4 肩書きじゃなく気持ちを

「今日は動物園に行きたい」

 真実さんはなぜだか胸を反らして、威張るようなポーズでわがままを言う。

 そんな姿でさえも、かわいくってたまらない。

 

「はい、かしこまりました」

 丁寧にうけたまわって、大袈裟に頭を下げてみせると、彼女はもっと嬉しそうに笑う。

 こんなに喜んでもらえるんなら、俺はどんなにおどけてみせたってかまわないと思った。

 

 折り曲げていた上半身を起こしたついでに見上げた空は、すっかり太陽が高い。

 これからどんどん、気温も上がるだろう。

 真実さんがせっかく早起きして作ってくれたお弁当が痛まないうちに、目的地に着かなければと、俺は彼女の手からお弁当の入ったバッグを取り上げる。

 

「急ごっか?」

 歩き出しながら誘うと、こくこくと頷きながら俺のあとをついてきてくれる。

 そのちょこちょことしたかわいらしい小走りに、昔飼っていた子犬のことを、また思い出したのはないしょだ。

 

 つかず離れずの微妙な距離を保ったまま、俺たちは動物園へと急いだ。

 この街で動物園と言えば、あまり珍しくもない動物がほどほどに集められた、中規模程度のものしかなかった。

 特に目玉の動物がいるわけでもない。

 だけど子供のお小遣い程度でも行ける良心的な値段設定のおかげで、お金のかからないデートコースとして、中学生の間では定番になっているらしい。

 もちろん学校や幼稚園の遠足、ファミリーの行楽地としても定番で、規模のわりにはなかなかお客の数も多いらしい。

 

 らしい――というのは、俺自身はこれまでに一度も、この動物園に来たことがなかったからだ。

 どこでどんな病気に感染するかわからないから、人ごみはなるだけ避けるようにと、小さな頃から注意されている。

 同じ理由で、動物に近づくことも、あまり良しとはされていない。

 

 まだ半分ぐらいは学校に行けていた小学生の頃でも、動物園への遠足の参加は、一度もOKが出たことがなかった。

 遠足のあとの図工の時間というのが、必ず遠足の思い出を絵に描くというもので、担任する先生によっては、俺を腫れものに触るかのように扱った。

「海里君は遠足に行けなかったから……特別に……」と動物図鑑を貸してくれた先生もいる。

 

 絵はもともと得意だから、図鑑に載っている動物の姿を模写して、描くことは難しくなかった。

 クラスメートたちからも、「すっごくうまーい」とほめられた。

 でも、内心は寂しかった。

「いつか行こうね」と言ってくれていた母さんが亡くなってから、尚更、動物園は俺にとって遠くなったから。『ピクニック』同様、家族の間では話題にものぼらなくなったから。

 

 だから今日が、俺にとっては初めての動物園。

 たとえ子どものようにおおはしゃぎしても、そこはどうか大目に見てほしい。

 きっと真実さんだったら笑って許してくれる。

 そんなふうに思える人と一緒に、人生初の動物園に行けるってことが、実は心底嬉しかった。

 

「真実さん、あれ見てよ。ほらほら」

 木々の間を素早く移動するサルたちを、必死で指差す俺にも、真実さんは嫌な顔をしたりなどしない。

 だからといって、ベンチに座ってニコニコしているだけで、俺と一緒に動物の姿を追って、動きまわったりはしてくれない。

 

 無理もない。

 普通の生活をしていたら、真実さんぐらいの年齢になれば、もう動物園など目新しくもなんともないはずだ。

 その証拠に――

「まるで、初めて動物園に来た子供みたいだよ。海君」

 と冗談めかして笑われる。

 

「うん。俺、初めてなんだよ」

 何も考えずにそう答えてしまってから、俺は「しまった」と思った。

 案の定、真実さんはひどく驚いた顔で俺を見ている。

「えっ? 本当に?」

 

 今さらごまかすのも変だと思って、俺は素直に、「本当」と答えた。

 真実さんはすぐに、小さく首を傾げて何事かを思案し始める。

(なんで初めてなんだろう?)なんて、きっと必死に考えてくれているんだろう。

 

 真実さんはいつだって俺の言葉の一つ一つを真剣に捉えてくれる。

 言葉の裏に巧妙に隠された俺の真意を、汲み取ろうとしてくれる。

 しかし今回ばかりは、いくら考えてもちょうどいい答えなど出てこないはずだ。

(何か言い訳したほうがいいのかな……? でもなんて言う……?)

