髭黒の妻
真夜中 緒
乳母子 少弐の語る
腕に愛らしくふくふくとした赤子を抱いたお方様は、艶やかな女ざかりの美しさに満ちていました。
「お義父さま、この秋に生まれた子ですの。抱いてやってくださいませ。」
「おお、重い。良い子を産んだね。」
一見和やかな源氏の君が、心中いかに臍を噛み、歯軋りしているものか。
華やかな美貌。ちょっとした仕草からも色気が零れ落ちるような艶やかさ。この極上の美女をうまうまと攫われたと思えば、悔しさもひとしおなことでしょう。
実際の所、一度はほとんど源氏の君の手に落ちたと見えて、見事に身を翻し逃げ去った鳥。
それこそがお方様なのですから。
お方様の生い立ちは少々複雑で、幸薄いものでした。源氏の君の最初の北の方の兄上に当たる、現在の内大臣様がまだお若かった頃、関わりを持った女人のおひとかたとの間に設けられたのがお方様です。なまじ愛されたがために、お父君の北の方に母子共々憎まれて、身を隠す羽目になりました。お方様の御母君は幾分夢見がちな雰囲気の、いかにも優しげな方で、危機感を抱いた乳母がお方様を、太宰少弐に任じられた夫の任地にお連れしました。
この乳母が私の母。
私はお方様の乳母子に当たります。
お方様は私達の兄弟に混じって育たれましたが、幼い頃から気品のある美貌の持ち主で、長じては抜きん出た美女に育たれました。
私の母という人は、宮中での御用も努めたことがあるという人で、お預りした養い君を鄙びさせてはならないと、ことさらに念を入れて、お方様が都風のご教養を身に着けられるように心を砕いておりました。
母の丹精のかいもあってか、お方様は鄙どころか都にも稀な姫君に育たれましたが、それは鄙では目立ちすぎるということでもありました。
肥後の大夫監がお方様には求婚してきたときも、母は頑としてうけつけようとはしませんでした。
「田舎者風情が図々しい。」
お方様に求婚者が現れるたびに、母は苦々しげに言い捨てました。
もっとも、そうは申しましてもその頃には父が亡くなっていたこともあり、私達兄弟は母の言うその田舎に根付こうとしていたのです。お方様ご自身もすでに二十歳をこえ、娘盛りは過ぎようとしておいででした。
実際の所、それは難しい問題でした。
母が鄙びた求婚者を厭うあまり、お方様のことを「尼にするつもりの不具の孫娘」だなどと言いふらしたせいもあって、お方様にまともな求婚者は減りつつありましたし、大夫監は土地の有力者でした。
「母上のお考えはお考えとして、われらも姫様も、まずは生きてゆかねばならんのではありますまいか。」
次兄の言葉にも確かに理がありました。
母はお方様の父君が、お方様を探してくださるのではないかと考えていたようですが、そんなことはどう考えても夢のような希望とでも言うべきで、お方様の身の振り方をどうするかはいつまでも棚上げにするわけには行かないのです。
母が言いふらしているように尼にするには、あまりに惜しいお方でした。あのように美しい方が女としての幸せを何一つ知らずに終わるのは、何やら酷い気もします。さりとて大夫監に縁付くのがお方様の幸せになるかと言えばそれも微妙な話でした。ひどく無骨な男でしたし、美女に目がないというのも品下る感じがします。
「美女を尊ぶ男なら、姫君を大切にしないはずはあるまい。」
それが次兄の言い分でした。確かお方様ほどの美女を大夫監あたりがもう一人手に入れられるとは思えません。宝玉のようにかしづいて大切にするという言い分は、ありえない話ではないのでした。
母に隠れて、兄弟で何度も話し合いました。大夫監からは矢の催促で、お方様との間を取り持てと、言ってきます。現実に生活している場所の有力者の言葉を無視するわけにはなかなか行かず、それも辛いところです。次兄の言い分は分からないでもないのですが、お方様と並べるとあまりに不釣り合いなのが気になります。それでも弟が一人、次兄の意見に傾きました。
そこで、母に気づかれました。
母の怒りは大変なものでした。
「なんということを考えつくのです。姫様をあんな男に売り渡そうと言うの?」
大夫監のところに乗り込みかねない剣幕で、ついに長兄が決断しました。
「京に姫様をお連れしよう。」
母が大夫監に直接断りに行くようなことになれば、もろに大夫監を敵に回してしまいます。母が姫様を出家させるのに京の寄る辺の寺と話をつけてしまったからということにして、とにかく京に上ろうというのです。
母や、年長の兄にならわずかに京のつてもありましたし、このままでは地元に根付いた兄弟の生活をめちゃくちゃにしかねないのを気にしてもいました。
私は通い始めていた男を置いて、お方様に従う道を選びました。
兄弟の中でも私こそが姫様にもっとも近い、同じ時に母の乳を共に飲んで育った乳母子です。姫様とともに行くのは私しかないという気持ちもありました。
顛末を姫様に申し上げ、旅の支度をお願いすると、「皆で決めたことなら。」静かに受け入れて下さいました。
たぶん、姫様は一度は大夫監を通わせることを覚悟なさったのでしょう。旅の途中にそれらしいことをおっしゃったこともございます。姫様ご自身の中にも様々な迷いがあったのは確かなことかと思います。
さて、京に出て、姫様の父君にお引き合わせしようにもどうにかしてつてを探さねばなりません。まずは神仏にすがろうと立ち寄った長谷寺で、まさに仏のお引き合わせを受けました。
「あなた、覚えておられませんか。私です、左近ですよ。」
見事な女車に参道の脇に控えた私達に、当の女車から声がかけられたのです。
「左近さん? あの左近さんでございますか?」
母が車に駆け寄り、御簾から身を乗り出すようにして覗いていた女人と手を取り合いました。
左近どのは、母がお方様の母君のもとで一緒だった女房だったのです。
お方様の母君はすでにお亡くなりでした。
姫君と別れてそれほどたたない頃のことだったようです。
亡くなられた特、母君には通わせる相手がおいでになり、その方が弔いなども引き受けてくださったとのことでした。左近どのも今ではその、源氏の君にお仕えしているとのことで、姫君も源氏の君のもとに引き取られることに、トントン拍子に決まりました。
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