3 ここでやめたほうが

 学校に行かないことを兄貴に黙認してもらう代わりに、俺は週に一度、病院へ検査に行くと約束させられた。

 体調を整えることは大切だし、自分が今どんな状態にあるのかを頻繁にチェックできるのは嬉しかったが、ひとみちゃんが同行するという点だけは、正直カンベンしてほしかった。

 

「せっかく俺がいないんだからさ……今のうちに彼氏でも作っちゃうとか、もっと青春を謳歌すればいいのに……」

 善意からのお勧めは、この上なく嫌な顔で却下される。

「そんなこと、海里に言われたくないわよ! だいたい私がついて行かないと、病院だってサボりかねないんだから!」

「さすがにそれはしないよ……それじゃ死ぬのが早くなっちゃうじゃん……」

 

 俺のこの手の軽口を、ひとみちゃんは大嫌いだ。

 それはよくわかっているのに、なぜか俺は彼女相手だと、ついついこんな言い方をしてしまう。

 

 病院からの帰り道。

 タクシーに並んで座りながら、

「またそんなことを言う!」

 とひとみちゃんが怒りだすのを、俺は身構えて待っていた。

 

 だけどひとみちゃんは声を荒げることはなく、それどころか俺のほうを見ようともしない。

 しばらく黙った末に、ポツンと呟いた。

「……もっと生きたいって思うようなことでもあった?」


 俺は驚いて、隣に座るひとみちゃんの顔を見た。

 俺の視線には気がついているはずなのに、彼女は決してこっちを見ようとはしない。

 真っ直ぐ前を向いたまま、さらに呟く。

「……もっと生きて、傍にいたいと思うような人でも見つけた?」

 まるでひとみちゃんらしくない小さな声だった。

 

(どうしてそんなふうに思ったの?)

 なんてうっかり尋ねてしまったら、『女のカン』なんてしおらしい答えまで返ってきそうだ。

 

 当たり前のことなんだが、ひとみちゃんは女の子だったことを、俺は生まれて初めて意識した。

 小さな頃からずっと一緒で、まるで本当の兄妹のようで、誰よりも俺の一番近くにいた従兄妹。

 その彼女が、突然遠い人のように感じる。

 

「別にそんな人いないよ」といつもの調子でとぼけるには、あまりにもタイミングが遅れてしまった。

 自分でも、そう後悔した時、

「そう」

 俺はまだなんにも答えていないのに、ひとみちゃんは俺に背を向けて、窓の外を向いてしまった。

 

 その背中は、

(何が『そう』なんだよ……なんか誤解してんじゃないの?)

 なんてごまかせる雰囲気では、とてもなかった。



「行ってきます」

 成り行き上、真実さんのところに通うのを兄貴に隠す必要はなくなって、俺は本当はひとみちゃんに感謝していた。

 これでもう、朝から制服に着替えて、兄貴が出かけたあとにもう一度着替えてなんて、二度手間はしなくても良くなったわけだ。

 しかも、今さら隠す必要もないわけだから、兄貴より早い時間に家を出ることだってできる。

 

 正直言って、これまで自分にとってはかなり速いペースで、真実さんのアパートまでの距離を歩いていたので、少しでもゆっくり歩けるようになったのは有難かった。

 

「海里が自分の体調を、そんなに気遣うようになるなんて……!」

 もしもの時に備えて、大量の薬を準備する俺を見ながら、兄貴はわざと目頭を押さえてみせる。

「……大袈裟」

 肩をすくめて顔をしかめてみせながらも、自分自身、本当に俺は変わったなと感じていた。

 

 だって調子を悪くするわけにはいかない。

 それじゃあ真実さんに会えなくなってしまう。

 

 それに彼女の前で具合の悪いところを見せるわけにもいかなかった。

 あの優しい人に余計な心配をかけることはできない。

 

 だから俺はいつになく殊勝な態度で、検査や検診にも積極的に通ったし、今までは気にもかけていなかった石井先生からの忠告も、なるべく真面目に守るように気をつけた。

 それでも俺の病気は、そんな小さな努力でなかったことにできるようなものではない。

 真実さんに何も気づかれずに、傍に居続けるということも、思ったほど簡単ではなかった。



 

 真美さんのバイトが休みの日。

 二人でどこかに出かけようと街に出た時、不意に彼女が「髪を切りたい」と言いだした。

 俺は正直、どちらかというとショートカットの女の子のほうが好みだが、真実さんのフワフワと長い髪には愛着を感じてもいた。

 彼女に良く似あっていて、とても綺麗だと思っていた。

 

(どうして切るんだろう?)

 女の人が髪を切る理由なんて、考えてもたどり着くのは、あまり嬉しくない答えだ。

(まさか……失恋?)

 また脳裏に、見たこともない誰かの影が過ぎる。

 

 面白くない想像をふり払って、俺は空を見上げた。

 つられるように、真実さんも上を向く。

 長い髪がフワリと彼女の肩から滑り落ちた。

 

「六月なのにずっと天気がいいね……」

 彼女の視線の先には、本当に、どこまでも雲ひとつ無い青空が広がっていた。

 

「海君が現われてから、毎日がいい天気な気がする」

 ご機嫌で笑う真実さんの言葉には、学術的な根拠など何もない。

 

「なんだよ、それ」

 茶化すように笑いながらも、俺は彼女以上に上機嫌だった。

 真実さんにとっての俺が、他の人よりも特別だと宣言されたみたいで、にやけずにはいられない。

 

「だって本当だもん」

 ちょっと拗ねたように言う真実さんは満面の笑顔で、その彼女に見つめられている自分も、相当な笑顔になっているんだろうなと想像がついた。

 

「本当だよ?」

 だからもう、これ以上抵抗することはやめにした。

 躍りだしたいくらいの喜びを、俺は素直に表現することにした。

 

「うん。わかった。じゃあもう、俺は晴れ男ってことでいいや……」

 真実さんは俺を見上げて、また見惚れるほどに嬉しそうに笑ってくれた。



 

 真美さんが髪を切っている間、俺は暇つぶしのために近くの書店で待っていることにした。

 特に興味もない雑誌の表紙をぼんやりと眺めていると、『DV』という文字が目に飛びこんでくる。

 俺はその、高校生の男子が手を出すのはちょっとまちがいな婦人用の週刊誌を、息を詰めて取り上げた。

 

『ドメスティック・バイオレンス』

 本来は配偶者間の暴力を指す言葉だが、婚姻していない恋人同士の間でも、同じような状況下で暴力が奮われる場合には、同様にそう呼ぶものらしい。

 今までなんとなく見て見ぬフリをしてきた真実さんの体中の傷痕が、脳裏に甦った。

 

(きっと『幸哉』とかいう彼氏から暴力を受けてるんだ…だったら真実さんの今の状況は、きっとこの言葉に当てはまるはず……!)

 本を握る両手に思わず力が入る。

 

 どうにかできるものなら、力になりたかった。

(俺が出ていって話をしたなら、そいつはやめてくれるだろうか……? それとも警察に連絡したなら、どうにかなるんだろうか……?)

 

 いろいろな可能性を模索しながらも、それらは全て無理なことだと、俺は本当はわかっていた。

 周りがどれだけ働きかけても、当の本人である真実さんに拒絶の意志がなかったら、それはどうにもならない。

 

「愛情ゆえに行き過ぎてしまいました。でも私たちは、本当は愛しあっているんです」

 なんて言われてしまったら、もう俺にはどうすることもできない。

 本来彼女の隣にいるべきなのは、俺じゃない。

 どんなに好きだって、大切だって、絶対に俺ではないんだから。

 

 苦しいぐらいの気持ちで、力を入れて握りしめていた週刊誌から、俺はその時何気なく目を上げた。

 いつの間にか真正面に小柄な人影が立っていた。

 

 足元から徐々に視線を上げていった結果、今日真実さんが着ていた青いチェックのワンピースに行き当たって、それが彼女だということを確認する。

 けれど、驚きで脳が一瞬止まってしまうくらい、彼女は長かった髪を見事にバッサリと切っていた。

(何? どうしたの?)

