2 キミの枷

 毎日会っていても、真実さんは特に俺の素性を尋ねたりなんかはしなかった。

 いまだに俺のことを、自分がつけた名前で呼び続けているのがいい例だ。

 

 あまり細かいことを気にしない性質なのか。

 俺に何かわけがあると察して、わざとしらんふりしてくれているのか。

 ――きっとその両方だろう。

 

 けれど、時々なんの前触れもなく、いきなり、

「海君、学校は? 行かなくていいの?」

 なんて問いかけたりもする。

 

「いいんだよ」とすぐに答えようとして、そんなことを言ったら

「自分は学生です。学校サボってあなたに会いに来てます」って自白しているのと変わらないことに、俺はハッと気がつく。

 

 なかなか油断ならない。

 慌てて、今にも口から出そうとしていた言葉を飲みこんだ。

 

 おっとりしているようで、真実さんは案外しっかりしている。

 うかうかしてたらいつの間にか彼女のペースに乗せられて、言うつもりなかったことまで、口を滑らしてしまうかもしれない。

 

 俺は成り行き上、何かを聞かれても黙ったまま、笑ってごまかすことが、妙に上手くなった。

 

 俺が笑うと、彼女はつられたように必ず一緒に笑ってくれるから、その笑顔見たさに、笑う機会もどんどん増えていく。

 もちろんそんなもの何もなくたって、ただ隣に真実さんがいるってだけで、俺の顔はしょっちゅう緩みっぱなしだった。



 

 カンカンカンカンと高い音を響かせて、いつものように鉄製の外階段を下りてくる真実さんを見て、思わずドキリとしたのはその日が初めてだった。

 

 彼女はどうやらあまり朝に強いほうではないらしく、寝ぼけ眼を擦りながら起きてくることはよくあったが、腰まである長い髪を束ねていなかったことはこれまでになかった。

 

 バイト先がファミレスだから、衛生面に気を遣っているのだろうか。

 バイトに行く時は必ず後ろできっちりと髪をまとめているのに、今日はなぜかふわりと自然に垂らしたままだ。

 

「おはよう、海君」

 おっとりと笑って目の前に現われた真実さんの小さな顔を縁取る髪は、まだ微かに水分を含んでいた。

 いつもは緩やかなウエーブが、濡れるとずいぶんときつくなって、髪型だけ見ていたらまるで別人だ。

 

 真実さんが身じろぎするたびに、彼女からフワリと甘い香りがする。

 いつも真実さんから微かに香ってくる優しい香り。

 前に尋ねた時、『それはきっとシャンプーの香りだよ』と笑いながら教えてもらったから、これもきっとそうなのだろう。

 

 俺は深く考えもせずに、笑って彼女に問いかけた。

「おはよう。真実さん、今日は朝からなんだかいい匂いだね」

 

 真実さんはハッとしたように俺の顔を見た。

 それからほんの少しだけ笑って、

「うん、朝からシャワーを浴びたから……」

 と答えるとすぐに俯いてしまった。

 

 またフワリと甘い香りが俺の鼻をくすぐる。

 思わず心臓がドキリと跳ねた。

 

 別に彼女の入浴シーンを、まざまざと頭の中で想像したわけではない。

 ただちょっとひっかかることがあったのだ。

 

 ふとあることに思い当って、頭から冷水を浴びせられたような気持ちになる。

(朝からシャワー……? 真実さんが?)

 

 出会って間もない頃。

 真実さんの長い髪について尋ねた時、彼女は確か笑いながら俺に答えなかっただろうか――

「あんまり長くて乾かすのが大変だから、朝から髪を洗う事はまずないな」

 と――。

 

(そんな彼女が今日はなぜ?)

