十年後のぼくへ

灯零

十年後のぼくへ


俺は自宅の玄関を出ると、部屋を片付けている途中に偶然見つけた一通の手紙をズボンのポケットに突っ込み、マンションの屋上を目指して階段を昇り始めた。


手紙の入っている古ぼけた麻色の封筒には、拙い文字で『十年後のぼくへ』と書かれているから、どうせ小学五年生の時かそこらに、授業の一環として書いたものだろう。もう十年も前のことだからあまり覚えていないけれど。


 真夏の午後一時だ。正午より日差しは一層強くなり、むせ返るような熱気はここぞとばかりにその猛威を振るった。階段の踊り場から周囲を見渡すと、乱立したビル群が灰色の壁を作って目前まで迫っていて、その壁面に整然と連なるガラスが、陽の光を反射して、無機質だがどこか神秘的な輝きを放っている。

眼下の公園から聞こえる子ども達の楽しげにはしゃぐ声が、変わらない日常がそこにあることを伝えた。

しかしその余りにも純粋な声は、今の俺にはかえって残酷に響いた。

俺はフードを目深に被ると、その声から逃れるように、より上の階へと一人足を速めた。


屋上へのドアを開けると、生温い風が頬を撫でた。目の前に広がる空は普段見上げている窮屈なものよりも格段に広大で、ぶち撒けた様な白が真っ青なキャンバスを侵食している。

憎らしいくらいの晴天だった。まるで今日という日を祝福されているみたいだ。


地上に乱立する摩天楼、その間を縫うように続く渋滞。

その車列が描く輝く一線を眺めながら、一つ大きなため息をついた。


十八で上京してもう二年もの月日が過ぎ去っていた。

二年と聞くとそれほど長い時間だとは思わないだろうけれど、それでも、身の程知らずの夢追い人を、糸の切れたマリオネットにするには十分過ぎる時間だった。

大学の入学式当日、深呼吸をして、新鮮な朝の大気と共に胸を膨らませた期待と希望は、今やアルコールとヤニ臭い失望と絶望となって口から吐き出されている。交差点ですれ違う人々も、あんなに好きだった陽光も、空の青さも、白い雲も、矛盾の塊になってしまった俺を睨みつけ、口々に責めているように思えて、外に出ることすら億劫になっていた。


お前はこんなところで、一体何をしている?


そんな声が、亡霊のように俺の耳に取り憑いている。その声を聞く度に、地面に走ったヒビ割れから伸びた、幾本もの手が俺の両足にしがみ付いて、その場に縛り付けているみたいに、両足が動かなくなる。


無数の小さなヒビ割れは、やがて大きな裂け目となって、今度は俺の体をまるごと呑み込むんだ。けれど、俺はその呪縛を振り払おうとも、逃れようともしなかった。

今俺が何か行動を起こしたところで、それは通り雨で出来た水たまりに、トンボが卵を産みつけるみたいなものだ。

俺は水たまりがやがて乾涸びることを知っている。

何をしても無駄だと思ったから、何もしなかった。

いや、もしかしたら出来なかっただけなのかも知れない。

どうしようもなく満たされない。

どうしようもなく果たされない。

そんな夢を見るくらいなら、もう二度と夢を見なくてもいいように。

こんな今を生きるくらいなら、もう二度と目覚めなくてもいいように。



だから俺は死のうと思った。



俺は屋上のフェンスを超えると、コンクリートの足場に立った。

吹き荒ぶビル風がフードを脱がして、伸び放題の髪を弄んだ。

足元に目をやると、遥か眼下を通りすがる人々が、蟻の行列よりも小さく見えた。


あと一歩踏み出せばこの世に別れを告げられる。

こんな世界から消えられる。

楽になれるんだ。


きっと産まれる場所を間違えたんだ。そう思ってしまうほど後悔と挫折に塗れた、退屈で偏屈で救いようのない人生だった。

未練なんてものは湧いてこなかった。


日はまだ高い。ここで俺が飛び降りれば、多くの人々が無惨な華を咲かせた俺の亡骸を目にするだろう。そうなったら俺は、一生その人々のトラウマとして、心の中で生き続けられるんだろうか。

