第15話 中学校時代③ー1(中3の時の1コマ)


私は中学3年生になった。それと同時に新校舎も完成し、私たちは新校舎第1号として新しい校舎に足を踏み入れた。

クラス発表の日。前の年と違ってドキドキ感は何もなかった。特にこいつと一緒になりたいという気持ちも無く、クラスなんて別にどうでもいいやくらいに思っていた。

私は3年1組になった。担任の先生は一之宮(いちのみや)先生だった。私にとってこの先生は生涯忘れる事の出来ない先生になるのだが、それはまたあとで話したいと思う。

教室に行くと辺りを眺めた。東はいない。シェーンもいない。そして何より根岸めぐみもいなかった。私はそのことが一番ホッとした。

しばらくして担任の一之宮先生がやってきた。今までの先生と少し雰囲気が違っていた。何かこう・・・親しみやすいんだが頼りがいのある感じで私にとっては初めての感覚だった。先生にこんな感情を抱くとは思いもよらなかった。


中3の学校生活は今までの学校生活とは違い、穏やかであっという間に過ぎていく感じだった。その中でも印象深い出来事はいくつかあった。


一つ目は合唱コンクールだ。ピアノの伴奏を決めるとき、通常はピアノを習っている人が率先して立候補するはずなのだが、なぜか私のクラスは立候補者がいなかった。自由曲と課題曲の伴奏者二人を選出しなければならないのに、自由曲の方はすぐに決まったものの、課題曲の方の伴奏走者がいつまでも決まらなかった。突然男子の誰かが発言した。

「石原がいいんじゃない?」

私はビックリした。

「はぁ?俺ピアノ習ったことないから無理!」

「でも、音楽の授業の前によくピアノ弾いてるじゃん。」

そう。私は小学生のころ家にあったピアノをふざけて弾いていて、正式に習ったことはないが、多少の知識はあった。それで音楽の授業の前に「レットイットビー」や「エリーゼのために」などをふざけて弾いていたことが何度もあった。

「あれは適当にやっているだけで基本何も弾けないから・・・」

と私がしゃべっているのを打ち消すように前でクラス会を進行していた議長が突然、笑いながら「石原がいい人手を挙げて!」と決を取り始めた。クラスのほとんどが手を挙げた。

「ちょっと!本当に無理だって!第一、俺、弁論で忙しいから!」

そう!

私は中3の時も弁論のクラス代表に選ばれていた。これを盾にすれば大丈夫だと思った。

「誰か弁論を変わってくれるっていうならピアノやってもいいよ。」

私はそう言った。もちろんピアノを弾く気は全くなかったが、それ以上に弁論を変わってくれる人がこのクラスにはいないと確信していた。

みんな押し黙る。と次の瞬間、「俺、弁論やってもいいよ。」という声が突然聞こえた。

その声の方に全員振り向くとそこには催(さい)君がいた。催君は韓国国籍の子で、中2の中頃に大阪からこの川崎に引っ越してきた子だった。弁論大会の後、私と彼は大の仲良しになるのだが、この時の私は、(余計な事言わないでよ・・・)という思いだった。

「催君、弁論書けるの?」と誰かが問いかける。

「一応書いた。」と催君は返事した。私たちは弁論を書いてくるのが宿題になっていた。

「じゃー前に出て読んでみて。」と議長が促す。

催君が前に行き、書いてきた弁論を読み始めた。その内容にクラス全員が感動した。

内容はこんな感じだった。

『両親が幼いころ離婚し、母方に引き取られたのだが、母が病気がちになり小学校の時は児童養護施設で暮らしてた。中学になり母と暮らすようになった。施設に入れられた時は何故と言う思いで、恨んだ事もあったが、今思えば母も大変だったと思う。今、いい友達もたくさんでき、いい環境に巡り合えた事を感謝している。今後は施設での経験やこの中学校で学んだ事を生かし、母を助けられるような人間になりたい。』

私たちは惜しみない拍手を送った。そして、催君が私たちクラスの代表になった。・・・

という事は、私は必然的にピアノを弾く事になった。何度も言うようにピアノを習った事はない。その時の課題曲は「モルダウの流れ」という曲だ。楽譜をもらった私はまず、ヘ音記号に音階をふった。それほどの低レベルなのである。しかも私の家には当然ピアノはなく、それどころか、鍵盤と呼べる楽器そのものが無かった。私は、放課後、音楽室のピアノを使わせてもらえる約束をした。ただ、それだけで練習が足りるわけもなかったので、私は紙に鍵盤の絵を書き、家ではそれを使って押さえる位置を覚えた。

家で押さえる位置を覚え、放課後学校で実際にピアノで弾くというような作業を毎日繰り返した。最後のオクターブ奏法がかなり難しくって何回も挫折したが、なんとか合唱コンクールの日までに間に合った。

コンクール当日は、朝からドキドキしていたが、本番では間違えることなくうまく弾けたと思う。結果は準優勝だったが、やりとげた満足感で一杯だった。


私は、合唱コンクールのピアノと格闘していた同じ時期にバンドも組み始めた。

私は当然ギター志望だったのだが、集まったメンバーにドラムをやる奴がおらず、ドラムも少し叩けた私はドラムをやる事を快諾した。集まったメンバーはギターが松村健一、ベースが松村康一、ボーカルが新井政信、そしてドラムが私だった。松村健一、康一は双子の兄弟で健ちゃん、康ちゃんと呼ばれていた。そして新井は韓国人で名前の政信は韓国名でチョンシンというので皆からチョンシンと呼ばれていた。正直、私以外の三人はあの不良の溜まり場の柔道部の奴らで、あまり素行がいいとは言えなかった。しかし、私は妙に彼らと気が合ってバンドを組むことになった。

合唱コンクールの2週間後には文化祭があり、そこで発表のエントリーをした。

演奏する曲はその当時流行っていたRCサクセションの曲だった。正直私は流行りものには疎かったのでRCの事は知らなかったが、曲を聞いて一発で気にいった。

合唱コンクールが終わり、私はすぐにドラムの練習を始めた。当然ドラムは無かったので、自分の太ももにタオルを巻き、自分の太ももをハイハットとスネアに見立ててそれを叩きながらリズムを覚えた。タムの練習は机の上に雑誌を何冊かおき、それをハイ・ミドル・ロータムと見立て叩く練習をした。

そんな練習をし、学校に行って、放課後、視聴覚室を貸し切ってバンドで合わせる練習をさせてもらった。

そんな毎日を過ごし、私たちは文化祭で見事に演奏した。たくさんの生徒や親御さんたちが見に来てくれて、歓声や拍手をたくさんもらった。一番嬉しい瞬間だった。バンドってきもちいい。私は、一生続けていくと心に決めていた。

秋風が心地よく吹く、晴れた日の午後の事だった。


(でも次バンド組む時はやっぱりギターがやりたい。・・・)そう心に誓うのであった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る