砂が強い風に吹き飛ばされて、ひっきりなしに顔を打つ。下を向き、急ぎ足で海の見渡せる小さな丘の公園を目指す。海を見に来たわけでなかった。日没。太陽が沈む瞬間を見たかった。たいした理由があったわけではない。

時間を持てあましていた。部屋で一日中、音楽を聴いたり、本を読んだりするのにも飽きた。とにかく外へ出てみることにした。どこにも行く場所などなかった。落ち着ける場所など見つからなかった。平日の昼間は、元気な老人と専業主婦と学生、そして疲れて肩を落としたサラリーマンのための場所だった。若い男が、一人で立ち寄れる場所など、どこにもなかった。ふと思いつき、電車に飛び乗った。夜になる瞬間を見てみたい。思いついたのが、この場所だった。夏には、海水浴客でいっぱいになる海岸。今はまだ、波打ち際に、流木やごみがたまっていた。泳ぐ気には、とうていなれない汚れた海。これも、陽が沈めば見えなくなる。見えなくなることが悪いことなのかどうかわからない。見なくてすむのであれば、それでいいこともたくさんあるような気もする。目指していた丘に着いた。

陽はすでに沈みかけている。数名の人。カメラを三脚にたて、構えて待っている人もいる。思っていたよりも、知られた場所なのかもしれない。腕時計を見た。午後六時半を少し過ぎていた。時計は三本しか持っていない。その日の気分や、服装に合わせて、時計を選ぶこともなかった。高価な時計にも興味がない。全部で三本の時計。それで充分だった。今、はめている時計は、白い文字盤が大きく、数字が見やすかった。実用的で、無駄なものがなかった。もとは父親の時計だった。いかにも父親が好みそうな時計だった。


 父親は二十歳のときに亡くなった。病死だった。母親と二歳上の兄は、父親の死が近いことをだいぶ前から知っていた。知らされたのは、大学に入ってしばらくしてからだった。入試などを控えていた為、動揺させないための母親の配慮だった。はじめて聞かされたときの感情は思い出せない。どこかで、自分なりに覚悟していたところがあったのかもしれない。それでも、死を間近にした父親に、どう接していいかわからなかった。部屋で寝ている父親を見て、疎ましく思ったりしていた自分を思い出す。

死は、突然訪れた。日常を過ごしながらの死への覚悟が、どんなに安っぽい覚悟だったかを思い知らされた。最後に、父親にだした昼食。具など何も入ってない、べたべたとしたインスタントラーメン。父親は、ソファに浅く座り、二、三口食べて、残りを台所の流しに捨てた。その間、二人に会話はなかった。父親には、そんな元気もなかったのかも知れない。父親の最後の食事。べたべたとしたインスタントラーメン。ちょっとした熱。激しい咳。そこからは、急だった。呼吸困難。救急車。病院。肺炎を併発していた。やせ細った身体が、ベッドに横たわっていた。身体全体が苦しみに包まれていた。死に際の一瞬だけ、安らかな表情をした気がした。死。静かな死だった。

涙は、流れなかった。ただ、呼吸が苦しかった。家へ戻り、飼っていた猫が、ニャーと足に擦り寄ってきた。猫を抱き上げる。そこには、生きているぬくもりがあった。頬を伝うものを感じた。はじめて泣くことができた。人は、生きている間に遭遇する厳しさのようなものから、少しだけ呼吸を楽にさせるために、泣くことを覚えたのかもしれない。父親を六畳間の部屋に寝かせた。母親は、じっと父親の顔を見ていた。親を、好きや嫌いで表現することはできない。それまで真正面から向き合ったことがなかったからかも知れないし、ただ単に近すぎる存在だからかもしれない。だから、死との距離がうまくとれない自分に戸惑っていた。

父親を、棺おけに納棺するとき、数人で身体を持ち上げた。足を持つことになった。右足。そのとき、死が、まっすぐに入り込んできた。死体。身体の冷たさと固さ。それは、今も両手を伝って頭から離れることはない。葬儀が終わった後、家を出ようと決めた。なぜだかは、よくわからない。よくわからないことが、多すぎる。両手に残る冷たさが理由だったのかもしれない。家をでるとき、この時計だけをもらってきた。時計は、手首に最初から馴染んだ。何かあると、時計を触る癖がついた。レンズに小さなひびがはいっている。あの夜につけてしまったひびだった。


