第21話 啓一くんの秘密

 カレイドスコープ昔館を出て、何とはなしに麻布十番駅に向かって歩きながら、「次、どこに行こうか」なんて話していると、不意に啓一くんが何かに気がついたように私の手をぐっと握りしめた。

「どうしたの?」

というと、啓一くんが呆然とした様子で、

「母さん……。なんでここに?」

とつぶやいた。

 え? と思いながら正面を見ると、道ばたに立派な車が止まっていて、後ろのドアから一人の女性が降りたところだった。

 いかにもセレブか、どこかの女社長さんといった空気を身にまとっているスーツ姿の女性。あの人が啓一くんのお母さんなの?


 とっさに啓一くんはきびすを返して、

「悪いけど、こっちに行こう」

とそばの路地に私を連れて行こうとしたけれど、時すでに遅く、

「あら? 啓一? ちょっと待って」

と車から降りてきたお母さんらしき女性に呼び止められた。


 啓一くんはため息をつくと、ゆっくりと振り向く。

「こんなところで奇遇だね。――母さん」

と言う。私はあわててお辞儀をして「初めまして」と挨拶すると、啓一くんのお母さんは私たちが手を繋いでいるのを見て、

「……そちらのお嬢さんは、そういうことなの?」

とつぶやいた。

 その途端に、啓一くんが怒り出して、

「そうだ! だから、俺のことは少しほっといてくれ!」

と言って、強引に私の手を引っ張って駅に駆け込んでいった。


 後ろから「啓一! 話を聞いて!」と呼びかける声がしたが、え? え? と思う暇もなく、啓一くんに引っ張られて改札口を通り、タイミングよくやってきた電車に乗り込んだ。


 いらだたしげな啓一くんを見て、私の心もザワザワと落ち着かなくなる。

「――さっきの女性は「母さんだ」」

 でもなんでそんなにいら立っているの?


 そう思いながら、啓一くんの顔をのぞき込むと、啓一くんが苦笑いして、

「すまん。詳しくは落ちついてから話すよ」

「うん。それはいいけど、一つお願い」

 私を見つめる啓一くんに、私はにっこりして、

「私は啓一くんの味方よ。――だから、いつでも、遠慮なく話してね」

「ありがとう。京子。ありがとう」と啓一くんは言い続けた。


 しばらくして、啓一くんも落ちついてきたようで、

「これから見せたいものがあるから、ついてきて欲しい」

という啓一くんに「もちろん」とうなづき、駅を乗り継いで向かったのは新宿だった。


 新宿駅の西口に出ると、そのまま地下広場のロータリーをぐるっと迂回して地下道を進む。

 動く歩道を横目にしながらマクドナルドや本屋さんを通り過ぎていくと、少しずつ地下道独特のこもった空気から肌寒い外気が混じりはじめる。やがて目の前に地下道のトンネルの出口が見えてきた。

「ここだよ」という啓一くんと入ったのは住友ビル。私は入るのが初めてだ。


 なかは上まで吹き抜けの不思議なつくりになっていたけれどその構造をじっくり見ることもなく、私は啓一くんに手を引かれてまっすぐにエレベーターへと向かった。

 一緒に乗っていたビジネスマンらしき人たちが少しずつ降りていくなか、最後には私と啓一くんの二人だけが残った。

 私たちが降りた階は51階。そして、そのまま展望ロビーに向かう。


 秋晴れの今日は空気も澄んでいて、ずっと関東山地の向こうに富士山が小さく頭をのぞかせている。


「うわぁ」とつぶやくと、啓一くんは苦笑しながら、

「夜にここのレストランとか来ると、夜景がすごく綺麗なんだけどね」

といいつつ、窓に近寄っていく。


「あのビルに入っている会社は知ってる?」

と啓一くんが指をさした先には、スタイリッシュな大きなビルが建っていた。

 残念だけど私にはわからない。首を横に振ると、

「総合商社ウィンクルムだよ」

と教えてくれた。


「――ウィンクルム? それって……あの大企業の?」

「そうだ。インターネット事業を軸に、今では出版、貿易、携帯、電力事業に乗り出し、世界的に有名なアパレルブランド「ウィータ」などのグループ会社を抱える。バケモノみたいな会社さ」

