第四章 今日もキミに逢いに行く

1 兄貴の許可

 それから毎朝、俺は片道一時間の距離を歩いて、真実さんのアパートへと通った。

 彼女がバイトへ行くのを送って、そのままぶらぶらと時間を潰し、夕方、もう一度バイト先のファミレスまで迎えに行く。

 そして一緒にアパートへ帰る。

 

 初めて会ったあの夜のように、ガードレールに腰掛けて、しばらく他愛もない話をして、

「じゃあ、また明日」

 と約束して帰る。

 毎日がそのくり返し。

 

 俺より早く家を出て、俺より遅く帰ってくる兄貴には、バレようもなかったし、小さな約束を真実さんと交わすことは、俺の精神面にもすこぶるプラスに働いたようで、問題になるような発作も起きなかった。

 

 日々は単調に、いたって平和に過ぎていった。

 ――ただ一点だけを除いては。



 

 俺が真実さんのところに通うようになって、ちょうど一週間が経った日。

 その唯一と言ってもいい難点が、朝の七時きっかりに俺の家のチャイムを鳴らした。

 

 今にも大学に出かけようとしていた兄貴が、

「誰だろう?」

 と玄関のドアを開けに行った時、俺は食べかけのトーストを片手にひしひしと嫌な予感を感じていた。

 そしてその予感がやはり外れていなかったことを、兄貴に伴われてひとみちゃんがリビングに入ってきた時に、確信した。

 

(……とうとう来たか)

 覚悟はしていたし、もうそろそろだとも思っていた。

 

 ひとみちゃんはあの真っ直ぐな、人の心を射抜くような瞳で、

「海里……陸兄も……話があるの!」

 怒ったようにじいっと俺の顔を睨んでいる。

 俺は観念することにした。

 

(こうなったら本当のことを話すしかないな……でも……それで二人にわかってもらえるのかな……?)

 

 頭から湯気が出そうなくらい、見るからに怒っているひとみちゃんと、わけもわからず俺とひとみちゃんの顔を見比べている兄貴。

 二人の様子を見ている限り、説明と説得はひどく困難なことのように思われた。

 

「グダグダと前置きしてもしょうがないから、率直に聞くわよ。ねえ海里、あなた毎日学校サボってどこで何をしてるわけ?」

 本当に前置きなんてない、単刀直入なひとみちゃんの問いかけに、テーブルを挟んで俺の向かい側のソファーに座っていた兄貴は、飲みかけのコーヒーをブッと吹きだした。

 

「サ、サボるって……ゴホゴホッ……海里、お前……?」

 ここはもう腹をくくるしかないと、俺は神妙に頷く。

 

「うん……」

 ひとみちゃんは兄貴の隣に腰を下ろし、俺に猛抗議した。

 

「いいかげん本当のことを教えてくれないと困る! 毎日ごまかすのも大変だし、先生にも『一生はまた入院したのか?』って思われるじゃない! なんて答えればいいの?」

 

 ご意見ごもっともと、俺はもう一度頭を下げた。

「はい……」

 

「それに……もし誰もいないところで何かあったらどうするの? ……もしそんなことになったら、陸兄だって、叔父さんだって、うちのお母さんだって、どんなに心配すると思ってんのよ!」

 

 言い返す言葉なんて何もなかった。

 俺の体調を気遣って、これまでずっと行動を共にしてくれたいたひとみちゃんだからこそ、ここ最近の俺の行動には納得がいかないだろう。

 それ自体は本当に申し訳ないと思っている。

 だけど――。

 

「ごめん。どこで何をしてるのか……それは言えない」

 深く頭を下げて、膝の上でギュッと握りしめた自分の拳を睨み続けることしか、俺にできることはなかった。

 

 悪いことをしているという自覚はある。

 自分が今まで周りの人たちにかけてきた迷惑とか、いつ深刻な発作が起きるかわからない今の俺の健康状態考えれば、俺が今やっていることは自分勝手以外のなんでもない。

 

 そんなわがままは、誰より俺自身が、一番嫌っていたことだった。

 聞きわけのない子供のように、駄々をこねるなんて絶対にかっこ悪いことだと思っていた。

 

 でも譲れない。

 ひとみちゃんの心配も、兄貴の驚きも本当に申し訳ないけれど――それでもこれだけは譲れない。

 

 こんなにも強い気持ちが自分の中にあるなんて、真実さんと出会うまで、俺は知らなかった。

 本当に、彼女と出会ってからというもの、今までこうだと思っていた自分は、どんどん崩れていくばかりだ。

 思いもかけない一面に、驚かされてばかり。

 でも情けない自分も、かっこ悪い自分も、今はけっこう嫌いではない。

 

「海里」

 向かいに座っていた兄貴が席を移ってきて、俺の隣に腰をおろす。

 兄貴の体重の分だけソファーがドサッと沈みこみ、つられて俺の体もぐらりと揺れた。

 

 昔は一回りも大きさが違ったはずなのに、今では変わらないくらいになってしまった俺の拳を、兄貴のてのひらがそっと包みこむ。

 今までだったら恥ずかしくてたまらなかったはずのその手を、俺は別にふり解きたいとは思わなかった。

 

「それは……お前にとって、学校に行くより大事なことなのか?」

 てっきりこんこんと説教されるとばかり思っていたのに、逆に質問を投げかけられて驚いた。

 

 そっと、兄貴の顔をのぞきこんでみる。

 どんな時だって常に笑顔を絶やさない、根っからの善人顔からは、なんの感情も読み取れない。

 でも俺を見つめる兄貴の目が、いつも以上に、どこまでも深い愛情に満ちていることだけはわかった。

 

(ひょっとして……許してくれるの?)

