第3話 シンクロニシティ
改装を終えたばかりだというホテルの部屋には、韓国製のフラット・スクリーン・テレビが置かれていたが、シックなメイプルウッドのベッドサイド・テーブルの上に置かれた緑色のランプが、歴史あるホテルであることを感じさせた。部屋に戻った田島は、まだ出発まで少し時間があったので、キングサイズ・ベッドに仰向けに寝転び、天井から吊り下げられた大型のファンを見つめながら朝食のビュッフェで偶然会った平松のことを考えた。
「シンクロニシティか」
田島は、平松が以前話したことを思い出した…。
「トシちゃん。スイスの心理学者ユングはねえ、”集合的無意識“という概念を考え出したんだよ」
「あっまた難しい言葉を持ち出してきたなぁ」
田島は数カ月前、シドニーの日本食レストランで平松と久しぶりに食事をともにしていた
「人間の心は、今気付いている意識と普段は忘れている前意識、そして抑圧されている無意識の3層構造になっていると言われるけど、ユングは、因果関係が全くないような複数の現象が共時的に発生して、まるで意味がある偶然の一致が起きるのは、すべての人間が無意識の深い部分で集合的につながっているからだと考えたんだ。
例えば、ある人のことを考えていたら、突然その人からの電話があったり、おじいちゃんからもらった盆栽が突然棚から落ちて割れ、その日におじいちゃんが亡くなったとか、とても偶然とは思えない出来事や出会いの1つや2つ、トシちゃんも経験したことがあるだろう? まるで僕たちみたいにさ」
平松が似合わない八重歯をのぞかせながらニヤッと笑い、カウンター席の横の田島にすり寄ってきた。
「ちょ、ちょっとそんなに顔を近づけなくても聞こえてますよ。ヤスさん!」
カウンターの奥で寿司を握っていた日本人シェフが、のけ反るように身をそらした田島を見てクスッと笑った。
「ユングは、占星術とか超常的な現象を統計学を用いて証明しようとしたんだけど、シンクロニシティ、つまり共時性の事例として挙げたのが、ある患者が黄金に輝くフンコロガシの夢を見た話をしていたら突然コガネムシが窓から部屋に飛び込んできたなんていう、どうしようもない事例だったんだ」
「ハハハそれは本当にどうしようもない」
田島は平松の言いまわしが妙におかしくて笑い転げた。
「そう。同時代の偉大な精神科医のフロイトが、すべては性的動因、つまりセックスで説明できると片付けちゃった理論がもてはやされ、いわばちょっと飛んでるユングの主張は、当時なかなか受け入れられなかったんだ。でも曼荼羅の絵を好んで描いたっていうユングの考え方は、どこか仏教でいう”縁起“に通じるものがあって、僕ら日本人には身近に感じるよね。牧師の息子として生まれたユングは、”信じる信じないにかかわらず神は実在する“と言ってるし、何か西洋思想と東洋思想の根底に流れる普遍的なシンクロ部分に光を当てたっていう感じがするんだ…」
平松は目の前のローカル・ビールを飲み干して言った。
「そういえば君と奥さんの出会いもまさにシンクロニシティだと言えるよなぁ…あっゴメン。最近別居したんだっけ」
「いや、いいんスよ」
平松から言われるまでもなく、田島もオーストラリア人の妻のことを思い浮かべていた。
彼女との出会いは、まさに偶然では片付けられないものがあったのだ…。
〜♪ I just called to say I love you ♪〜
スティービー・ワンダーの曲に設定してあるスマートフォンのアラームが、ベッドサイドの緑色のランプの下で鳴った。
「あっ時間だ。そろそろいかなきゃ」
田島はそうつぶやき、部屋を出た。
◇
ジョーがホテルの外で4 W D に乗って待っていた。約束の時間の10分前だったが、ディレクターの須藤も既に車に乗り込んでいた。
「これからどこに行くんですか?」
「まず、知り合いのアボリジニに話を聞きに行くべ」
おかしな訛りのある日本語でジョーが答えた。
ホテルからユーカリの木が生い茂る国立公園の緑の中を10分ほど走ると、右手に「私有地によりこの先関係者以外立ち入り禁止」と書かれた立て看板が見えてきた。その向こうは舗装されていない砂利道だった。
「さあこれから何が起こるか楽しみだべ」
「JJには予知能力があるんだよ」
ジョーが砂利道を荒っぽいハンドルさばきで進みだすと須藤が唐突に言った。
「ええっ予知能力!?」
田島はホテルの部屋で平松の話を思い出していたばかりなので、驚いて声を上げた。
「トシさんそんなに驚かなくても…いやいや冗談ですよ」
心臓の鼓動が少し早まったのを感じて、田島は胸に手を当てた。
「東北で震災があってから、実は地震を予知していたなんて人が結構現れて、ヒンシュクものだべ。福島でも震災前に結構大きな揺れの地震が続いていたから、ワタスもなんか落ち着かなかったべサ」
ジョーがギア・チェンジをしながら言った。
「日本で明日地震が起きるなんていくら予言したって、ほとんど毎日どっかで地震が起きてるんだから予知能力もへったくれもないよ」
須藤があまり表情を変えず落ち着いた声で言った。
◇
立ち入り禁止の看板から数分ほどで、周りが木々に囲まれた1軒屋の前に着いた。
「さあここだべ」
半分朽ちかけた杭にぶっきらぼうにくくりつけられた郵便受けの前にジョーが4WDを停車させると、痩せた犬が飛び出して来て尻尾を振りながら田島たちに向かって吠え始めた。
「ハーイ、リンジー!」
「ハーイ、JJ」
中年の先住民アボリジニの女性が、丸く大きい瞳の6歳くらいの少年とともに家からゆっくりこちらに歩み寄って来た。
ジョーはその女性と軽くハグし、車から降り立った須藤と田島に紹介した。
「こちらはリンジー。友達のデービッドの奥さんだべ。そして息子のダニエル。それと犬のカーターだ」
「ハーイ」
中年のアボリジニの女性は少しはにかむような笑顔を浮かべ田島たちと握手した。
「デービッドはちょっと出かけていてもうすぐ戻るそうだから、ちょっと家で待たせてもらうべ」
楽しそうに言葉を交わすジョーとリンジーの後について田島と須藤は平屋建ての一軒家の中に入った。息子のダニエルは、足下の木の枝を拾いおもむろに放り投げると、反射的に痩せた犬のカーターが投げられた枝に向かって突進していき、ダニエルもその後を追って走っていった。
真っ青に晴れ上がった東の空には、冬とはいえ強い紫外線を放つオーストラリアの太陽が、背の高い深緑のユーカリの木立の上にしっかり顔を見せていた。 (つづく)
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