 四月の中旬。工場の仕事を終え、駅近くのカウンターバーで酒を飲んだ帰りだった。狭い路地。街灯の明かりは弱かった。駅から部屋まで歩いて二十分程度。いつもの通り道は、人気の少ない静かな路上だった。後ろから声をかけられた気がした。振り向いた瞬間に拳が飛んできた。右の頬を熱いと感じたときには、もう這いつくばっていた。六本の足に囲まれていた。立ち上がろうとした。見えないところから拳や足や棒が俺を標的にして襲いかかってきた。また、這いつくばる。痛みに耐える。どこが痛いのかさえ、わからない。

殺す。その言葉が繰り返された。わかりきった嘘。わかってはいても、頭と身体が別々の反応を示した。殺す。膝が震え、それは足全体に広がった。唇が乾き、声さえ出せなかった。ちょっと死んでみる? にやにやとした顔で、唇を歪めて声に出しているのが目に見えるようだった。頭を上げようとすると、後頭部を拳で繰り返し殴られた。両手で後頭部をガードするしかなかった。這いつくばったまま、頭や腹を蹴られ、煙草の火を手の甲や腕に押し付けられた。何度か、立ち上がろうとしては、蹴られ、また這いつくばることになった。何度もそれが繰り返された。殺す。殺す。殺す。頭の中が、男の声だけになった。頬に冷たい感触が伝わる。ナイフ。殺す。殺す。殺す。もう、立ち上がろうという気さえ起きなくなっていた。

 屈した。お金ちょうだい。言われるがままに、ジーンズの後ろポケットから財布を出していた。一万円札が三枚。有り金全部。顔をあげる。真ん中の男が、奇声をあげ、札を掴み取り、両方の男に1枚ずつ渡す。車がゆっくりと近寄ってきた。車のライトが三人の顔を照らし出す。車は三人の後ろでゆっくりと止まった。助けてくれるのかという期待は一瞬にして消え去った。誰も慌ててなどいなかった。警察なんかに行ったら本当に殺すよ。棒読みのような言葉。右にいた男が耳元でささやく。それとも、今、死ぬ? 笑い声。車の後部座席のドアが開く。そう決められていたかのように、三人の男はすばやく乗り込む。何事もなかったかのように車は走り去った。這いつくばったまま、俺はしばらくその場にいた。


 どうやって部屋に戻ったのかよく覚えていなかった。ベッドの中で一晩中、震え続けていた。車のライトに照らし出された三人の顔が頭から離れなくなった。明け方、断続的に続いた浅い眠りから覚めた。着替えもせず、ベッドに潜り込んだままだった。いやな汗をかいていた。不愉快な汗だった。不愉快なのは、汗だけではなかった。腕時計をみた。午前五時半だった。数字のちょうど六のあたり、ガラスに小さなひびを見つけた。もう一度、頭まで布団に潜り込んだ。その日から三日間、工場の仕事を休んだ。


「すみませんが、煙草を一本もらえませんか?」

 一眼レフのカメラを首から提げた年配の男が声をかけたきた。

「一本分の話と引き換えなら」

 面白いこといいますねと言って、男は愛想のいい顔で笑った。

「ここへ来られるのは、はじめてですか?」

 頷きながら、ポケットから煙草とジッポーを出した。男は、煙草を一本抜き取り、口にくわえ、火に顔を近づけた。男の顔が、ジッポーの火に赤く照らされた。

「日没までは、ちょうど後、十分ぐらいですか。よくここに、こいつをぶら下げて来ますが、こんな素敵な夕焼けは、なかなか見ることはできない。ついてますね」

 注意深く空を見上げた。赤みがかったオレンジ色。そこにわずかな雲が、何層もの少しずつ違ったオレンジ色に彩られている。

「日の出もいいですが、私はこっちのほうが好きでしてね」

 男は、一度、煙草の煙を深く吸い込み、ゆっくりとはき出してから、話を続けた。

「そうそう、一本分の話と引き替えでしたね。私が高校生のとき、ラッキーというあだ名の同級生がいましてね。といっても、本当に幸運の持ち主だったとかではなくて、それどころか、いじめにあっていました。一年の夏が過ぎた頃だったかな、冗談半分で誰かが、彼のことをラッキーと呼ぶようになりましてね。最初は、彼に触ると、ラッキーになれるとか言って。そのうち、触ると言いながら、背中や頭を思い切り叩いたり、髪を引っ張ったり、頬をぶったりするようになりました。私も、何度か、彼の背中を平手で叩いたような気がします。なんでそんなことをしたのかわかりません。きっと、退屈だったんでしょうね。退屈は、人の心を凶暴にします。

