瑠璃子の語る
源氏の君という名前を聞いた時に、心がときめかなかったと言えば嘘になる。それは貴公子の中の貴公子の名前として、鄙にも轟く名前だった。
そして、本人を見てちょっとがっかりした。
結構、年を取っていたので。
もちろんとても美しい方だったし、声もいいし、話し方も振る舞いもとても上品で素晴らしかったけど、私が恋をするにはもう年を取りすぎていた。
考えてみれば当たり前で、源氏の君は私の母の恋人でいらした方。つまり私にとっては親世代なのだ。どんな素晴らしい貴公子だって結局のところ年は取る。
そんなわけで源氏の君が仮の親代わりとして引き取ろうとおっしゃってくださった時、私は本当に、普通に、親代わりだと受け止めた。
それがまさか言い寄られようとは。
はっきり言って、絶対にお断りだった。
だって、母と関係のあった人なのだ。そんな気持ちの悪いことできるわけがない。
それに、私にだって望みはある。
絶対に日陰者にはなりたくない。
これまでの私の人生の何が問題かと言えば、日陰者だったことに尽きると思う。母は父の正式な妻ではなかったせいで、父の正室に追いやられることになったし、はっきりと明らかにできない身の上のせいで、乳母の一家まで厄介事に巻き込んでしまった。これが私が堂々と父の娘と呼ばれる身であれば、あんな苦労は何一つしなくてよかったはずなのだ。
日陰者は嫌。もうふるふる嫌。
京に登ると決めた時に、私は決して日陰者のままでは終わるまいと思った。なんとしても父に会い、せめて父の娘として尼にでもなんでもなってやろうと。
自分が結構婚期をいつしかけていることはわかっていた。でも、だからといって、母の身代わりなんて絶対に嫌。身代わりじゃなくても嫌。本当にぞっとする。
第一、父と親子の名乗りも上げないままに仮親のはずの人を通わせるなんて、まさに日陰者そのものだ。
とにかく無理。
嫌なものは嫌。
それが私の唯一の答えだったのだけど、そうはっきりとはねつけられないのが、辛いところだった。
何と言ってもこちらは親代わりにお世話いただいている身で、不安と焦りで疲れ果てていた乳母もなんとか一息つけた所。源氏の君の所を飛び出したところで、行くあてなどありはしない。
色男気取りの中年男ほど、始末に負えない相手はいない。本人は十分に落とせるつもりでかかってくるし、隙きあらば触ってこようとするし、気の休まる暇もない。こういう男は自分が年を取っているという事実を、最初から無視してかかるのだ。私の親ほどの年ということは孫がいたっておかしくはないのだ。いい加減にしてほしい。
そうかと思えば、自分の弟に私を見せびらかして口説かせたり、若い公達を煽ったり。
「美しい年頃の娘ができたのだから、そういうこともしてみたいのだよ。」って何が言いたいのか。親は娘をそんなふうに扱うもんじゃないと思うし、私はそんな親はいらない。そもそもしつこく口説いてくる筆頭は自分自身じゃないか。
これも、実の親との縁が薄いせいだ。そう思うと情けないやら悔しいやらで、枕を涙で濡らすこともあった。もっとも、ゆっくり泣いていられないことも多い。あの中年には本当に油断も隙きもないのだから。
源氏の君のもとに来てから少弐と呼ばれるようになった乳母子が、密かに協力してくれていなければ、私はまともに眠ってもいられなかった。
その内にどういうわけか尚侍として宮中に出仕するという話が出てきた。尚侍といえば帝の枕席に侍ることもあるらしい。どうしてそんな話になったのかはわからなかったけれど、帝は母の元恋人だったりはしないし、源氏の君のもとにいるよりもずっといい。
それに、出仕の話が出たことで、他にもいいことはあった。出仕するため大々的に執り行われた裳着の腰結を、父が務めてくれたのだ。初めて対面した父は涙ぐんで私の成長を祝いでくれた。
私は父に似ているのだろうか。
鏡に見慣れた自分の顔の面影が、目の前の人にあるのか、自分でははっきりとはわからなかった。
この日、わかったこと。
それは私の腹違いの姉妹がすでに入内しているということだった。下手をすると姉妹で帝の寵愛を争うことになってしまう。源氏の君の思いつく事というのは、どうしていつもこうなのだろう。
瑠璃子、という名は父がつけてくれた。私は幼い頃その名で呼ばれていたからと。
私は必死に考えた。父が引き取ってくれれば一番いいが、出仕の話の進む今、それはちょっとできそうにない。そもそも考えてみれば父のことは、あてにしすぎないほうがいいようにも思う。母と私が追われたことといい、今まで見つけ出してはくれなかったことといい、そんなにしっかりした人ではないのかもしれない。
そんなある日、源氏の君が私の部屋で私宛に届いた恋文を批評しているのを拝聴していた時、ふと心に止まった話があった。
髭黒、と呼ばれている人の話だ。
真面目な、物堅い人のようで、すでに北の方はおられるが、病がちなのだということだった。一応褒めながらもどことなく軽んじる風もある源氏の君の話しぶりに、私は興味をひかれ、源氏の君がお帰りになったあと、少弐と二人でその方の今までの手紙を探し出した。
好もしい、手紙を書かれる方だった。
どこか不器用な、飾り気のない手紙ながら、誠実な人柄が感じられる。きちんと四角く整った文字もいかにも真面目な人の書きそうな文字だった。
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