S2-2「病院」
「……うん。意識もはっきりしているし、傷の回復も良好。頭の傷にだけ注意して、今日一日安静にしたら明日には退院できるよ」
白衣を着た壮年の男性が穏やかな声で告げた。
「……ありがとうございます」
礼を言うと同時に鈴江は頭を垂れる。その頭には学校内に居たときとは違う、真新しい包帯が巻かれていた。
「それではあとは安静に、何かあれば呼んでください」
「ありがとうごさいます、先生」
「…………」
自分の母親が礼と共に医師に深々と頭を下げている。その隣で鈴江は自分の体の傷を不思議そうな顔でまじまじと見つめていた。
鈴江の傷は驚くほど軽症だった。全身につけられていた切り傷は、枝か何かに引っかけた程度、消火器で殴打された足も軽い打撲程のものでしかなかった。
(……あれは夢だったのか?)
一瞬そんなことを考えたが、すぐにそれはない、といつ結論に至った。夢ならばそもそも自分の体にこんな傷はないはずである。
(……となると、セインが何かしてくれたか? そういえば頭を殴られたときも何かしていたな……)
今はここにはいない、今考えてみれば限りなく不可思議な存在だった女の顔を思い浮かべて鈴江は思考に耽っていた。
するとそこへ、医師の背中を見送った声が割って入って来た。
「……それにしてもいったい何があったの? あんたが家から飛び出していった後、あっちこっちに必死になって探して、それでも結局見つからなくて、朝になっても戻らないからいよいよ警察に届けようかと思ってたら、学校からあんた達が屋上で
「……あんた達?」
母が語る自分が今に至る経緯。その中に一つ気にかかる言葉を鈴江は捕らえた。あんた『達』、複数形、それの意味することとはつまり、
「あんたのすぐ側に空ちゃんが倒れてたのよ」
「――!!」
その言葉を聞いた瞬間、心中にて焦りが膨らんでいく。
「空は? 空は今どこに!?」
思わず声を上げてしまう。そこそこの広さの病室を満たすには十分すぎるほどの声、幸いにもこの部屋に彼女以外の患者はいなかったが、そうでなければ間違いなく咎められていただろう。
「ちょっと、声大きいわよ? どうしたの急に」
驚いた母親に注意されるも、鈴江の焦りは消えることはない。尚も母親に詰め寄る。
「……空ちゃんは、そうね。ちょっと待ってて」
鈴江の様子に圧倒されたものの、一呼吸おいてから静かに、落ち着いた声で言うと、母は鈴江を置いて病室から出て行ってしまった。
「…………」
部屋に残された鈴江は自身の気を静めるために深呼吸しながら、空の安否について考えていた。母親の様子からするに、彼女もこの病院内にいるのだろうということは予想がつく。が、鈴江はなぜか安心することはできなかった。何か嫌な予感がする。ただの直観であるが、悪い時に限ってこういう物は当たるものである。そう、空を探して学校へと向かった時のように。
しばらくするとガラリと扉を開けて母親が帰ってきた。その顔は鈴江の予感を安易に肯定しているような表情だった。
「きなさい……立てる?」
鈴江の前まで来るとそういい、手を差し伸べてきた。
「いや、大丈夫。一人で立てる」
そう言い、ベッドから降りると、前を歩く母の後に続いた。
「ついたわ、ここよ」
病室から出て、しばし廊下を歩いた後、一つの病室の前で母親は歩みを止めた。
見たところその部屋はどうやら個室らしく、患者の名前を記すプレートに『加藤 空』と書かれていた。
「…………」
鈴江の方を一瞥した後、母親が扉に対してノックをする。
「原田です、入ります」
そういって扉を開け中に入ると、鈴江に入るように促す。鈴江はそれに従い中に足を踏み入れた。
中にはベッドとその側の椅子に腰かける一人の女性がいた。
「鈴江ちゃん目が覚めたんだね。大事なさそうで何よりだよ」
そういって鈴江に笑顔を向けてくる女性。鈴江はその女性を知っていた。空の母親である。そしてその横には、
「――!」
ベッドに横たわり、目を閉じたままの空がいた。側にある機械が呼吸も脈拍もしっかりとしていることを証明してはいるものの、意識を取り戻す気配は感じられなかった。
「……ほんっと、いきなりいなくなったと思ったらこんな状態で見つかって、何やってんだろうねこの子は……」
空の母は憂い顔で空を見つめながら、誰に言うわけでもなくそうつぶやいた。
「…………」
鈴江は何も言わなかった。否、何も言えなかった。空がこのような状態になったのは間違っても彼女のせいではない、だがしかし、もし空が怪談について語っていたとき、もっと真剣に話を聞いていれば、危険だと思いとどまるよう言っていれば、こんなことにはならなかったのでは? 今の空を目の当たりにしたことにより、次々と湧き出る邪なる思考はとどまることを知らず、鈴江の中に広がっていく。
鈴江が自身の考えに取り込まれそうになっていると、そんな鈴江の方を見上げて空の母は吹き出した。
「ぷっ……あははは! 大丈夫だよ、そんな顔しなくたって!」
そういう彼女の顔は一切の他意の無い満面の笑みだった。鈴江はその突然の笑顔と笑い声に面食らった。
