第2話 ベルトコンベアー

 先月まで、業務用の冷蔵庫を組み立てる工場で働いていた。ベルトコンベアーでの流れ作業。バイトの求人誌で見つけた。住んでいる場所から、バスで十五分程度の川沿いに工場はあった。近いことと時給の高さに惹かれた。深くは考えることもなかった。電話をすると、日時と場所を告げられた。それだけだった。面接も履歴書の提出も必要なかった。告げられた日時に工場へ行くと、一室に連れて行かれた。小さな窓しかない薄暗い部屋に、二十名程度が黙って前を向いて椅子に座っている。自分と同じぐらいの若い男たちが多かった。一番、後ろの席が空いていた。そこに座り、同じように黙って前を向いた。肩幅の広い、白髪を短く刈り込んだ男が入ってきた。

午前中は、大まかな仕事内容や注意事項の話、簡単な書類上の手続きが淡々と進んだ。午後になると、人事部の女性が、全員を引き連れて、工場の敷地内を案内した。敷地内は、どれも同じような建物ばかりが並んでいて、迷ってしまわないか心配になるほど広かった。立ち入り禁止の敷地もあった。前を歩いていた眼鏡の男が振り返り、軍事兵器を造っている所だと、耳打ちするように言った。工場の西門にあるロータリーの真ん中には、高くて大きな看板があった。無事故の日数を刻む看板。八九四日。事故が起こらない限り、この数字が毎日、積み重ねられていく。西門をくぐれば、けして見逃すことのない看板。日々の安全を誇りながら、しかしまた事故が起きた場合の悲惨さを、正しく物語っているようにも思えた。

足早に一通り敷地内を案内された後、更衣室に行き、着替えをした。一人にひとつロッカーが割り当てられていた。つばの長い帽子。固くごわごわとした生地の制服。軍手。名札。そして、鋼入りのワークブーツ。身につける全てのものが、無事故の日数を刻む看板のためにあるようにも思えた。着替えが済むと、各自の配置される現場に連れていかれた。友也を含む四人が同じ現場になった。工場長など現場の人と簡単なあいさつを交わすと、すぐにラインに立たされた。習うより慣れろだ。そう言われた。ラインに立ち、見よう見まねで手足を動かした。打ちのめされるまでに、たいして時間はかからなかった。ベルトコンベアーの流れの速さに、まるでついていけなかった。目の前の与えられた、ちょっとした工程をこなすことさえ難しかった。工程は、他人の半分もなかったはずだ。最初のたった半日が終わった時、ひどい疲れととまどいを覚えた。どうだい。大変だろうけど、最初は誰でもそうだから。直になれるよ。工場長が言葉をかけた。明日も来てくれよ。頼んだよ。あと、残業もな。抑揚のない声だった。冗談のようには聞こえなかった。翌日、一緒に配置された一人は、姿を見せなかった。

 

 軍手をした手で、的確なネジを必要な数だけ掴み、エアードライバーで十数カ所を締め付ける。エアードライバーは、ライン上に、ほぼ等間隔に吊り下げられている。工場の現場では、家庭大工で使われるような、柄を押すだけでネジを締めたり緩めたりできるオートマチックドライバーは使われていない。理由は簡単だった。ベルトコンベアーの速さに追いつけないからだ。エアードライバーは、電動コンプレッサーで空気を圧縮し、その圧力を利用して先端部を高速回転させる。その分、引き金にかける力に微妙な手加減が必要で、強すぎるとネジ穴を壊したり、あらぬ方向にドライバーが動き、加工した表面に傷をつけたりすることもあった。誰もが、最初の頃は手こずり、何度も失敗する。

 的確なネジを必要な数だけ掴み、部品と部品をエアードライバーですばやく締め付ける。この一連の作業がスムースに出来るようになって、はじめて、ベルトコンベアーの流れについていけるようになる。流れは、二時間続き、十五分の休憩をはさみ、また二時間。それを繰り返す。昼は食堂に人々が一斉に集まり、行列をつくり、冷めたおかずとごはん、そしてぬるい味噌汁を受け取り、胃に流し込む。残業時間を含めて、ようやく流れが止まるのはいつも午後八時を回っていた。工場では、ベルトコンベアーがすべてを決めた。たとえば、それは工場内で唯一、秩序と呼べるものだったのかもしれない。ベルトコンベアーが動けば人も動き、止まれば、人も止まった。

