第22話 母の苦悩
デートの次の日の月曜日。
大学に来ると、早速、キッコから「報告しなさい!」と詰め寄られる。
苦笑いしながら啓一くんの親の会社のことは省いて、簡略に伝えると、次第にキッコの表情が真剣なものになっていく。
「母親に遭遇か! これはまた昼ドラのようなアクシデントの予感だね。がんばれ京子」
と興奮して背中をとんと叩くキッコに、やってきた啓一くんが、
「朝からなにやってんだ?」
と話しかけてきた。
キッコは横目で啓一くんを見て、
「あら? 私はただ、京子を励ましてただけよ」
としれっとしていう。
かくしてその日の講義が終わった。
なぜかこの日は、啓一くんもキッコも予定があるとかで私は一人で大学の門から出た。
折から吹いてくる寒風に思わず身を屈ませてしまう。どういうわけか今日はいつもより寒い。
門を出ると、少し離れたところでどこかで見たような黒塗りの車が止まっている。
高そうな車だなぁと思いながらその脇を通り抜けようとした時に、一人の女性が降りてきた。
「あ、あなたは――」
その女性は啓一くんのお母さんの陽子さんだった。
陽子さんは憔悴しきった表情で、
「ごめんなさい。少しお時間をいただけないかしら?」という。
私はうなづいて、
「それでしたらこの先に『南風堂』という珈琲店がありますから、そこでどうでしょう?」
というと、陽子さんはうなづいて車の運転手に何かを指示すると、陽子さんをおいて車がどこかへ走っていった。
陽子さんは、
「昨日はご挨拶できなかったわね。――啓一の母の新井陽子です」
私もあわててお辞儀をして、
「北野京子です。啓一くんと同じゼミを取っています」
と自己紹介をして、「ご案内しますね」と『南風堂』に陽子さんを連れて行った。
一緒に歩きながら陽子さんの様子を見る。
憔悴しているようだけれども流石はファッションブランドを展開しているだけあって、身につけている服からアクセサリーまで上品にまとまっている。年の頃はまだまだ30歳半ばくらいに見えなくもないけれど、おそらく40歳半ばかな?
カランカランと音を立てながら、『南風堂』に入る。
「いらっしゃい」という彼女さんスタッフに案内されて、いつもの奥のスペースにいく。
陽子さんと向かい合って座ると、なぜか彼女さんスタッフが緊張しているようだ。
注文を終えて彼女さんスタッフが厨房に向かう。
私は陽子さんが話しはじめるまでじいっと待つが、いつまで経っても陽子さんは口を開こうとしなかった。
――う~ん。すっごく気まずいんだけど、何を話したらいいんだろう?
と迷っていると、意を決したように、陽子さんがガバッと頭を下げて、
「ごめんなさいね。お時間とらせちゃって。それに昨日も」
私はあわてて両手を突き出して、
「い、いいえ。突然のことで、私もご挨拶もせずに……。そ、それに頭を上げて下さい」
陽子さんは恐る恐る私を見て、
「もう啓一から私たちのことはお聞きに?」
というので、私はうなづいた、
「はい。昨日、あれから話を聞きました」
陽子さんは「そう……」と言ったきり、再び沈黙する。
そこへ注文した珈琲を持って彼女さんスタッフがやってきた。
私も陽子さんも一口ずつ珈琲を飲む。
陽子さんが、
「ここの珈琲はおいしいわね」とつぶやいて、カップをソーサーに置いた。そして、
「私ね。ずっと不妊症だったの」
と告白を始めた。
「啓介さんの仕事が軌道に乗って生活が安定してきた頃に、そろそろ子供をって言っていたのよ。……なかなかできなくて焦ったわ」
私はそっと視線をそらして手元の珈琲を見る。
不妊症か。結婚した女性にとって、子供ができないというのはとても心配なことだろうと思う。ましてや、陽子さんが結婚したころの時代なら、両方の親族からせっつかれて居たたまれなかっただろう。この悩みって女の人にしかわからないと思う。
「まあ、原因はわかっていたから病院に行って治療を続けてね。そして、ようやく授かったのが啓一だったわ」
陽子さんはその時のことを思い出したように微笑んだ。再び珈琲を飲み、
「そのころはまだ仕事も今ほど忙しくなくてね。啓介さんも、毎日、少しずつ大きくなっていく私のお腹に嬉しそうに触っていたわ」
陽子さんはそう言うと、空いた左手で自分のお腹を触る。
「あの子が生まれたのは正月だったのよ。あわてて病院に連絡して、駆け込んで……。でも初産だったからか、陣痛が始まってからもすごく長くてね。その間、啓介さんと二人でずっとせまい陣痛室で待っていたのよ」