「何があったか知らないけどさ、大方うちのバカが変なことに首突っ込んで鈴江ちゃんが巻き添えくらったとかそんなんじゃないの?」
自身の娘と鈴江とを交互に見ながら、なんでもなさそうに言う。
「医者の話じゃ今はまだこんなんだけど、一生眠りっぱなしなんてことはないから安心しろってさ。……だからそんな思いつめた顔しなくたっていいんだよ」
彼女はそういいながらケラケラと笑う。そのまるで自分の心中を察したかのような言葉によって鈴江は自身の中の暗雲が少ないながら晴れていくのを感じた。
「目が覚めたら何があったのか、いったいがっさい吐かせてやるよ」
そういいながら空の母は娘を見ながら口元に微かな怪しい笑みを浮かべた。その表情を見て彼女が空の母であることを何となく再確認した。
「失礼します」
「ああ、また目が覚めたら一緒に遊んであげてよ」
「……はい」
その後鈴江と鈴江の母は空の病室を後に自身の病室へと戻っていった。
翌日の朝、鈴江は退院のための準備をしていた。するとそこへ母親が入ってきた。
「どう? 何か忘れてたりしない?」
彼女は鈴江と鈴江が腰かけているベッドの周りを見渡しながら言う。
「たぶん大丈夫。それにそもそもここにあるのは着替えくらいだし」
「まあ、それもそうね」
そんな風に母娘で話していると病室の入り口から看護士が台車を押しながら入ってきた。
「原田さん、具合はどうですか?」
看護士はそういいながら手慣れた手つきで鈴江の頭の包帯を交換していく。
「おかげさまで非常に良好です」
「それは何よりです。退院は午後の予定ですので、その時にもう一度伺いますね。あ、それと保護者の方には退院の際の確認と手続きを……」
「ああ、わかりました。鈴江、ちょっと行ってくるから待ってて」
そう言うと母親は看護士と共に病室を出て行った。
一人取り残された鈴江はベッドに仰向けになり、何を考えるわけでもなしに、ただぼーっと天井を見上げていた。――しばらく経って寝返りを打った際にチャリン、と何かが床に落ちた音がした。
母が持ってきてくれた着替えを入れるための鞄。その横に彼女にとっては見覚えのある小さな物体が見えた。
「これは……」
桜花、そのキーホルダーが床に転がっていたのだ。
鈴江はこの病院内で目が覚めた時、すでに患者用の服に着替えさせられていた。桜花はおそらく元々来ていた服にくっつく形で鞄に入れられていたのであろう。
鈴江はそれを拾い上げ、手のひらに乗せると、まじまじと見つめていた。そして、
「――桜花……」
病室で声を荒げる訳にもいかないので小声で、しかしはっきりと使用するための
「――!」
自分でやっておいて勝手に驚くのも可笑しな話ではあるが、そこにあったのは紛れもない桜花そのものだった。――数秒後、使用する意思を失った彼女の手の中には何の変哲もない刀を模したキーホルダーが収まっていた。
「…………」
しばらくまたそれを見つめていた鈴江だったが、変に考えるだけ無駄だと再びベッドへとその背中を預けた。
「それじゃあ御大事に」
「……ありがとうございました」
看護士に見送られ母と共に病院を後にする鈴江。だがその顔は浮かない物だった。
「空ちゃんまだ目が覚めないみたいだったわね」
「…………」
病院を後にする前にもう一度空の病室へと足を運んでみたのだが、結局空はまだ意識を失ったまま、目を覚ますことはなかった。その場に来ていた空の母と少しだけ会話をしたものの、
何を言うわけでもなく黙って自分の後ろをついてくる娘とそれを心配する母のもとに、突如その声はかけられた。
「あのー、ちょっとすいません」
「――?」
急に自分に掛けられた声に鈴江が振り向くと、そこにはスーツをだらしなく着崩し、いかにもやる気のなさそうな顔で煙草をくわえながら、こちらを見つめるやや長身の男がいた。
「えーと、何か?」
その男のいでたちに怪訝そうな顔で鈴江の母が訪ねる。すると男は二人を交互に見つめながら懐からあるものを取出し、気だるそうな声で言った。
「自分、こういう者なんですけど、原田鈴江さんと、そのお母さんであってますかね?」
男の出したものは警察手帳だった。
「え、ええ。そうですけど」
男の出したものに驚く鈴江の母と、驚きよりは疑問の方が大きいであろう表情の鈴江。それを知ってかしらずか、男は淡々と口を開く。
「自分、桜埼署から来た飯田っていう者なんですが、お宅の鈴江さんに会わせろって騒いでる人がちょっといましてね……ええ」
そういいながら男は燃えて短くなった煙草を一度地面に落とし、踏みつけるとまた拾い上げた。その際火が消えきっていなかったのか、小声で『あちっ!』などと言っていたが、持ち手を変え、小さなケースの中にそれを放り込むと、再び二人の方を向き、
「なんで、ちょっと署の方まで来てもらってもいいですかね?」
相も変わらず気だるい声で言った。
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