いじめは、当然のようにエスカレートしていきました。彼はメガネをしていて、頬をぶたれると、メガネが飛ぶんです。飛んだメガネが教室の床に落ちて、それを見て、何がおかしかったのか、みんなで笑うんです。おもしろがって、数名が代わる代わる頬をぶってメガネを飛ばして、一番遠くへ飛ばした奴にラッキーが訪れるとか、いろいろ理由をつけて。それで、しばらくすると、今度は、彼に触ると幸運が吸い取られる、不幸になるとかいって、誰も近づきもしなくなりました。いわゆる、ばい菌扱いですね。そのまま三年が過ぎて、彼は、卒業までばい菌扱いでした。正直、私も、彼のことなど、ほとんど記憶から消えていたんですけどね。

わざわざ、嫌だった事や、不愉快なことなどいつまでも覚えていたりしない。特に、高校生の頃の記憶なんて、そんなものでしょう。だけど、最近になって、私の末の娘の学校に、先生として、彼がいることがわかったんです。それが、わかったのは、偶然でした。実は、娘がどうも学校でいじめにあっているようだとわかって。娘に訊いても、話したがらない。私が悪いからとか言う。うまく話せないような、もどかしさを感じました。それで、学校に相談に行ったんです。教頭と担任の他に、学年主任ということで、彼が現れました。そのときは、まだ彼があの同級生だとは思いもしなかったです。私が話をして、娘もぽつりぽつりと話をして、教頭や担任と短いやりとりをして、それを彼は、最後までじっと黙って聞いてました。そのあと、彼は、娘のほうを向いて、忘れないでほしいことがあると言いました。

それはね、君には新しい未来があるということ。今、生きている延長線上の未来じゃない、全く新しい未来が。それを選ぶことが出来る自由がある。そのことを、けして忘れず覚えておいてほしい。少し私の話を聞いてくれるかな。私は、高校生の頃、ラッキーというあだ名を付けられてね……そう言って、ラッキーと呼ばれ、いじめにあった話とその後のことを話しはじめたんです。その時の私の驚きは、もうそれはすごいものでした。だって、そうでしょう。あのときの彼が、今、目の前にいる先生だとわかったのだから。私は、うつむいて、彼を凝視することができなくなっていました。その時の気持ちをうまく表すことは難しいです。後悔でもない、なんだろう、おそらく恥の塊のようなものが胸にこみ上げたのかもしれません。

彼は、一通り、私の娘に話をし終わった後、もう一度、繰り返しました。君には新しい未来がある。今、生きている延長線上の未来じゃない。全く新しい未来を自分で選ぶことができるんだ。私はそれをたった一度だけど証明した。今度は君の番かもしれない。私は、顔を上げて、彼を見ました。彼は、私にむかって、軽く頷きました。私は、彼に訊きました。その頃の同級生たちを恨んだり、憎んだりしていますかと。考える間もなく、彼は言いました。当然です。クラス全員と担任を。あの頃は、毎日、人の心で遊ぶな、俺の心はおもちゃじゃないって、心の中で叫んでいましたよ。

そう笑いながら言ってから話を続けました。ただね、過去の荷物を引き摺りすぎると、心はすり減って、消耗するだけだと気づいたんです。そこには、何もいい事なんてないと。だから、結局のところ、私は本当にラッキーな人間だったのかもしれませんってね。ちなみに、私の娘は今、いじめと戦っています。退屈の塊たちと戦うのですから、ひどく難しい戦いですが、彼女自身が選びました。親に似ず、たくましい娘です」

 そこまで話すと、男は、取り出した携帯用の灰皿で、短くなった煙草の火を丁寧に消し、吸殻を入れた。愉快な話じゃなくてすみませんが、一本分の話です。男はそう言って、大事そうに一眼レフのカメラを両手で持ちなおし、二、三歩、前へ進み、カメラを夕日に向けた。

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