S1-9「違和感」

「んーじゃ、行きましょっかね~」

 暗がりの中でセインが呟く、廊下への扉を特に警戒せずに開ける。隣にいる鈴江はどこかげんなりした様子だ。

 この女と出会ってからまだ僅かな時間しか経っていないとは言え、何となく人となりは分かってきた。……何とも緊張感のない奴だ、と。先ほど自分が怪我をした際には多少、事に対する真剣さが増したような気がしたが、そんなことはなかった。事が一段落ついてしまえば今にも鼻歌でも歌いだしそうだ。

 そんなことを考えながら廊下で自分の一歩先を歩くセインを見て、鈴江は小さく溜息をはいた。


 鈴江は気づいていないが、このセインの態度は必ずしも間違ったものではない。自分の持つ経験や知識では対処しきれない物、所謂いわゆる未知の恐怖において、物事を必死に解決しようとするあまり、知らず知らずの内に自身の精神的退路を塞ぎ、八方塞がりに陥ってしまうことは珍しくない。そんな時に、心のどこか、もしくは自分の所属する集団の中に、希望の念、希望を持って行動する人物がいると精神の安定剤として機能する。よくホラーやパニックを題材にした物語で、陽気なお調子者のキャラクターがいると思う。アレがそれである。彼らは物語のトラブルメーカーだけではなく陰ながら精神安定剤の役割も担っていたのである。

 また、そういった役割を持ったキャラクターは物語の割と早い段階で脱落することが多い。これは決して何となくではなく、早いうちに精神安定剤を取り上げてしまおうという、悪意に満ちた製作者の理にかなった演出なのである。


 ちなみに、セイン自身にそんな道化を演じて鈴江の気を楽にしようなどと言う考えは全くない。そういう立ち位置の人物は得てして生来の性質なのである。


「うっへぇー、真っ赤!」

 二階まで戻って来た時にセインが声を上げた。視線の先にあるのは例の鏡である。心なしかさっき見た時よりも色が赤から黒に近い色に変わっているように思う。

「そんなもの気にしてないで早くいくぞ、いつ連中が来るかわかったもんじゃない」

「へいへーい」

「はぁ……ん?」

 鈴江が小さく溜息をついた時、彼女はある違和感を覚えた。赤黒く、全体に液体がこびり付いた鏡に僅かながら光を反射する部分があった。近づいて見てみると、それは文字、紛れもなく日本語で書かれた文章だった。


『ダレモワタシヲミナイ タスケハナイ ミンナキエテシマエ キライ ダイキライ キライキライキライキライ』


 小さく唯々乱雑に書かれたその文字には、唯々何者か、いや、この世の全てに対する怨みとも怒りともとれる感情が刻まれていた。

「……私だって嫌いだよ、お前のことなんか」

 思わず悪態をついてしまう。その文字からにじみ出る感情に顔をしかめてその場に立ちとどまる。

「鈴江ー? どしたの?」

「……いや、なんでもない。行こう」

 セインに呼ばれ、これ以上付き合っているのもバカバカしいと思い、その場を後にする。向かうのは南館、家庭科室である。


 ……早々にその場を後にした鈴江は、先ほどの文字の後に徐々に浮かび上がってくる新たな文字を目にすることはできなかった。


『ダレデモイイ タスケテ』




「ここが家庭科室だ」

 南館二階東側エリア、そこにある目的の部屋に二人はたどり着く。

「OK、開けるわよ」

「…………」

 セインが鍵を開けようとしている側で、鈴江は特に何を思ったわけでもないが窓から中庭の方を見ていた。中庭には人はおろか、敵の気配すら感じない。静かだ、本来なら良いことのはずなのに、逆に、気分が悪くなるほどに。

「オープン・ザ・ドアァ!」

 セインが叫びながら鍵穴に差し込んだ鍵を勢いよく回す。ガチャリと音が鳴り、扉の施錠は解かれた。

「開いたわよ。……何?」

「セイン、周りに何かいる気配はあるか?」

 怪訝そうな顔をするセインに鈴江が問う。どうにもさっきから何かが引っかかるのだ。しかし、それが何かは分からない。

「いや、別に? 何もいないわね、何も……」

 そこまで言ってセインは違和感に気付いた。何も感じない。先ほどあれほどいた敵の気配がどれだけ気を張り巡らせても、一つとして感じられないのだ。セインのこの探知は、別にそこまで優れた物ではない。ただ単純に何かがそこにいるか、いないか、それを判断できる程度の物だ。所謂いわゆる千里眼のような、どこで、何が、何をしているか、といったような具体的なことがわかるものではない。それでも、何かが隠れていようものなら、場所の特定はできなくともことは分かるのだ。だのに、何も感じない。文字通り何もいない。さっきまであれほどいた敵の群れはいったいどこへ行ってしまったのか……