 うん。私の家のプロバイダもウィンクルムの系列だったし、ウィータだって知ってる。ちょっと大人のデザインだけど、年代に合わせた姉妹ブランドも展開していて、新米ブランドながらもそこのアイテムを持っていることが一種のステータスにもなっているわね。


 啓一くんは苦虫をかみつぶしたような表情で、

「ウィンクルムのCEOは、新井啓介。――俺の父さんだ」

 ……え?

「ウィータの取締役は、新井陽子。さっき会った俺の母さんさ」

 ……えええ?

 それじゃあ、啓一くんって、大企業の御曹司?


 啓一くんは驚く私の顔を見て苦笑しながら、

「ちょっと座ろう」

とがく然としている私の手を引いて、後ろのイスに並んで座った。

 そのまま窓の方を見ながら、

「前にも話したけれど、俺は一人っ子だった。それに俺が小さい頃から両親とも忙しくてさ。俺が起きる前から出社して、俺が寝てから帰ってくる状態だった。だから、幼稚園の頃まではほとんどお祖母ちゃんに育てられたんだよ」


 そして、寂しそうに、

「でも、小学生になるころにお祖母ちゃんは心臓の病気で亡くなって、それからは日中は家政婦さんが来るようになったんだ。……お祖母ちゃんが生きている頃は、まだ母さんもたまに早く戻ってきて一緒に過ごせる時もあったらしいけど、亡くなってからはそういうことも無くなった。短い手紙だけが机に置いてあるなんて毎日だったよ」

「うん……」

「周りはさ。ちゃんと運動会も参観日も親が来るんだけど、俺だけは家政婦さんが代理だった。それも二年おきに人が変わるもんだから、友達に言い分けするのも大変でさ」

 親が来ない子。東京じゃ、それも当たり前かも知れないけど。……寂しいよね。


 私の家は地方だったし、お父さんが兼業農家の公務員で、お母さんはパートに出ている専業主婦だった。朝こそ時間はバラバラだけど、お夕飯はみんなが揃って食べていた。学校から帰ってきても、弟と一緒だったし、寂しいと思ったことは一度もない。

 だけど、啓一くんの家庭は……。


 朝起きても。学校から帰っても。夜寝る前も。

 お父さんにもお母さんにも会えない生活。

 それってすごく寂しいよ。


 啓一くんの感じてきた孤独が、自分のことのように感じられる。……そして、その哀しみの深さも。


「大学受験のシーズンになって、久しぶりに父さんと母さんと会って進路の相談をした。二人とも別の大学を薦めてきたんだが、俺はそれに従いたくなくって、わがままを言って今の大学にした。そして、一人暮らしをすると言い張って、大学の間は自由にさせてくれって言ったんだ」

「それってご両親は大丈夫だったの?」

「もちろん、大反対さ。なんでわざわざ一人暮らしするのとか。将来はどうするんだとかって。でも言ったんだ。ずっと家に帰っても一人だったんだ。一人暮らしするのも一緒だ。もうこの檻のような家にはいたくない。……大学の間は自由にさせてくれって」

「そっか」

「それなのに、お見合いだのなんだの言い出しやがって。どうせ自分らの会社の関係者なんだよ。政略結婚なんて真っ平だ! 俺は……ただ家族が欲しいんだ! もうずっと」


 そう言いながら、拳をぎゅっと握る啓一くんは、まるで涙を流しているように見える。

 私はそっと握られた拳を両手で包む。

「ずっとずっと一人だったんだね。でも私がそばにいるよ」


 ね? だから、そんなに寂しそうな顔をしないで。

 そう思いながら、震える拳をいたわるように撫でつづけた。

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