 少しの期待をこめて、「うん」と言い切る。

 もちろんせいいっぱい真剣な表情をしておくことも忘れない。

 

 その瞬間、「陸兄!」と抗議の声を上げて、ひとみちゃんが向かいの席から立ち上がった。

 

 だが兄貴はそれを、片手でスッと制してしまう。

「いいじゃないか。海里にとってそれが大事だっていうんなら、学校よりそっちを優先させても……ね……?」

 有無を言わせぬ迫力の笑顔で、ひとみちゃんを黙らせてしまった。

 

(すごい! ……俺には絶対真似できない!)

 俺は心から感嘆して、兄貴に尊敬の眼差しを向けた。

 

 もしこれが俺だったら、自分の意志をしどろもどろで主張して、かえってひとみちゃんの怒りの炎に油を注ぐくらいが関の山だ。

 けれどさすがは年の功。

 兄貴の笑顔にはさすがのひとみちゃんでも文句が言えないらしい。

 

「陸兄は海里に甘い! 甘すぎる!」

 憤懣やるかたないひとみちゃんの非難も、駄々をこねる子供をあやすかのように、

「そうかな? そんなことないと思うけどなあ……」

 と、笑顔で軽くかわしてしまう。

 

 けれどその一見いつもと同じ笑顔に、俺はどことなくいつもとはちょっと違う違和感を覚えていた。

 

 兄貴は確かに俺に甘い。

 それは本来の優しい性格と、弟は病気なんだからという気遣いからきているんだろう。

 だが甘いながらに、これまでは「今日は何をした? 誰とどんなことを話した?」と煩わしいくらいに俺のことを知りたがった。

 それを少し負担に感じていたことは事実だ。

 小さな子供の頃ならともかく、中学生ぐらいになってからは、申し訳ないが鬱陶しく思っていた時期もある。

 

 たった二人きりの兄弟。

 それも体の悪い弟。

 母親はすでに他界し、父親はほとんど家にいないとなれば、五つ年上な兄貴は、「自分がしっかりしなければ!」とどんなに気を張っていたのか。

 ――今ならわかるのだが。

 

(その兄貴が……何も訊かずに許すだって?)

 

 おそらく根掘り葉掘りと聞かれるだろうから、いざとなったらどうやってだんまりを決めこもうかなんて、さんざん策を練っていた俺の苦労は無駄に終わった。

 だけど今まで経験したことのないまったくの自由が、かえって俺の気持ちを動揺させた。

 

「いいよ。どこでも行きたいところに行け。父さんには兄ちゃんがなんとでもごまかしてやるよ」

 面白い悪戯を考えついた時のように、茶目っ気たっぷりに笑いながら、兄貴がこっちを向いた瞬間、俺は悟った。

 俺の顔を見た兄貴と目と目が合った瞬間、全ての理由を理解した。

(そうか……知ってるんだ)

 

 兄貴はきっと知っている。

 ――俺の命がもう長くはないということを。

 

 父さんから直接聞いたのか。

 それとも俺みたいに偶然知ってしまったのか。

 それはわからないが、一見いつもどおりに見える兄貴の笑顔は、俺から見れば全然いつもどおりではなかった。

 優しい眼差しの奥で、何かが揺れている。

 哀しくて辛くて。

 でもそれを俺には絶対に悟られまいとしている強い決心がわかる。

 

 そこには申し訳ないぐらいに、嬉しくて泣き出してしまいそうなくらいに、俺に対する愛情が溢れていた。

(兄貴!)

 

 その場にひとみちゃんがいなかったら、飛びついて泣き出してしまっていたかもしれなかった。

 必死に平静を装とうとしている兄貴の努力を無駄にして、行き場のない自分の感情をぶつけてしまっていたかもしれなかった。

 

 けれど、ひとみちゃんはまだ何も知らない。

「まったく……こんなことなら陸兄がいる時に来るんじゃなかった!」

 なんてブツブツ言いながら、まだプリプリと俺に怒っているひとみちゃんは、まだ本当に何も知らないのだ。

 

 俺は奥歯をギュッと噛みしめて、浮かんでくる涙をこらえ、兄貴の優しい心遣いも、自分のこれからの日々も、だだいなしにしないように努力した。

 

「でも、もしもの時に困るから、これからはこれを持ってろ」

 立ち上がった兄貴は、まるでずっと前からそこに用意してあったかのように、サイドボードの引き出しから携帯電話を取り出す。

 

「俺とひとみの番号は登録してあるから、何かあったらかけてこい。ちょっとでも具合が悪くなったら、絶対に連絡するんだぞ?」

 

 そういって俺の手に押しつけられた小さな携帯電話を、俺は力いっぱい握りしめた。

「…………ありがとう」

 

 兄貴に対して素直にお礼を口にしたのなんて、何年ぶりなのかもわからない。

 でも今は憎まれ口よりも、斜に構えた態度よりも、ただその言葉しか思い浮かばなかった。

 にじみ出てこようとする涙を隠すためにも、頭を下げ続けるしかなかった。

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