そんなどうでもいいことを考えながら、眼下に横たわる暑くて冷たい灰色の世界を睨む。


よし、行こう。お別れだ。


俺は覚悟を決め、少しだけ震える足で透明な足場へと一歩踏み出そうとした。

そのとき、ポケットに何か違和感を覚えた。

そして、突っ込んだままの封筒のことを思い出した。

そう言えば持ってきていたんだ。すっかり忘れてしまっていた。

しわくちゃになっていたそれを取り出し、中身を確認する。

そこには綺麗に折りたたまれ、端の方がうっすらと色褪せた一枚の青い手紙があった。

俺はそれを風に飛ばされそうになりながらも、恐る恐る両手で広げてみた。


『十年後のぼくへ』


ミミズが這ったような、下手くそな字でそう書かれてある。でもそれは確実に俺の字だった。どこか懐かしさを感じながら読み進める。


『お元気ですか。ぼくは元気です。』


知るか、と吐き捨てる。


『きっと大きくなったぼくは頭のいい大学に行ってすごい会社につとめるためのべん強をしていると思います。それで、ぼくがいなくなって、お母さんとお父さんはさみしがってると思うから、すごい会社に入って、そこでかせいだお金でお父さんとお母さんにおやこうこうをたくさんしたいです。

きっと毎日が楽しくて笑ってばかりいると思います。


子どもの頃から俺の夢見がちな性格は変わっていなかったんだと、一人自嘲気味に笑う。


そこそこの高校に入り、学年でもトップクラスの成績を収め天狗になっていた俺は、きっと志望している難関大学も余裕で受かるだろうとタカをくくっていた。

それが慢心であることに気付かされたのが高校三年の夏だった。一切受験勉強をしていなかった俺は周りの奴らに一気に抜かされ、いつの間にか底辺を彷徨うようになった。

そこから必死で勉強したけれど、当然間に合うはずもなく、親に大反対されつつも何とか説得し、底辺の大学に行くことになった。

それでも、俺はまだ自分を過大評価していたわけで。

そんな奴が底辺の大学に来るような奴らと気が合うわけもなく、俺は入学初日から理想と現実の落差に大きく期待を裏切られ、五ヶ月もしないうちに大学へ行かなくなった。

それを両親に知られ、実家に呼び戻され大喧嘩になった。

その結果月十万の仕送りは止められ、コツコツと貯めたバイト代も、あと一週間と持たないほど僅かになった。バイトは辞めたから、もう収入もない。

あれ以来もう実家には帰っておらず、両親とも絶縁状態にある。


遮光カーテンに閉ざされたアルコールの匂いが漂う仄暗い部屋で、幾つものゴミ袋と孤独に埋もれながら、緩んだ蛇口から滴る水滴が食器を叩く音を延々と聴き続けるような、そんな日々の何が楽しいというのだろう。

ああ、笑っているさ。

自分のあまりの不甲斐なさに。そのどうしようもない情けなさに。

きっと笑われているんだ。

この世界の理不尽さに。そのやりようのない不条理さに。


こんなはずじゃなかったといくら後悔したところで、得られるものはと言えば、自分に対するやり場のない憤りと、心を削り取られたような虚無感だけだ。

もうどうしようもないんだ。今までずっと誰かに、何かに甘えて来た俺だ。

どうしたらいいかなんて分かるはずもなかった。


『でも本当はそんなにうまく行かないと思います。今のぼくがせのびしてもまだとだなの上のおかしが取れないみたいに、どうしようもないこともあると思います。』


何だ、これ。こんなことを書いていたのか。子どものくせによく分かってるじゃないか。

その通りだ。全てが無条件に上手く行くのは子どものうちだけだ。大人になると自由の代償として、どうしても自己責任というものがつきまとうようになる。その責任から逃れようとする度に、俺は自己嫌悪で潰れそうになるんだ。