 それでも、一ヶ月も経てば、それなりに慣れてしまうものだった。軍手をした手で、組み立てに必要なボルトを、必要な数だけ見ないでも自然に掴むことができるようになった。エアードライバーを使いこなし、ベルトコンベアーの流れもさほど苦にならなくなってくる。時には、隣の工程が遅れている場合に手伝う余裕さえ持つことが出来た。そういう時は、それなりに気分がよくもなった。ただ、そんな気分さえ、二、三日も経てば、当たり前の日常の退屈の中に溶け込んでしまう。それを、黙々とこなした。いつ辞めてもいいと思っていた。ただ、そのいつかが、こなかった。

貰える金だけをみれば、割のいい仕事だったといっていい。退屈と苦痛の代償も、貰える金の一部に入っていたのかもしれない。拘束時間は長いが、残業分もきちんと金は貰えた。帽子、制服、靴などは全て支給品だった。ネクタイで首を締めつける必要もなかった。土曜日もほとんど働いた。日曜だけは昼まで寝て、休息にあてる。金をつかう暇もない。遊び方も知らなかった。週に一、二度、一人で酒を飲みに出かけることぐらいだった。当然のように、それなりのまとまった金もたまっていった。

 社員と違い、わずらわしい制約がなかったことも、居心地がよかった理由だった。労働組合も関係なければ、安全対策や生産性をあげる改善のレポートの提出も必要ない。当たり前のように行われる始業前の朝礼や部品の供給などの準備の時間が、労働時間外のため、賃金の対象にはならない。そのことが、社員の不満としてあがっても、たいして気にはしなかった。労働組合の賃金闘争が活発な時期でさえ、ベルトコンベアーは止まることはなかった。非正規社員や、期間工の人間だけで、何の支障もなかったからだ。工場には、九州から出稼ぎにきた期間工が大勢いた。工場内を、鹿児島弁が飛び交っていたものだった。

単調な仕事と重なる疲労の中、それでも彼らは一様に陽気で、なぜか軽やかだった。彼らを見ていると、軽やかさとあきらめは似ているものなのかもしれない、そんな風に考えることもあった。何をあきらめたのかも、どうしてあきらめたのかも深く考えることはなかった。ちょっとした雑談はするものの、必要以上に現場の人間と話すことはなかった。誰がどんな場所で使うのか、それさえもよくわかっていない大型の冷蔵庫を、手順どおりに仕上げていくこと。そのために工場に来ていた。それで金を受け取った。そして、もちろん、それが最も大事なことだった。


 その工場を先月辞めた。工場の仕事が減ってきていた。それは、誰の目にも明らかだった。土曜日の出勤が減り、残業が減っていった。人も減っていた。友也自身は、辞めてほしいということを直接、耳にすることはなかった。長く現場にいる人間が必要とされる程度には、まだ仕事もあったのだろう。それでも、非正規社員が用済みになることは時間の問題のような気もした。辞めることにした。いつかが、来たような気がした。あの夜から何かが変わった。それが、もしかしたら正しい答えなのかもしれない。


 総務部の女性は、辞めるにあたって必要な書類と貸与した制服などの返却手続きを抑揚のない声で、三分ほどかけて事務的に伝えた。おそらく、彼女は、一日に一回は同じことを辞める人間に伝えているのだろう。彼女は、全てを伝え終わるまで、書類に目を落とし、一度としてこちらの顔を見ることはなかった。正確に伝えること。それだけに全神経を集中させているかのようだった。最後に、伝えたことが理解されたかどうか確かめるように、顔をあげ、こちらを見た。軽く頷くと、背中を向けて自分の席に静かに歩いて戻った。

