助走の果てのいつかへ
赤黒96
第1話 声
不思議なぐらい冷静だった。見上げた空に、透き通ったような細い月が見える。その周りを、低く黒ずんだ雲が覆っていた。夜に近い朝。電信柱にとまる数羽の烏が、さっきからこちらをじっと伺っている。獲物を狙うかのような目。そいつは、まだ息をしている。
トドメをさせ。早くさせ。そして、俺たちに渡せ。一羽が激しく翼をばたつかせながら鳴く。夢が現実を侵食していくみたいだ。目覚めの悪い夢をずっと見ているような気になる。煙草をくわえた。ジッポーを開ける音と苦しむ声が重なる。まるで得体の知れない爬虫類が踏み潰されていくような声。それが、頭の奥の感覚を刺激し、痺れさせていく。目に映るものが、次第にあいまいになり、力が抜けていく。時間がじりじりとゆっくりと進む。
湿った風が吹く。短くなった煙草を噛む。足元に力を入れる。靴底の異物の感覚。目一杯の力を込めて蹴り上げた。言葉にならない声。くわえた煙草の灰がひらひらと舞い落ちていく。もう一度、蹴り上げる。声。空がゆっくりと闇から光に変わっていく。唾を吐くように、短くなった煙草を路上に捨てた。
霧のような雨は止んでいた。久しぶりに晴れた一日になるかもしれない。天気予報をわざわざ気にすることもなかった。その日の天気に左右されるような生活を、今までしてこなかったからだろうか。晴れは晴れ。雨は雨。それでも、六月のまとわりつくような雨には、うんざりしていたところだった。陽の光は身体を温めてくれる。今はそれで充分だった。
ゆっくりと視線だけを雨上がりの路上に向ける。横たわる男。その腹にブーツのつま先がめり込んでいる。つま先に鋼のはいったワークブーツ。そのつま先で男の腹を蹴り続けた。堪えているはずだ。濡れて埃の洗い流された路上に、男の吐瀉物が広がっている。男を蹴りつづけてから三本目の煙草を、広がった吐瀉物の上に落とす。ジュッと小さな音がする。蹴るのを止めた。ゆっくりとしゃがみこみ、男の顔を覗き込む。吐瀉物の酸っぱい匂いが、鼻の奥を刺激する。目が合う。怯えた動物の目。あとはただ食われてしまうのを待つだけの目。俺も、あの夜はこんな目をしていたのだろうか。いや、今はもっとひどい目をしているかもしれない。しばらく、男の顔から目を離さなかった。
霧のような雨の中を待っていた。二時間。それぐらいだろうか。脇道の曲がり角。街灯の光が届かない片隅に立っていた。ただ待つ。じっと待ち続ける。ジーンズのポケットに両手を入れ、煙草を吸うこともなかった。吸い口の赤い火の色は、遠くからでもよく目立つ。そんな些細なことが気になっていた。待っている間に、ここを通り過ぎたのは、ふらついた足取りのジャンパー姿の中年の男が一人と、三台の車だけだった。
霧のような雨のせいか、こんな時間に急に仕事で呼び戻された腹いせなのか、幾ら考えても答えを見出せない彼女との、もやもやとした関係を晴らすためなのか、車の一台は、苛立ちをこめたようなヒステリックなクラクションを鳴らして走りすぎた。突然のクラクションに膝が震えた。待つ間は、何も考えないようにした。ただ、決めたことを、忠実に守ることが出来るほど、心も身体も強くはない。そのことを、あの夜にはっきりと知らされた。恐れ、怯え、そして何かしらの不安のようなものが、薄い皮のように全身を覆っている。身体の小刻みな震えは、ゆっくりと降り続く細かな霧のような雨と外気の冷たさのせいだ。そう思い込ませようとした。しかし、それは完璧な半熟のゆで卵を作るのと同じぐらい、難しいことだった。どんどんと膨張していく言い知れぬ不安を抑えるように、固く自分の両肩を両腕で抱きしめる。次第に、爪が食い込み、強く掴んだシャツを裂きさこうとしていた。シャツから右腕を引き離す。腕時計を見る。限界だった。耐えられない。身体ではなく、心が待つことを拒絶しはじめた。もう三十分。今夜が駄目なら、また明日の夜。そう思いながら、道の向こうを見た。