そう言いながら陽子さんは窓の外を見る。昼下がりの光に、その日の陣痛室を見ているかのように目を細めながら。
「あの子が生まれた時は、こんなにちっちゃくてね。ようやく会えたって思った。あの嬉しさは、本当に。この子のために何でもしようって思ったわ」
我が子が生まれる喜び。私にはわからないけれど、その幸せは伝わってくるような気がする。
いつかは私のこのお腹にもかけがえのない生命が宿る――。
そう思うと、不思議な気持ちになる。
陽子さんは、話を続けた。
「最初の子供だから、私たちにはわからないことだらけで、母乳も思うように出なかったりして大変だった。啓介さんのお母さんにしばらく来てもらって、家のこととかお手伝いをお願いしてたわ。夜泣きをしたり、突発で熱を出したり……。でもね。不思議と我が子のこと。啓一のことだと思うと、どんなにしんどくても耐えられるのよ。辛いけど、辛くなかったの」
再び珈琲を飲む陽子さん。私はうなづきながら聞いているしかできない。
「啓一が幼稚園に入る頃に啓介さんの会社が急成長を始めてね。私も服飾武門のチーフとして入ることになった。
啓一には最高のものを与えたい。学校でもなんでも最高のものをってね。そのためにどうしてもお金を稼がなければいけなかった。
お義母さんに啓一をお願いしてたけど、よくねお義母さんから電話がかかってくるのよ。『啓一が寂しそうだって。今度はいつ一緒に食事ができる?』って。
それで無理矢理スケジュールを調整しては、なんとか夕飯に間に合うように帰宅してね。仕事のしわ寄せが啓介さんのところにいっちゃったけど、啓介さんも了解してくれててできたのよ」
その時のことを思い出したのだろうか。陽子さんが急に含み笑いをした。
「あの頃の啓一は可愛かったわ。ちっちゃなお
幼稚園時代の啓一くんのことを話す陽子さんは、とても幸せそうだ。
でも、すぐに表情が陰ってきて、
「でもね。小学校にあがったころに、お義母さんが倒れてそのまま亡くなってしまったの。その頃、会社は海外進出をはじめた大事な時で手を抜くことができなかった。啓一には悪いとは思ったけど、家政婦さんにお願いするしかなかったのよ。啓一が起きるより前に仕事に出て、もう寝た後に戻ってくる。そんな生活が続いたわ」
その表情は、先ほどとは打って変わって悔恨に満ちている。思わず私の胸もぎゅっと締め付けられているような気がした。
「ある時ね。ぽっかりと予定が空いたから、久しぶりに啓一と食事をしようと思って早めに帰ってきたの。それで外に食べに出てね」
陽子さんの表情が辛そうだ。
「啓一が好きなものを注文しようと思って、ロールキャベツを頼んだのよね。……でも、啓一は一口食べるなり、これ嫌だって言い出して」
涙をこらえるように天上を見上げる陽子さん。
「しばらく見ないうちに、あれだけママって寄ってきていたのにね。その時、はじめて家族の隙間が開いていたことに気がついたの」
「ふふふ。まったくね」と自嘲するように笑った後で、
「でもまあ、それでもそのまま中学、高校と啓一は順調に進んでいった。まあ、その頃には、私たちの仕事にも理解を示してくれて、たまに家で会うと「お疲れさん」と声をかけてくれたりして、その度にほっと安心したものよ」
陽子さんはそこで話をいったん区切り、しばらく考えこんでから、
「でもその安堵は勘違いだったみたい。それがわかったのは啓一の進路のことだった。あのね。私は事前に、啓介さんと二人で啓一の進路を話し合っていたの。将来は啓介さんの後を継いでもらいたい。ウィンクルムの経営に携わって欲しい。……でも、啓一と進路を話し合った時に私たちは決裂してしまった」
深くため息をついた陽子さんは、寂しそうに、
「今では携帯の電話も、メールも返ってこない。どうしたらいいのかわからないの……」
ああ。
子供を愛するが故に。
一番のものをと願うが故に。
――この家族は、ボタンを掛け違えてしまったのね。
私は、すっかり冷めてしまった珈琲を一口すすり、陽子さんに語りかけた。
「啓一くんが求めているのは、――家族です。一番とか最高のとかではなく、温かい家庭を欲しがっています。……正直に申し上げて、昨日の啓一くんも、今日の陽子さんも、私には見ていて辛いです。だから」
そこで言葉を止めると、陽子さんがじいっと私を見つめる。
「――だから、私に皆さんのお手伝いさせて下さい」
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