 

 一瞬、見たこともない誰かの影が頭を過ぎったが、俺は全力でその想像をふり払った。

 

 そう――深い意味などないのかもしれない。

 たまたま早く起きて。

 たまたま時間があって。

 たまたま今日はそんな気分になって。

 ――本当にそれだけのことなのかもしれない。

 

 無性に胸がざわつく自分を安心させようとするかのように、考え出せるだけの理由をあげつらえてみても、まるで落ち着かない。

 下を向いたままの真実さんが、どうにも俺を不安にさせる。

 

(呼びかけてこっちを見てもらおうか。顔を見たら、なんだ全然いつもどおりの真実さんじゃないか……なんて、案外あっけない思いになるかもしれないんだから……)

 

 情けないことを考え続ける俺に向かって、真実さんは顔を上げた。

 にっこりと笑って、右手で軽く俺の背中を叩いた。

「何を想像してんの、エッチ」

 その笑顔は、顔色を失ってしまったかのように蒼白だった。

 

 俺は頭をガーンと一発殴られたような気持ちになった。

 

 真っ赤に充血した瞳で俺を見上げながら、それでも無理に笑おうとしている真実さんの唇は小さく震えている。

 俺の背中を叩いた細い腕に残る、くっきりとした誰かの指の跡を見たら、もう自分の行動が制御できなかった。

 

(いったい何があった!?)

 細い手首をつかんで、彼女を自分のほうに引き寄せる。

「どうしたの?」

 驚いたように俺に問いかけた声は、さっきまでよりはるかにいつもの真実さんらしかった。

 けれど無理に作られたその笑顔は、あまりにも胸に痛い。

 

「真実さん、何かあった?」

 他に言いようはあるだろうに、ぜんぜん頭が回らない。

 

 俺の単刀直入な問いかけに、

「どうして? 何もないよ」

 真実さんは即座に答えた。

 

 その声にはいつもと違う様子はなかった。

 けれど、今日初めて真正面から俺と見つめあった黒目がちの大きな瞳は、どうしようもない悲しみに濡れていた。

 

 見ているだけで、俺の胸まで締めつけられそうなほどに苦しくなる。

 真実さんの痛みが直接俺の中に流れこんでくるようで、たまらなく悲しくなる。

 

 正直、このまま真実さんと見つめあっているのは、俺の精神面からしても、心臓の面からしても、あまり望ましいことではなかった。

 でも今、この視線だけはどうしても逸らしたくない。

 たとえこのあと、この痛みが発作へと繋がるかもしれなくても、絶対に嫌だ。

 

 決意をこめて見つめる俺の目の前で、ポタポタポタと大粒の涙が真実さんの頬を伝って落ちる。

 

 その涙を流させたのは誰だ。

 俺か。

 それとも他の誰かか。

 

 胸を掻きむしりたくなるほどの嫉妬の思いも、今はもうどうでもよかった。

 それよりも俺は、真実さんの涙を止めたかった。

 

 将来偉くなりたいとか、憧れていた職業につきたいとか、そんな自分にはとうてい叶えられない夢なら、とっくの昔に諦めている。

 だから、たった一つだけ――

 

(真実さんの笑顔を守る存在に、俺はなりたい)

 

 そんな小さな願いだけでいいから、神様は叶えてくれないだろうか。

 

 ずっと一緒にいたいなんて、そんな大それた思いははなから持ったりしない。

 だから一つだけ。

 たった一つだけ。

 叶えてもらえないだろうか。

 ――それすら俺には無理なのだろうか。

 

「ゴメン」

 あまりの自分の無力さに打ちひしがれ、情けない本音が、思わず声になって出てしまった。

 

 守ってやりたいのに、肝心な時にそばにいてあげられなくてゴメン。

 苦しんでる真実さんを助けてあげられなくてゴメン。

 それなのにこんなに、好きな気持ちだけ大きくなって――ゴメン。

 

 黙ったまま真実さんは首を横に振った。

 俺の思いを全て受け止めて、それでも許してくれたような、そんな優しい顔だった。

 

 自然と手が伸びる。

 自分にはそんな権利などないと、どこかで鳴り続ける警鐘に耳を塞ぎながら、抑えきれない思いのままに俺は手を伸ばす。

 

「ゴメン」

 大きく息を吐きながら、もう一度そう告げると、俺は真実さんの体を自分の体にぶつけるようにして引き寄せた。もうどうしようもない情熱のままに、細くて折れそうな体を力いっぱい抱きしめた。

 