人影。歩いてくる。慌てるな。自分に言い聞かせた。深い呼吸をひとつ。近づいてくる。若い男。一人。街灯の下。はっきりと顔を確認する。奴だ。何も考えていなかった。葛藤する心を置いて、身体が反応する。飛び出していた。大声で叫んだ。それがはっきりと声になったのかはわからない。男のもとへ、真っ直ぐに走った。出来るだけ低い姿勢をとり、ラグビーのタックルのように男の腰下あたりにぶつかり、抱きついた。抵抗は、ほとんどなかった。声らしき声もなかった。男は後ろへ横倒しになりながら倒れこんだ。腐りきった樹を根こそぎ倒したとしたら、たぶんこんな感触なのかもしれない。肘や膝がアスファルトを打つ。痛みを感じない。すぐに立ち上がり、仰向けになった男のでっぷりとした腹を踏み続けた。
声。耳の奥底に響く。その声と靴底の感触が、俺を現実へと引き戻した。
不思議なくらい冷静だった。
「おまえだよな」
苦しく歪んだ男の顔に向かって話し掛ける。
男は、顔をそらす。
そらした顔を、無理やりこちらへ向かせて、もう一度、訊く。
「おまえだよな」
「誰だ。おま……」
男の言葉は続かない。血を含んだ唾を垂らしながら、咳き込む。あの夜の三人。車のライトに一瞬、照らされた男たちの顔が、頭の中心部に今も住みついている。向かって右にいた男。間違いはない。這いつくばったままの俺の腕に、何度も煙草の火を押し付けた。ちょっと死んでみる? 甲高い男の声が蘇る。男は髪を茶色に脱色し、黒のスーツに紺のストライプのネクタイをだらしなく締めている。黒いベルトが男のでっぷりと太った腹を苦しそうに締めつけていた。苦しそうに咳き込み、身をよじっている男の肩を押さえつけた。スーツの内ポケットを探る。二つ折の財布。携帯電話。煙草。使い捨てのライター。ズボンのポケットには、キーホルダー。三つのキーがぶらさがっている。ひとつは部屋、残りは車のキーのようだ。財布から運転免許証を抜き取る。ありきたりな名前。生年月日から男が二十二歳だとわかる。自分より三歳も下だ。思わず笑い出したくなった。男の煙草を一本抜き取り、ライターで火をつける。薄い煙。まるで、味がしない。今の自分と同じだ。味のない人生。そのことについて思いを巡らす。すぐに、ろくでもない気分が押し寄せてきそうで、頭を左右に振った。財布の中身を確認する。1万円札が五枚。そこから一枚抜き取る。返してもらうぜ。つぶやく。それから、男から取り出したものを、足元に放り出す。その音に男の身体が微かに反応する。
「なぁ、よく顔を見てみろよ。思い出せないか?」
男は、こちらを見ようとはしなかった。ただ固く目をつむり、何度も首を横に振る。もう一度、透き通ったような細い月を見上げた。空を覆っていた低く黒ずんだ雲は、どこかへ消え失せていた。
「思い出せないなら、それでもいいさ」
俺も、忘れたい。その言葉を飲み込む。
先週末の夜。この路上で、男を見かけた。少し足を伸ばして、隣町の店に酒を飲みに出かけた帰り道、普段はあまり通らない狭い道だった。男がこちらへ歩いてくるのが見えた。とっさに隠れる場所を探したが、そんな場所などどこにもなかった。うつむいて、アスファルトを見ながら歩いた。人違いかもしれない。そう願った。夜、外を歩くたび、すれ違う若い男たちが、あの夜の三人に見えることが何度もあった。今度も、そうかもしれない。男は、ふらついた足取りで、こちらへ向かってくる。すれ違う。息を止める。膝が震える。男の足取りが乱れ、よろめいて、友也の肩とぶつかった。顔を間近に見た。あの夜の男に間違いはなかった。男は、身体を払いのけるようにして、つんのめるようにして歩いていった。友也は、その場に立ち尽くしていた。すぐにでも走り去りたかった。足が動かなかった。膝の震えも収まらなかった。唾を飲み込む。後ろをそっと振り返り、男が遠ざかるのを見ていた。見ているだけだった。
男の姿が闇に消えた。今更、何をしても仕方がないこと。仕返しという気分にもならない。わかってはいた。それで自分の中の許せない何かが消えるわけでもない。歩き出そうとした。そのとき、心の中で鳥肌のようなものと同時に、何かが弾けた。弾けたものが泡のように消えるのを、ただ黙って待つことは、もう出来なかった。
「終わっちまったことだ」
言葉にしてみる。横たわる男の姿を見つめる。頭の奥の痺れは続いている。うんざりだ。口にはしない。心の中でつぶやく。男の怯えた顔。黒い烏が鳴く。ふいにとてつもない怒りが血とともに全身を駆け巡った。反射的に立ちあがると、男の顔と腹を交互に何度も踏みつけた。声。もうそれは声と呼べるものではなかった。
