第36話 塾の経営を始めて3


 塾の移転は全て一人でやった。机や棚やロッカー、カウンターなどは全部自分で買ってきて、自分ひとりの力だけで運んだ。人件費や配送費をかけないためだ。今思えば、(よくあんなに重たいものを一人で運んだな。・・・)と思うが、あの時は必死だった。多分火事場の馬鹿力が出ていたのかもしれない。私はそれほど切羽詰っていた。


全て、運び終えると、次は塾の名前をどうしようか思い悩んだ。カッコイイ横文字・・・とも思ったのだが、石原急送の時と同じように、ここはシンプルに付けた方が親しみやすいのではないかと考え、自分の名前を塾名にしようと考えた。ただ、新しく始める訳で、宣伝方法として考えられる一つのツールにタウンページというものがあるのだが、それを利用しない手はないと考え、宮前区の塾の項目を見たとき、私は閃いた。50音順に並んでいるそれは、『アイ』から始まる名前をつければ、確実に1番先頭に載っかるようになるものだった。私は自分のイニシャルを塾名に付けることにした。但し『SI』ではなく『IS』とー。こうして塾名を『IS進学教室』とした私は、看板の発注をした。それと同時に、入口のドアが汚らしかったので、大家さんの許可をもらい、アルミサッシに入れ替えた。

こうして色々あったが、塾の体を成していった私は、4月から通ってもらえるよう、お願いした。全員が新学年に進級するのと同時に再び、うちの塾に通ってくれた。

余談だが、その中の生徒の1人(当時中1)が、授業中突然、私のことを『伝次郎』と呼び出し、それは瞬く間に全学年に知れ渡り、ほとんどの生徒が私のことを伝次郎と呼ぶようになっていた。私は突然私のことを伝次郎と呼んだその子になんでそう呼んだのか理由を聞いてみたが、「なんとなく。」というだけで、明確な答えは無かった。しかしこの事はすごくありがたいことだった。伝次郎というだけで、物珍しいのか、それを見たさに、体験授業を受けに来てくれる子が増え、またそのまま入塾してくれる子も増えだしたのである。(このあと、私は何年にも渡り伝次郎と呼ばれ続けた・・・笑)

私を最初にこう呼んでくれたM君には今でも感謝している。


こうして私は少しずつではあるが、生徒を増やすことができた。しかしそれでも、家賃や水道光熱費、先生方の講師料を生徒の月謝からだけでは、賄いきれなかった。だから私は『すき家 宮前平店』でオープニングスタッフとしてアルバイトを始めた。朝は8時から午後3時まですき家でアルバイトをし、午後5時頃から塾で授業をするといった生活を1年半位続けていた。更に毎日塾で授業が出来るほど生徒がいなかったので、塾がない日は家庭教師のアルバイトもした。

こうして、なんとか軌道に乗るまではと必死にもがきながら、私は塾を続けた。


それから生徒も少しずつ増え、それに伴い、収入も安定するようになった。(石原急送の時の3分の1にも満たないが・・・笑)


そして、来年、塾を始めて20周年を迎える。この20周年という記念すべき年に、ふと自分の人生を振り返り、こういった手記を書く事で、もう一度新鮮な気持ちに立ち戻り、これからの人生をどう生きていくべきか考えたいと思った。


今の私の目標は、父親の亡くなった年齢『五十五歳』を超えることである。人は自分の寿命を知ることはできない。だからこそ、その時々を真剣に生き、一生懸命挑戦することで、成長していくものだと切に実感している。

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