***




「屋敷の外に出られる抜け穴をいくつか見つけたんだ」

朝一番で屋敷にやってきた光蕊は、温嬌の姿を見るや、まるで子犬のように一目散で彼女の元へ駆け寄ってきて、そう耳打ちした。

何やらやたらと機嫌のよい顔をしていると思えば成る程、また悪巧みの算段である。

「この間守衛の目を掻い潜ろうとして怒られたばかりじゃない、まだ懲りてないのね…」

大きなため息をついて呆れる温嬌。

彼女としては全く乗り気ではないらしい。

だがそんなことなど御構い無しに、自信満々の光蕊は目をキラキラ輝かせながらガッツポーズをしている。

「今度はしくじらないって!」

満面の笑顔でそう言うと、彼は躊躇している温嬌の手を取り有無を言わさずそのまま駆け出した。

悪運が強いことにその日は珍しく廊下や庭で誰にもすれ違うこともなく、難なく例の抜け道を突破した二人は敷地の外へ抜け出すことに成功した。


「な?うまくいったろ?」

温嬌の後に続いて小さな穴をすり抜けてきた光蕊は軽く辺りを見回して人の気配がないことを確認すると、ふふんと腕を組んで得意げにすまし顔をしている。

ここへ来る前入念に手入れしてきたであろう髪や衣類を、豪快に草木や砂まみれにしながら…。

その残念で滑稽な姿に思わず吹き出してしまった温嬌であるが、自分の姿も似たようなものであることに気づき、堪えきれず声を上げて笑い出した。

「何だよ、あんまり大きな声出すとバレるぞ」

可笑しそうに笑う彼女に向け訝しげな表情をしつつも、その楽しげな様子に彼もまた目元をほころばせる。



光蕊が屋敷に来るようになってから、心なしか温嬌はよく笑うようになった。

それまでの彼女はいつもどこか一歩引いたような、自分の感情を直接に表に出すのを控えているような部分があり、他人に対して素のままの表情を見せることがあまりなかった。

勿論、幼少の頃よりそうだった訳ではない。

生まれ持った境遇が、歳を重ねるにつれ自然と無意識に彼女をそうさせたのだ。

それを徐々に解き放っていったのが、どこ吹く風のようにふらりと現れた彼であった。

身も心も、文字通り閉じ込められていた温嬌。

その背中を押し手を引いて、ゆるりと流れるように生きる光蕊に感化されてゆくのを彼女自身も感じ、その度次第に彼に惹かれる心地よさを覚える。




「ほら、着いたぞ」

そこからしばらく歩いた後、少し開けた野原の前で光蕊は足を止めた。

眼前には、一面に広がる蒼い花の絨毯がどこまでも続いていた。

秋風になびく花弁が視界を覆い尽くし、穏やかに揺れている。

屋敷の広い敷地の中にも野原や花畑が無い訳ではない。

だが、こんなにも心が洗われるような景色はこれまで見たことがなかった。

眼前に繰り広げられる見事な光景に、温嬌は目を輝かせる。


「わぁ…綺麗………」



***




「ははうえ、ははうえー!」



隣で寝ていた息子の呼ぶ声に、温嬌は目を覚ました。

いつもよりずっと早起きの玄奘は、その傍らでぴょんぴょんと跳び跳ねながら楽しそうに笑っている。

確か今日は朝から屋敷の裏山に遊びに行くと言っていたか。

それで気がはやって目覚めたのだろう。


「ははうえわらってた、なにかたのしいことあったの?」

彼は母親が目覚めたのを確認すると、嬉しそうにその顔を覗き込む。

「夢を、見ていたの」

「どんな?」

大きな目をキラキラと輝かせて聞き耳を立てる息子に、温嬌は夢で見たあの懐かしい情景をありありと語った。


もう何年も経つ今になってなお鮮明に思い出せる、決して色褪せない記憶。

目を閉じればいつだって、あの蒼い絨毯が眼前に広がってくるようだ。


目を細めて幸せそうに語る母親を横からニコニコと眺めていた玄奘だったが、少し間を置いて、そうだ!と思い出したように声を上げた。

「あのね、ぼく、きょうはリエンとおでかけするの!おてんきだから、やまのうえにのぼって、おべんとうたべられるんだよ!」

「気を付けて行ってらっしゃい、またリエンに迷惑かけたらダメよ」

「メーワクなんてかけてないよぉ!」

ぷーっとむくれ顔を作り、そのまま踵を返して部屋の外に向かって駆け出す玄奘。

だが、突如何かを思い出したかのように慌ただしく急停止し、彼は母親を振り返った。

「ははうえ、もうすぐおたんじょうびだってリエンがゆってた」

温嬌本人としてはすっかり忘れていたことだが、それ故にあんな夢を見たのだろうか。

光蕊が初めて温嬌を屋敷の外へ連れ出したのも、ちょうど今と同じ位の時期だった。

「きれいなおはながさいてたら、ははうえにもってきてあげるね!」

「ありがとう、玄奘は優しいね。」

玄奘は母の言葉にニッコリ笑い返すと、またバタバタと忙しく駆け出していった。


広い部屋に残された温嬌は、その後ろ姿が消えるまで見送りながら、一人思いをはせる。

夢のように現れて、夢のように消えていった人と、彼が遺してくれた命。

小さな小さなその背中を、心からいとおしく思う。

彼のように純粋無垢で、本当に優しい子だ。

今日の息子は帰ってきてからどんなお土産話をしてくれるのだろう。

落ち着きがないからまた生傷を作ってくるのではないか、リエンは今日も散々振り回され帰ってきて、「ヤレヤレ…」と、迎える自分に疲れ切った苦笑で第一声を放つだろう。


色んなものを見聞きし、体験して成長してゆく息子を見守るのが、彼女にとっての幸せな日々だった。

彼の真っ直ぐな笑顔が、ただひたすらにかけがえのない宝であった。

玄奘とリエンがいれば他には何も要らない、それ以上のことなど何も望みはしない。

明日も明後日も、これから先もずっと変わらない日々。

この幸せがいつまでも続いてゆくことを、彼女はひたすらに祈る。




そんな些細な願いが突如として終わりを告げることなど、



この時の彼女には知る由もなかった。










玄奘が忽然と姿を消したのは、その次の日の朝であった。

使用人総出で屋敷中を探し回ってもどこにも見当たらない。

「まさかアイツ」

暫くの捜索の末、庭で一人眉間に深いしわを寄せたリエンの視線の先には、足元に不自然に枝や葉を散らばせた大木が佇んでいた。

秋も終わりに近づいた今も青々とした葉を茂らせて真っ直ぐと伸びた枝は、屋敷を取り囲む塀の天辺にまで、ゆうに達している。

「あのバカ…」

間違いない、これを伝って外に出たのだ。

子供の足ならそう遠くへも行けないだろうが、行き先がまるで見当もつかない。

一歩敷地を抜ければ、そこは彼にとってはあまりにも危険すぎる世界。

幼い玄奘には、まだそれを十分には理解できていないのだ。


しらみ潰しに辺りを探し回るか?


らちがあかないがここで二の足を踏んでいるよりはマシだと、はやる気持ちを抑えきれない彼を引き留めたのは、今にも泣き出しそうに目を潤ませ、顔を真っ赤にさせた温嬌の一言だった。

「きっと、私が余計な事を言ったばっかりに、あの子…」

もうすぐ誕生日を迎える母親を想って、温嬌が焦がれたあの花畑へ玄奘は向かった…彼女はそう読んだのだ。

例の場所へはここから一本道で行けるが、大人の足で歩いても1時間弱はかかる距離だ。

「すぐ行って連れ戻してくる!」

温嬌は、血相を変えて今まさに飛び出そうとしているリエンの裾を掴み、再度それを制した。

深刻な面持ちの視線がかち合う。

「…なんだか胸騒ぎがする…嫌な予感がするの……」

不安に打ちひしがれている温嬌の頭を優しく撫でたリエンは、目元を緩めて彼女の肩を抱き真っ直ぐとその青い双眸を見つめると、わざと軽く笑って見せた。

「大丈夫!心配すんな、すぐに戻る」

彼は車椅子に座った温嬌の目線に合わせるように身を屈め、彼女の不安を少しでも取り除くべく、その耳元に優しい語調で囁く。

そして温嬌が返事をする間も与えずに、そのまま後手を振りつつ足早に門の外へと向かって行った。

「何事も、ありませんように…」

その背中を見送ることしかできない温嬌はやり場のない気持ちを噛み締めながら、いつまでも彼の後姿を目で追い続けていた。




屋敷の門を抜け、リエンは単身北へ北へとひた走る。

途中分かれ道もなければ足を留めるような目的物も無いため、玄奘がここを通って行ったとしたならば確実に追い付ける筈だ。

何か事が起こる前に捕まえなければ…。

温嬌が言っていた嫌な予感というのも多少なり気にかかる。

彼もどこか、焦燥感にも似た心地悪さを感じていた。


リエン自身、が、この道を行くのは恐らく初めてである。

それなのに…可笑しな話である、よく見知った道だった。

その身体の内に宿る魂が、覚えているのだ。

ここをまっすぐに進めばあの場所へと辿り着く。

花弁を風に揺らし、小さな蒼い花が一面に咲き誇るこの季節。

他に道ゆく人間もないような、のどかな情景。

そのゆっくりとした時の流れの中、二人肩を並べて歩くひとときは何よりも幸せな時間だった。

花畑の真ん中で眩い程の笑顔を浮かべて、綺麗と微笑む彼女の横顔を眺めるのが好きだった。

ぼんやりとそんなことを考えながらも、今の彼には感慨にふけっている暇も余裕もない。

我が眼に映したことのない筈の情景が胸の中のそれと合致して、涼やかな秋風とともに身体の横を流れてゆく。



程なくして、目的の場所は現れた。

眼下一面に広がる蒼の絨毯…変わらない景色。

開けた草原ではあるが、見渡せない程ではない。

しかし、そこに玄奘の姿はなかった。

「玄奘ーー!いないのかー?!」

思い当たる場所はここ以外にはない。

行き帰りの道も一本で、道半ばでは彼どころか他の誰ともすれ違うこともなかったのだ。

焦燥感が増すばかりのリエンは、茂みの中や木の陰を隈なくあたってゆく。

その時だった。

「……ッ?」

背後から感じた視線に背筋をなぞられた彼が思わず振り返れば、先程までは他に人影どころか気配すら全く感じなかった場所に、ひっそりと佇む存在を認める。


…玄奘?

いや、違う。


見覚えのない長身の女がひとり、無言で真っ直ぐとこちらを見据えていた。

白い肌に真白な髪…儚げにも感じられる出で立ちながらも、長い前髪の後ろから放たれる眼光にはまるで、心の臓を直に鷲掴まれるかのような並々ならぬ気迫を覚える。


「探し人は…」

先に口を開いたのは彼女の方であった。

そのままゆっくりと、出方をうかがい警戒の色をあらわすリエンの方へと歩み寄って来る。

「ここには、既においでになりません」

「アンタは?一体…」

どうやら彼女から敵意は感じられないようだが、気味が悪いことに変わりは無い。

いつからそこにいたのか。

そしてあたかも、玄奘の行方を知っているかのような口振り…。

「…既に、とは…どういう意味だ?」

返答と場合によっては、相手が女であろうが容赦はしない。

警戒心に比例して鋭くなってゆくリエンの眼光、そこに真っ向から対峙している彼女はしかし、表情も語調も寸分違えることなく応じた。

「私は時空冥府を管轄する門番。貴方を正しい未来へと誘う為に馳せ参じました」


時空冥府?門番?


全く予想だにしなかった返答に困惑するリエンを尻目に、彼女はさらに続ける。

「お急ぎ下さい、未来が変わってしまう前に…」

言いながら彼女は手にした杖で砂地の地面を選ぶと、手早く円陣を描き始めた。

上級法術者が駆使できる転移の陣。

空間法術自体は多少の知識と素養さえあれば誰にでも扱えるものであるが、この規模ともなれば話は別だ。

益々もって、この得体の知れない相手をどこまで信用してよいものかで躊躇しているリエンに対し、円陣の中へ入るよう促す彼女。

このまま埒のあかない対峙を続けても、時間の浪費以外の何物にもならないことは双方理解していた。


しばしの沈黙が続く。


だがその後、少し目を伏せ溜息がちに彼女の口から出た言葉が、状況を大きく変えることとなる。


「何があっても、護りたいのでしょう、ご自身のご子息を」


「……!?」



「……光蕊様…」


「…ッ!!」


他人、ましてや今初めて会ったような相手が知り得る筈もない事実。

彼、の中の魂が、早鐘を鳴らす。

「何故…」

先刻、彼女は云った。

自身は時空と冥府を管轄する門番である、と。

「貴方も、門をくぐったのでしょう?」


最愛の相手を失い独り泣き腫らす温嬌、そして、彼女とその中に芽吹いた小さな命を置いて逝くことに未練を拭いきれなかった光蕊の魂。

その二つの強い想いが、温嬌の持つ創造の能力と相まって起こされた奇跡。

確かめるように、噛みしめるように…リエンは、自身の拳を強く握り締めた。

「どうやら…信じていいようだな?」

真っ直ぐと対峙する相手に臨めば、先程まで白い前髪の下からギラギラと不気味に輝いていた彼女の眼光が、心なしか少し和らいだように見えた。


「私がお手伝いできるのはここまで、その先は貴方自身で切り開くこととなります」

円陣の中へと進んだリエンに向かい、彼女は最後に念を押すように深刻な面持ちで語りかけた。

「私でも未来のことは判らない…あるべき道程と違えることも、また運命」


お気を付けて。


最後にそう囁いた彼女は相手が小さく頷くのを確認すると、法術を発動する為の真言を詠唱し始めた。

呼応するかのように円陣の周りに微かな気の流れが生じ、気流となって周囲の植物を揺らす。

そして転移の真言を詠唱し終えた彼女が手を翳せば、それに呼応した気流が一気に高揚し、閃光と共に中に立つ大柄の体躯を一瞬にして搔き消した。



「全ては、神の隨に…」

元の静けさを取り戻した草原に涼やかな秋風が一筋、白い髪と蒼の花弁を優しく揺らして走り去ってゆく。

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