 

 最大級の驚きが頭の中では渦巻いているけれども、そんなことは目じゃない。

 鼓動の早さが俺の心臓の危険領域に入るくらい、俺は別の意味で動揺していた。

(すっげえ! すっげえ可愛いよ、真実さん!)

 短くなった髪は風にサラサラと吹かれて、邪魔にならない程度に彼女の小さな顔に影を落としている。

 大きな瞳が今までよりもさらに大きく見えて、ひどく魅力的だった。

 今まであまりよく見えていなかった首は、こんなに細くて白かったんだと、改めて驚かずにはいられない。

 

 正視するのも照れ臭いくらい綺麗な人が、じっと俺を見つめている。

 俺はどうしたらいいのかわからずに、焦りまくっていた。

「ひょっとして真実さん?」

 そんなふうに、からかい気味にしか声をかけるここともできないくらい、ドキドキしていた。

 

 真実さんはちょっとムッとしたように、俺の顔を上目遣いに見上げる。

「ひょっとしてって、どういう意味?」

 俺の読んでいた雑誌を取り上げて、棚へと戻す彼女の後ろ姿は、今まで見えていなかった華奢な肩のラインまで、やけに鮮明だった。

 

(後ろ姿がまるで別人!)

 そんなことを思ったら、なんだかもう笑うしかなかった。

(高校生にしか見えないよ……なんて言ったらきっと怒るだろうな……)

 わかっていながらも、真実さんの怒った顔も嫌いではない俺は、ついつい余計なことを言わずにはいられない。

 俺って奴は、本当に真実さんの言うとおり、悪戯好きの悪ガキだ。

 

「だって、それじゃあ俺より年下に見えるでしょ……?」

 笑顔で問いかけると、真実さんはついに顔を真っ赤にして叫んだ。

「私だって、ちょっとやりすぎたかなって思ってるもん!」

(駄目だ。もう我慢できない)

 愛しくて嬉しくてたまらない思いを、笑いという行為にすりかえて、俺は大笑いを始めた。

 

 そんな俺にクルリと背を向け、真実さんは歩き出す。

 自動ドアを出て、店の外にツカツカと歩き去ってしまう後ろ姿を見ながら、さすがに俺も、ヤバイと思った。

 けれども、一度始まってしまった笑いは、なかなか止まってはくれない。

 

「待って真実さん」

 笑いながら声をかけてはみるけれども、真実さんは立ち止まるどころか、ふり向いてくれる気配さえない。

 

(しょうがないな)

 急いで店から出て、走って追いかけようとした時に、俺は初めて――とてもそうできそうにはない自分に気がついた。

 

 いつの間にかかなりの速度で脈打ち始めていた心臓が、これ以上は危険だの合図を出している。

 呼吸が止まりそうに苦しくなっていく胸。

 全身から滲み出てくる脂汗。

 俺は急いで胸ポケットの中をまさぐった。

 

 兄貴に渡された携帯電話を取り出し、一瞬迷ったが、それはジーンズのポケットに押しこんで、代わりにいつものピルケースを取り出す。

 小さな命綱を、急いで口の中に放りこんで飲みここみながら、その間にもどんどん遠ざかっていく真実さんの背中に、声をかけようとする。

 けれど、なんと言っていいんだかわからなくなった。

 

『待って。俺は具合が悪いから』

 

 なんて――そんなこと言えるわけがない。

 それよりは、いっそこのまま追いかけないで、俺との関係なんてなしにしてあげたほうが、彼女のためにはよほど親切だ。

 

(どうする……?)

 一瞬。

 ほんの一瞬、躊躇する。

 

 けれど、そうしたらもう二度とあの笑顔を見ることができない。

『海君』と俺を呼ぶ優しい声を聞くことも、もう二度とない。

 

 そう思ったら、

「待ってくれないと、俺は追いかけないよ」

 自分でもビックリするくらいに冷静な声で、俺は彼女に言い放っていた。

 

 すでにかなり離れたところまで進んでいたのに、俺の宣言を聞いた真実さんの両足は、ピタリと動かなくなる。

 華奢な肩が、遠目にもわかるくらいあきらかに、ピクリと震えた。

 

(ずいぶんひどい言い方をする……)

 自分でも呆れてしまう。

 きっと彼女を傷つけた。

(そうじゃなくても傷だらけの真実さんを、これ以上痛めつけてどうするんだ?)