でも、子どもの頃の俺にだけは無条件に尊敬されて、期待されていたかった。

少しだけそんな感情が芽生える。


コンクリートの足場に腰を下ろすと、両足を宙に投げ出し、フェンスにもたれかかった。風は少し弱まったみたいだ。

俺はもう一度手紙に目を落とし、続きを読み始めた。


『でもぼくは1人じゃないらしいです。お母さんが言ってました。ぼくもそうだと思いました。だって友だちもいっぱいいるしお父さんとお母さんもいるからです。』


俺にはいねぇよ。と呟く。

大学にもバイト先にも、友達なんてものは居なかった。両親にはもうとっくに見限られている。俺自身さえ、こんな自分をもうとっくに見限っている。

冴えない自殺志願者の相手を、一体誰がしてくれるというんだ。


『でも十年後のぼくはどうか分かりません。

人生はいつ何があるか分からないとお父さんが言っていました。もしかしたら友だちもお父さんとお母さんもいなくなるかも知れません。』


だから、居ないと言っているだろう。

もうやめてくれよ。

頼むから。


そんな気持ちとは裏腹に、俺の眼は次の行を追う。


『でもぼくは十年後にぼくが生きていると信じています。』


ああ、生きているとも。

この手紙を書いてから十年は生きたんだ。

だから、もういいだろう。一人で楽なりたいんだ。


『ぼくがそう信じているから十年後のぼくも一人じゃないです。』


何だ、それ。


『ぼくは頑張るので、十年後のぼくも頑張って生きていてください。

十年前から応えんしてます。』




『十年前のぼくより』




空は相変わらず青かった。泣きたくなるくらいの青さだった。空しくなるほどに澄んでいた。


午後の都会の喧騒が遥か眼下から、遠く遠く響いてくる。まるでこの場所だけが世界から隔離されているかのように、ぼやけて不明瞭な音だ。頭の上を一機の飛行機が白い尾を引きながら飛んでいる。


皆生きている。

理不尽な世界で、苦しみや痛みに耐え抜きながら、必死に今を生きている。

俺は死のうとしている。

くだらない感情で、苦しみや痛みから逃げ続けて、一人だけ楽になろうとしている。

死ぬことで楽になる保証なんてないのに。


何故か急に全てが馬鹿らしく思えてきた。

俺は一体何をしているんだろう。これではどっちが大人なのか分らない。

こんな子どもにまで心配されるほど、落ちぶれていたのかと思うと、何だか気恥ずかしくなった。


俺は手紙を折り始める。

考えてみれば、そうだ。

俺は踏み出す方向を間違えていたのかもしれない。俺が踏み出すべきなのは楽になるための逃げ道ではない。苦を楽にするための道だ。

人間である限り、誰にだって失敗はある。それを恐れてはいけないんだ。きっと。

そこから何を学べるか、学んだことをどう活かすかが大切なんだ。

今までのツケを払わされて、今俺はここにいる。それはつまり、これからはどうとでもなるということだ。何故こんな簡単なことに今まで気付かなかったんだろう。

いや、本当に大切なことほど、簡単で、案外気が付かないものなのかもしれない。


手元には一機の紙飛行機が出来上がっていた。

俺はそれをそっと風に乗せた。

紙飛行機はあの飛行機雲をなぞりながら大きく舞い上がる。それは、今日の空と同じ色をしていた。泣きたくなるくらいの青さだった。


「ありがとな、俺。もう少しだけ生きてみるよ」


ビルの谷間に消えていく小さな紙飛行機を見送ると、俺は再びフェンスを越えて屋上を後にした。


この世界は理不尽で不条理で、どうしようもなく残酷なものだ。

けれどそれは数分前までの話で、そんな世界に生きていた俺も、数分前までの俺だ。


立ち止まりもするだろう。膝を抱えたりもするだろう。それでもいいんだ。後戻りさえしなければ。道はどこまでも続いている。

どうせなら歩ききってやろうじゃないか。それはそれは長い道のりになるだろうけれど。



俺には何たって、あの日の俺がついている。

それだけで、不思議と明日も頑張ろうと思えるんだ。

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