「……セイン、アンタはここで待機しといてくれ。中には私一人で入る」

「え? それならアタシが中に……」

「もし何かあればすぐに叫ぶ。それに私は敵が近くにいるかどうかわからない。だからアンタは外で見張っといてほしいんだ」

 鈴江の提案に悩んだセインだが、しばらくして仕方ないといった表情で鈴江をみる。

「……わかったわよ。気を付けてね? しばらく出てこなくて確認に入ったら宙ぶらりんとか嫌よ?」

「それはこっちだって嫌だよ。そうなる前に逃げるからそっちも何かあった時に対応できるようにしておいてくれ」

 縁起でもないことを言うな、と内心思いながら無理やり笑う。が、どうにもひきつってうまく笑えていなかった。よくて苦笑いである。

「りょーかい」

 それに対してこちらはずいぶんときれいな笑みだった。


「それじゃあ行ってくる」 

 セインを外に残し、単身室内へ入る鈴江。彼女は中に一歩足を踏み入れ周囲を警戒する。特に何もないことを確認し、徐々に、ゆっくりと中へと足を進める。

「特に何もないな……」

 とりあえず室内を大雑把にぐるっと見て回ったが、机の上にも床の上にも特に何があるわけでもなかった。

「セイン、特に何もないか?」

「依然異常なーし」

 一応確認をしてみるが変化は無い。鈴江自身もこの部屋に何かが隠れているような気配は感じなかった。

「次は食器棚か調理具入れでも調べるか? ……うん?」

 もう一度、詳しく部屋を見て回ろうかとした鈴江の目ににあるものがとまる。それは黒板だった。よく考えれば黒板付近は特に調べていなかったことに気づいた。

「これは献立か、じゃがいも、人参、玉ねぎ……カレーでも作ってたのか?」

 黒板そのものに書かれていたのはなんということはない。料理に使う材料とその個数である。つい何となくその内容を目で追っていた時、一つ違和感のある記述を見つけた。それは、他の文字に比べて随分と乱雑にチョークをへし折らんばかりに濃くはっきりと書いてあった。


『ハラダスズエ……一人』


 鈴江がそれを目にした瞬間、すぐ横で何かが割れる音が鼓膜を揺らす。次の瞬間にはその音は質量を持って、鈴江に襲い掛かる。

「うわぁ! な、なんだぁ!?」

 とっさに反対横方向に飛び退く鈴江。何が起こったのかと見ればそこには粉々になった皿が落ちていた。遅れてくる痛みに目を向けるとおそらく飛び散った破片がかすめたのであろう場所から薄く血が出ている。

 何が起こったのかは理解できた、しかし、のかまでは理解できていない。 慌てておそらく皿が飛んできたであろう方向を見つめる。見た瞬間、鈴江は目を見張った。そこにはあの腕の怪物、それもさっき見た奴らよりも一回り大きい物がたしかに存在した。

「なにぃぃぃ!! 桜花ぁ!」

 反射的に桜花を戦闘態勢へと変化。セインを呼ぼうと口を開いた、その時。けたたましいガラス音が廊下から数を伴って聞こえてきた。

「ぬわーー!!」

「――!? セイン!」

 廊下からおそらくセインの物であろう人が本気で叫んだ時に聞こえる本物の叫び声が響く。何が起こったのか、その疑問は意外にも鈴江自身の目によって解かれることになる。廊下側の窓に無数の腕のシルエットが浮かびあがっている。

「――しまった! まさか……そんな……」

 ここで鈴江は自分が抱いていた一片の違和感がなんだったのかを悟る。 こいつらにそんなことはできないだろうと、どこかで高をくくっていたのかもしれない。本当は気付けたことだったのに、考えないようにしていたのかもしれない。 

められただとー!?」

 鈴江の絶望に満ちた声が教室内に満ちた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る