 自分で自分に憤りを感じながら、その実、俺自身も自分の言葉に深く傷ついていた。

 

 真実さんを守りたい。

 救いたいなんて――やっぱり俺が願えるようなことじゃない。

 こんなふうに彼女を追いかけることすらできない男に、いったい何ができるって言うんだろう。

 

 絶望的な気持ちで、硬直したままの真実さんを見つめる俺の瞳の中で、その時ふいに、彼女が動いた。

 短くなった髪をサラサラと揺らして、何度も何度も頭を横に振る。

 

(ひょっとして……待ってくれてる……?)

 ものすごい勢いで涙がこみ上げてきそうになる。

 喉の奥が詰まった。

 

 ゆっくりと俺をふり返った人に、泣き顔なんか見せたくないから、必死に笑う。

 走ることなんてできないから。

 だけどそれでも、真実さんをこのまま見送るなんてもっとできないから。

 俺は立ち尽くす彼女に向かってゆっくりと歩み寄る。

 

 近づくほどにハッキリしてくる彼女の表情に、心からホッとした。

 真実さんは、数秒前の俺と同じように、今にも泣きだしそうな顔をしていた。

 

 嬉しくて、愛しくて、温かい思いがこみ上げてきて――無理やりだった俺の笑顔が、本物の笑顔になる。

 

「ゴメンね、真美さん。でも本当のことだから」

 それでも嘘はつけない。

 俺の未来は変わらない。

 だから――

 

「俺と一緒にいるの、もうやめる?」

 彼女にそっと尋ねた。

 

 俺と一緒にいる以上は、これからも何度も、こんな場面に彼女を巻きこむことになるかもしれない。

 その時傷つくのは、俺自身だけじゃない。

 彼女だって困惑してふり回されて、どうしようもなく傷つくのだ。

 

 ――だったらいっそ、ここで終りにしたほうがよくはないだろうか。

 

 確かにそう思って問いかけたはずなのに、すぐに必死に首を横に振ってくれる真実さんの様子に、ホッとする。

 心から安堵する。

 思わず、「良かった」と声に出た。

 

 聞きたいことはいろいろとあるだろうに、それらは全て自分の胸に秘めて、黙ったまま俺の前に立つ真実さんに感謝する。

 短くなったその髪に、そっと指先で触れてみる。

 

 いつか海で砂をすくった時のように、指先から零れ落ちてゆく心地良い感触。

 今、俺は確かに真実さんに触れているんだと思うと、心が震えた。

 

「本当は良く似あってるよ。あんまり真美さんが可愛いから、照れ隠しで意地悪言ったんだよ。わかってよ」

 自然と本音が出た。

 慌てて笑ってごまかし、俺はクシャクシャと多少乱暴なくらいに真実さんの髪をかき混ぜる。

 その行為で、思わずもれた本音はなかったことにしようとする。

 けれど――

 

「何言ってるのよ。可愛いのは海君のほうでしょ」

 せいいっぱい背伸びして、お返しとばかりに俺の頭を触ってきた真実さんの手に、どうしようもないくらいに胸が苦しくなった。

 

 楽しそうにキラキラと輝きを増す瞳も、一度だけ抱き寄せたことがある華奢な体も、手を伸ばせば届くぐらいに、俺のすぐ近くにある。

 そしてたとえ俺が今この瞬間抱き寄せたとしても、きっと怒らないぐらいに、彼女が俺に心を許してくれていることもわかっている。

 

 でもそれはできない。

 やってはいけないことだ。

 

 だから辛かった。

 彼女に触れたい――なんてことさえ望んではいけない自分の、あまりにも短すぎる運命が辛かった。

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