「海君」

 俺を呼ぶ真実さんの涙声は、きっと抵抗の意味ではないだろう。

 なのに俺は何度も何度も、「ゴメン」という言葉をくり返す。

 

 真実さんを守りたいというのが俺の心からの願いであるなら、彼女を他の誰にも触らせたくないという思いも、俺の本当の願いだ。

 

 誰かにつけられた傷痕なんて、俺が全部隠してしまいたい。

 誰にももう傷つけられたりしないように、俺がこの腕の中でずっと抱きしめていたい。

 だから傍にいたい。

 一緒にいたい。

 

 なのに、どうしてそれを願ってもいいくらいの未来が、俺にはないんだろう。

 どうして何もかもを、最初から諦めなくてはならないんだろう。

 それなのになぜ――俺はこんなにもこの人に惹かれるんだろう。

 

「ゴメン、真実さん。許して」

 腕の中の彼女は、何も言わずただ俺の背中に腕をまわした。

 そして俺に負けないくらいの力と想いをこめて、俺の体を抱きこしめ返した。

 

 伝わってくるのは温かなぬくもりと、優しい気持ち。

 ふっと涙が浮かんできそうな思いで、俺は彼女の甘い香りの髪に頬を寄せる。

 もうその香りに胸は痛まなかった。

 ただ、幸せな温かい気持ちばかりに包まれている自分を感じた。

 

「海君」

 真実さんをしっかりと胸に抱きしめたまま、いったいどれぐらいの時間、俺は泣くのをこらえていたのだろう。

 俺を呼ぶ声に、急速に意識が現実へと引き戻される。

 

 その瞬間、なぜか、これから彼女が言おうとしていることが何なのかを、俺はわかった気がした。

 別れを切り出されると――そう直感した。

 

 だから彼女が再び口を開く前に、即座に「嫌だ」と言い切る。

 不審に思った真実さんが、俺の表情を確認しようと腕の中で身動きを始めるけれども、そうはさせない。

 泣きそうな顔を見られるのも、憮然とした子供っぽい表情を見られるのも、今は絶対に嫌だ。

 

「海君?」

「だから嫌だ」

 また間髪入れずに返事すると、さすがに真実さんもムッとしたらしい。

 

「何が嫌なの?」

 今度は逆に問いかけてきた。

 

 だから俺は自分の直感を信じて、先に自分の気持ちを表明しておく。

「真実さんが言おうとしていることの答え。俺は嫌だから」

 

「海君……」

 息をのむようにして呟いたまま、真実さんは黙りこんでしまった。

 

 本当言うと、初めて会ったあの日から、いつかは切りだされるだろうと予想していた。

 

『もう会うのはやめよう』

 

 それが真実さんの本心からだったとしても、恋人に対する義理だてだとしても、彼女がそう言いだしたなら、俺はさっさと彼女の前からいなくなろうと決めていた。

 それぐらいの常識はちゃんと持ちあわせているつもりだった。

 

 なのになぜだろう。

 いざその時になってみたら、俺の口はまったく正反対の言葉を発している。

 まるで絶対に放さないぞとばかりに、彼女を抱きしめる腕に更に力をこめている。

 

 そんな俺に困ったように、何度も口を開きかけては止め、さんざん悩んだ末、

「でも……」

 真美さんが言いかけた言葉を遮って、

 

「俺は、俺のやりたいようにする。明日も明後日もその次も、真実さんに会いに来る」

 もう一度ハッキリと言い切った。

 

 正直、「よしっ! 言った!」とこぶしをふり上げて、ガッツポーズを作りたいくらいの心境だった。

 けれど抱きしめている真実さんを放したくはないので、それは心の中でだけにとどめておく。

 

 ふいに真実さんの体から力が抜けた。

 俺のせいいっぱいの決意表明に、言葉では何も答えてはくれなかったが、真実さんがその体ごと、俺に預けてくれたような気がした。

 

(ありがとう……真実さん)

 本当に泣きたいくらいの気持ちで抱きしめた彼女は、また優しく俺の背中を抱き返してくれる。

 

 俺は自分勝手に、それを彼女の承諾のしるしだと解釈し、たまらなく嬉しくなった。

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