 

 困りきった俺を救ってくれたのは、その時、真実さんに向かって背後からかけられた明るい声だった。

「ひょっとして真実?」

 

 弾かれるようにふり返る真実さん。

 その顔がみるみる嬉しそうに紅潮した。

 

 黄色い帽子を被ったチビッコたちでやけに入り口が賑やかだと、俺は動物園に入り際、ひそかに思っていた。

 どうやらその集団は、真実さんの通う大学付属の幼稚園の園児たちだったらしい。

 子供たちに囲まれた茶色いお下げ髪の美人の先生は、なんと真実さんの同級生だった。

 

「愛梨。ひょっとして教育実習? 誰だかわかんないよ、それ」

 笑う真実さんに、彼女のほうも、

「真実こそ。どこの高校生カップルかと思ったわよ。彼氏?」

 と笑ってみせる。

 

 チラリと一瞬俺に向けられた視線に、ドキリとした。

 

(か、彼氏って……だって真実さんには……)

 この場で思い出さなくてもいいようなことまで思い出して、更にズキリと胸が痛くなる。

 

 そんな俺に、真実さんが容赦なくとどめを刺した。

「ち、違うわよ。そんなんじゃないわよ」

 大袈裟なくらいに手を振る姿に、冗談じゃなく本当に打ちのめされたような気がした。

 

(あーぁ……そんなに必死に否定しなくたって、俺だって違うってことぐらいわかってるよ……)

 

 真実さんと出会ってからの日々、浮かれっぱなしだった俺に、まるで誰かが、忘れてはならない現実を突きつけたかのようだった。

 

 真実さんが言うように、俺は彼女の『彼氏』なんかじゃない。

 そう呼ばれる人間は、ちゃんと別に存在するんだから――。

 

 でも――だったら俺は彼女のなんなんだろう。

 友達?

 知りあい?

 赤の他人?

 

 ほんのついさっきまですぐ近くに感じていた真実さんが、いっきに遠くなる。

 

(じゃあ、学校サボってこんなところまで来て……俺は何をやってるんだ……?)

 

 胸が痛かった。

 どうしようもなく痛かった。

 

「そっちの彼」

 真実さんの友達――きっと名前は愛梨さん――にふいに呼びかけられるまで、俺は考えたってどうしようもないようなことを、一人でぐるぐると考え続けていた。

 その間、真実さんとその愛梨さんが、どんな会話を交わしていたのか、まったく耳に入っていなかったほどだ。

 

 それなのに、はつらつとした美人の愛梨さんは、真実さんに教えられた名前で、俺を迷うことなく呼ぶ。

「海君、真実をヨロシクね」

 

 声の明るさとは裏腹に、射るほどの真剣な眼差しに、胸をうたれた。

 

 きっと真実さんの今の状況だとか、恋人とのことだとか、この人はみんなわかってて、俺と同じように、できるものならどうにかしたいと考えている。

 それぐらい、きっと真実さんを大切に思っている友だちが、俺に真実さんを任せると宣言してくれている。

 

 ――いろんな迷いが、いっきに吹っ飛んだ。

 

 たおたと彼女の言葉に焦っている様子の真実さんが、もう一度、「そんなこと海君には関係ないんだから……」なんて俺にとって致命傷とも言える言葉を言い出す前に、

 

「はい」

 ときっぱり、愛梨さんに向かって言い切っておく。

 

 ピタリと動きの止まった真実さんがどんなふうに思ったのか。

 どんな顔をしているのかは、うしろに立っている俺からはわからない。

 

 けれど、こっちを向いている愛梨さんが、真実さんを見つめてそれはそれは嬉しそうに笑ったから、きっと俺の返事はまちがいではなかったんだろう。

 

 なかったはずだと、俺は自分に必死に言い聞かせていた。

 

 愛梨さんと子供たちが行ってしまってからも、真実さんはなかなかベンチから立ち上がろうとはしなかった。

 俺のほうをふり返ろうともしない。

 

(まさか……迷惑だったのかな……?)

 絶対にそんなはずはないと思いたくても、自然と俺の心にも不安が忍びこんでくる。

 

 出会ったあの夜から、ただ真実さんの傍にいたくて、少しでも一緒にいたくて、俺はいろんなことを無視して、自分の心に従って行動してきた。

 

 これまでの俺の常識とか、思いこみ。

 諦めの気持ち。

 無視したものの中に、まさか真実さんの意志が含まれてはいなかっただろうか――。

 

 そう考えるといたたまれない気持ちになった。

 

(ひょっとして……真実さんは優しいから、俺の勝手な片思いにつきあってくれているだけ……なんてことはないよな……?)

 

 一度考えだすと、何もかもがわからなくなった。

 俺に会いたいといってくれた言葉も。

 俺を抱き返してくれた腕も。

 向けられる笑顔さえも。

 

 まるで足元をすくわれたかのように、これまで俺を支えてくれていたはずのものが、ガラガラと音をたてて崩れていく。

 どうにもじっとしていられなくて、俺の体は逃げの行動に出た。

 

「そろそろ、移動しようっと」

 独り言のように言って、真実さんの隣にあったお弁当のバッグを取り上げる。

 真実さんが何か言い始める前に、さっさと歩き出す。

 

 恐かった。

 まったく信がなくなるということが、こんなに恐いことだとは思わなかった。

 

(なんだかんだいって、いつもが自信過剰過ぎるんだよ……俺は……!)

 ほうっと大きなため息が出る。

 

(思いこみが激しいっていうか……文字どおり世間知らずっていうか……一人よがり……? 自分勝手……?)