工場の現場では、非正規社員の出入りは激しい。ラインには、絶えず新しい人間が入れ替わり配置された。一週間ももたずに辞めていく人間も少なくはなかった。二年間、働き続けているというのは、充分に長い部類に入った。当たり前だが、ベルトコンベアーの流れは、人の体調や感情などを考慮しない。一定の速さで流れ、速くなることはあっても遅くなることはなかった。誰かの不手際で止まる場合は、その分、遅れを取り戻すため、流れが速くなり、残業で補うことになった。流れに調子が乗れない時は誰にでもある。そんな時、好きな歌を口ずさむことにしていた。同じ歌を何度も何度も歌い、あと何度歌えば、ベルトコンベアーが止まるか、数えるようになった。

 班の長は、中西といった。どう洗っても、もう汚れや染みがとれそうもない作業着を着て、低い背は、背中を丸めることで、いっそう低く小さく見えた。工場は、組単位で動いており、その配下をいくつかの班に分けて、それぞれの班を、その班の長がまとめていた。中西は、もう少しやってくれないかと、機会あるごとにいった。それでいて、頼みこむわけでもなかった。昼の休憩時や、小便や、更衣室での帰り支度のついでに話しかけてきた。本当に、ついで、のように話した。そのたびに、やりたいことができたからと、その申し出を断った。

 中西のことは、嫌いではなかった。それなりに人望がなければ、様々な人間が集まる工場の班長など務まらない。ただ、時折、同じようになりたくないという思いと、同じになってしまうのではという不安が、交互にベルトコンベアーに乗せられて流れてきた。おかしなことに、人望のない組長や班長ほど、出世が早いのも確かだった。人間を正確に機械のように扱うことが出来る人間ほど、上への階段を昇ることが出来た。ましてや組の長ともなれば、誰もが、出世の階段にいつも片足を乗せているようなものだった。

班の長として長く留まるということは、人望があったとしても、ある面から見れば、けして良いことではなかった。もちろん、よほど長く親しい間柄でなければ、いや、そうであったとしても、人は、ある面からだけでしか、他人を見ようとはしないし、ある面からでしか見ていないことに気づきもしないでいる。そうして、やがて自分にとって都合のよい面からしか見ようとしなくなる。つまり、会社とは、そういうところなのかもしれない。何が、つまりなのか、甚だ疑問ではあるけれど。


 辞める当日、いつもと同じように黙々と作業をこなした後、普段なら日常化している残業をおこなわず、定時の鐘と同時に切り上げた。ベルトコンベアーは、残業前の休憩のため、止まっている。工場につかの間、機械音の途切れた時間が訪れる。俺は、顔見知りの社員、期間工、それに自分と同じような非正規社員の数人に足早に軽くあいさつをしてまわった。二年もいれば、それほど積極的に交流したわけではなくても、それなりに顔見知りにもなっていた。

 やりたいってことってのはなんだ?、最後にあいさつにいくと、班長の中西が訊いた。いや……、いろいろと。あいまいにごまかしながら頭を下げた。工場の誰かに、こんな風にまっすぐに訊かれたのははじめてだった。最後のあいさつに返ってくる言葉など、元気でな。また来いよ。どこかでまた。大抵は、そんな言葉で埋め尽くされる。そして一ヶ月もすれば、辞めていった人間の存在はあいまいになり、三ヶ月もすれば、名前や顔ですらあいまいになる。中西の顔を見た。人生の味を知りたくなったなどと言ったら笑われるだけだろうか。相変わらず、中西は低い背を丸めて、いっそう小さく見えた。

 中西さん、今まで……。さえぎるように手を少し挙げ、中西は話し始めた。そうか、やりたいことがやれるなら、それは幸せなこった。そういって、じっと見つめて、軽く、ほんとうに軽く、歯をみせて笑った。油が染み込んだような両手とは対照的に、きれいな歯をしていた。季節工の軽やかさを思い出した。深く刻まれた手首の皺。油で黒く汚れた手のひら。短く切り揃えられた爪。いつものように、作業着には、あちらこちらに染みがついていたが、今日だけは、それも悪くはないと思った。中西はショートホープをポケットから取り出して、一本薦めた。

 忙しいだけだとな、いや、何ていうか、やらなけりゃならないことだけで、忙しいとな、人間ってやつは、だめになるもんだ。ちょっとずつ腐っていく奴もいるし、錆ついちまう奴もいる。何も考えないようにして、目の前のベルトコンベアーを見続ける奴もな。ラインに立ち続けて、足を棒のようにして、空っぽになっていく。俺も、そんな一人かもしれんな。でも、この仕事が嫌いなわけじゃない。何がどうあれ、誰かにちゃんと必要とされる物を作っている。それで金も貰っている。苦労はかけちゃいるが、妻も子供も養っている。