歩き出した。振り返りはしなかった。奴は若い。しばらくすれば、立つことも、歩くこともできる。顔の腫れはひどくても、たいしたものではない。自分のねぐらに戻るか、病院へ行くか、女のところか、どこへ行くのも奴の自由だ。歩くのに少し不自由はするかもしれないが、ある種の不自由さの中でしか本当の自由など存在しない。そのことに気がつくとしたら、ちょうどいい機会だ。警察。警察へ行くかもしれない。どうでもいい。その考えを頭の隅に追いやった。どうせ奴は俺の顔などろくに見てもいない。好きなところへ行けばいい。それよりも、足が重い。ワークブーツのつま先のせいか、それとも、ひどく蹴ったせいか、わからない。足が重いのではないのかもしれない。心が重い。そんな考えが浮かんだことに、苦笑する。そんな台詞は、似合わない。
朝日が昇ろうとしている。角を曲がったところで、自転車に乗った新聞配達の男に出くわす。朝が動きはじめる。煙草を取り出す。吸い過ぎだ。少し躊躇した後、口にくわえる。火がなかなか点かない。ジッポーを持つ手が震えているのに気がつく。両手でジッポーを持つ。やっと点いた火に煙草の先を向ける。何度も煙を吐き出す。濃い煙を見つめる。自分の人生の味を知りたくなった。自分の人生に味をつけたくなった。どうすればいいかは、よくわからない。苦みだらけの人生かもしれない。想像もつかない。ただ、そのためには、また目覚めの悪い夢を見ることになるかもしれない。声にもならない声を聞くことになるかもしれない。それは、自分自身の声かも知れない。そう考えると、頭の奥の痺れは、いっそうひどいものになった気がした。
部屋に帰ったのは、午前七時を過ぎていた。近くの河川敷をゆっくりと歩き、普段は通らない道をいくつか通り、遠回りをして戻ってきた。そのことに大した意味などないことはわかっていた。ただ、せずにはいられなかった。部屋に入るなりベッドにうつ伏せになって倒れこむ。ひどく身体がだるい。シャワーを浴びる気分にもなれなかった。胃がむかつく。小さな嗚咽を繰り返す。空っぽの腹からは何も出ない。吐瀉物の鼻をつく酸っぱい匂いが蘇る。胃液の混じった唾を飲み込む。仰向けになり天井を見た。白い天井がスクリーンのように見える。そこに映るものは、何もなかった。
あの夜、底知れぬ恐怖の意味を知った。それは、実際の出来事以上に、自分自身が作り出す想像の中にあった。深夜の路上。酔っ払いの嬌声。後ろを歩く人の足音。突発的な大きな音。工事中のアスファルトを砕くドリルの音。車のクラクション。恐怖は、次第に大きくなっていった。しばらくは、夜に外を出歩くこともできなくなった。胸の苦しみが取れない。息苦しさ。肺に空気が入ってこない。深い呼吸をし、その数を数えながら、ベッドに横たわっていた。部屋の灯りを消すことさえためらった。心に棘がささっていた。その棘が音に共鳴し、胸を痛めつけているように感じた。
くだらない例えだ。
昼下がりの明るい部屋の天井を眺めながら、考えることといえば、ありとあらゆる愚にもつかない言い訳しかなかった。なぜ、俺は抗うことが出来なかったのか。なぜ、這いつくばったまま、立ち上がることが出来なかったのか。誰に話すわけでもない、話すことに何の意味もない自分に対する言い訳をいくつも用意した。その数の分だけ安心を装った空しさが増えた。そして夜になると、静寂が心の棘にぶらさがり、痛みがいつものように遊びにやってきた。
まったく、くだらない例えだ。
気づかないうちに、少しまどろんだようだ。はっきりと目を開いたとき、部屋の時計は午前八時半を指していた。ベルトコンベアーが動き出す時間。無意識にそう考えている。そのことに気づいて、一人、苦笑する。ベッドから起き上がり、台所へ行き、冷蔵庫のドアを開けた。目についた缶ビールを手に取った。プルトップを引く。冷えすぎた缶の冷たさが手を支配する。テーブルの上には、二、三日前に買っておいたフランスパンがあった。それをつかみ、かじる。パサパサとした口の中に、ビールを放り込み、そのまま飲み込む。胃の不愉快さは少し和らいでいる。胸の痛みもない。時計を見上げた。さっきから十分も経ってはいなかった。
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