第8話 不条理と復讐

落雷で倒れた大木で負傷し、田島たちと一緒に避難した奇妙な蝶の図柄の壁画が描かれた洞穴の壁の隅に横たわっていた平松が、突然口を開いた。

「トシちゃん。ネッド・ケリーって知ってるかい?」

「えっ?」

田島は平松の唐突な問いかけに少し戸惑った。

「ネッド・ケリーは、1855年にアイルランドから来た流刑者の子孫の夫婦の間に生まれたんだ…」

平松は、19世紀後半に強盗や殺人を犯した罪人でありながら「義賊」として知られ、オーストラリアでは今でも人気があるネッド・ケリーについて話し出した。

(また、長くなりそうだな…)田島は、時々うんちくを傾けながら延々と話すのが癖の平松を見て、心の中でつぶやいた。

「一家は貧しい農家で、父親は馬泥棒などを繰り返し、ケリーが11歳の時に獄中死してしまうんだけど、母親の再婚相手もやっぱり家畜泥棒だったんだ。8人兄弟の長男だったケリーは、何度かまともな職業に就こうとするけど、結局ズルズルと悪い仲間と行動をともにするようになっていくんだ」

焚き火の炎に照らされた洞穴の壁に映った平松の影が、細長くゆらめいた。

「ある時、美貌の妹ケイトにしつこく言い寄ってきたスケベな警官に怒ったケリーが威嚇射撃した弾が、運悪くその警官の手首に当たってしまい、これに激怒した警察はケリーの家を警官隊で包囲、母親を逮捕するんだ。

ケリーは弟のダンとともに間一髪で逃げてブッシュに逃げ込むんだけど、追ってきた警官3人を銃撃戦の末やむなく射殺し、とうとう警官殺しの凶悪犯のレッテルを貼られてしまうんだ」

平松の隣では、大雨で濡れたサファリ・スーツから、ジョーが持参していたLサイズの白いTシャツに着替えたミキが、長い髪でその端正な顔を隠すようにうつむいて話を聞いていた。

「面子を潰された警察は、多額の賞金を懸けてケリーたちの行方を必死になって探し出すんだけど、ケリーはVIC州から隣のNSW州まで逃げきり、今度は金持ちや支配層の象徴とも言える銀行を襲うようになるんだ」

「その銀行から盗んだ金を貧しい人たちに分け与えたんですよね」

田島がミキを横目で見ながら言った。

「そう。金持ちや支配層は、遊んでいてもどんどん豊かになるけど、民衆はいつまで経っても貧乏のまま。事実上金持ちの安全を守るのが任務の警察は、犯罪歴がある一族を常に監視していて、ちょっとした窃盗を起こそうものなら、すぐに刑務所にしょっ引いてしまう。残された家族は一家の大黒柱を失い、結局輪をかけた貧困に陥るという悪循環から抜け出せない…。

神はなぜ俺たちをこんな目に遭わせるんだ? こんな不条理に満たされた世の中はぶっ潰す! とネッド・ケリーはある種の使命感を持って権力に立ち向かおうとしたんだね」

それまで目を閉じて平松の話を聞いていたディレクターの須藤が、切れ長の細い目を開け、平松に鋭い視線を送った。

「その後、貧困層や支配階級の金持ちに不満を持つ民衆から『義賊』として絶大な支持や援助を受けるようになったケリーも、ついに年貢の納め時、警官隊の襲撃を受けた仲間を助けるために自らお縄を頂戴することになる。

その時ケリーは、あの有名な頭からすっぽりかぶる鉄仮面と鎧で全身を覆っていたんだけど、一カ所だけ守られていなかった足を警察に狙い撃ちされたんだ。まさに ”すねに傷を受けて“捕まったんだよね…」

表情は長い髪に隠されてよく見えなかったが、時々おかしな言い回しを加えて話す平松に、ミキが少し口元を緩めたように感じられた。

「逮捕されたケリーは、裁判で自らが犯した殺人はすべて正当防衛だったと主張したけど、当然受け入れられず裁判での判決は死刑。これに抗議する民衆は、8万近くの助命嘆願書への署名を集め、ケリーの絞首刑が執行された日には、監獄の外に5000人以上の民衆が集まったそうだ。その時のケリーの辞世の句…じゃなくて最後に言い遺した言葉は ”人生なんてこんなもの。こうなることは分かっていたよ“だったんだ」

と、そこまで話し続けると平松は黙り込み、傷を負った足がまた痛み出したのか少し顔を歪めた。

田島もこの状況に何と答えていいものか分からず、燃える焚き木が弾ける音だけが洞穴の中に響いた。

「トシちゃん、僕が突然何を言い出したかって不思議に思っているだろう?」

平松の問いはまさに図星だった。

「つまり、ネッド・ケリーの時代も今も基本は何も変わっちゃいないっていうことなんだ。日本もオーストラリアでもそうさ。持つ者は富み、持たざる者は貧困から抜け出せない。マイノリティーはいつまで経ってもマイノリティーのまま、機会平等なんて嘘っぱちさ。最初からハンディキャップを背負わされた者が成功するなんて、ほんのひと握りの話しさ。

神が造った不条理で満ちたこの世界をぶっ壊し、何とか良い世の中にしたいと、これまで多くの同志が戦ってきたけど、結局はケリーの最後の言葉のように”こうなることは分かっていたよ“で終わってしまっているんだ…」

「それは ”復讐“ですか? 平松さん。いやキム・ヨンスさん」

平松を遮るように須藤が太く通る声で放った言葉が、一瞬洞穴の中を駆けめぐるように響き渡った。

平松は驚く素振りもせず、これまで決して目を合わせようとしなかった須藤を真っ直ぐ見つめ、微笑みながらゆっくりうなずいた。

平松の傍らに座るミキは、うつむいたまま微動だにしなかった。 (つづく)

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