 普段が変に前向きなわりには、自分の悪いところはこんなにポンポンと出てくる。

 

(真実さんにもきっと……嫌な思いさせてたんだろうな……)

 そんなことを思っている最中も、まさに俺の良くないところが発揮されているとは、まったく自覚がなかった。

 

「海君」

 俺を呼ぶ真実さんの声が、あまり耳に入っていない。

 何かを言ってるみたいだが、よく聞きもしないで、俺は「何?」とか「別に」とか口先だけの返事をくり返している。

 だけど――。

 

「そんなに急いだら、私、ついて行けない」

 涙まじりの叫びだけは、さすがに胸に響いた。

 驚いて――ひどく驚いてようやく俺は足を止めた。

 

 自己嫌悪をくり返しながら、どうやら俺の足はどんどん先に進んでいたのらしい。

 隣にいたはずの真実さんを、いつの間にかすっかり置き去りにしてしまっていた。

 

(なにやってんだ俺は……!)

 腹が立つ。

 何よりも腹が立つ。

 

 真実さんの笑った顔が好きで、それを曇らせる奴が許せなくて、さんざん正義感ぶってたはずなのに、俺のやってることと言えば、まるでそいつと変わらない。

 

(俺が泣かせてどうするんだよ!)

 握りしめたこぶしを、ぶつけるような場所はないものかと考えながら、ハッと我に返る。

 

(そうじゃないだろ……そうじゃなくて……!)

 考える前に、体が勝手に動きだす。

 とにかく真実さんに関しては、最初に出会ったあの夜から、俺の体は本人も想像がつかないほど、予想外の動きばかりする。

 

「しょうがないな、はい」

 俺はいつの間にか、ふり向きざま真実さんに向かって左手を差し出していた。

 真実さんは、今にも涙が零れ落ちそうに潤んだ目をいっぱいに見開いて、俺の手を凝視している。

 

(おいおい。本当に子犬じゃないんだからさ……!)

 冷や汗の出そうな思いとは裏腹に、口のほうまで俺の意志は関係なく、勝手に動き出す。

 

「早く繋いで下さーい」

 ブッと吹き出さずに、瞬間的に笑いをかみ殺せたのは、我ながら上出来だったと思う。

 

 でもこの瞬間に、俺の中で何かが切れてしまった。

 とまどうように俺の顔とさし出された手を見比べている真実さんの手を、何がなんでも掴みたいと思ってしまった。

 

「あと十秒で締め切りまーす」

「やだっ、待って!」

 慌てて走り出した真実さんを見てたら、もういろんなことがどうでもよくなった。

 

(だめだ、やっぱり好きだ。結局、うだうだと考えたって、俺は真実さんが好きなんだ。ただそれだけなんだ……!)

 俺の手に触れてきた真実さんの手を、放すもんかと掴んだ。

 誰にも譲れない、譲りたくない気持ちで、せいいっぱいの気持ちで握りしめた。

 

 ずっと手を繋いでいた。

 歩く時も。

 立ち止まって動物を見る時も。

 

 小さな手がすっぽりと自分のてのひらの中に収まっている感触が、こんなに嬉しいことだなんて、今まで知らなかった。

 

 だけど嬉しさと同時に寂しさが押し寄せてくる。

 こうしていられるのはあとどれだけだろう。

 

 今まで当たり前のこととして受け止めてきたはずの、自分の命のタイムリミットが、辛くてたまらなかった。

 俺がいなくなったあとは誰と、真実さんはこんなふうに手を繋ぐんだろうかと思うと、泣きたくなる。

 

(せめて好きだって言える立場に生まれたかった……)

 ズルイ俺は、ズルイ行動に出た。

 

 自分が伝えられないのならば、せめてその言葉を彼女から聞きたいと思った。

 手始めに、彼女がとても答えられないような質問をぶつける。

 

「俺は真実さんの何?」

 思ったとおり、息をのんで俺の顔を見つめる真実さんは何も答えられない。

 

(当たり前だ……『恋人』は別にいるんだから……)

 そのことにもう必要以上に胸は痛まない。

 何度も自虐的に考えて、少しは慣れたということだろうか。

 

 次の質問は、もう少し真実さんの答えやすいものにすり替える。

 これまでずっと逸らしていた視線を、急に真っ直ぐに彼女に向けるのも忘れない。

 

「ゴメン。それじゃ、質問を変える。真実さんは俺をどう思ってるの?」

 真実さんが息をのむ音が聞こえた。

 

 今、目を放したらいけない。

 逃げ場を作ってあげてはいけない。

 どこにも逃げられないように、追いこんで追いこんで、あとをなくして。 

 

 ――だからどうか、同情なんかじゃないキミの本当の気持ちを聞かせて。

 

 俺の祈りは、彼女へと届いた。

「好きだよ。大好き」

 

 眉根をギュッと寄せて、まるで甘い雰囲気などなく、罪でも犯したかのように、真実さんは苦しげに俺に告げた。

 

 どうしようもない想いに抗うことができず、俺も自分で自分に許した最大限の言葉を口にした。

「俺もだよ」

 

 真実さんの瞳からは、こらえきれなくなった大粒の涙が零れ落ちる。

 

 その涙が嬉し涙であることだけを、卑怯な俺は全身全霊で祈った。

 

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