懸命にやってはいるさ。続けられることをちゃんと続けている。毎日、やらなけりゃならないことが、それがほとんど同じことの繰り返しだとしても、けして自分を卑下しちゃいない。もちろん不幸だとも思っちゃいない。テレビのニュースなんかでしか知らないが、たとえば、金や数字を右から左に移し変えているだけで儲けているとしか思えない奴らがいるだろう。そんなふうにして、儲けている奴らよりは、実は少しはましかなと思っている。まぁ、そいつらには、そいつらの苦労もあるんだろうけどな。隣の芝生はなんとやらというが、俺の芝生も捨てたもんじゃないってな。中西は、凝り固まった首や肩をほぐすように、大きく首を回す。だけど、やっぱり、やらなけりゃならないことってのは、ただ出来ることなんだな。やりたいことってのは、出来る、出来ないとか、それこそ、食える、食えないとか、うまくいくとか、関係ねえことだもんな。

 何も答えられず、頭を少し下げた。

 やりたいことってのは、そんなことを考えなくても、時間も、明日のことも、他人も関係なく、自分の限界さえも忘れてやれることなんだろうと、俺は思う。その後にしか見ることのできない何かってのもあるかもしれないしな……それは、とても幸せなこった。

 ショートホープの味が喉にへばりつくのを感じた。

 二年間、おまえさんを見てきた。仕事の付き合いでしかなかったけどな。最初は、ひどく暗い目をしている奴だと思ったよ。実をいうと、すぐに辞めるだろうとも思っていた。それが二年間だっけ。ご苦労さん。間違いかもしれんが、おまえさんは、いつも大事なものから目をそむけてきたような感じだった。心を動かすことを避けているような。だから、俺はうれしいさ。うれしい、いや、それだけじゃないな。おまえさんが、やりたいことができたから、辞めるって言ってきたとき、柄にもなく、いろいろと考えちまった。まったく、二十以上も年の離れた若造に嫉妬めいたもんを感じちまうなんて、恥ずかしいやら、情けないやらだ。

 中西さんが、こういうこと、話してくれるとは思いもしなかったですよ。

 そりゃお前……。中西の短くなったショートホープの煙が、青い空に広がり雲に吸い込まれていった。変な話、しちまったかな。ま、しちまったものはしょうがない。忘れてくれというのも、それこそ変だしな。いつか、そうだな、酒でも飲もうや。俺の会社携帯の番号は知ってるよな。掛けてこい。用なんてもんは、掛けてから考えればいい。そのときは、おまえさんの話、今度はじっくり聞かせてくれや。じゃあな、おつかれさん。

 中西は、俺の肩を二度、軽く叩いた。軍手をはめる。そして、帽子を取り、年にはまだ早すぎる白髪まじりの頭を掻きながら、ベルトコンベヤーの方へ歩いていく。ベルが鳴る。休憩終了一分前のベル。簡易的な休憩室からも、人がぞろぞろと出てくる。ラインの配置につく。休憩時間の終わり。中西の身体には、それがしっかりと染み付いている。だから、ベルが鳴る直前に話を切り上げた。それは俺にもわかっていた。中西だけでなく、俺にも、それはべったりと染み付いていた。二時間。休憩十五分。二時間。休憩十五分。二時間。休憩十五分。開始のベルが鳴る。ベルトコンベアーが再び、ゆっくりと動き出す。それが、話を切り上げる理由の全てになる。

 帰り支度を済ませ、もうくぐることのない工場の西門を出るとき、ふと後ろを振り返り看板を見上げた。ロータリーの真ん中に位置する高くて大きい看板は〇〇四日に変わっていた。


 辞めてから半月が経った。洗っても洗っても取れない染みのようなもの。そんな何かが、いつかは自分を覆い尽くす時がくるのかもしれない。缶に残ったビールを飲み干した。冷たさの余韻が、まだ左手に微かに残っていた。

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