流れる恋(3)
一番広い部屋の一番奥に座って、
「三人で話そう」
入口側に腰を下ろした
「三人で? では、
「いいや。武ではない」
滋虎が首を振る。
「
津也はきょとんとなった。
「何をおっしゃっているの。あの子は……」
「入れ。
こちらを向いて強く言った父親に、頷いて見せる。
「失礼します」
ゆっくりと部屋に踏み入ると、義母は腰を浮かせた。
「ど、どこにいたの、あんたは!?」
「
気の抜けた笑いを浮かべると、津也が思っていた以上に顔を歪めた。
「この、不埒者!」
手に握っていた扇が畳の上を滑ってくる。爪先に当たったそれを、
「何が不埒じゃ」
滋虎が首を振った。
「文は嫡子じゃ。その文を
「殿!」
津也が叫ぶ。
いつの間にやら、部屋の前の縁側、庭には屋敷中の人間が集まってきていて、ざわざわと揺れている。
滋虎がその廊下に視線をやると、城下からついてきた男が入ってきた。その手には手紙の山が築かれた盆。
「これは……」
「そなたが一年の間に送ってきた書状じゃ。これら全て、嘆かわしい」
滋虎は拳を膝の上で震わせた。
「おぬしの我が儘を、文は息子として随分叶えていたように思うぞ。謂われない文句も聞いていたようではないか。だが、儂にも文にも、小久保家のために譲れるものがある」
そして、きっぱりと言い切った。
「
集まっていた屋敷中の者の、様々な視線を背中に受けて、椿は前に進む。
父の正面まで来ると腰を下ろし、しっかりと見向く。
「相応しくあるよう、精進致します」
両手をついて、頭を下げる。
十数えてから体を起こした時、津也がふわりと床にくずおれた。
部屋の外のざわめきが大きくなる。
それを裂いて。
「儂はそなたを愛しておる」
滋虎は津也へと真っ直ぐに視線を向けた。
「だからとて、そなたの全てを一番に叶えることはできぬ。家を栄えさせ、そこに連なる何十何百――何千の命を先へと繋ぐための決断が優先だ。儂がそなたを迎え、他にも女にうつつを抜かしたいなら、そこだけは最低限守れと、多恵に誓わされた」
「またあの女!」
津也の歯ぎしりが響く。
滋虎はふう、と息を吐いた。
「多恵は間違いなく、小久保家の正室だった。家の未来を本気で案じ、最良の嫡子まで
視線を向け直されたから。
「恐れ入ります」
椿はもう一度ゆっくりと頭を下げて、それから義母の顔を見た。
白粉を塗っているから、という理由では済まないほどの白い顔で、彼女は震えている。
「儂はそなたの夫じゃ」
「ならば……!」
また腰を浮かした彼女に右手を向け、滋虎の言葉が続く。
「同時にこの家の主である。家を護るためには涙を呑まねばならぬようだ」
滋虎は立ち上がって、廊下に控えていた江戸家老に何かを耳打ちした。
屋敷中が騒めきが散っていく。
卒倒した津也はとりあえず奥の間へと担ぎ込まれた。懇意にしている医者が来たら、そこからまた話が進むのだろう。
椿は屋敷の東側の部屋に来ていた。縁側のすぐ傍には、花の終わった椿の木。根元に乾いた花びらが落ちていて、今年も咲いていたのだと悟る。
それから部屋に入り、ぐるりと見回したところで、声がかかった。
「やあ、武虎」
振り返り、にっこりして見せる。ピクリと相手のこめかみが動いた。
「何処に隠れていた?」
「隠れてなんかいないよ。堂々と父上にお会いして、お話もしたよ。家と藩の未来について」
「ふざけるな」
がっと襟元を掴まれた。ぐいっと引かれ、見下ろされる。
「別にふざけてない」
暑苦しい視線を半眼で受ける。
「大田原に暮らす人々、この屋敷に住まう人々、その大勢を守るために犠牲は少ないほうが良い。それはずっと思ってたこと」
ふっと口元に笑みを浮かべて、言い募る。
「それには、僕一人が死ねば簡単かと思ったけど…… その方が悪い未来だと父上はお考えだったよ」
「何が悪くなるというんだ」
「犠牲になる人が多くなるってことさ。余計な犠牲が増えるとも言えるかな? そういうふうに考え直した結果、僕も同じ結論になった」
一度瞬いて、真っ直ぐに武虎の顔を見た。
「だから、僕は死ねない。逃げられない。父上の跡を継いで、その次に藩主に
笑みがどんどん深くなっていく。
「残念だけど、武虎、君じゃなかったみたいだ」
襟元を掴む腕を振り払わずに、言葉を続けた。
「義母上にはこの屋敷を出ていっていただく」
「なんだと!?」
武虎が怒鳴るのに、首を傾げてみせる。
「騒いだからさ。まあ、結果として僕も片棒を担いでいたわけだけど、そこは見逃されちゃうんだよね」
「不公平ではないか」
武虎の眉が吊り上っていく。椿ははっと嗤った。
「僕が父上に次ぐ主だ。分かるでしょ?」
ぎりぎりと襟元が締められる。
「いよいよ本当にとち狂ったか」
「そうだね、狂ってるよ。美緒が嘆くことに比べたら、僕が罪を犯すことなんか、さしたる問題じゃないと思っちゃうほどにね」
くすっという声を零す。
次の瞬間、武虎の表情が冷えた。
「……美緒はどうしたのだ」
「川に身を投げたんでしょ」
ニヤリとしたが。
「嘘を言うな。おまえが俺の目の前から攫って行った。そうだろうが」
また、武虎の声が高くなる。
「居場所を知っているんだろう!? どこにいる!?」
いーっと椿は舌を出した。
ばん、と頬を打たれた。口の中に錆びた味が広がる。
滲む目をこじ開けると、ぎらぎらとした目が見えた。
どん、と突き落とされ、尻もちをつく。
腹を蹴上げられる。
今度は酸っぱい味が広がる。
椿が体をくの字に曲げて
「待て!」
椿が叫んだ時には、もう玄関を飛び出していたらしい。
美緒は、行き返りに着た装束の解れを直しながら時間を潰していたのだが。
「まだ戻らないのかしら」
夕暮れの朱に誘われて、つい外へと出た。
から、ころ、と下駄を鳴らしていた通り。少なくなってきた人波の中で、一際大きな体が目に付いた。
どくん、と心臓が跳ねた。
「武虎様」
唇が震えただけの、それほどまでに
真っ直ぐに歩いてくる。
「どうしてここに」
「当てずっぽうだ。正月にあれを捜した時、こちらの方だったというだけで」
そうか、と納得して後退る。心臓が煩い。
「何ヶ月も何度も、ここに来たのにな…… 何処に隠れていたんだ」
ぞくり、と肌が泡立った。咄嗟に身を翻して、走り出す。
「美緒!」
振り返れない、止まれない。だが、向こうの方が体が大きいのだ。
ぬっと、影がかかる。
首の後ろを、ずしん、と叩かれる。
――ああ、まただ……
今度は柵にではなくて、土の中に顔を突っ込んだ。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます